[やぶちゃん注:大正13(1924)年6月発行の雑誌『隨筆』に掲載された。後、『百艸』に『「續野人生計事」五』として、所収された。]
春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐる 芥川龍之介
春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐる。向うから來るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背廣に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿も半分がたは隱れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子に長靴の中へ落つこつたやうな氣がするだらうなあ。
顏馴染の道具屋を覗いて見る。正面の紅木の棚の上に蟲明けらしい德利が一本。あの德利の口などは妙に猥褻に出來上つてゐる。さうさう、いつか見た古備前の德利の口もちよいと接吻位したかつたつけ。鼻の先に染めつけの皿が一枚。藍色の柳の枝垂れた下にやはり藍色の人が一人、莫迦に長い釣竿を伸ばしてゐる。誰かと思つて覗きこんで見たら、金澤にゐる室生犀星!
又ぶらぶら步きはじめる。八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七寶の靑に似てゐる。あの慈姑を買はうかしら。譃をつけ。買ふ氣のないことは知つてゐる癖に。だが一體どう云ふものだらう、自分にも譃をつきたい氣のするのは。今度は小鳥屋。どこもかしこも鳥籠だらけだなあ。おや、御亭主も氣樂さうに山雀の籠の中に坐つてゐる!
「つまり馬に乘つた時と同じなのさ。」
「カントの論文に崇られたんだね。」
後ろからさつさと通りぬける制服制帽の大學生が二人。ちよいと聞いた他人の會話と云ふものは氣違ひの會話に似てゐるなあ。この邊そろそろ上り坂。もうあの家の椿などは落ちて茶色に變つてゐる。尤も崖側の竹藪は不相變黃ばんだままなのだが………おつと向うから馬が來たぞ。馬の目玉は大きいなあ。竹藪も椿も己の顏もみんな目玉の中に映つてゐる。馬のあとからはモンシロ蝶。
「生ミタテ玉子アリマス。」
アア、サウデスカ? ワタシハ玉子ハ入リマセン。――春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐる。