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鬼火へ

[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作の著述年代も、明治四四(1911)年頃、京都府立第一中学校時代の『強盗』『銅貨』『アルカロイド』『青色癈園』『新生』などという自作の回覧雑誌に発表されているもの、という編者による底本の年譜の漠然とした記載があるばかりである。その年譜の叙述から判断すると、明治四四(1911)年、槐多16歳(数え年)から20歳になる大正四(1915)年十月の「武侠世界」に「魔猿傳」を入稿するまでの間と言うことは出来るようである。]

 

居合拔き   村山槐多

 

 上州館林藩は非常に、武藝の行はれた處で、其の武藝には他藩に見られない獨特なところが有つた。

 館林の藩士は總て野太刀にも、金具を打たないと云ふ。

 其れは危急の場合、刀を拔く暇が無かつた時は、直ぐ鞘ごと渡り合ふ。一二合の中に飛んでしまう此の用意がある。此の藩で殊に有名であつたのは居合であつ

た。藩士は總てこれに達してゐた。

 或る年、名も無い小祿の一藩士が勤番で江戸へ上つてゐた。一日、彼は囘向院の角力を見に行つた。素より小身で財布豐かでない彼は百姓町人の中に混つて土間の一隅に座を占めて、熱心に勝負を見てゐた。すると、此の士の頭の上の棧敷に一人の旗本の武士が矢張り見物に來てゐた。藝者や幇間を五六人連れて酒食をよび呑めやうたへの大騷ぎである。旗本はもうぐでぐでに酩酊してゐる。其内に驕れる彼は、其の醉眼に下の土間に居る彼の貧しげな樣子をした士が映つた。

 彼の心中は忽ち輕蔑で一杯になつた。而して盛んに、聞くに堪へぬ言語で罵り始めた。

 しかし、土間の士は振り向きもせず、たゞ勝負を見てゐる。旗本は、相手にならぬと見ると、益々暴言を吐いた末は、徳利や茶碗を礫の如く下へ落したり唾を吐いたりする。其れらは、或時は下の士の頭に當り、或時は着物を穢すのである。けれども士は一寸も動かぬ。泰然として識らぬ顏である。

 旗本はますます好い氣になつて仕舞には、手にしてゐた煙管を棧敷の欄干でぽんとはたいた。眞赤な吸ひ殼は恰度、館林の士の頭のてつぺんの元取の邊りに落下した。吸ひ殼は、じり/\と剃り立ての頭を焦がして、其處に大きな火膨れを拵へて、やつと消えた、上では藝者や幇間が嘲笑するし、邊りの人はじろ/\と士の頭を嘲り見る。どつと笑ひ聲が起る。其れでも身顫ひ一つせぬ。默つて土俵を見詰てゐた。

 かゝる暴行をした旗本は何時しか此れにも飽きて又下劣な事に心をうつしてしまつた。

 其中に時移り、番組も終つて見物は皆小屋を出る。

 恰度木戸口のところで彼の旗本武士と辱かしめられた館林の武士とが、後から押す人波に押されつゝ一緒になつた。最早さつきの事など忘れて了つて他愛もなく唄など怒鳴り乍ら、藝者の肩にすがつてよろめき出ようとする刹那である。後ろに居た館林の武士が、左の腕に抱えた自分の羽織を右手で以て、ぐるりと背中に廻して着たと思つて前を見ると、今現在浮かれて居た旗本の首がコロリと其處に落ちてゐた。周圍の人は唯々魂消る外はない。下手人が誰ともわからない。

 小屋中は大騷動になつた。木戸口はすつかり閉ぢられてしまつた。役人がやつて來た。而して見物全部を一人一人檢めることになつた。刀を差した人間は皆木戸口で刀を拔いて見せる。血がなければ出して了ふのである。

 遂に館林の士の番になつて、彼は役人の前へ出た。彼は腰の太刀を拔き放つて役人の限の前へ突き出した。これには一點のくもりも附いてゐぬ。

「よろしうムる。[やぶちゃん注:「ムる」は「ござる」と読む。]次には脇差を拜見致し度い。」

 役人が云つた時、彼は忽ち恐ろしい形相で役人を睨みつけて叫んだ。

「默れツ、武士たる者が大刀を持つて居り乍ら小刀で人を切るかツ」

 役人はこの勢に戰慄して一言も發しない。

 そこで彼は、悠々と木戸口を拔けて、たうとう殺し得になつた。

 小祿の武士でこれであるから見ても、館林武士の居合の技倆が如何に怖る可きものであつたかゞ分るであらう。