やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
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[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年五月一日發行の雜誌『靑い馬』創刊號に揭載、後に處女作品集『黑谷村』等に所収された。一九八九年筑摩書房刊文庫版「坂口安吾全集 Ⅰ」を底本とした。ちなみに公開後、勤務校の図書館で菊版全集にもあたったが、こちらも新字新仮名であった。【二〇〇六年一月二日 藪野直史】【二〇二三年二月二十日全面改稿・追記 藪野直史】到底、手に入らないと思っていた正字・正仮名の本篇を「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の昭和一〇(一九三五)年竹村書房刊の上記第一作品集のここから、視認出来ることが判明したので、それを底本に全文を書き変えることとした。但し、初出時の副題「夢の総量は空気であった」がないのが寂しいので、漢字を恣意的に正字化して促音を戻し、標題の脇に添えた。初回に公開した際のブログ記事に記した通り、私はただ一度だけ、二十七歳の頃、初任校の高校三年生に、たった一度だけ、この作品を授業したことがあった(教科書に載っていた。しかし、私は予習で読んで、「黑色肉腫」の部分が「白色肉腫」となっていて、そこにご丁寧に「こくしょくにくしゅ」とルビがあるのに目が点なった。そもそもが「白色肉腫」など存在しないのだから、どう逆立ちしたら、こうなるのか? と唖然とした。直ちに、その出版社に連絡した。しかし、電話口の男は礼の言葉もそこそこに電話を切った。その後、半月も過ぎて、営業の片手間に同社の男が挨拶に来たものの、至って誠実さのないものであった。私はそれ以来、教科書選定の際、その出版社の現代文の教科書は、どの学校に移っても絶対に採用しなかった。反対理由を聴いて、必ず、国語科の同様は、皆、納得して呉れた)が、最初の授業で朗読し終わった時、思わず、涙が零れた(私は朗読七割、授業内容三割の朗読イッパツ勝負の、国語教師としては変態的存在であった)。私が授業で図らずも泣いてしまった最初の作品であったのである。なお、ルビが殆んどないことと、一部に不審があったので、注を入れておいた。]



  
ふるさとに寄する讃歌

                      
夢の總量は空氣であった

                                        
坂口 安吾


 私は蒼空を見た。蒼空は私に沁みた。私は瑠璃の色の波に噎ぶ。私は蒼空の中を泳いだ。そして私は、もはや透明な波でしかなかった。私は磯の音を私の脊髓にきいた。單調なリズムは、其處から、鈍い蠕動を空へ撒いた。
 私は寠れてゐた。夏の太陽は狂暴な奔流で銳く私を刺し貫いた。その度に私の身體は、だらしなく砂の中へ舞い落ちる靄のようであった。私は、私の持つ抵抗力を、もはや意識することがなかった。そして私は、强烈な熱である光の奔流を、私の胎内に、それが私の肉であるように感じてゐた。
 白い燈臺があった。三角のシヤツポを被ってゐた。ピカピカの海へ白日の夢を流してゐた。古い思ひ出の匂がした。佐渡通ひの船が一塊の煙を空へ落した。海岸には高い砂丘がつづいてゐた。冬にシベリヤの風を防ぐために、砂丘の腹は茱萸グミ藪だった。日盛りに、螽斯が醉ひどれてゐた。頂上から町の方へは、蟬の鳴き泌む松林が頭をゆすぶつて流れた。私は茱萸藪の中に佇んでゐた。
[やぶちゃん注:「螽斯」「きりぎりす」。]
 その頃、私は、恰度砂丘の望樓に似てゐた。四方に展かれた望樓の窓から、風景が――色彩が、匂が、音が、流れてきた。私は疲れてゐた。私の中に私がなかつた。私はものを考へなかつた。風景が窓を流れすぎるとき、それらの風景が私自身であつた。望樓の窓から、私は私を運んだ。私の中に季節が育つた。私は一切を風景に換算してゐた。そして、私が私自身を考へた時、私も亦、窓を流れた一つの風景にすぎなかつた。古く遠い匂がした。しきりに母を呼ぶ聲がした。
 私は、求めることに、疲れてゐた。私は長い間ものを求めた。そのやうに、私の疲れも古かつた。私の疲れは、生きることにも堪え難いほど、私の身體を損ねてゐた。私は、ときどき、私の身體がもはや何處にも見當らぬように感じてゐた。そして、取り殘された私のために、淡い困惑を浮べた。私の疲れは――たとへば、茱萸の枝に、私は一匹の昆蟲を眺めてゐるのであつた。昆蟲は透明な羽をかぼそく震はせてゐた。私は私の身體が、また透明な波であることに氣附いてゐた。それは、靄よりも輕い明暗でしかなかつた。昆蟲の羽の影が、私の身體にあわく映つてゆれた。赤熱した空氣に、草のいきれが澱んでゐた。昆蟲は飛び去つた。そしてその煽りが銳く私の心臟を搏擊したやうに感じられた。太陽のなかへ落下する愉快な眩暈に、私は醉ふことを好んだ。
 長い間、私はいろいろのものを求めた。何一つ手に握ることができなかつた。そして何物もつかまぬうちに、もはや求めるものがなくなつてゐた。私は悲しかつた。しかし、悲しさをつかむためにも、また私は失敗した。悲しみにも、また實感が乏しかつた。私は漠然と、擴がりゆく空しさのみを感じつづけた。涯(はて)もない空しさの中に、赤い太陽が登り、それが落ちて、夜を運んだ。さういふ日が、每日つづいた。
 何か求めるものはないか?
 私は探した。いたずらに、熱狂する自分の體臭を感ずるばかりだつた。私は思ひ出を堀り返した。そして或日、思い出の一番奧にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り當てた。それは一人の少女だつた。それは私の故鄕に住んでゐた。辛うじて、一、二度、言葉を交した記憶があつた。私が故鄕を去つて以來――十年近く、會ふことがなかつた。今は生死も分らなかつた。而し、堀り出した埃まみれな面影は、不思議に生き生きと息づいてゐた。日數へて、私は、その面影の生氣と、私自身の生氣とに區別がつかなくなつてゐた。私は追はれるように旅に出た。煤煙に、頰がくろずんでゐた。
[やぶちゃん注:二箇所の「堀」はママ。誤植のように思われるが、結構、多くの作家が、「掘」とすべきところを「堀」とする例をいやほど見てきたので、彼の誤った慣用使用である可能性も捨てきれない。「日數」「ひかず」。]
 私はふるさとに歸りついた。
 ふるさとに、私の生家はもう無かつた。私は、煤けほうけた旅籠屋の西日にくすんだ四疊半へ、四五册の古雜誌と催眠藥の風呂敷包みを投げ落した。

 雪國の陰鬱な軒に、あまり明るい空が、無氣力や、辛抱强さや、ものうさを、强調した。鉛色の雪空が、街のどの片隅にも潜んでゐた。街に浮薄な色情が流れた。三面記事が木綿の盛裝をこらして……。私はすでに、エトランヂエであつた。氣候にも、風俗にも、人間にも、そして感情にも。私は、暑氣の中に懷手して、めあてなく街を步いた。額に、窓の開く音が、かすかに、そして爽やかに、絕え間なくきこえてゐた。その音は、街路樹の睡つた、しづかに展ける一つの路を私に暗示した。それは如何なる寂しさにも、私に路を步ませる力を與へた。私は疑ひ深い目で、行き交ふ全ての女を見た。行き過ぎてのち、あれがその人ではないのかと、半ば感情を皮肉るやうに、私は常に思ひ込もうとした。私は腹の中で笑つた。私は、かたくなに振り向くことを怖れた。全ては偶然であれ。私の悲しみも、私の戀人も(いはば笑ふべきインテロゲーシヨンマークである戀人も)、偶然と共に行き過ぎよ。あれがその人ではなかつたかと思ふ追悔によつて、おまへの悲しみは玉となる日があるであらう、と。
[やぶちゃん注:「エトランヂエ」フランス語の étranger 。「外国人」の意。エトランジェ。 ある国へ他国からやってきた異邦人。その土地に溶け込めないでいる感じの場合に言うことが多い。「インテロゲーシヨンマーク」interrogation mark。Interrogation は「質問・尋問・審問・取り調べ・疑問」の意で、疑問符「?」に同じ。]
 彼女とは?……いつたい、彼女とは誰であらうか?つきつめて思ふ時、彼女の面影は、いつもその正確な輪廓を誤魔化し、私の目から消え失せるのであつた。消えてゆく形を追ふて、私はいそいで目をつぶるのであつた。もはや、暗闇だけがそこにあつた。私はそこに、一つの面影を生み出さうとした。黑色の幕に、私は白色の圓形をおいた。私はそれに、目を加へ、鼻を加へ、口を加へやうとした。私は、私のミユーズが造型の暗示を與へるまで、しづかにその圓を視守らうと努めるのであつた。白色の圓は意地惡く伸縮した。そして私が一點を加えやうとする度に、陰險に、他の一點を消し去らうとした。私はそれを妨げるために、私の點描に速力を加へるのであつた。私の癇癪にそうて、圓も亦旗のやうに劇しく搖れた。あきらめて、私は目を開けるのであつた。さわやかに目に沁むものは、家や木や道や、すべて太陽に吞まれた現實の夏であつた。私はそれらを、奇蹟のように驚異して、しばらく呆然と視いるのであつた。頰に這ふ汗を、私は知らず拭いてゐた。
[やぶちゃん注:「加へやう」はママ。]
 彼女はいわば、私の中に、このやうに實感の稀薄な存在であつた。私は、少女の彼女を記憶の中に知つてゐた。それは疑いもなく眞實であつた。しかし彼女は、私の知らぬ間に、私の中に生長してゐた。そして、私の中に生長した彼女は、もはや現實に成育してゐる彼女とは別の人であるのかも知れなかつた。私の中の彼女は、いはば一つの槪念であり、一つの象徵であるのかも知れなかつた。しかし、その槪念を追ふて、北國の港町へ太陽を泳いできた私は、槪念でもなければ、象徵でもなかつた。それは現實の私だつた。現に今、ものうい路に埃を浴びて步いてゐた。疲れてはゐるが、生命と、靑春を持つてゐた。それ故彼女も生きてゐた。彼女は力であつた。一目見ることのほか、そして彼女を追ふことの外に、私に何の計算もなかつた。
 かような私を眺めやるとき、私は私が、夢のやうに遠い、茫漠とした風景であるのに氣附いてゐた。私は、ふるさとに點々と私の足跡を落しながら、この現實の瞬間が、思ひ出されてゐる夢であるような遠さに、いつも感じつづけてゐた。私は、その夢を、その風景を、あかずいとほしんだ。風景である私は、風景である彼女を、私の心にならべることを寧ろ好むのかも知れなかつた。そして風景である私は、空氣のやうに街を流れた。街を燕が、そして私を、橫切つていつた。
 街の埃と、街の騷音が、深く私に泌みてゐた。ただ孤り、しづかな杜に潜む時でも、皮膚に泌みた街の騷音が、私の身體をとりかこんでゐた。砂山で、高くはれた夜の下にも、皮膚にうごめく雜沓の跫音をきいた。それは夜空へ散つていつた。そして、發散する騷音と入れ換りに夜の靜寂が、又ある時は磯の音が、さえざえと私に泌みた。何物か、私の中に澄み切らうとする氣配がしてゐた。夜空が、すべて宇宙が、甘い安心を私に與へた。
[やぶちゃん注:「しづかな杜も潜む時でも」「ちくま文庫」版全集(一九八九年初版)では「杜」(もり)は「柱」である。しかし、どうもこの「柱」はしっくりこない。そこで、「青空文庫」の二種(新字旧仮名新字新仮名。前者の底本は新版の方の「ちくま文庫」版全集で一九九九年初版。後者は「坂口安吾選集第三巻 小説三」一九八二年講談社刊)を見たが、孰れも「杜」であるので、この初出で正しいことが判明した。]
 或る夜は又、この町に一つの、天主敎寺院へ、雜沓の垢を棄てにいつた。僧院の闇に、私の幼年のワルツがきこえた。影の中に影が、疑惑の波が、半ばねぶたげな夢を落した。ポプラアの强い香が目にしみた。さわがしく蛙聲がわいた。神父はドイツの人だつた。黑い法衣と、髭のあるその顏を、私は覺えてゐた。そのために、羅馬風十字架の姿を映す寂びれた池を、町の人々は異人池と呼んだ。池は、砂丘と、ポプラアの杜に圍まれてゐた。十歲の私は、そこで遊んでゐた。ポプラアの杜に、あたまから秋がふけた。時雨が、けたたましく落葉をたたいて、走りすぎた。赤い夕陽が、雲のきれ間からのぞいた。私はマントを被つてゐた。寺院の鐘が鳴つた。釣竿をすてて、一散に家へ、私は駈けた。降誕祭に、私は菓子をもらつた。ポプラアの杜を越えて、しもたやの燈りが見えた。窓が開け放してあつた。裸の男女が食事してゐた。たくましい筋肉が陰を畫いた。昔はそこに、私の友人が住まつてゐた。私より四五歲年上であつた。町の中學で一番の暴れ者だつた。柔道が强かつた。私は一年生だつた。私は每日敎室の窓をぬけ出して、海岸の松林を步いた。彼は優しい心を持つてゐた。彼によく似た私を、彼の墜ちた放埒から遠ざけるために、はげしく私を叱責した。人々は、私を彼の少年だと誤解した。私は町の中學を放校された。彼は獵に出て、友人の流れ彈にあたつて、死んだ。
[やぶちゃん注:「蛙聲」「あせい」。]
 僧院の窓はくらく、祈禱の音も洩れなかつた。何事か、聲高く叫びたい心を、私は切に殺してゐた。騷がしい食膳の音が流れてゐた。

