[やぶちゃん注:昭和十(1935)年二月発行の雑誌『生理』に掲載された。底本は昭和五十一(1976)年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集 第五巻」を用いた。傍点「ヽ」は下線に代えた。本作には「チヤンチヤン坊主」「支那ペケ」等の差別用語が用いられている。時代背景を考慮しつつも、そのような言辞に対する批判精神をしっかりと持った上で、お読み頂きたい。]
日清戰爭異聞(原田重吉の夢) 萩原朔太郎
上
日清戰爭が始まつた。「支那も昔は聖賢の教ありつる國」で、孔孟の生れた中華であつたが、今は暴逆無道の野蠻國であるから、よろしく膺懲すべしといふ歌が流行つた。月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非國民として擲(なぐ)られた。改良劍舞の娘たちは、赤き襷(たすき)に鉢卷をして、「品川乘出す吾妻艦」と唄つた。そして「恨み重なるチヤンチヤン坊主」が、至る所の繪草紙店に漫畫化されて描かれて居た。そのチヤンチヤン坊主の支那兵たちは、木綿の綿入の滿洲服に、支那風の木靴を履き、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、辮髮の豚尾を背中に長くたらして居た。その辮髮は、支那人の背中の影で、いつも嘆息(ためいき)深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戰爭の最中でさへも、阿片の夢のやうに逍遙つて居た。彼らの姿は、眞に幻想的な詩題であつた。だが日本の兵士たちは、もつと勇敢で規律正しく、現實的な戰意に燃えてゐた。彼らは銃劍で敵を突き刺し、その辮髮をつかんで樹に卷きつけ、高梁畠の薄暮の空に、捕虜になつた支那人の幻想を野曝しにした。殺される支那人たちは、笛のやうな悲聲をあげて、いつも北風の中で泣き叫んで居た。チヤンチヤン坊主は、無限の哀傷の表象だつた。
陸軍工兵一等卒、原田重吉は出征した。暗鬱な北國地方の、貧しい農家に生れて、教育もなく、奴隸のやうな環境に育つた男は、軍隊に於て、彼の最大の名譽と自尊心とを培養された。軍律を嚴守することでも、新兵を苛めることでも、田舍に歸つて威張ることでも、すべてに於て、原田重吉は模範的軍人だつた。それ故にまた重吉は、他の同輩の何人よりも、無智的な本能の敵愾心で、チヤンチヤン坊主を憎惡して居た。軍が平壤を包圍した時、彼は決死隊勇士の一人に選出された。
「中隊長殿! 誓つて責務を遂行します。」
と、漢語調の軍隊言葉で、如何にも日本軍人らしく、彼は勇ましい返事をした。そして先頭に進んで行き、敵の守備兵が固めて居る、玄武門に近づいて行つた。彼の受けた命令は、その玄武門に火藥を裝置し、爆發の點火をすることだつた。だが彼の作業を終つた時に、重吉の勇氣は百倍した。彼は大膽不敵になり、無謀にもただ一人、門を乘り越えて敵の大軍中に跳び降りた。
丁度その時、辮髮の支那兵たちは、物悲しく憂鬱な姿をしながら、地面に趺坐して閑雅な支那の賭博をして居た。しがない日傭人(ひようとり)の兵隊たちは、戰爭よりも飢餓を恐れて、獸のやうに悲しんで居た。そして彼らの上官たちは、頭に羽毛のついた帽子を被り、陣營の中で阿片を吸つて居た。永遠に、怠惰に、眠たげに北方の馬市場を夢の中で漂泊(さまよ)ひながら。
原田重吉が、ふいに夢の中へ跳び込んで來た。それで彼らのヴイジヨンが破れ、悠々たる無限の時間が、非東洋的な現實意識で、俗惡にも不調和に破れてしまつた。支那人は馳け廻つた。鐵砲や、青龍刀や、朱の總のついた長い槍やが、重吉の周圍を取り圍んだ。
「やい。チヤンチヤン坊主奴!」
重吉は夢中で怒鳴つた、そして門の閂(かんぬき)に雙手をかけ、總身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚聲をあげて突撃して來る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を兩手に握つて、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身體に當り、頭や腕をヘシ折るのだつた。
