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〔やぶちゃん注:入力には昭和46(1971)年人文書院刊「定本 伊東靜雄全集」を用い、「わがひとに與ふる哀歌 昭和七――九年」以下最後までは、同全集の詩句等変更記載に従って、旧該当詩を書き変えた。「詩作の後」の一篇については、昭和28(1953)創元社刊「伊東靜雄詩集」の当該詩を採用した。〕

 

 

詩集「反響」   伊東靜雄

 

 

   これ等は何の反響やら

 

 

 

 

小さな手帖から 昭和廿一――廿二年

 

 

 

野の夜

 

五月の闇のくらい野を

わが歩みは

迷ふこともなくしづかに辿る

踏みなれた野の徑(みち)を

小さい石橋の下で

横ぎつてざわめく小川

なかばは草におほはれて

―その茂みもいまはただの闇だが

水は仄かにひかり

眞直ぐに夜(よ)のなかを流れる

歩みをとめて石を投げる

いつもするわが挨拶

だが今夜はためらふ

ながれの底に幾つもの星の數

なにを考へてあるいてゐたのか

野の空の星をわが目は見てゐなかつた

あゝ今夜水の面はにぎやかだ

螢までがもう幼くあそんでゐて

星の影にまじつて

搖れる光も

うごく星のやう

こんな景色を見入る自分を

どう解いていゝかもわからずに

しばらくそこに

五月の夜(よ)のくらい水べに踞(しやが)んでゐた

 

 

 

夕映

 

わが窓にとどく夕映は

村の十字路とそのほとりの

小さい石の祠(ほこら)の上に一際かがやく

そしてこのひとときを其處にむれる

幼い者らと

白いどくだみの花が

明るいひかりの中にある

首のとれたあの石像と殆ど同じ背丈の子らの群

けふもかれらの或る者は

地藏の足許に野の花をならべ

或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を

つついたり擦(こす)つたりして遊んでゐるのだ

めいめいの家族の目から放たれて

あそこに行はれる日日のかはいい祝祭

そしてわたしもまた

夕毎(ゆふごと)にやつと活計(くわつけい)からのがれて

この窓べに文字をつづる

ねがはくはこのわが行ひも

あゝせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ

假令それが痛みからのものであつても

また悔いと實りのない憧れからの

たつたひとりのものであつたにしても

 

 

 

 雲雀

 

二三日(にち)美しい晴天がつづいた

ひとしきり笑ひ聲やさざめきが

麥畑の方からつたはつた

誇らしい収穫の時はをはつた

いま耕地はすつかり空しくなつて

ただ切株の列にかがんで

いかにも飢ゑた體つきの少年が一人

落ち穂を拾つてうごいてゐる

 

と急に鋭く鳴きしきつて

あわただしい一つの鳥影が

切株と少年を掠める 二度 三度

あつ雲雀――少年はしばらく

その行方を見つめると

首にかけた袋をそつとあけて

中をのぞいてゐる

 

私も近づいていつて

袋の底にきつと僅かな麥とともにある

雲雀の卵を――あゝあの天上の鳥が

あはれにも最も地上の危險に近く

巣に守つてゐたものを

手のひらにのせてみたいと思ふ

そして夏から後(のち)その鳥は

どこにゐるのだらうねと

少年と一緒にいろいろ雲雀のことを

話してみたく思ふ

 

 

 

訪問者

 

トマトを盛つた盆のかげに

忘れられてゐる扇

 

その少女は十九だと答へたつけ

はじめてひとに見せるのだといふ作詩を差出すとき

さつきからの緊張にすつかりうけ應へはうはの空だつた

もつと私が若かつたら

きつとそれを少女の氣隨な不機嫌ととつたらう

或はもすこし年をとつてゐたなら

かの女の目のなかで懼れと好奇心が爭つて

強ひて冷淡に微笑しようと骨折るのを

耄碌した老詩人にむける憐れみの目色(めいろ)と邪推したらう

 

いま私は疊にうづくまり

客がおいていつたノート・ブックをあける

鉛筆書きの澤山の詩

愛の空想の詩をそこによむ

やつと目覺めたばかりの愛が

まだ聢(しか)とした目あてを見つける以前に

はやはげしい喪失の身悶えから神を呼んでゐる

そして自分で課した絶望で懸命に拒絶し防禦してゐる

あゝ純潔な何か

 

