Хорь и Калиныч
Иван Сергеевич Тургенев
ホーリとカリーヌィチ
――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯
[やぶちゃん注:これは
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)の「猟人日記」(1847~1851年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の
“Хорь и Калиныч”(Khor i Kalinich)
の全訳である(1847年『同時代人』初出)。本作には既に副題に「猟人の日記より」とあり、後の「猟人日記」の冒頭を飾ることとなる一篇である。底本は昭和31(1956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の上巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。傍点「ヽ」は下線に、「こ」を繋げたような漢文訓点に現われる繰り返し記号は通用の「々」に代え、末尾に私に気になった語についてのオリジナルな注を附した(「猟人日記」巻頭として全体に敷衍出来る「露里」や「プード」等の度量衡・通貨等は、ここでのみ挙げて他篇での繰返しを避けたものがある)。訳者である故中山省三郎先生への私のオードは「生神樣」の冒頭注を参照されたい。なお、一部判読不能・明白な誤字部分は、同テクストを用いたと思われる昭和14(1939)年岩波書店刊の岩波文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」を参照して、補正したが、その部分については特に断っていない。【2008年8月19日】]
ホーリとカリーヌィチ
偶々ルボルポフ郡からジーズドラ郡へやつて來たことのある人は、オリョール縣の人たちとカルーガ縣の人たちの性質に際立つた相違のあることに驚かされたことであらう。オリョールの百姓は背が大きくなく、やや猫背氣味で、樣子がいかにも氣むづかしさうで、胡散(うさん)くさげな眼つきをして筐柳(はこやなぎ)で造つた見すぼらしい小舍に暮らし、地主の畑へ出て夫役を勤めるばかりで、商賣などはせず、粗末な食べ物を食べて、靴の代りに樹の皮づくりの沓を穿いてゐる。ところが、カルーガ縣の小作百姓になると、ゆつたりした松の木づくりの家に住まつてゐて、背も高く、わだかまりのない、陽氣な眼つきをしてゐて、顏もきれいで、色も白く、牛酪(バタ)や木脂(タール)を商ひ、日曜祭日にはいつも長靴を穿いてゐる。オリョールの村(ここではオリョール縣の東部のことをいつてゐるのであるが)は、大抵はどうかかうか泥沼に變へられた谿に近く、すつかり開墾された野原の眞ん中にある。いつも重寶な楊の木の幾本かと、二三本のひよろひよろの白樺を除けたら、一露里(り)四方が間に一本の立木すらも眼に入らない。百姓の小舍と小舍とは互ひに引つ附き合つてゐて、屋根には腐つた麥藁がむくれ返つてゐる……。カルーガ村は、これと反對に、多くは森に圍まれてゐて、百姓の小舍もずつとゆとりがあつて、しつかりしてゐて、それに最も板葺になつてゐる。門もしつかり締まつてゐて、生垣も壊れたり引つく返つたりはしてゐないので、通りすがりの豚に見舞はれるやうな氣づかひもないのである。……遊獵家にとつてはカルーガ縣の方がずつとましである。オリョール縣だと、五年もすれば、わづかに殘つてゐる森や藪地は、あとかたもなくなり、沼地の跡らしいところもなくなるに相違ない。然るに、カルーガ縣の方には、保安林が何百露里(り)となくつづいて、沼地は何十露里(り)に及び、例の品の良い鳥――松鷄(えぞやまどり)も今なほ跡を絶たずに殘つてゐる。それに人なつこい田鷸(たしぎ)も棲んでゐるし、ちよつかいな鷓鴣(しやこ)がけたたましく飛び立つて、撃ち手や獵犬を喜ばせたり、びつくりさせたりするのである。
遊獵家としてジーズドラ郡を訪れたとき、とある野原でカルーガの小地主でポルトィキンというふ人に出遭つて近づきになつたが、この人はなかなか熱心な遊獵家で、從つて相當に立派な人物でもあつた。もとより弱點もあるにはあつた。例へば、縣内の物持の年頃の娘といふ娘に言ひ寄つては、見事に臂鐵(ひじてつ)食つて、すげなく求婚を拒絶され、家へも寄せつけられなくなつては、すつかりがつかりしてしまつて、胸の悲しみをあらゆる友人知己に吹聽に及んで、娘の親には相變わらず未練がましく、自分の畑でとれた酸つぱい桃やら、そのほかの熟れない果物なんどを贈るのであつた。それから好んでいつも相變らずの同じ話を繰り返して聞かせる。御自分では面白いものと思つてゐるにも拘らず、一向に他人樣は面白いと思つたためしがないのである。またアキム・ナヒモフの作品や、『ピンナ』といふ小説をし賞讚してゐる。話をするときには吃る。自分の獵犬には天文學者(アストロノム)といふ名をつけてゐる。「けれども」といふべきところ「けれどもが」といふ。家ではフランス料理なるものをやつてゐるが、その奧の手といふものは、お抱への料理人にいはせると、すべて食べ物といふものの持味(もちあぢ)をすつかり變へてしまふところにあるのださうで、この腕利きの手にかかると、肉は魚(さかな)くさくなるし、魚は菌(きのこ)くさくなり、マカロニーは煙硝くさくなるといつたエ合。そのかはりスープの中にはふり込まれる人參は一片たりとも菱形か四角に切られてゐないのはない。しかし、これらの僅かな、とりたてて言ふがものはない缺點を除いてしまへば、ポルトィキン氏は前にもいつた通り、まことに立派な人物であつた。
私がポルトィキン氏と初めて近づきになつた日のこと、彼は晩には家(うち)へ來て泊まるやうにといつて、私を招くのであつた。
「私の家までは、かれこれ五露里(り)もありませう」といつて、更に附け加へて、「歩いて行くのは道程(みちのり)も大へんですから、一先づホーリの家へ寄りませう」(例の吃りの言ひ方をお傳へしないことは、讀者に許していただけるであらう)
「ホーリつていひますと?」
「うちの小作の百姓ですけれども……奴の家はごく近くなんです……」
私たちはホーリの家をさして行つた。森の中に、すつかり伐り開いて、きれいに坦(な)らされた空地があつて、そこにただ一軒のホーリの家が高まつて見える。家といつても、板圍ひでつながつてゐる松の木づくりの小舍が二つ三つ。母屋の正面には、細い柱をもつて支へられてゐる檐(のき)がつづいてゐる。私たちは内に入る。すると、年のころ二十歳(はたち)ばかりの、背の高い、きれいな若者が私たちを出迎へた。
「あ、フェーヂャ! ホーリは家にゐるかい?」とポルトィキン氏が訊ねる。
「いんえ、ホーリは市(まち)へ行きましたんで」若者はにつこり笑ふ拍子に、雪のやちに白い齒竝を見せながら答へた、「馬車の支度をするんでごぜえませうか?」
「ああ、さう、馬車を、な。それにクワスを持つて來て貰はう」
私たちは小舍に入る。少しの汚れ目もない丸太組みの壁には、安つぽい繪などはただの一枚も貼りつけてなく、部屋の一隅の銀の縁飾(ふちかざ)りを施した、どつしりした聖像のまへには燈明がともされ、菩提樹の木の卓子は、近ごろ鉋(かんな)をかけられたものと見受けられ、きれい洗ひ上げてあつた。よその家と違つて丸太の間や窓の側柱に、いたづら者のごきぶりも匐ひまはつてゐないし、物思はしげな蜚(あぶらむし)もかくれてゐない。若者は間もなく、大きな白いコップに、上等のクワスをなみなみと注いで、木の鉢に小麥麺麭の大きなきれと、鹽漬の胡瓜を十二本ほどのせてやつて來た。彼はこれらの食べ物を卓子のうへに置いて、自分は戸口に乘りかかつて、にこにこしながらこちらを見まはし始めた。私たちがこのつまみ物を食べ終らないうちに、おもてにはもう馬車の音が鳴り出した。すぐに出て見る。見ると、髮のちぢれた、頰の赤い、十五歳ばかりの少年がすつかり馭者になりすまして、やつとのことで肥つた石垣馬を御してゐるのであつた。馬車を耽り卷いて、フェーヂャにもよく似てゐるが、お互ひ同志、實によく似た若い大男が六人ほども立つてゐた。
「みんなホーリの忰ですよ」とポルトィキン氏が教へてくれる、「みんな仔臭猫(ホリヨーク)でしてね」玄關まで從いて出て來たフェーヂャがあとを引き取る、「けれど、これでもまだ揃つてはゐねえんでして。ポターブは森(やま)へ行つてるし、シードル老父(おやぢ)について市(まち)へ行きましたし……ワーシャ、氣をつけろよ」と馭者の方を向いて言葉をつづける、「ひと息に飛ばすんだぞ。旦那樣を乘つけてんだからな。氣をつけてな。がたつく時は、ゆるめんだぞ。車をこはして、旦那樣のお腹(なか)をびつくりさせるんぢやねえぞ!」とフェーヂャの冗談を聞いて、ほかの仔臭猫(ホリヨーク)達がみんな苦笑した。
「天文學者(アストロノム)を乘せてくれ」とポルトィキン氏がいかめしさうに聲をかけた。フェーヂャは、嬉しさうに、強ひて笑ふやうな風をしてゐる犬をさし上げて、馬車の底へおろした。ワーシャは馬に手綱をくれる。馬車が走り出す。ふと「そらあれが私の事務所です」とポルトィキン氏は小さな低い家をさしながら私にいふ、「寄つて見ませうか?」「ぜひ」「今ではもう空けてますけれど」と入りながら言ふ、「それでも一見の價値はありますな」事務所といふのは、がらんとした部屋は二間(ふたま)あるだけだつた。そこへ、片目の、年とつた番人が裏庭の方から駈けて來た。
「今日(こんにち)は、ミニャーイッチ」とポルトィキン氏が言葉をかけた、「ところで、水を一杯くれないかな?」片目の老爺は影をかくしたが、すぐに壜に水を入れて、コップを二つ持つて戻つて來た。「一つ味をみて下さい」とポルトィキン氏が私にすすめる、「これは私んとこの相當に飮める湧水(わきみづ)なんです」私たちはコップに一杯づつ飮んだが、老爺はその間ぢゆう、丁寧にお辭儀ばかりしてゐた。「さあ、これでどうやら行けさうです」と私の新しい友人がいつた、「この事務所で、私はアルリルーエフといふ商人(あきうど)に、四丁歩(デシヤチン)の森をかなりにいい値で賣りましたつけ」私たちはまた馬車に乘り込んで、半時間ほどするともう、この地主の邸へ乘り込んでゐた。
「一體どういふわけなんでせうね」と私は夕食のとき、ポルトィキン氏に訊ねた、「ホ一リがあなたの領地内で、ほかの百姓たちとかけ離れて住んでゐるのは?」
「さう、實はかういふわけなんですよ。あれはかなか利口者でしてね。かれこれ二十五年ほどになりますが、あれの家が燒けちまひましてね。すると亡くなつた親父んところへやつて來て『どうかニコライ・クジミッチ樣、あの沼地んところの森へ引つ越しさせて下さいまし。さうすれば、お年貢も今までよりたんと納めますで』と、かういふんです。『うむ、それはまた、どういふわけなんだい、沼地へ越して行きたいなんて?』『いえなあに、その、べつに、その、なぜといふわけもありませんで。ただ旦那樣、お邸のお仕事の方は一切(いつせつ)御免かうむりまして、その代りお年貢は思召し通りお極めを願ひたいので』『では年に五十ルーブリ?』『結構でござりますとも』『だが、滯りのないやうにだぞ、いいかい!』『いやもう決して滯りなどはいたしません……』と、かういふやうなわけで沼地へ住むやうになつたのです。それ以來、あれに臭猫(ホーリ)といふ綽名をつけたのです」
「なるほど、それで、裕福にはなつたのですか?」と私は訊いた。
