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放屁   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正十二(1923)六月五日の夕刊『時事新報』に「思ふままに 一」の題で「淺香三四郎」の署名で掲載された。後に、『百艸』『梅・馬・鶯』に所収された。本作は『梅・馬・鶯』に於いては、「澄江堂雜記」の「二十七 放屁」となっている。底本は岩波版旧全集を用いた。]

 

放屁   淺香三四郎

 

 アンドレエフに百姓が鼻糞をほじる描寫がある。フランスに婆さんが小便をする描寫がある。しかし屁をする描寫のある小説にはまだ一度も出あつたことはない。

 出あつたことのないといふのは、西洋の小説にはと云ふ意味である。日本の小説にはない譯ではない。

 その一つは青木健作氏の何とかいふ女工の小説である。駈落ちをした女工が二人、干藁か何かの中に野宿する。夜明に二人とも目がさめる。一人がぷうとおならをする。もう一人がくすくす笑ひ出す――たしかそんな筋だつたと思ふ。その女工の屁をする描寫は予の記憶に誤りがなければ、甚だ上品に出來上つてゐた。予は此の一段を讀んだ爲に、今日もなほ青木氏の手腕に敬意を感じてゐる位なものである。

 もう一つは中戸川吉二氏の何とか云ふ不良少年の小説である。これはつい三四箇月以前、サンデイ毎日に出てゐたのだから、知つてゐる讀者も多いかも知れない。不良少年に口説かれた女が際どい瞬間におならをする、その爲に折角醸されたエロチックな空氣が消滅する、女は妙につんとしてしまふ、不良少年も手が出せなくなる――大體かう云ふ小説だつた。この小説も巧みに書きこなしてある。

 青木氏の小説に出て来る女工は必しもおならをしないでも好い。しかし中戸川氏の小説に出て來る女は嫌でもおならをする必要がある。しなければ成り立たない。だから庇は中戸川氏を得た後始めて或重大な役目を勤めるやうになつたと云ふべきである。

 しかしこれは近世のことである。宇治拾遺物語によれば、藤大納言忠家も、「いまだ殿上人におはしける時、びびしき色好みなりける女房ともの云ひて、夜更くるほどに月は晝よりもあかかりけるに」たへ兼ねてひき寄せたら、女は「あなあさまし」と云ふ拍子に大きいおならを一つした。忠家はこの屁を聞いた時に、「心うきことにも逢ひぬるかな。世にありて何かはせん。出家せん」と思ひ立つた。けれどもつらつら考へて見れば、何も女が屁をしたからと云つて、坊主にまでなるには當りさうもない。忠家は其處に氣がついたから、出家することだけは見合せたが、匆匆その場は逃げ出したさうである。すると中戸川氏の小説も文學史的に批評すれば、前人未發と云ふことは出來ない。しかし斷えたるを繼いだ功は當然同氏に屬すべきである。この功は多分中戸川氏自身の豫想しなかつたところであらう。しかし功には違ひないから、序に此處に吹聽することにした。