出されたまゝ觸れられなかつたお茶に

もう小さい蛾が浮んでゐる

生涯を詩に捧げたいと

少女は言つたつけ

この世での仕事の意味もまだ知らずに

 

 

 

詩作の後

 

最後の筆を投げ出すと

そのまゝ書きものの上に

體(からだ)をふせる

動悸が山を下つて平地に踏み入る人の

足どりのやうに

平調を取り戻さうとして

却つて不安にうちつづける

窓を開け放つた明るい室内に

いつの間にか電燈が來てゐる

目はまだ何ものかを

見究めようとする強さの名殘にかがやきながら

意味もなくその明りを見てゐるうちに

瞳は内なる調和に促されて

いつか虚ろになつて

頭腦を孤獨な陶醉が襲つてくる

庭一杯に茂り合つた

いろんな植物の黑ずんだ葉の重(かさな)りや

花の色彩(いろどり)が

緻密畫のやうに鮮やかに

小さく遠のいてうつる

やがて夜の昆蟲のむれが

この窓をめがけて

にぎやかに飛び込んで來るだらう

瞼がしづかに垂れる

向うの灌漑池では

あのすこやかに枯れきつたいつもの老農夫が

今日も水浴をしてゐる頃だらうか

濃いい樹影が水に浸るやうに

睡りにふかく沈んでゆく

 

やぶちゃん注:十二行目が底本全集では「意味もなくそれを見てゐるうちに」であるが、同全集はこの「それを」の編註で、「『伊東靜雄詩集』(創元社版)では、著者の依頼により、「それを」を「その明かりを」に訂正している」と記している。この文言の「訂正」という語を重く見て、昭和二十八(一九五三)創元社刊「伊東靜雄詩集」の当該詩を採用した。

 

 

 

中心に燃える

 

中心に燃える一本の蝋燭の火照に

めぐりつづける廻燈籠

蒼い光とほのあかい影とのみだれが

眺め入る眸 衣(ころも) くらい緑に

ちらばる囘歸の輪を描く

そして自(みづか)ら燃えることのほかには不思議な無關心さで

闇とひとの夢幻をはなれて

蝋燭はひとり燃える

 

 

 

夏の終り

 

夜來の颱風にひとりはぐれた白い雲が

氣のとほくなるほど澄みに澄んだ

かぐはしい大氣の空をながれてゆく

太陽の燃えかがやく野の景觀に

それがおほきく落す靜かな翳(かげ)は

……さよなら……さやうなら……

……さよなら……さやうなら……

いちいちさう頷く眼差のやうに

一筋ひかる街道をよこぎり

あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り

ちひさく動く行人をおひ越して

しづかにしづかに村落の屋根屋根や

樹上にかげり

……さよなら……さやうなら……

……さよなら……さやうなら……

ずつとこの會釋をつづけながら

やがて優しくわが視野から遠ざかる

 

 

 

   歸路

 

わが歩みにつれてゆれながら

懷中電燈の黄色いちひさな光の輪が

荒れた街道の石ころのうへをにぶくてらす

よるの家路のしんみりした伴侶よと私は思ふ

夜(よる)ぢゆう風が目覺めて動いてゐる野を

かうしてお前にみちびかれるとき

いつかあはれなわが視力は

やさしくお前の輪の内に囚はれて

もどかしい周圍の闇につぶやくのだ

――この手の中のともしびは

  あゝ僕らの「詩」にそつくりだ

  自問にたいして自答して……それつきりの……

光の輪のなかにうかぶ轍は

晝まより一層かげ深くきざまれてあり

妖精めくあざやかな緑いろして

草むらの色はわが通行をささやきあつた

 

 

 

路上

 

牧者を失つた家畜の大群のやう

無數の頭を振り無數のもつれる足して

路上にあふれる人の流れは

うづまき亂れ散り

ありとある乘りものにとりついて

いまわが家へいそぐ

わが家へ?

いな! いな! うつろな夜の昏睡へ

ただ陽の最後の目送が

彼らの肩にすべり

氣附かれずバラックの壁板や

瓦礫のかどに照る

そして向うに大川と堂島川がゆつたりと流れる

私もゆつくり歩いて行かうと思ふ

そして何ものかに祈らずにはをられない

――われに不眠の夜(よ)をあらしめよ

――光る繭の陶醉を惠めよ

 

 

 

都會の慰め

 

商人らは映畫を見ない  夕方彼らは

たべ物と適量の酒と冷たいものをもとめる

事務所で一日の勤めををへたわかい女が

まだ暮れるには間のある街路をあゆむ

青葉した並木や燒跡ののびた雜草の緑に

少しづつ疲れを囘復しながら

そしてちらとわが家の夜(よる)の茶の間を思ひ浮べる

そこに歸つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が

あるやうな氣がする

それが何なのか自分にもわからぬが

どこかに坐つてよく考へねばならぬ氣がする

大都會でひとは何處でしづかに坐つたらいゝのか

ひとり考へるための椅子はどこにあるのか

誰にも邪魔されずに暗い映畫館の椅子

じつと畫面に見入つてゐる女學生や受驗生たち

お喋りやふざけ合ひから――お互の何といふことはない親和力から

やつとめいめいにひとりにされて

いぢらしい横顏 後姿

からだを資本(もとで)の女達もまたはいつてくる

岸の崩れた掘割沿ひの映畫館  かれらはそこで

暮れ切るまでの時を消す

暗いなかでもすぐに仲間をみつけて

何かを分け合つては絶えず口に入れる

かれらは畫面にひき入れられない  畫面の方が

友人のやうにかれらの方に近よつて來る

そしてかれらは平氣で聲をあげてわらふ

事務所づとめのわかい女は

かすかな頭痛といつしよに映畫館を出て來る

もう何も考へることはなくなつてゐる

また別になんにも考へもしなかつたのだ

街には灯がついてゐて

彼女はただぼんやりと氣だるく滿足した心持で

ジープのつづけさまに走りすぎるのをしばらく待つてから

車道を横ぎる

 

 

 

 

     わがひとに與ふる哀歌 昭和七――九年

 

 

 

 四月の風

 

私は窓のところに坐つて

外(そと)に四月の風の吹いてゐるのを見る

私は思ひ出す いろんな地方の町々で

私が識(し)つた多くの孤兒の中學生のことを

眞實彼らは孤兒ではないのだつたが

孤兒! と自身にわざと信じこんで

この上なく自由にされた氣になつて

おもひ切り巫山戲(ふざ)け 惡徳をし

ひねくれた誹謗と歡び!

また急に悲しくなり

おもひつきの善行でうつとりした

四月の風は吹いてゐる ちやうどそれ等の

昔の中學生の調子で

それは大きな惠みで氣づかずに

自分の途中に安心し

到る處の道の上で惡戲をしてゐる

帶ほどな輝く瀬になつて

逆に 後(うしろ)に殘して來た冬の方に

一散に走る部分は

老いすぎた私をからかふ

曾て私を締めつけた

多くの家族の絆(きづな)はどこに行つたか

又ある部分は

見せかけだと私にはひがまれる

甘いサ行(ぎやう)の音で

そんなに誘ひをかけ

あるものには未だ若かすぎる

私をこんなに意地張らすがよい

それで も一つの絆を

そのうち私に探し出させて呉れるのならば

 

 

 

  曠野の歌

 

わが死せむ美しき日のために

連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を

消さずあれ

息ぐるしい稀薄のこれの曠野に

ひと知れぬ泉をすぎ

非時(ときじく)の木の實熟(う)るる

隱れたる場所を過ぎ

われの播種(ま)く花のしるし

近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を

この道標(しめ)はいざなひ還さむ

あゝかくてわが永久(とは)の歸郷を

高貴なる汝(な)が白き光見送り

木の實照り 泉はわらひ……

わが痛き夢よこの時ぞ遂に

休らはむもの!

 

 

 

  私は強ひられる

 

私は強ひられる この目が見る野や

雲や林間に

昔の私の戀人を歩ますることを

そして死んだ父よ 空中の何處で

噴き上げられる泉の水は

區別された一滴になるのか

私と一緒に眺めよ

孤高な思索を私に傳へた人!

草食動物がするかの樂しさうな食事を

 

 

 

 

 歸郷者

 

自然は限りなく美しく永久に住民は

貧窮してゐた

幾度もいくども烈しくくり返し

岩礁にぶつつかつた後(のち)に

波がちり散りに泡沫(あわ)になつてひきながら

各自ぶつぶつと呟くのを

私は海岸で眺めたことがある

絶えず此處で私が見た歸郷者たちは

正にその通りであつた

その不思議に一樣な獨言は私に同感的でなく

非常に常識的にきこえた

(まつたく! いまは故郷に美しいものはない)

どうして(いまは)だらう!