「裕福になりましたよ。今では現金で百ルーブリ納めますがね、なあに、もつと値上げをしてやるつもりですよ。私は、度々いつてやりましたよ、『おい、ホーリ、身代金(みのしろきん)を出して一本立になりなよ。身代金を出して!』つて。ところが、あの男もさる者で、とてもそんなことは出來ません、金はありません、だなんて、尤もらしく言ひ張るんですよ……ええ、どうしてそんなことつてあるもんですか……」
翌くる日、私たちは朝のお茶を喫んでから、早速またもや獵に出かけた。村を通り過ぎながら、ポルトィキン氏は、-軒の低い百姓家のわきで馬車を停めさせ、大聲で「カリーヌィチ!」と呼び立てた。「はい、唯今、旦那様、唯今まゐります」といふ聲が裏庭の方から聞こえる、「いま、木沓の紐を結んでますから」私たちはここから、そろそろと馬車を進めて待つたが、村を出はづれると、年ごろ四十恰好の小さな頭を反(そ)らしてゐる、背の高い、痩せつぽちの男が追ひついた。これがすなはちそカリーヌィチであつた。ところどころに痘痕(あばた)のある、人の好ささうな、淺黑い顏は、見るからに氣に入つてしまつた。カリーヌィチは(後で聞いて知つたことあるが)、毎日のやうに旦那の獵のお伴をして、獵袋(かりぶくろ)を持つてやつたり、時には銃をかついでやつたり、鳥のゐるところを教へたり、水を汲んで來たり、苺を摘み集めたり、假の小屋を建てたり、馬車のあとをつけて駈けたり、いつもさういつたやうなことをしてゐるのであるが、ポルトィキン氏はこの男がゐないと、まるで手も足も出ないのであつた。カリーヌィチは至つて陽氣な、性質のことごとくおとなしい男で、しよつちゆう小聲で鼻唄を歌ひながら、暢氣さうに四邊(あたり)を見まはしてゐた。話をするときは、いくらか鼻へかかる。微笑みなから薄青い眼を細めたり、よく、疎らな、楔形(くさびがた)の鬚をしごく癖があつた。早足ではないが、大股に、細長い棒にもたれ氣味に歩く。彼はその日は一度ならず私に話しかけて、心おきなく世話をしてくれたが、その主人の面倒を見る工合といつたら、まるで子供扱ひであつた。眞晝の焦きつくやうな暑さに堪へかねて、物蔭はないかと探すやうなときには、彼は森の木立の最も繁つたところにある自分の養蜂所へ案内して行つた。カリーヌィチは香りの高い草の束をかけた小舍の戸をあけて、私たちを爽かな乾草のうへに寢かせ、自分は網のついた嚢のやうなものを被つて、ナイフと壺と、燃えさしの薪を持つて、蜜房を切りに行つてくれた。私たちはまだ温い、透き通つた蜂蜜を、清らかな泉の水で飮み消した。それから氣(け)うとい蜂のうなりと、樹の葉のそよぐ音に誘はれて、まどろんだ。するうちに、そよ風が吹き出して、眼をさまさせられた……。眼をあけて見ると、そこにはカリーヌィチがゐた。彼は半ば開けかけてある戸口の閾に腰をかけて、ナイフで木匙をしらへてゐる。夕ぐれの空のやうに素直な、明るい彼の顏に私は暫しのあひだ見とれてゐた。ポルトィキン氏もやはり眼をさました。二人はすぐに起き上りはしなかつた。ずつと歩きつづけた上に、ぐつすり寢込んだあとで、乾草のうへにじつと臥(ね)てゐるのは好い氣持であつた。身體は甘い疲れにけだるく、顏はほんのりほてつて、何ともいへず、つい眼がふさがつてしまふ。やがてまた起き上つて、夕方までぶらつきに出る。夕食のときに、私は又もやホーリのこと、カリーヌィチのことを持ち出した。「カリーヌィチは氣だてのいい百姓ですよ」とポルトィキン氏がいふ、「まめで世話好きでしてね。けれどもが、家の切り盛りを、しつかとやつて行けないのです。何しろ私がいつも引つ張り廻してるものですから。毎日毎日私と一しよに獵に出てゐるやうな始末で……全く、家の切り盛りどころぢやありませんね――お察し下さい」私はそれに同感の意を表して、やがて床についた。
翌くる日、ポルトィキン氏は用事があつて、隣り村のピチゥコフといふ地主と共に、地主と共に、市(まち)へ行かなければならなかつた。隣り村のピチゥコフといふのは、ポルトィキン氏の地所に鋤を入れたうへに、その地所で、ポルトィキン氏お抱への百姓女を鞭で折檻した男である。私は獵には一人で出かけたが、日の暮れないうちに、ホーリのところへ立ち寄つた。小舍の閾のところで私が出つたのは老人――頭の禿げた、背の低い、肩幅の廣い、がつしりした老人であつたが、これがホーリであつた。顏の恰好はソクラテスを想ひ起こさせる。ソクラテスのやうな、高い、でこぼこした額、それに同じやうな小さな眼、また同じやうな獅子鼻。私たちは一しよに小舍の中へ入つた。そこへお馴染のフェーヂヤが牛乳に黑麺麭を添へて持つて來てくれる。ホーリは腰掛(ベンチ)に腰をおろして、しづかに縮れ鬚を撫でながら、私と話をし始めた。彼は自分の威嚴感じてゐるらしく、話の仕ぶりも身のこなしも悠々たるもので、時をり長い口髭のあひだから微笑みを洩らすのであつた。
私たちは蒔きつけのこと、作柄のこと、百姓の暮らしのことなど話し合つた……。彼は私の話には何ごとによらず同意するらしかつた、尤も後で私は恥かしくなつて來た。こんな話をするんぢやなかつたと思ふのであつた……こんな工合で、話はなんだか變てこになつて來た。ホーリは得心してゐたからでもあらうが、時をりは大へんややこしい物の言ひ方をした……。ここに二人の話の例をお知らせしよう。
「ねえ、ホーリ」と私はいつた、「どうしてお前は、旦那に身代金(みのしろきん)を拂つて自由にならないんだい?」
「自由になんぞなつてどういたしませう? 私は旦那樣をよくよく存じてゐますし、年貢のこともよくよく存じでゐます……うちの旦那樣はいいお方で」
「それにしてもさ、自由の身の方がよくはないかいり?」
ホーリは私を横目で見た。
「御尤もです」と彼はいつた。
「それなら一體、どうして一本立にならないんだい?」
