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鬼火へ
大へび小へび 片山廣子
[やぶちゃん注:昭和28(1953)年6月に暮しの手帖社刊の片山廣子「燈火節」に所収されている書き下ろしと判断されるエッセイである。底本は2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」を用いたが、底本は新字であり、親本は正字であったと判断されることと私のポリシーから、恣意的にその殆んどを正字に換えた。また読みに迷った一部の漢字に、〔 〕で私の読みを振った。最後のエピソードの「榛〔はん〕」は「榛〔はしばみ〕」と、「冬青〔もち〕」は「冬青〔そよご〕」と読ませる可能性もあるが、筆者がルビを振らなかった自然な読みとしては「はん」及び「もち」でよいと考える。【2008年1月18日】2007年月曜社刊の正字版の片山廣子「新編 燈火節」を入手したため、再校訂を行った(結果はタイプ・ミス2箇所、無意味な全角空隙が3箇所あった)。但し、ルビについては編集者が適宜処理したものであり、一部は不要、一部は私が肯んずることが出来ないという理由から、底本の「劫(ごふ)」であったのを「劫(こふ)」とした一箇所以外は採用しなかった。【2010年12月26日】]
大へび小へび
日本では蛇の昔ばなしがたくさんあるが、アイルランドの傳説にも蛇が多いやうである。同じやうに島國のせゐかもしれない。初めに私が讀んだのはごく太古のこと、北方の山の湖水に劫(ごふ)を經た大蛇が、將來えらい人がこの國に來て蛇族全部を退治してしまふといふ豫言をきいたので、さういふ災禍の來ない前に海に逃げてしまはうと思つて、一生けんめいに湖水から逃げ路を作り始める。行くみちみちで沿岸の家畜どもを喰ひ荒し、時々休息し、さうして又水路を掘る。いさましい人間どもが大蛇を攻撃してくるが、いつも人間の方が負けてしまふ。しかし大蛇も負傷したり殺されかかつたりして、永い月日を經て漸く海まで水路を通(とほ)す。大蛇の作つた路がシヤノン河になつたといふ話である。
そのえらい人といふのは聖(セント)パトリツクのことださうで、さて聖(セント)パトリツクの傳には、この聖者はローマの奴隸として少年の日を過したアイルランドを愛する心深く、自由の身となつて後ふたたびアイルランドに渡つてキリストの道を傳へたといふ事である。キリスト紀元五世紀ごろのこと、波にかこまれた島國は森と山と野はらと沼ばかりで住む人はすくなく、至るところに蛇がのさばつて、大きい蛇小さい蛇、中蛇、おろちの類までこの國を住家にしてゐた。聖者は一人の弟子と共にいろいろな困難と戰ひながら休むひまなく西に東に傳道してゐる時のこと、或る山かげのせまい道を通りかかると、道に蛇が寢てゐたが、めづらしくもないので弟子は跨いで通つた。蛇は忽ちをどり上がつて弟子を喰ひ殺してしまつた。聖者は、聖者といへども人間だから、この時までうつかり歩いてゐたのだつたが、大事な弟子を眼前に喰はれて、大いに怒つて「けしからん蛇のやつ! 退れ、退れ、汝のともがら、永久に消滅せよ」と叱りつけた。その殺人蛇はその時いそいでするすると消えてしまつたが、あらゆる蛇どもがこの時をきつかけに段々どこかに移轉して行つたらしく、アイルランドはいつの間にか蛇の島ではなくなつた。むろん聖者の傳道のおかげでもあつたらう。(キリスト教と蛇とは仲がよくない)ドラゴンを踏まへてゐるのはイギリスの聖(セント)ジヨージで、アイルランドの聖(セント)パトリックでないことは門(かど)ちがひみたいだけれど、大むかしはどこの國でも蛇が人間の大敵であつたと見える。
後世になつてアイルランドの傳説には蛇でなく妖精(フエヤリイ)が出てくるやうになり、お話はだんだん殺伐でなくなつた。人間も殖えて強くなつたのであらう。