美しい故郷は

それが彼らの實に空しい宿題であることを

無數な古來の詩の讚美が證明する

曾てこの自然の中で

それと同じく美しく住民が生きたと

私は信じ得ない

ただ多くの不平と辛苦ののちに

晏如として彼らの皆が

あそこで一基の墓となつてゐるのが

私を慰めいくらか幸福にしたのである

 

 

 

 同反歌

 

田舍を逃げた私が 都會よ

どうしてお前に敢て安んじよう

 

詩作を覺えた私が 行爲よ

どうしてお前に憧れないことがあらう

 

 

 

 眞晝の休息

 

木柵の蔭に眠れる

牧人は深き休息(やすらひ)……

太陽の追ふにまかせて

けものらかの遠き泉に就きぬ

われもまたかくて坐れり

二番花乏しく咲ける窓邊に

 

土の呼吸(いき)に徐々に後れつ

牧人はねむり覺まし

太陽とけものに出會ふ

約束の道へ去りぬ……

二番花乏しく咲ける窓邊に

われはなほかくて坐れり

 

 

 

 冷たい場所で

 

私が愛し

そのため私につらいひとに

太陽が幸福にする

未知の野の彼方を信ぜしめよ

そして

眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ

昔のひとの堪へ難く

望郷の歌であゆみすぎた

荒々しい冷たいこの岩石の

場所にこそ

 

 

 

 海水浴

 

この夏は殊に暑い 町中が海岸に集つてゐる

町立の無料脱衣所のへんはいつも一ぱいだ

そして惡戲ずきな青年團員が

掏摸を釣つて海岸をほつつきまはる

 

町にはしかし海水浴をしない部類がある

その連中の間には私をゆるすまいとする

成心のある噂がおこなはれる

(有力な詩人はみなこの町を見捨てた)と

 

 

 

 わがひとに與ふる哀歌

 

太陽は美しく輝き

或は 太陽の美しく輝くことを希ひ

手をかたくくみあはせ

しづかに私たちは歩いて行つた

かく誘ふものの何であらうとも

私たちの内(うち)の

誘はるる清らかさを私は信ずる

無縁のひとはたとへ

鳥々は恆に變らず鳴き

草木の囁きは時をわかたずとするとも

いま私たちは聽く

私たちの意志の姿勢で

それらの無邊な廣大の讚歌を

あゝ わがひと

輝くこの日光の中に忍びこんでゐる

音なき空虚を

歴然と見わくる目の發明の

何にならう

如かない 人氣ない山に上(のぼ)り

切に希はれた太陽をして

殆ど死した湖の一面に遍照さするのに

 

 

 

 即興

 

 

……眞實いふと 私は詩句など要らぬのです

また書くこともないのです

不思議に海は躊躇(たゆた)うて

 

新月は空にゐます

 

日々は靜かに流れ去り 靜かすぎます

後悔も憧憬もいまは私におかまひなしに

奇妙に明(あか)い野のへんに

獨り歩きをしてゐるのです

 

 

 

 詠唱

 

秋のほの明(あか)い一隅に私はすぎなく

なつた

充溢であつた日のやうに

私の中に 私の憩ひに

鮮(あたら)しい陰影になつて

朝顏は咲くことは出來なく

なつた

 

 

 

 

 秧鷄は飛ばずに全路を歩いて來る

             (チェーホフ)

 

秧鷄(くひな)のゆく道の上に

匂ひのいい朝風は要らない

レース雲もいらない

 

霧がためらつてゐるので

廚房(くりや)のやうに温(ぬ)くいことが知れた

栗の矮林を宿にした夜は

反(そり)落葉にたまつた美しい露を

秧鷄はね酒にして呑んでしまふ

 

波のとほい 白つぽい湖邊で

そこがいかにもアツト・ホームな雁(がん)と

道づれになるのを秧鷄は好かない

強ひるやうに哀れげな昔語りは

ちぐはぐな合槌できくのは骨折れるので

 

まもなく秧鷄は僕の庭にくるだらう

そして この傳説作者を殘して

來るときのやうに去るだらう

 

 

 

 有明海の思ひ出

 

馬車は遠く光のなかを驅け去り

私はひとり岸邊に殘る

既に海波は天の彼方に

最後の一滴までたぎり墜ち了り

沈默な合唱をかし處(こ)にしてゐる

月光の窓の戀人

叢(くさむら)にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は

無限な泥海の輝き返るなかを

縫ひながら

私の岸に辿りつくよすがはない

それらの氣配にならぬ歌の

うち顫ひちらちらとする

緑の島のあたりに

遙かにわたしは目を放つ

夢みつつ誘(いざな)はれつつ

如何にしばしば少年等は

各自の小さい滑板(すべりいた)にのり

彼(か)の島を目指して滑り行つただらう

あゝ わが祖父の物語!

泥海ふかく溺れた兒らは

透明に 透明に

無數なしやつぱに化身をしたと

 

自註 有明海沿の少年らは、小さい板にのり、八月の限りない干潟を蹴つて遠く滑る。

しやつぱは、泥海の底に孔をうがち棲む透明な一種の蝦。

 

やぶちゃん注:最終行の「しやつぱ」には傍点「丶」。ここでは斜体文字とした。

 

 

 

 かの微笑のひとを呼ばむ

 

………………………………………

………………………………………

われ烈しき森に切に憔(つか)れて

日の了る明るき斷崖のうへに出でぬ

靜寂はそのよき時を念じ

海原に絶ゆるなき波濤の花を咲かせたり

あゝ默想の後の歌はあらじ

われこの魍魅の白き穗波蹈み

夕月におほ海の面(おもて)渉ると

かの味氣なき微笑のひとを呼ばむ

 

 

 

 病院の患者の歌

 

あの大へん見はらしのきいた 山腹にある

友人の離室(はなれ)などで

自分の肺病を癒さうとしたのは私の不明だつた

 

友人といふものは あれは 私の生きてゐる亡父だ

あそこには計畫だけがあつて

訓練が缺けてゐた

 

今度の 私のは入つた町なかの病院に

來て見給へ

深遠な書物の樣なあそこでのやうに

景色を自分で截り取る苦勞が

だいいち 私にはまぬかれる

 

そして きまつた散歩時間がある

狹い中庭に コースが一目でわかる樣

稻妻やいろいろな平假名やの形になつてゐる

思ひがけず接近する彎曲路で

他の患者と微笑を交はすのは遜(へりくだ)つた樂しみだ

 

その散歩時間の始めと終りを

病院は患者に知らせる仕掛として――振鈴などの代りに

俳優のやうにうまくしつけた犬を鳴かせる

そして私達は小氣味よく知つてゐる

(僕らはあの犬のために散歩に出てやる)と

 

あんなに執念く私の睡眠の邪魔をした

時計はこの病院にはないのかつて?

あるよ あるにはあるが使用法がまるで違ふ

 

私は獨木舟にのり獵銃をさげて

その十二個のどの島にでも

隨時ずゐ意に上陸出來るやうになつてゐる

 

 

 

 寧ろその日が私のけふの日を歌ふ

 

耀かしかつた短い日のことを

ひとびとは歌ふ

ひとびとの思ひ出の中で

それらの日は狡(ずる)く

いい時と場所とをえらんだのだ

ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろがり

ひとの目を囚(とら)へるいづれもの沼は

それでちつぽけですんだのだ

私はうたはない

短かかつた耀かしい日のことを

寧ろその日が私のけふの日を歌ふ

 

 

 

 河邊の歌

 

私は河邊に横はる

(ふたたび私は歸つて來た)

曾ていくどもしたこのポーズを

肩にさやる雜草よ

昔馴染の 意味深長な

と嗤ふなら

多分お前はま違つてゐる

永い不在の歳月の後に

私は再び歸つて來た

ちよつとも傷けられも

また豐富にもされないで

 

悔恨にずつと遠く

ザハザハと河は流れる

私に殘つた時間の本性!

