杉田久女集
(★底本は筑摩書房一九六七年刊「現代日本文学全集 巻九十一 現代俳句集」に所収する「杉田久女集」を用いた。【二〇一〇年八月二十三日】全面校訂を行い、落としていた底本表示を追加した。踊り字「/\」の濁点は正字に直した。「とち」と訓じている「橡」は底本では「椽」であるが、誤字と判断して「橡」とした。)
春寒や刻み鋭き小菊の芽
春寒の髮のはし踏む
春曉の窓掛け垂れて眠りけり
春の夜や
春の夜のまどゐの中にゐて寂し
あたたかや水輪ひまなき
菓子ねだる子に戲畫かくや春の雨
春泥に柄浸けて散れる木の實赤
春着きるや裾踏み押へ腰細く
燕乘る軒の深さに棲みなれし
花衣ぬぐやまつはる紐いろ/\
花大根に蝶漆黑の翅をあげて
幕垂れて玉座くらさや雨の雛
雛の間や色紙張りまぜ廣襖
衣
洗ひ髮かわく間月の籐椅子に
照り降りにさして色なし古日傘
玄海に連なる漁火や窓涼み
夏痩や頰も色どらず束ね髮
住みかはる
傘にすけて擦りゆく雨の若菜かな
新涼や
秋の夜の敷き寢る袴たゝみけり
朝寒や菜屑ただよふ船の腹
秋晴や岬の外の遠つ
秋空につぶての如き一羽かな
よそに鳴る夜長の時計數へけり
いつつきし膝の繪具や
蟲なくや帶に手さして
白萩の雨をこぼして束ねけり
露草や
知らぬ人と
しろ/\と花びらそりぬ月の菊
戲曲よむ冬夜の食器浸けしまゝ
冬川やのばり初めたる
足袋つぐやノラともならず教師妻
白足袋に褄みだれ踏む疊かな
風邪の子や眉にのび來しひたひ髮
書初やうるしの如き
けふの
枯芝に松影さわぐ二月かな
葱植うる
大正七年實父逝く
雨暗し爐煙籠るすゝけ
今朝秋の湯けむり流れ大鏡
鏡借りて
草いきれ鐵材さびて積まれけり
仰臥して見飽きし壁の夜長かな
我寢息守るかに野菊
病む卓に林檎紅さやむかず見る
許されてむく嬉しさよ柿一つ
病み痩せて帶の重さよ秋袷
間借して塵なく住めり籠の菊
京都白川莊
鶯や
春雷や
春雨や木くらげ生きてくゞり門
嵐山の枯木もすでに花曇り
晴天に
つれづれの
夕顏を蛾の飛びめぐる薄暮かな
夕顏やひらきかゝりて
逍遙や垣夕顏の咲くころに
さうめんや孫にあたりて
上陸や我夏足袋のうすよごれ
つゆけさやうぶ毛生えたる
露けさやこぼれそめたるむかご垣
朝顏や濁りそめたる市の空
雁なくや釣らねどすなる母の供
八月の雨に蕎麥咲く高地かな
好晴や壺にひらいて濃龍膽
葉鷄頭のいたゞき躍る驟雨かな
うそ寒や黑髮へりて枕ぐせ
病間や破船にもたれ日向ぼこ
雪道や降誕祭の窓明り
*
逆潮をのりきる船や瀨戸の春
梨畠の
佇めば春の潮鳴る
灌沐の淨法
ぬかづけばわれも善女や
波痕のかわくに間あり大干潟
かきわくる砂のぬくみや防風摘む
磯菜つむ行手いそがんいざ子ども
水上へうつす歩みや濃山吹
晴天に芽ぐみ來し枝をふれあへる
盆に盛る春菜淡し鶴
鶴料理るまな箸
落椿の薫くぐり落ちし日の
蒼海の波騷ぐ日や丘椿
花影あびて群衆遲々とうごくかな
花ふかき
花
櫛卷の歌麿顏や袷人
おくれゐし門邊の早苗植ゑすめり
寮の
いとし子や歸省の肩に繪具函
蛙きく人顏くらく佇めり
牡丹やひらきかゝりて花の隈
活け終へて百合影すめる襖かな
走馬燈いつか消えゐて軒ふけし
板の如き常にさゝれぬ秋扇
放されて高音の蟲や園の闇
椅子涼し
菊摘むや群れ伏す花をもたげつゝ