 姉が病んで、この町の病院へ來てゐることを知つた。黑色肉腫を病んでゐた。年内に死ぬことを、自分でも知つてゐた。每日ラヂウムをあててゐた。私の父も肉腫で死んだ。その遺傳を私は別に怖れなかつた。
 姉は聰明な人だつた。子供のために、よき母であつた。そのために、姉は年老いて、少女の叡智を失はなかつた。姉は私を信じてゐた。それ故、私は、姉に會ふことを欲しなかつた。全て親密さは、風景である私にふさわしくなかつた。それは、苦い刺戟を私に殘した。私は襤褸であつた。人の親密さを、受けとめるに足る彈力は、私の中に已になかつた。同じ土地に、姉の病むをききながら、見舞に行くことを、每日見合はせた。彷徨の行きずりに、ときどき、藥品の香が鼻にまつわつた。私は目を閉ぢて、知らぬ顏をした。私はアイスクリームを食べた。匙を、ながく、しやぶつてゐた。
[やぶちゃん注:「襤褸」「ぼろ」。]
 太陽の黑點を、町の新聞が論じてゐた。
 訪れはせぬつもりで、病院の前へ私は來てゐた。私は往復した。看護婦が私を見てゐた。私は病院へ這入つた。姉は出迎へに走り出た。常人と殆んど變りは見えなかつた。ただ、死ぬことを心に決めた、實に淋しい白さがあつた。田舍から見舞に來た子供達が、丁度歸つたあとだつた。たべちらした物の跡が、部屋一面に散亂してゐた。樂しげな子供達を乘せた汽車が、私の目に勇ましく鐵橋を渡つた。子供を樂しく暮させるために、如何なる假面をも創り出す人だつた、私の姉は。姉は子供について語つた。長女に結婚の話が持ち上つてゐた。その心配で、姉は病を忘れがちだつた。私は煙草を何本もふかした。姉は私にマッチを擦つた。姉は私の吸いがらを掌にのせて、長くそれをもてあそんでゐた。夢に植物を見ると姉は語つた。
「お前のために素敵な晚餐會を開きたい……」
 その言葉を、姉は時々くり返した。私は、ルイ十四世が、かつて開いた宴會の獻立を、姉に語つた。姉は山毛欅の杜で食事をしたことがあつたと語つた。虛勢を張つて、二人はいつまでも、空々しい夢物語をつづけた。每日病院を訪れることを約束した。子供達の見えない日には、私が病院に泊ることを約束した。
[やぶちゃん注:「山毛欅」「ぶな」。ブナ目ブナ科ブナ属ブナ Fagus crenata。]
 雪國の眞夏は、一種特別の酷暑を運んだ。ひねもす無風狀態がつづいた。そのまま陽が落ちて、夜も暑氣が衰へなかつた。姉はしきりに氷を攝つた。窓の外に、重苦しく垂れている無花果の葉があつた。それに月が落ちてゐた。姉はそれに水を撒いた。