わが國の蛇の話も、はじめの方のは大きい。素戔嗚の尊が稻田姫を八岐(やまた)の大蛇(おろち)から救つた話はどこの國にもありさうな傳説である。その大蛇は頭と尾がおのおの八つあり、背中には松や柏が生へて體ぜんたいの長さが八丘八谷(やおかやたに)に這ひ渡つたといふから、相當の長さであつたと思はれる。ほんとうにそんな大きい物ならば稻田姫のおとうさんの家なぞにはいり込むことは出來なかつたらう、それが傳説なのである。
崇神天皇の御代、倭迹迹姫(やまととどひめ)の夫となつた大物主の神は或るとき姫の櫛ばこの中に隱れた。あけがたに姫が櫛ばこを開けてみると、にしき色に光る小さい小さい蛇がゐたといふ、これはすぐれて聰明な人間のむすめと神とのあひだの悲劇で、日本書紀も姫に同情してゐるやうに讀まれる。
仁德天皇の御代、北方の蝦夷(えみし)らが叛いた時、上野〔かみつけ〕の勇將田道(たぢ)を大將として征伐させたが、その時の蝦夷(えみし)はひどく強く、田道(たぢ)は石の卷の港で戰死してしまつた。田道(たぢ)の家來が主人の手纏〔たまき〕を取つて田道(たぢ)の妻に持つてゆくと、妻はその形見を胸に抱いて自殺し、この夫妻の死はひろく世間から惜しまれ手厚く葬られた。その後しばらく經つてまた蝦夷(えみし)が攻め込んで來て田道(たぢ)の墓を掘りかへした。すると墓から大蛇が出て來て多勢の敵をくひ殺した。喰はれなかつた奴らもみんな蛇の毒氣にあたつて死んだ。石の卷の町に入るすぐ手前の畑に今でも「蛇田」といふ名所がある。「……五十八年の夏五月(さつき)、荒陵(あらはか)の松林(まつばやし)の南の道にあたりて、忽に二本(ふたもと)の櫪木(くぬぎ)生ひ、路をはさみて末合ひたりき」と本に書いてある。それは田道(たぢ)が死んでから三年目の事であつたが、昭和の御代の或る年、私は仙臺にゐた娘を訪ねて、松島から石の卷に遊びに行つた時、「蛇田」の中ほどに今でも一むらの松林があつて、田道(たぢ)の墓がそこにあるのを見た。これは大きい惡い蛇の話。
人間がだんだん殖えて世の中が賑やかになると、歴史のおもてに蛇は出なくなつたやうだ。藤原の道長が榮華の絶頂にゐた時分のこと、大和の國から御機嫌伺ひとしてみごとな瓜をささげて來た。夏のゆふ方で、道長は「ほう、うまさうな瓜だな!」とその進物の籠をながめてゐた。そのとき御前に安倍晴明と源賴光が出仕してゐたが、安倍晴明は眉をひそめて「殿、ただいまこのお座敷には妖氣が滿ちてをります。この籠の瓜が怪しく思はれます」と眼に見るやうに言つた。すると賴光(らいこう)がいきなり刀を拔いてその瓜を眞二つに切つた。瓜の中に小さい蛇が輪を卷いてかくれてゐた。これは殿を恨むものの思ひが蛇となつてその瓜にこもつてゐたのだといふ話であるけれど、加工品の中に蛇を隱し込むのとは違つて、瓜の中に初めから蛇の卵がひそんでゐて瓜と一しよに育つたと考へてみれば、それはやつぱり陰陽師安倍晴明が言つたとほり妖しい瓜であつたのだらう。これはごく小さい蛇。
まだわかい北候時政が江の島の岩屋に參籠した滿願の夜に岩屋のぬしの蛇が現はれた。その時蛇體ではなく美しい女性の姿にみえた蛇は人間の言葉で時政に未來の事を話した。まぼろしが覺めた時、その女性が立つてゐた邊に三片のうろこが落ちて光つてゐたといふ話で、これは少しも怖くはなく、賴もしい美しい、古い傳説風でもある。
わが國の田舍には蛇のたたりの物すごい話が澤山あつて、それはみんな邪惡な氣味のわるいものばかりで、歴史に出た表向きの蛇たちのさつそうとした行動とは大きなへだたりがある。古いむかしの蛇たちは同じ蛇族の中の英雄であつたと思はれる。