摘み移る日かげあまねし菊畠
菊干すや何時まで
日當りてうす紫の
縁の日のふたたび嬉し菊日和
門邊より咲き伏す菊の小家かな
愛藏す東籬の詩あり菊枕
ちなみぬふ陶淵明の菊枕
白妙の菊の枕をぬひ上げし
ぬひあげて菊の枕のかをるなり
萬葉
冬濱の煤枯れ松を惜みけり
冬
ほのゆるゝ
眉引も
かざす手の珠美くしや塗火鉢
銀屏の夕べ明りにひそと居し
身にまとふ黑きショールも古りにけり
かきならす鹽田ひろし夕千鳥
首に捲く銀狐は
牡蠣舟や障子のひまの雨の橋
英彦山 五句
秋晴や
坊毎に春水はしる
三山の高嶺づたひや紅葉狩
琉球をよめる句 五句
爪ぐれに指そめ交はし戀
海ほほづき流れよる木にひしと生え
潮の香のぐん/\かわく貝拾ひ
延命寺(小倉郊外) 三句
釣舟の漕ぎ現はれし花の上
花の寺登つて海を見しばかり
花の坂船現はれて海蒼し
雨ふくむ淡墨櫻みどりがち
風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ
花房の吹かれまろべる露臺かな
きざはしを降りる
春晝や坐ればねむき文机
寮住のさみしき
春愁の子の文長し憂へよむ
深耶馬溪
大嶺に歩み迫りぬ紅葉狩
鶴 十七句
月高し遠の
並びたつ稻城の影や山の月
山冷にはや
横顏や煖爐明りに何思ふ
霜晴の松葉掃きよせ焚きにけり
月光に舞ひすむ鶴を軒高く
寄り添ひて野鶴はくろし草紅葉
ふり仰ぐ空の青さや鶴渡る
子を連れて落穗拾ひの鶴の群
鶴遊ぶこのもかのもの稻城かげ
鶴の群屋根に稻城にかけ過ぐる
好晴や鶴の舞ひ澄む稻城かげ
舞ひ下りる鶴の影あり稻城晴
冬晴の雲井はるかに
鶴舞ふや稻城があぐる霜けむり
鶴の里菊咲かぬ戸はあらざりし
鶴の群驚ろかさじと
水郷遠賀 四句
菱の花引けば水垂る長根かな
泳ぎ子に遠賀は潮を上げ來り
摘み競ふ
萬葉の菱の咲きとづ江添ひかな
遠賀川 六句
菱
すぐろなる遠賀の萱路をただひとり
生ひそめし水草の波
土堤長し萱の走り火ひもすがら
風さそふ遠賀の萱むら
蘆の火の燃えひろがりて消えにけり
宇佐櫻花祭 三句
うらゝかや
三宮を賽しをはんぬ櫻人
櫻吹く宇佐の呉橋うち渡り
宇佐神宮 五句
うらゝかや
藤
春惜む
鎌倉虚子庵
虚子留守の鎌倉に來て春惜む
大島星の宮吟詠 三句
下りたちて天の河原に
彦星の
口すゝぐ天の眞名井は
乘りすゝむ
宍道湖(松江大橋) 二句
蘆の芽に上げ潮ぬるみ滿ち來たり
上げ潮におさるゝ
若蘆にうたかた
筑紫にて 七句
さゝげもつ菊みそなはせ觀世音
菊の香のくらき佛に灯を獻ず
月光にこだます鐘をつきにけり
かゞみ折る野菊つゆけし都府樓址
こもり居の門邊の菊も時雨さび
菊の
菊の根に降りこぼれ敷く松葉かな
旅衣春ゆく雨にぬるゝまゝ
大いなる春の月あり山の肩
新らしき春の袷に襟かけん
土濡れて久女の庭に芽ぐむもの
張りとほす女の意地や
實桑もぐ乙女の朱唇戀知らず
雲海の夕富士あかし帆の上に
城山の桑の道照る墓參かな
月涼し
英彦山雜吟 十九句
神前の雨洩りかしこ秋の宮
絶壁に
色づきし
霧淡し
坊毎に懸けし
蕎麥蒔くと英彦の
彦山の
雉子の妻驚かしたる蕨刈
杉くらし佛法僧を
歩みよる人にもの言はず若葉蔭
蝶追うて春山深く迷ひけり
咲き移る外山の花を
目が出れば消ゆる雲霧峰若葉
杉田久女集 完