孤獨の正確さ

その精密な計算で

熾(さかん)な陽の中に

はやも自身をほろぼし始める

野朝顏の一輪を

私はみつける

 

かうして此處にね轉ぶと

雲の去來の何とをかしい程だ

私の空をとり圍み

山々の相も變らぬ戲れよ

噴泉の怠惰のやうな

翼を疾つくに私も見捨てはした

けれど少年時の

飛行の夢に

私は決して見捨てられは

しなかつたのだ

 

 

 

  行つて お前のその憂愁の

深さのほどに

 

大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り

あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を

月光のなかに踏みとどろかすなり

わが去らしめしひとはさり……

四月のまつ青き麥は

はや後悔の糧(かて)に收穫(とりい)れられぬ

 

魔王死に絶えし森の邊(へ)

遙かなる合歡花(がふくわんくわ)を咲かす庭に

群るる童子らはうち囃して

わがひとのかなしき聲をまねぶ……

(行つて お前のその憂愁の深さのほどに

明るくかしこを彩れ)と

 

 

 

 

     凝視と陶醉 昭和十――十四年

 

 いかなれば

 

いかなれば今年の盛夏のかがやきのうちにありて、

なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみ鮮やかなる。

 

夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、

いかなればかくもきみが歌はひびかする。

 

いかなれば葉廣き夏の蔓草のはなを愛して曾てそをきみの蒔かざる。

曾て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。

 

 

 

 

 夢からさめて

 

この夜更(よふけ)に、わたしの眠をさましたものは何の氣配か。

硝子窓の向ふに、あゝ今夜も耳原(みゝはら)御陵の丘の斜面で

火が燃えてゐる。そして それを見てゐるわたしの胸が

何故(なぜ)とも知らずひどく動悸うつのを感ずる。何故(なぜ)とも知らず?

さうだ、わたしは今夢をみてゐたのだ、故里の吾古家(ふるや)のことを。

ひと住まぬ大き家の戸をあけ放ち、前栽に面した座敷に坐り

獨りでわたしは酒をのんでゐたのだ。夕陽は深く廂に射込んで、

それは現(うつゝ)の日でみたどの夕影よりも美しかつた、何の表情もないその冷たさ、透明さ。

そして庭には白い木の花が、夕陽(ゆふひ)の中に咲いてゐた

わが幼時の思ひ出の取縋る術(すべ)もないほどに端然と……。

あゝこのわたしの夢を覺したのは、さうだ、あの怪しく獸(けもの)めく

御陵(みささぎ)の夜鳥の叫びではなかつたのだ。それは夢の中でさへ

わたしがうたつてゐた一つの歌の悲しみだ。

 

かしこに母は坐したまふ

紺碧の空の下(した)

春のキラめく雪溪に

枯枝(かれえ)を張りし一本(ひともと)の

木(こ)高き梢

あゝその上にぞ

わが母の坐し給ふ見ゆ

 

 

 

 夕の海

 

徐(しづ)かで確實な夕闇と、絶え間なく搖れ動く

白い波頭(なみがしら)とが、灰色の海面(うみづら)から迫つて來る。

燈臺の頂には、氣付かれず緑の光が點(とも)される。

 

それは長い時間がかゝる。目あてのない、

無益な豫感に似たその光が

闇によつて次第に輝かされてゆくまでには――。

 

が、やがて、あまりに規則正しく囘轉し、倦むことなく

明滅する燈臺の緑の光に、どんなに退屈して

海は一晩中横(よこた)はらねばならないだらう。

 

 

 

 水中花

 

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために賣る品がある。木の

うすいうすい削片を細く壓搾してつくつたものだ。そのまゝで

は何の變哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、

色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコ

ップの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都會そだちの人の

なかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれず

にゐるひともあるだらう。

 

今歳(ことし)水無月のなどかくは美しき。

軒端(ば)を見れば息吹(いぶき)のごとく

萌えいでにける釣しのぶ。

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きてあらむ。

六月の夜(よ)と晝のあはひに

萬象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。

遂(つ)ひ逢はざりし人の面影

一莖(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

すべてのものは吾にむかひて

死ねといふ、

わが水無月のなどかくはうつくしき。

 

やぶちゃん注:詞書の冒頭は「水中花(すゐちゆうくわ)と」とルビがある。スタイルを維持するために、敢えて省略した。但し、全集の編注により、「うすい/\」を「うすいうすい」に変えたため、構造上、一字増える。僕は、創元社刊「伊東靜雄詩集」を所持していないため、文字列に移動があるかどうか不明である。とりあえず素直に、一字次行送りとしたが、どなたか、ご教授願えれば幸いである。

 

 

 

 蜻蛉

 

無邪氣なる道づれなりし犬の姿

いづこに消えしと氣附ける時

われは荒野(あれの)のほとりに立てり。

 

其の野のうへに

時明(ときあかり)してさ迷ひあるき

日の光の求むるは何の花ぞ。

 