もつと世界的な話ではイヴが見た蛇。神はイデンの園のどの樹の實をたべてもよろしいが、たつた一本だけ、その實をたべるべからずとおつしやつた。アダムとイヴの二人は正直にその命令を守つてゐたとき、蛇が出て來てイヴを誘惑してその禁斷の樹の實を食べさせたのである。聖書にはその物語がこまごま述べてあるけれど、蛇については「神の造りたまひし野の生物(いきもの)の中に蛇もつとも狡猾(さか)し」とあるだけで、蛇の大きさは何とも書いてない。常識で考へて素戔嗚の尊の退治した大蛇のやうなものではなく、草原の上にすべり出て女と話をするのにちやうどつり合ひのとれた小蛇のやや大きいのであつたかと思はれる。しかし大小はともあれ、どんな大むかしでも、蛇は今日と同じくによろによろしてゐたに違ひない。女が氣持よくそんな物と話をしたといふのが不思議である。さうするとイデンの蛇は無形の物で、イヴの頭の中にだけ見えたのかもしれない。イヴはその頭の中の蛇といろんな問答をして、樹の實を食べる決心をしたと考へてみれば、かなり素ばらしい生意氣な女であつたやうで、それがわれわれ女性みんなの先祖であつた。
遠い國の蛇や、古い古い蛇はさておき、私の家の蛇を思ひ出すと、今はもうかなりの過去になる。大森の家はずつと以前は畑であつて、十軒ぐらゐの農家がその邊に家を構へた、そのうちの主人がよその土地に移つた一軒の家を改築して私たちの家としたのである。相當のひろさの地所で、道路に添うた三方の境には古い欅〔けやき〕と榛〔はん〕の樹が農家らしく立つてゐた。十年ぐらゐ經つて主人が亡くなり、私と二人の子供だけ住むのには廣すぎる家であつたが、引越すことのきらひな私は何時までもそこにゐた。その時分のこと、大きな蛇が塀ぎはの欅から榛に傳はつて歩くのを往來の人たちがよく見るやうになつた。あれは片山さんとこのヌシらしい、そつとして置けと近所の人たちは子供が石を投げるのを叱つて止めた。門側の垣根で、住居にはうしろだつたから私たちはその蛇を見なかつた。しかし或時それを見た、一本の樹から隣りの樹に這ひつたはる姿はひどく長いものだつた。一ばん大きな欅にうろがあつて、その中に住んでゐるのだらうといふことだつたが、植木屋が刈込みの時しらべて見ても何もゐないと言つた。あの蛇はもう死んだのだらうと私たちが思つてゐると、その後一二年して門のそばの小さい冬青〔もち〕の木に一ぴきの小蛇がぶらさがつてゐた。これはたぶんヌシの子よと、みんなできめて、そうつと觸らずに置いた。時をり小蛇はその邊に見えてゐたらしいが、誰も氣にもとめず、そんな事はすつかり忘れて靜かな月日が過ぎた後、戰爭が始まつた。
まだ私は古い家を捨てて疎開しようとも考へてゐない時分、晴れた九月の朝だつた、茶の間と居間との前の芝生に一ぴきの蛇がだらんとのびて寢てゐた。中へびであつた。死んでゐるらしいと、東北の農村そだちの女中は棒をもつて來てそれを引つかけようとした時だつた、蛇はいきなり頭を上げて六尺ばかり跳び上がり、すつと身をうねらしてきらきら光つて芝の上を走りはじめた。すばらしい早さで私たちの眼の前を滑り忽ちのうちに陰の方にかくれて行つた。生きてゐたのね! どうしてこんな明るい芝の上に寢てゐたのかと、私たちは話し合つた。いつぞやの小蛇が育つたのでせうと女中は言つた。さうすると、あれは家(うち)のヌシなのねと、私は奇妙な氣もちになつた。家に何か變つた事が起るときヌシが現はれるといふ言ひつたへを信じるともなく私は信じてゐたらしく、そんな話を電話で息子の家に話した、新井宿の家に何か變つたことがあるのかもしれないと私は言つたけれど、若い人たちは、そんな事ないでせうと年寄の心を安心させようとした。
昭和十九年の初夏、蛇の事なんぞもうすつかり忘れてしまふほど忙しく、私は井の頭線の濱田山に疎開して來たが、そのあと私たちが長く住みふるした家は強制疎開でこわされて今は畑となつてゐる。いまになつて考へると、正しくあのヌシが私の家の消長の姿を教へに來たのであつたらう。勁〔つよ〕いながい姿がすうつと庭をはしつたその朝のことが、めざましくはつきり思ひ出される。ヌシは、畑となつたあの廣い空地のどこかに今もゐるのだらうか? ふしぎに私はその蛇に少しの氣味わるさも感じない。むしろ戀しいくらゐにそのほそい銀の形をおもひ浮べる。