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鬼火へ

拊掌談   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正十四(1925)年十二月から翌十五年二月まで、四回にわたって『文藝時報』に掲載されたものと思われる作品(底本注記に「名士と家」から「犬」までの掲載号の発行日と号数が推定であるため)。底本は、岩波版旧全集を用いた。但し、底本はほとんどにルビがあるが、うるさいので、読みの振れるもののみのパラルビとした。傍点「丶」は下線に代えた。この「拊掌談」(ふしょうだん)という題名について、筑摩書房の全集類聚版では「手のひらにのるような小話。」という編者注がついているが。如何か。「拊」は「なでる・うつ・軽く打つ・手を物につける」という意であり、これは「掌を打って感嘆する=はっと気がついた」「掌を打ってさわぐ=ちょっと調子に乗った」話、もしくは「掌で打ち払うようなちょっとした」「掌を一度打つ短い時のような他愛のない」話といった意味ではあるまいか。]

 

拊掌談

 

       名士と家

 

 夏目先生の家が賣られると云ふ。あゝ云ふ大きな家は保存するのに困る。

 書齋は二間だけよりないのだから、あの家と切り離して保存する事も出來ない事はないが、兔に角相當な人程小さな家に住むとか、或は離れの樣な所に住んでゐる方が、あとで保存する場合なぞ始末がよい。

 

       帽子を追つかける

 

 道を歩いてゐる時、ふいに風が吹いて帽子が飛ぶ。

 自分の周圍の凡てに對して意識的になつて帽子を追つかける。だから仲々帽子は手に這入(はい)らない。他の一人は帽子が飛ぶと同時に飛んだ帽子のことだけ考へて、夢中になつてその後を追ふ。自轉車にぶつかる。自動車に轢かれかゝる。荷馬車の土方に吐鳴(どな)られる――その間に帽子は風の方向に走つてゆく。かう言ふ人は割合に帽子を手に入れる。

 しかしどちらにしろ人生は結局さううまく行くものではないらしい。餘程の政治的或は實業的天才でもなければ、樂々と帽子を手に入れる樣な人は恐らく居ないだらう。

 

       不思議一つ

 

 安月給取りの妻君、裏長屋のおかみさんが、此の世にありもしない樣な、通俗小説の伯爵夫人の生活に胸をおどらし、隨喜して讀んでゐるのを見ると、悲慘な氣がする。をかしくもある。

 

       キーンと嘆きのピエロ

 

 最近輸入された有名な映畫だと云ふ『キーン』と『嘆きのピエロ』の筋を聞いた。

 筋としてはキーンの方が小説らしくもあり、面白いとも思ふ。大抵の男はキーンの樣な位置には割になれ易いものである。大ていの女は、キーンの相手の伯爵夫人の樣な境遇には置かれ易いものである。

 嘆きのピエロ夫妻の樣な位置には、大抵の人達は、一生に一度もなり憎い事である。まして虎に咬みつかれる樣な事は、自分々々の一生を考へてみた所、一寸(ちよつと)ありさうもないではないか。これが若し虎ぢやなしに、犬だつたら兔に角。

 

       映  畫

 

 映畫を横から見ると、實にみじめな氣がする。どんな美人でもぺチャンコにしか見えないのだから。

       又

 

 映畫はいくら見ても直ぐにその筋を忘れて仕舞ふ。おしまひには題も何もかも忘れる。見なかつた前と一寸も變りがない。本ならどんなつまらないと思つて讀んだものでも、そんなにも忘れる事はないのに實に不思議な氣がする。

 映畫に出て來る人間が物を云つて呉れたら、こんなに忘れる事はあるまいとも考へて見る。自分がお餞舌(しやべり)だからでもあるまいが。

 

       犬

 

 日露戰爭に戰場で負傷して、衞生隊に收容されないで一晩倒れてゐたものは滿洲犬にちんぽこから食はれたさうだ。その次に腹を食はれる。これは話を聞いただけでもやり切れない。

 

       辨妄和解から

 

 安井息軒の『辨妄和解』は面白い本だと思ふ。これを見てゐると、日本人は非常にリアリスチツクな種族だと云ふ事を感じる。一般の種々(いろ/\)な物事を見てゐても、日本では革命なんかも、存外雜作なく行はれて、外國で見る樣な流血革命の慘を見ずに濟む樣な氣がする。

 

       刑

 

 死刑の時絞首臺迄一人で歩いてゆける人は、殆ど稀ださうだ。大抵は抱へられる樣に臺に登る。

 米國では幾州か既に死刑の全廢が行はれてゐる。日本でも遠からず死刑と云ふ事はなくなるだらう。

 無暗と人を殺したがる人に、一緒に生活されるのは、迷惑な話ではある。だがその人自身にとつてみれば、一生を監禁される――それだけで、もう充分なのだから、強ひて死刑なぞにする必要はない筈である。

 

       又

 

 囚人にとつては、外出の自由を縛られてゐるだけで、十二分の苦しみである。

 在監中、その人の仕事迄取りあげなくともよささうなものである。

 假に僕が何かの事で監獄にはいる樣な事があつたら、その時にはペンと紙と本は輿へて貰ひたいものだ。僕が繩をなつてみたところではじまらない話ではないか。

 

       又

 

 學校にゐた頃の事、授業が終つて二階から降りて來た。外にはいつの間にか、雨がざあ/\降つてゐた。僕は自分の下駄を履く爲に下駄の置き場所へ行つたのである。そこにはあるべき下駄がなかつた。いくら搜してもない。僕は上草履(うはぞうり)をはいてゐた。外には雨がひどく降つてゐる。

 全く弱つて仕舞つた。併(しか)しそこには僕のでない汚い下駄は一足あつたのである。それを欲しいと思つた。とりたいと思つた。

 結局その時はその下駄をとらなかつたが、あの場合あの下駄をとつたとしても、それは仕方のない事だと思ふ。

 

      支那の戰爭

 

 支那の戰爭は文明的な軍(いくさ)だ。本當に陣を動かして戰つて勝敗を決する事は殆ど稀で、大抵はお互に買收し合つて、人畜を傷めずに勝敗の形をつけてゐる。

 戰爭としては理想的なものであらう。

 

       又

 

 支那の軍(いくさ)も奉軍(ほうぐん)の勝(かち)に歸し、張作霖によつて、敵將たる郭松齡夫妻が處刑されたさうだ。

 これを聞いた時、嫌な氣がした。日本人と違つて、隨分慘酷な殺し方をしたのだらう。

 

       毒瓦斯

 

 私の舊い友人である或る科學者の話によると、今後の戰爭は多分毒瓦斯による樣になるだらうといふ事である。優秀な毒瓦斯を發明した方が勝つのである。

 昔の軍(いくさ)の樣に一人一人向ひ合つて斬り結ぶのや、最近の樣に兔に角敵の所在を知つてゐて、大砲なりその他の武器によつて鬪つてゆくのと違つて、どこに敵がゐるのかも分らず、何處からともなく毒瓦の靄が降りて來て、いつの間にか咽喉(のど)を犯され、皮膚を犯され、内臟までやられて、彈丸なぞと違つて長い時間を苦しんで死ぬ事を考へると、一寸(ちよつと)たまらない氣がする。

 かうなると昔の戰爭と今後の戰爭と、どちらが慘酷であるか分らない事になる。

 

       又

 

 併(しか)し毒瓦斯の中には、かう云ふ嫌なのぢやなしに、人道的なものもある。

 米國あたりで現在泥棒除けに使つてゐる毒瓦斯は、金庫にしかけておいて、それにあたると三四時間ぶつ通しに無暗と咳をするとか或は泣くといふのであるが、これは愛嬌だ。

 

       本

 

 本はその内容の如何に拘はらず本自身としての價値を持つてゐても好(い)い。本自身既に一つの藝術であつても好い。

 

       又

 

 よい裝幀の本を持つのは嬉しい。從つて大事にもする。

 最近堀口大學君から、アポリネエルの本を一册貰つた。大へん美しい本である。中味も近來での面白さだつた。

 

       流年の感

 

 三十すぎてからは、流年の感と云つたものが段々深くなつて來た。

 今の若い人達の事を考へると、もう僕なんかは時代遲れだと云つた氣がする。

 飛行機の揚がるのだつて、僕等は大人になつてから見たし、今の若い人達は既に子供の時に飛行機の揚がるのを見たのである。活動にしたつて、僕達は幻燈の頃から知つてゐるし、今の人達は子供の時から既に明るいよい活動を見て來てゐるわけである。

 僕等の時代に較べて、今の人達は實に明るく晴やかである。

 

       又

 

 黄昏時(たそがれどき)、田端の驛近くの通りを歩いてゐたら、床屋の若い衆(しう)がハーモニカを吹いてゐた。それは僕達の若い頃にはまだむづかしいものとして、一般化されなかつた樣な曲だつた。非常に明るい晴れやかな氣持がした。

 

       盲  人

 

 川の前で、一人の盲人が安全な渡り場を探つてゐる。びどく氣の毒な感じを持つ。併(しか)し、此の世の中は何萬人といふ盲人がゐて、その大勢の盲人達がかうして川の前に立つてうろ/\してゐる事を思ふと同情の代りにをかしさがこみあげて來る。

 人は殆ど不幸は自分一人が負つてゐるものゝ樣に思ふものである。僕も勿論その隨一だが。