ホーリは首をぐるりと旋らした。
「だつて、旦那様、そんなお金がどこにございませう?」
「まあ、いい加減にしろよ、爺さん……」
「ホーリが自由な御連中の仲間入りをしたら」彼は獨り言のやうに低い聲でつづける、「鬚のない人間はみんなホーリより上になつてしめえませう」
「そんならお前も顏を剃つちまふさ」
「鬚なんか何にもなりません。鬚は草のやうなものだから、剪(つ)んでもかまひません」
「え、一體どうするつていふんだい?」
「つまり、やがてホーリが商人(あきんど)になりまさね。商人(あきんど)つていふものは、いい暮らしをして、それで鬚も生やして」
「ぢや、何かね、お前、商賣の方もやつてるのかね?」と私は訊ねた。
「牛酪(バタ)や、それに、樹脂(タール)もぼちぼち商つてゐます……。ところで、旦那、いかがでごぜえませう、馬車の支度をいたしませうか?」
『はて、こいつ奴(め)、うつかり物もいへない、なかなか肚の黑い奴だ』と肚の中で私は考へた。
口に出しては、「いやいや馬車は要らんよ。明日はお前の家の近邊を歩くんだ。若しよかつたらお前んとこの乾燥小屋(なや)へ泊めて貰ひたいんだが」といつた。
「ええ、ええ、どうぞ、……ですけども、納屋で、おやすみになられませうかな? 女どもにいひつけて、敷布を延べさせ、枕を出させませう……。おい、女ども!」と彼は腰を上げながら叫んだ、「おい、女ども、こつちだ、こつちだ、……それから、フェーヂャ、お前も一しよに行つてな、女つて奴は機轉のきかない奴等だかんな」
十五分ほどして、フェーヂャはカンテラをさげて、納屋へ案内してくれた。私は香りの高い乾草のうへにごろりと横になつた。犬も足もとに丸くなつて寢る。フェーヂヤがおすみなさいといつて出て行くと、戸が軋めいて、閉まる。私はかなり永いあひだ、眠れなかつた。牝牛が一頭、戸のところへ來て、二度ばかり太息をついた。犬が威丈高に吼えかけた。豚が物思はしげに唸りながら傍を通り過ぎた。馬がどこか近くで、乾草を嚙んでは鼻を鳴らしはじめる……。そのうちに、たうとう寢入つてしまつた。
明け方にフェーヂヤが私を起した。この愉快な、元氣のいい青年は實に私の氣に入つた。それにまた、私の見たところでは、老人ホーリにとつても寵子(まなご)であつた。だから二人は實に睦じく、互ひにからかひ合つてゐた。老人が挨拶にやつて來た。昨晩、彼の家に泊まつたせゐか、それとも何か他に仔細があつてか、とにかくホーリは昨日よりはずつとまた懇ろに私をもてなした。
「お茶の用意が出來て居ります」と微笑みながら私にいふ、「さ、どうぞいらしてお茶をおあがり下さい」
私たちは卓子かこんで座についた。嫁の一人である、丈夫さうな女が、牛乳の入つてゐる壺を持つて來た。息子たちもみな順々に小舍に入つて來た。
「お前んとこには、なかなか立派な連中がゐるなあ!」と私は老人にいつた。
「さやうでございますよ」砂糖の小さな塊を嚙み碎きながら老人がいふ、「忰どもも、私や婆さんに苦情をいふがものはなささうですよ」
「それで、みんなお前と一しよに暮らしてるのかね?」
「はい。みんな一しよにゐたいつていふもんですから、こんな風に暮してるわけで」
「みんな嫁を貰つてるのかね?」
「あそこに一人、暴れつ子がまだ娶らずに居りますんで」と彼は、依然として戸にもたれてゐるフェーヂャを指して答へるのであつた、「ワーシュカつて申しますが、あれはまだ小兒(こども)でございますから、別に急ぎませんがね」
「嫁なんぞ貰つてどうするんだい?」とフェーヂャはやり返した、「おらあ、これで結構だよ。何のために女房もらふんだい? いがみ合ひするのにか、え?」
「何だ、この野郎、……俺はもう知つてるぞ! 銀の指輪なんぞ穿めて……お屋敷の女中らとでも嗅ぎ合つてりやいいんだらう……『およしよ、みつともない!』」老人は小間使の口眞似をしながらつづける、「俺はもうてめえの肚ん中なんか、ちやんと知つてるぞ、このひよつ子め!」
「だつて、女房のどこがいいんだい?」
「女房ってのは働き手が何になるんだ?」
「女房てのは働き手だよ」ホーリは眞顏になつていつた、「女房は男にとつて片腕だよ」
「だつて、俺に働き手が何になるんだ?」
「それ、それ、お前は他人(ひと)を踏み臺にするのが好きと來てる、おらあ、おめえ達のやうな奴の肚ん中はちやんと知り拔いてるぞ」
「うん、そんならお嫁を貰つてくろよ、え? どう? どうして默つてんだい?」
「さあ、もういいよ、もうたくさんだ、仕やうのねえおしやべりだな、氣をつけろ、旦那樣が御迷惑なさる。貰つてやるよ、きつと……。旦那、どうか惡く思はねえで下せえ。野郎、からつきし小兒(こども)で、物の道理がさつぱり分かりませんので」
フエーヂヤは不足さうに首を振つた……。
「ホーリは在宅(うち)かね?」おもてで耳馴れた聲が聞える――と、カリーヌィチが親友のホーリにやらうと、ちぎつて來た野苺の小さい束を手にして小舍へ入つて來た。老人は愛想よく彼を迎へる。私はびつくりして、カリーヌィチの方を見つめた。實をいへば、百姓にこんな『優しさ』があらうとは思ひもよらなかつたのである。
私はその日はいつもより四時間ほども遅れて獵に出かけた。それからの三日間といふもの、私はホーリの家で暮らした。この新しい知合ひが私の興味をひいたのである。どんなことで信用を得たのか知らないが、彼らは何のわだかまりもなく私と話をした。私は喜んで彼らの話を聞いたり、彼らを觀察したりした。二人の友だちは少しも似通つたところがなかつた。ホーリは積極的な實際的な人間で、萬事を巧みに處理して行くに適した頭腦を持ち、一切のことを理論で押して行く人間であつた。カリーヌィチこれとは反對に、理想家で、ロマンチストで、狂熱的で、空想好きな人間の部類に屬してゐる。ホーリは現實いふものをよく理解てゐる。だからこそ、家も建てるし、小錢(こぜに)も溜め、主人とも、土地のお歴々ともうまく調子を合はせて行つたのである。カリーヌィチは樹の皮沓を穿いて、どうにかかうにか、その日暮らしをやつてゐた。ホーリはおとなしく和合してゆく大家族を養つてゐる。嘗てカリーヌィチは女房を持つたこともあつたが、女房を怖れてばかりゐたので、つい子供もできたかつた。ホーリはポルトィキン氏の肚の奧底まで見拔いてゐるが、カリーヌィチと來たら、ただその主人を畏敬するばかりである。ホーリはカリーヌィチを愛して面倒を見てやつてゐるし、カリーヌィチもホーリを愛して敬まつてもゐる。ホーリは口數も少く、にこにこして、萬事を胸三寸に心得てゐる。カリーヌィチは勇み肌の男のやうに氣の利いたことをすらすらいふわけではなかつたが、熱を持つて話をする……。しかし、カリーヌィチは生まれつき、ホーリ自身すらが認めてゐたやうな優れた力を持つてゐた。例へば、呪文を唱へて、出血や、痙攣(ひきつけ)や、狂きを治したり、害蟲を驅除したりして、蜜蜂を飼へばまた必ずうまく行つた。つまりは手が器用なのであつた。ホーリが私のゐる前で、新たに買ひ入れた馬を厩へ連れて行つてくれと賴むと、カリーヌィチはお人よしの、勿體ぶつた樣子をして、老懷疑家の乞ひを容れてやつた。カリーヌィチは自然になづんでゐるが、ホーリの方は人間や世間といふものにより多く接近してゐる。カリーヌィチは議論をすること好まず、あらゆることを盲滅法に信じてゐるが、ホーリはお高くとまつて、人生を皮肉な眼で見てゐるほどである。彼は見聞が廣く、いろんなこと知つてゐたので、私は大分彼から教へられるところがあつた。たとへば彼の話によつて、毎年夏の草刈り前になると、風變りな小さい馬車が村々にやつて來るといふことを知ることが出來た。その馬車には百姓外套(カフタン)を着た人が乘つてゐて、草刈り用の大鎌を賣つてゐる。現金なら一ルーブリ二十五カペイカ、紙幣ならば一ルーブリ五十カペイカを受け取り、貸しの場合には紙幣(さつ)で三ルーブリと更にループリ銀貨一枚といふことにする。勿諭、百姓たちはいづれもかけにして大鎌を手に入れる。二三週間すると、またやつて來て、金を催促する。百姓たちのところでは燕麥を刈り取つたばかりなので、從つて拂ひのできる者もあるわけである。百姓は商人(あきうど)と一しよに居酒屋へ行つて、そこで借金を片づけてしまふ。地主たちの中には自分の手に大鎌を買ひ入れて、それを同じ値段で百姓たちに貸し賣りをしようと考へた者もあつた。ところが、百姓たちは一向に有難がらず、却つてがつかりしてしまつた。といふのは、大鎌の刀を鳴らして見たり、音を聞いたり、手にとつて引つくりかへして見たり、とかく油斷のならない町の商人をつかまへて、『おい、これはそんなに大していい鎌ではないぢやないか?』などと訊いたりする樂しみを彼らから奪ひとつたからである。同じやうないたづらは、小鎌を買ふときにも行はれる。ただ違ふのは、その場合に女たちも仲間に入ることで、あまり勝手なことをいふので、時には商人の方でやり切れなくなつて、女たちを擲つたりするととがあるのである。しかし、女たちは次のやうな場合には最もひどい目に遭はされる。製紙工場の原料請負人は襤褸の買ひ入れに、或る郡で『鷹』と呼ばれてゐる一種特別な人間たちを使ふのである。かやうな『鷹』は請負人から紙幣(さつ)で二百ルーブリほど受け取つて、餌食(えじき)をさがしに行く。けれど、その名を貰つてゐる高尚な鳥とはちがりて、公然と大膽に飛びついて來るのでなく、それどころか、『鷲』は狡猾に惡がしこく立ちまはる。どこか、村の近くの藪に荷車を置きすてて、自身はふと通りがかりの人か、或ひは、ただの浮浪人かといつたやうな風をして、裏庭や裏口に寄つて行く。女たちは近寄つて來たことを嗅ぎつけて、こつそりと會ひに出る。取引は大いそぎに濟んでしまふ。わづかの赤錢で、女は不用の襤褸を殘らず賣り渡してしまふばかりでなく、亭主の襯衣や手織りの自分のスカートまでも賣り拂つてしまふのである。近頃では女たちは、こつそ自分の家の麻苧、わけても『大麻』を盗んで、おなじやり方で賣り飛ばしてしまふのを、得(とく)なことだと思ふやうになつた。實に『鷲』にとつて商賣の擴張であり、進歩でもある! ところが、百姓たちはまた百姓たちの方で利口になつて、少しでも臭いと思つたり、『鷲』がやつて來たといふ噂をうすうすでも小耳に挿んだりすると、實に敏速に矯正と豫防の方法を講ずるのである。實際、これは彼らとしては、腹の立つことであつたらう。麻苧を賣るのは男たちの仕事であつた。――實に男たちが賣るのである――しかも町でではなく――町へは自ら引つ張つて行かなければならないので、買ひに來る小商人(こあきうど)に賣るのである。彼等は把秤(さげばかり)つてゐないので四十つかみを一プードに勘定する、――ところが露西亞人の一つかみ、露西亞人の掌(て)がどんなものか、特に『精々勉強する』ときにどんなものか、諸君はよく御存じであらう! 私はまだ世馴れず、村へ來ると『こうらへた』(わがオリョール縣ではかういふ風な言ひ方をする[やぶちゃん注:私の『こうらへた』の後注を必ず参照のこと。])人間でもなかつたから、かういふ話をかなりたくさん聽かされたものであつた。しかし、ホーリがいつも話し手になつたわけではなく、私にもいろんなことを訊ねた。私が外國へ行つてゐたといふ話を聞かせると、彼の好奇心は急に烈しくなつた……。カリーヌィチも彼にはひけなとらなかつたが、むしろカリーヌィチ自然の山や瀧、すばらしい建物や大きい都市(まち)の話により多く惹きつけられてゐた。ホーリは行政だとか、(國家だとかの問題に興味をもつてゐた。彼は何事によらず順序な立てて持ち出した。「ところで、そいつはことらと同じでございませうかな、それとも違つて居りませうかな?