 數日の中には、流石に人知り人に出會つた。二三の立ち話を交へて、笑ふこともなく、別れた。又一人會つた。彼は年老いた車夫だつた。私に、車に乘ることを、しきりにすすめた。私をのせて、車は日盛りに石のある道を廻轉した。年と共に隆盛である幸福を、歌うやうに彼は告げた。私は、よろこばしげに笑つた。幌がふるへた。ビヤホールに一人の女給が、表戶を拭いてゐた。車夫の家で、私達は水瓜を食べた。
[やぶちゃん注:「水瓜」「すいか」。「ちくま文庫」版全集初版は「西瓜」に書き換えてある。どうも、この初刊、杜撰箇所が多く、ちょっと嫌いになってきた。例えば、以下の一行空けもないのだから。ここは底本では見開き改ページであるものの、前後の版組と比較されれば、明かに右ページの最後に一行分の空きがあることが判る。]

 彼女の家に、別の家族が住んでゐた。幼かつた少女が、背をもたせて電線を見てゐた門は、松の葉蔭に堅く扉を閉じてゐた。三角の陽が影を切つた。
 私は耳を澄ました。私は忍びやかに通りすぎた。私は窓を仰いだ。長くして、私はただ笑つた。私は海へ行つた。人氣ない銀色の砂濱から、私は海中へ躍り込んだ。爽快に沖へ出た。掌は白く輝いて散亂した。海の深さがしづもつてゐた。突然私は死を思ひ出してゐた。私は怖れた。私の身體は、心よりも尙はやく狼狽しはぢめてゐた。私の手に水が當らなくなつてゐた。手足は感覺を失つた。私の吐く潮が、銳い音をたてた。私は自分が今吹き出していい欲望にかられていることを、滑稽な程悲痛に、意識した。私はオカへ這ひ上つた。私は濱にねた。私は深い睡りにおちた。
[やぶちゃん注:「はぢめて」及びルビの「オカ」はママ。]
 その夜、病院へ泊つた。私は姉に會ふことを、さらに甚しく欲しなかつた。なぜなら、實感のない會話を交へねばならなかつたから。そして私は省るに、語るべき眞實の一片すら持たぬやうであつた。心に浮ぶものは、すべて强調と强制のつくりものにみえた。私は偶然思ひ出してゐた。彼女に再び逢う機會はあるまい、と。それは、意味もなく、あまり唐突なほど、そして私が決して私自身に思ひ込ませることが出來ないほど、やるせない悲しみに私を襲ふのであつた。私は、かやうな遊戲に、この上もなく退屈してゐた。しばらくして、もはや無心に雲を見てゐた。
 姉も亦、姉自身の噓を苦にやんでゐた。姉は見舞客の噓に惱んで、彼等の先手を打やうに姉自身噓ばかりむしろ騷がしく吐きちらした。それは白い蚊帳だつた。電燈を消して、二人は夜半すぎるまで、出まかせに身の不幸を歎き合つた。一人が眞實に觸れやうとするとき、一人はあわただしく話題を變へた。同情し合ふフリをした。噓の感情に泪ながした。くたびれて、睡つた。
[やぶちゃん注:「觸れやう」はママ。]
 朝、姉の起きぬうちに、床をぬけて海へ行つた。

 港に六千噸の貨物船がはいつた。耳寄りなニユースに、港の隆盛を町の人々が噂した。私は裏町に、油くさい庖厨の香を嗅いだ。また裏町に、開け放された格子窓から、脂粉の匂に噎んでゐた。湯垢の香に私はしみた。そして太陽を仰いだ。しきりに歸心の陰が搖れた。
 東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雜沓に揉まれ、揉みしだかれ、粉碎されて喘へいでゐた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顏をした。私は其處へ戾ろうと思つた。無言の影に言葉を與へ、無數の傷に血を與へようと思つた。虛僞の泪を流す暇はもう私には與へられない。全てが切實に切迫してゐた。私は生き生きと悲しもう。私は瑩墳に歸らなければならない。と。
 私達はホテルの樓上に決別の食卓をかこんだ。街の灯が次第にふへた。私は劇しくイライラしてゐた。姉は私の氣勢に吞まれて沈默した。私達は停車場へ行つた。私達は退屈してゐた。汽車がうごいた。私は興奮した。夢中に帽子を振つた。
 別れのみ、にがかつた。



[やぶちゃん注:「瑩墳」「えいふん」。墳墓・奥津城おくつきの美称。
「ふへた」はママ。
最後に。坂口安吾は十三人兄妹の十二番目として生まれた。ここに出る姉は、兄妹の中で安吾が一番好きだった異母姉ヌイである。彼女はこの黒色肉腫のため、昭和五(一九三〇)年十一月十四日、四十歳で逝去している。安吾満二十四歳であった。因みに、彼の父の話もちらりと出たが、彼の父坂口仁一郎にいちろう(安政六(一八五九)年~大正一二(一九二三)年十一月二日)は政治家・衆議院議員にして新潟新聞社長・新潟米穀株式取引所理事であったが、細胞肉腫及び後腹膜腫瘍で享年六十四で亡くなっている。言っておくと、安吾自身は昭和三〇(一九五五)年二月十七日朝、突如、痙攣を起こして倒れ、脳出血で逝去した。満四十八であった。以上から、父は既に亡くなっており、時季が夏であることから、父の亡くなった翌年の大正一三(一九二四)年(安吾十八歳)から、ヌイが亡くなった年の昭和五年の夏までの六年の閉区間が作品内ロケーションとなる。太陽の黒点云々が年を特定出来る大きなヒントであるが、調べてみたが、判らなかった。ヌイの病状が悪くなっていることから、下限に近いようには感じられはする。]