「それ、あなた。すこし、亂暴あるネ。」
と叫びながら、可憫そうな支那兵が逃げ腰になつたところで、味方の日本兵が洪水のやうに侵入して來た。
「支那ペケ、それ、逃げろ、逃げろ、よろしい。」
こうして平壤は占領され、原田重吉は金鵄勳章をもらつたのである。
下
戰爭がすんでから、重吉は故郷に歸つた。だが軍隊生活の土産として、酒と女の味を知つた彼は、田舍の味氣ない土いぢりに、もはや滿足することが出來なかつた。次第に彼は放蕩に身を持ちくづし、たうたう壯士芝居の一座に這入つた。田舍廻りの舞臺の上で、彼は玄武門の勇士を演じ、自分で原田重吉に扮裝した。見物の人々は、彼の下手カスの藝を見ないで、實物の原田重吉が、實物の自分に扮して芝居をし、日清戰爭の幕に出るのを面白がつた。だがその芝居は、重吉の經驗した戰爭ではなく、その頃錦繪に描いて賣り出して居た「原田重吉玄武門破りの圖」をそつくり演じた。その方がずつと派手で勇ましく、重吉を十倍も強い勇士に仕立てた。田舍小屋の舞臺の上で重吉は縱横無盡に暴れ廻り、ただ一人で三十人もの支那兵を斬り殺した。どこでも見物は熱狂し、割れるやうに喝采した。そして舞臺の支那兵たちに、蜜柑や南京豆の皮を投げつけた。可憫さうなチヤンチヤン坊主は、故意に道化(おど)けて見物の投げた豆を拾ひ、猿芝居のやうに食つたりした。それがまた可笑しく、一層チヤンチヤン坊主の憐れを増し、見物人を悦ばせた。だが心ある人々は、重吉のために悲しみ、眉をひそめて嘆息した。金鵄勳章功七級、玄武門の勇士ともあらう者が、壯士役者に身をもち崩して、この有樣は何事だらう。
次第に重吉は荒んで行つた。賭博をして、たうたう金鵄勳章を取りあげられた。それから人力俥夫になり、馬丁になり、しまひにルンペンにまで零落した。淺草公園の隅のベンチが、老いて零落した彼にとつての、平和な樂しい休息所だつた。或る麗らかな天氣の日に、秋の高い青空を眺めながら、遠い昔の夢を思ひ出した。その夢の記憶の中で、彼は支那人と賭博をして居た。支那人はみんな兵隊だつた。どれも辮髮を背中にたれ、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、長い煙管を口にくはえて、悲しさうな顏をしながら、地上に圓くうづくまつて居た。戰爭の氣配もないのに、大砲の音が遠くで聽え、城壁の周圍(まはり)に立てた支那の旗が、青や赤の總(ふさ)をびらびらさせて、青龍刀の列と一所に、無限に澤山連なつて居た。どこからともなく、空の日影がさして來て、宇宙が恐ろしくひつそりして居た。
長い、長い時間の間、重吉は支那兵と賭博(ばくち)をして居た。默つて、何も言はず、無言に地べたに坐りこんで……。それからまた、ずつと長い時間がたつた……。目が醒めた時、重吉はまだベンチに居た。そして朦朧とした頭腦の中で、過去の記憶を探さうとし、一生懸命に努めて見た。だが老いて既に耄碌し、その上酒精中毒にかかつた頭腦は、もはや記憶への把持を失ひ、やつれたルンペンの肩の上で、空しく漂泊(さまよ)ふばかりであつた。遠い昔に、自分は日清戰爭に行き、何かの一寸した、ほんの詰らない手柄をした――と彼は思つた。だがその手柄が何であつたか、戰場がどこであつたか、いくら考へても思ひ出せず、記憶がついそこ迄來ながら、朦朧として消えてしまふ。
「あア!」
と彼は力なく欠伸をした。そして悲しく、投げ出すやうに呟いた。
「そんな昔のことなんか、どうだつて好いや!」
それからまた眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまつた。丁度昔、彼が玄武門で戰爭したり、夢の中で賭博(ばくち)をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人(ひようとり)の支那傭兵と同じやうに、そつくりの樣子をして。