……ねえ、旦那、聞かして下せえ、――一體、どういふ工合でございませうか?……」「あ! ああ、たまげたもんですねえ!」とカリーヌィチは私が話してゐるときに叫ぶのである。ホーリは默つて、濃い眉毛を寄せ、たまさか、「こちらぢや、さうは行かねえでせうが、しかし、いいこつてすなあ、――ちやんと筋道のとほつたこつてすな」などといふのであつた。彼の質問をここに殘らずお傳へすることは出來ないし、またその必要もない。けれども、私たちが話をしてゐるうちに、恐らく讀者諸君の豫想もされないやうな一つの信念を私は得たのであつた……。ピョトール大帝は何といつても露西亞人であつた。すなはち彼の改革のやり方から見て露西亞人であつたといふ確信である。抑々露西亞人は自分の力量を信じ、氣塊を信じて、我と我が身を滅ぼすこと敢へて辭せず、過去に戀々とせず、大膽に前途に眼を向ける。善いものを好み、道にかなつたものはすなはち受け容れられる。それがいかなるところから出て來ようとも、それには一向かまはない。露西亞人の常識は好んで淺薄な獨逸人の屁理窟を嘲笑する。けれどもホーリにいはせると、『獨逸人といふものは面白い國民』であつて、彼もまた獨逸人から學ばうとしてゐたのである。ホーリは自分が他人とちがつて、事實上まつたく獨立した地位を占めてゐたので、ほかの人からは打つても叩いても聞き出せないやうな――百姓たちの言葉を藉りていふと、挽白にかけても搾り出すことの出來ないやうな、いろんなことを私に話してくれた。彼は全くのところ、自分の地位をよく了解してゐた。ホーリと話し合つて、私は初めて露西亞の百姓の、素朴で、しかも賢明な言葉を聽いたのであつた。彼の見識は自己流ながら、なかなか博かつた。そのくせ眼には一丁字もないのであつた。カリーヌィチには讀めたけれど。「あの木偶坊(でくのばう)には讀み書きが出來るんでさ」とホーリがいふ、「あいつの手にかかると、蜜蜂までが殖えるばかりで、死んだことがない」「ところで、お前は子供たちに字を習はさなかつたのかい?」ホーリはしばらく默つてゐた。「フェーヂャは知つとります」「では、ほかのは?」「ほかの奴は駄目でさ」「一體、どうして?」老人はそれには答へないで、話題を外(そ)らしてしてしまつた。利口な男ではあつたが、しかもなほ彼に偏見や僻みが附きまとつてゐた。例へば、心の底から女といふものを輕蔑し、機嫌のよいときには、女たちを嘲笑し、愚弄するのであつた。彼の細君は喧嘩の好きなお婆さんで、終日(いちんち)、煖爐のそばを離れず、絶えず、ぶつぶつと不平をいつたり、惡態をついたりしてゐた。息子たちは別に見向きもしなかつたが、嫁たちには荒神(あらがみ)のやうに怖れられてゐた。露西亞の姑の小唄があるのも宜なる哉である、『それでもわしの子供なの、それでもおまへは亭主なの! 女房打(ぶ)つよなこともなし、若い女房を打(ぶ)ちもせず……』私は嘗て、嫁を庇つてやらうと企て、ホーリの同情心を喚び起こさせようと試みたことがあつた。けれども彼は落着き払つて、異議を申し立てた、「こんな……つまらんことを構ふなんて、物好きといふもんでせう。女どもには勝手に喧嘩をさせとくがいいんです……。仲裁すると却つて惡いんでさ…わざわざこつちの手を汚すほどのことでもありませんしね」時には、この邪慳な老婆がの煖爐ところからのそのそ出て行つて、乾草の中にゐる飼犬を呼び立てる、「來い、來い、ポチ!」と呼でおいて、火棒(ひかき)で犬の痩せた背中を毆りつける。また時には檐(のき)の下に立つて、ホーリの言ひ草ではないが、通りすがりの人と誰彼の見さかひなく『いがみ合ふ』のである。尤も御亭主だけは怖がつてゐて、御亭主のいひつけがあれば、煖爐のところへさつさと引き返して來るのであつた。それにしても、殊に面白かつたのは、ホーリとカリーヌィチが、談たまたまポルトィキン氏のことに及んで、口論するのを聽くことであつた。「おい、ホーリ一、俺んところで、さうさうあの人のことを、兎や角いふもんぢやねえよ」とカリーヌィチがいへば、「だつて、お前にどうして長靴をこしらへてくれねえんだらう?」とホーリがやり返す。「えつ、長靴!…‥長靴なんぞ、俺にどうして要るんだい? おらあ、百姓だぞ……」「なるほど、俺も百姓だけんど、見ろ……」かういひながらホーリは自分の足を擧げて、カリーヌィチに、おそらくマンモスの皮を裁(た)つてつくつたものであらう、長靴を見せる。「うむ、だつて、おめえとおらあ、わけが違ふべえ」とカリーヌィチが答へる。「なんぼなんでも、木皮沓(わらぢ)くらゐは下さらんとあんまりだよ。だつて、おめえは旦那の獵のお伴をするんだもの、木皮沓(わらぢ)ぢや、一日に一足は要るだろ」「木皮沓(わらぢ)だけのものは下さるがな」「さうさう、去年は大枚十カペイカ玉を頂戴したつけな」カリーヌィチは忌々しくなつてわきを向いてしまつたが、ホーリはをかしくてたまらず、ひどく笑ふので、小さな眼が全く見えなくなつてしまふほどであつた。
カリーヌィチはなかなか好い聲で唄をうたひ、バラライカも少しは彈くのであつた。ホーリはひたすらこれに耳を似けてゐるかと思ふと、不意に首をかしげて、哀れつぽい聲で調子を合はせはじめる。彼はとりわけ、『ああ、わが運命(さだめ)、わが運命(さだめ)!』といふ唄が好きであつた。こんなときにはフェーヂャはすかさず、親父をからかつて、「おい、お父つあん、何をそんなにめそめそするんだい?」といふのである。が、ホーリはすかさず、親父をからかつて、「おい、お父つあん、何をそんなにめそめそするんだ?」というふのであるが、ホーリは頰杖をついて、眼をふさいで、自分の運命を相變らずこぼすのであつた、……さうかと思ふと、ほかの時にはホーリほどまめな男はないのであつた。いつも何かにかまけて、――荷車を直したり、柵を支へたり、馬具をあらためて見たりしてゐる。尤も、あまりきれい好きといふ方ではないので、或るときのこと、私が注意をしたら、こんな返事をした、「家だつて、人間の住んでる所の臭ひがしなくてはなりませんわい」
「でも、カリーヌィチんとこの養蜂場のきれいなのを見るがいいよ」と私は言ひ返した。
「蜜蜂はね、旦那樣、きれいにして置かないと、住みついてくれんのでしてね」と彼は溜息まじりにいつた。
或ときはまた、「旦那樣には、御先祖樣からの持村(もちむら)がおありですかな?」と私に訊くのであつた、「あるよ」「ここから遠いんでございますか?」「百露里(り)ほどある」「ぢや、旦那樣、その村にお暮らしなすつて?」「ああ、さう」「でも、それよか、鐵砲で日を送つてるといふ方なんでございませう?」「正直いふと、まあその通りだ」「結構でございますなあ。おからだのためには、せいぜい、松鷄(えぞやまどり)でもお撃ちになつて、時々、百姓頭をお變へになるんですね」
四日目の晩、ポルトィキン氏は迎への者をよこした。私は老人に別れるのが殘り惜しかつた。私はカリーヌィチと馬車に乘つた。「ぢや、さよなら、ホーリ、御機嫌よう」と私はいつた、……「さよなら、フェーヂャ」「さやうなら、旦那樣、さやうなら、どうかまたいらして下さい」馬車は走り出した。夕燒の色が眞赤になつたばかりの頃あつた。「明日はいいお天氣だぜ」と私は晴れ渡つた空を眺めたがら言つた。「いいえ、雨がやつて來でせう」とカリーヌィチが言ひ返す、「ほれ、家鴨が向ふで水をぱちやぱちや潑(は)ねかしてますし、草の匂ひもいやにきつうございますし」私たち灌木の繁みの中へ入つた。カリーヌィチは馭者臺にひどく搖られながら、聲低く唄をうたひ出した。そして、絶えず夕燒の空を見つめるばかりであつた……。
翌くる日、私はポルトィキン氏の手厚い款待(もてなし)の家を辭したのであつた。
■やぶちゃん注
・一露里四方:約一キロメートル四方。「露里」はメートル法以前のロシアの長さの単位の訳語。単数形は“верста”(versta:ヴィルスター又はヴェルスター、ベルスタ、ヱルスター等と表記)、複数形は“вёрсты”(vyorsty:ビョールスティ又はヴョールストィ)であるが、日本ではカタカナ表記では複数形でも「ヴィルスター」表記が普通である。日本の「里(り)」に比して「露里(ろり)」と訳され、中山は本「獵人日記」全篇で、「露里」の二字で「り」と読ませている。但し、日本の律令制の「1里」が3.927㎞に対して、1верста(=500сажень:「サージェン」は以下参照)は約1.0668㎞に過ぎず、現在の我々の感覚的にも1㎞とした方がすっきりするし、間違いがない。以下に、当時のロシアの長さの単位を降順で列挙しておく(複数形を用いると分かりにくくなるので、すべて単位は単数形を用い、メートル法換算は小数点第三位を四捨五入した。なお、以下の旧ロシアの度量衡及び換算については「ロシアの伝統的度量衡 (非メートル法)」のページを参照させて頂いた)。
ミーリャ 1миля = 7верста ≒ 7.47㎞
ヴィルスター 1верста = 500сажень ≒ 1.07㎞
サージェン 1сажень = 3аршин = 7фут ≒ 2.13m
アルシン 1аршин = 4четверть ≒ 71.12㎝
フート 1фут = 12дюйм ≒ 30.48㎝
チェートヴェルチ1четверть = 4вершок ≒ 17.78㎝
ヴェルショーク 1вершок = 7/4дюйм ≒ 4.45㎝
デュイム 1дюйм = 10линия ≒ 2.54㎝
ソートカ 1сотка = 1/100сажень ≒ 21.34㎜ = 2.13㎝
リーニヤ 1линия = 10точка ≒ 2.54㎜
トーチカ 1точка ≒ 0.25㎜
他に、肘を用いたローコチという肘尺、親指と人差し指を最大に開いた長さであるピャージという指尺(1チェートヴェルチと同等)がある。
ローコチ 1локоть ≒ 50㎝
ピャージ 1пядь = 1четверть ≒ 17.78㎝
・アキム・ナヒーモフ: Аким Николаевич Нахимов(1782~1814)。昭和33(1958)年刊行の岩波文庫版の佐々木彰の割注によれば『群小作家の一人。主に役人をあざ笑う諷刺詩や寓意詩を作った』とある。
・『ピンナ』:原文“Пинну”。同上の佐々木注によれば『エム・ア・マールコフという凡庸な作家の作品。』とある。
・クワス:“квас”はロシアの伝統的醗酵性微アルコール飲料(アルコール度数1~2.5%)の名。ライ麦と麦芽を発酵させて作る。また当時は男性の整髪料としても用いられ、「猟人日記」では頻繁に現われる。
・いたづら者のごきぶりも匐ひまはつてゐないし、物思はしげな蜚(あぶらむし)もかくれてゐない:原文では「ごきぶり」及び「あぶらむし」が、それぞれ、前者が“прусаков”、後者が“тараканов”とある。どちらも辞書を引くと、後者には「ごきぶり」、前者には、その一種、としか記されていない。ロシア語の昆虫名に詳しい方の御助力を願う。後者が我々のイメージする大型のゴキブリのようには思われる。
・仔臭猫(ホリヨーク):主人公の一人“Хорь”「ホーリ」は本名ではなく渾名である。これは、ネット上の藤巻裕蔵氏による「哺乳類ロシア語辞典」に以下のようにある二種のイタチの何れか又はケナガイタチ属Mustelaを指すものと思われる。ケナガイタチは臭腺を持ち、攻撃されたり興奮したりすると、不快な臭いを出す。所謂「イタチの最後っ屁」である。ちなみに、このケナガイタチのペット化されたものが、現在のフェレットである。
*〔引用開始(記号・フォントの一部を変更した)〕
хорёк степной (= светлый хорёк,степной хорь) Mustela eversmanni
ステップケナガイタチ(肉食目イタチ科)。体長30~50cm。体は黄褐色で、長毛の先端が黒く、四肢・胸・腹・尾の後半分・眼の周囲・額は黒褐色。ヨーロッパ地方の南半分、カザフスタン・中央アジア・シベリア南部に分布し、森林ステップ・ステップ・半砂漠に生息する。他の小動物の地下の巣穴を利用し、2~3月に交尾し、4~5月に7~10子を産む。おもに夜行性で、ハタリス・ネズミ類を食べる。
хорёк чёрный (=лесной хорёк,чёрный хорь) Mustela putorius
ヨーロッパケナガイタチ(肉食目イタチ科)。体長30~46cm、尾は9~13cm。体は黒褐色で、横腹はやや淡色。口の周囲・耳の付け根に白斑がある。ヨーロッパ地方中・南部、カフカスの森林に生息し、人家に入ることもある。他の小動物の地下の巣穴を利用し、3~4月に交尾し、4~5月に4~6子を産む。おもに夜行性で、ハタリス・ネズミ類・カエル・小鳥を食べる。
*〔引用終了〕
・四丁歩(デシヤチン):「デシヤチン」はメートル法以前のロシアの広さの単位。単数形は“десятина”(desyatyna:デシャチーナ又はジェシャチーナ等と表記)、複数形は“десятины”(desyaty:デシャチン)。中山氏は「丁歩」と表記するが、日本の面積単位では「町歩」(ちょうぶ)と表記するのが正しい。本邦では太閤検地により一町は3000歩(坪)とされ、一町歩は現在の9917㎡=0.9917haに相当するので、四町歩は39668㎡=3.9968haとなるが、対する4десятиныは、4.36haに相当する。以下に、当時のロシアの広さの単位を降順で列挙しておく(複数形を用いると分かりにくくなるので、すべて単位は単数形を用い、メートル法換算は小数点第三位を四捨五入した)。
平方ヴェルスター 1кв. верста = 250000кв. cажень ≒ 113.81ha
デシャチーナ 1десятина = 2400кв. cажень ≒ 1.09ha
平方サージェン 1кв. cажень = 9кв. aршин ≒ 4.55㎡
平方アルシン 1кв. Аршин ≒ 5.4кв. фут ≒ 5058cm²
平方フート 1кв. фут ≒ 929cm²
・ルーブリ:“рубль”(ruble:ルーブルとも表記するが発音は「ルーブリ」の方が近い)。ロシアの通貨単位。
1рубль=100копеек
(kopeek:カペイク。単数形は“копейка” kopeika:カペイカである)。以下、「猟人日記」を読み進めると、当時のロシアにあっては同額面であっても、紙幣よりも硬貨の方が、硬貨の中でも銅貨より銀貨の方が実際の通貨価値に於いて断然高かった事実が次第にお分かりになるであろう。
・鬚のない人間:同上の佐々木彰の割注によれば、『鬚を剃っている旦那たち、主として官吏をさす。当時官吏は、ニコライ一世の命により、鬚を蓄えることをかたく禁じられていた』とあるが、これではホーリの懸念の意味が分かりにくい。昭和26(1951)年新潮社刊の米川正夫訳の傍注では『頤鬚を蓄へるのは殆ど農夫に限られてゐたところから、農奴である間は地主が主人であるが、ただの平民となれば、中産知識階級全部に蔑視されると云ふ意味が出て來る』とあり、当時のロシア社会の帰属意識の特異性がよく知られる。
・プード:メートル法以前のロシアの重さの単位。“пуд”(pud:プード又はプートと表記)、複数形は“пуды”。1プード(=40фунт:フント。ロシアポンド。以下参照。将に本文の「四十つかみ」と合致する)は約16.38㎏(ヤード・ポンド法では約36.11ポンド)に当たる。以下に、当時のロシアの重さの単位を降順で列挙しておく(複数形を用いると分かりにくくなるので、すべて単位は単数形を用い、メートル法換算は小数点第三位を四捨五入した)。
ベールコヴェツ 1берковец = 10 пуд ≒ 163.81kg
プード 1пуд = 40 фунт ≒ 16.38kg
フント 1фунт = 32лот ≒ 409.51g
ロート 1лот =3золотник ≒ 12.80g
ゾロトニーク 1золотни к = 96 доля ≒ 4.27g
ドーリャ 1доля ≒ 44.44mg
・『こうらへた』:底本は『こうろへた』。これは昭和14(1939)年版でも『こうろへた』である。しかし、このような日本語を私は知らない。米川訳は「田舍に來ると『とろくせえ』人間であつたが」、佐々木訳は「村で『世故(せこ)に長(た)けた』人間でもなかったから」と訳す(どちらも作者の原注部分を省略した。佐々木訳では原注の丸括弧の外に不自然な句点があるが、誤植と判断して省略した)。これは日本語で読むと、中山―佐々木訳と米川訳では全く異なった文脈となる。どちらかが誤った訳をしているとしか思われない。原文では“живалый”とあるが、この単語は「博友社ロシア語辞典」にも載らない。ロシア語を全く解さない私ではあるが、文脈からみると、どうも米川訳は分が悪い気がする。そうして、そうした海千山千の人間といった意味合いをこの単語が持っているとすれば……中山の訳は『こうらへた』(甲羅経た)の「ら」が「ろ」に誤植されたものではないかと類推されるのである。私は曲がりなりにも国語教師として意味不明のまま、『こうろへた』とする訳には行かない。ロシア語に堪能な方の御助力を願う、私の判断は誤っていないか?