この問ひに誰か答へむ。弓弦(ゆづる)斷たれし空よ見よ。

陽差のなかに立ち來つつ

振舞ひ著(しる)し蜻蛉(あきつ)のむれ。

 

今ははや悲しきほどに典雅なる

荒野(あれの)をわれは横ぎりぬ。

 

 

 

 

 燕

 

門(かど)の外(と)の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽

燕ぞ鳴く

單調にして するどく 翳なく

あゝ いまこの國に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く

汝 遠くモルッカの ニュウギニヤの なほ遙かなる

彼方の空より 來りしもの

翼(つばさ)さだまらず 小足ふるひ

汝がしき鳴くを 仰ぎきけば

あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と

羽(はね)うちたたきし 繁き海波を 物語らず

わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて

そはただ 單調に するどく 翳なく

あゝ いまこの國に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く

 

 

 

 朝顏

 

去年の夏、その頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて來な

いわが家の庭に、一莖の朝顏が生ひ出でたが、その花は、夕の

來るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。そ

の時の歌、

 

そこと知られぬ吹上の

終夜(しゆうや)せはしき聲ありて

この明け方に見出でしは

つひに覺めゐしわが夢の

朝顏の花咲けるさま

 

さあれみ空に眞晝過ぎ

人の耳には消えにしを

かのふきあげの魅惑(まどはし)に

わが時逝きて朝顏の

なほ頼みゐる花のゆめ

 

やぶちゃん注:詞書「去年の夏、その頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて來ないわが家(や)の庭に、一莖(ひとくき)の朝顏が生ひ出でたが、その花は、夕の來るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。その時の歌、」の二箇所にルビがある。スタイルを維持するために、敢えて省略した。

 

 

 

 自然に、充分自然に

 

草むらに子供は(もが)く小鳥を見つけた。

子供はのがしはしなかつた。

けれども何か瀕死に傷いた小鳥の方でも

はげしくその手の指に噛みついた。

 

子供はハツトその愛撫を裏切られて

小鳥を力まかせに投げつけた。

小鳥は奇妙につよく空(くう)を蹴り

飜り 自然にかたへの枝をえらんだ。

 

自然に? 左樣 充分自然に!

――やがて子供は見たのであつた、

礫(こいし)のやうにそれが地上に落ちるのを。

そこに小鳥はらくらくと仰けにね轉んだ。

 

 

 

 夜の葦

 

いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう

それを 誰れが どこで 見てゐたのだらう

 

とほい濕地のはうから 闇のなかをとほつて 葦の葉ずれの音が

きこえてくる

そして いまわたしが仰見るのは搖れさだまつた星の宿りだ

 

最初の星がかがやき出す刹那を 見守つてゐたひとは

いつのまにか地を覆うた 六月の夜の闇の餘りの深さに驚いて

あたりを透かし 見まはしたことだらう

 

そして あの眞暗な濕地の葦は その時 きつとその人の耳へと

とほく鳴りはじめたのだ

 

 

 

 燈臺の光を見つつ

 

くらい海の上に 燈臺の緑のひかりの

何といふやさしさ

明滅しつつ 廻轉しつつ

おれの夜(よ)を

ひと夜 彷徨(さまよ)ふ

 

さうしておまへは

おれの夜に

いろんな いろんな 意味をあたへる

嘆きや ねがひや の

いひ知れぬ――

 

あゝ嘆きや ねがひや 何といふやさしさ

なにもないのに

おれの夜を

ひと夜

燈臺の緑のひかりが 彷徨(さまよ)ふ

 

 

 

 野分に寄す

 

 

野分の夜半(よは)こそ愉(たの)しけれ。そは懷しく寂しきゆふぐれの

つかれごころに早く寢入りしひとの眠を、

空しく明くるみづ色の朝(あした)につづかせぬため

木々の歡聲とすべての窓の性急なる叩(のつく)もてよび覺ます。

 

眞に獨りなるひとは自然の大いなる聯關のうちに

恆に覺めゐむ事を希(ねが)ふ。窓を透し眸は大海(おほうみ)の彼方を得望まねど、

わが屋(や)を搖するこの疾風(はやて)ぞ雲ふき散りし星空の下(もと)、

まつ暗き海の面(おもて)に怒れる浪を上げて來し。

 

柳は狂ひし女のごとく逆(さかし)まにわが毛髮を振りみだし、

摘まざるままに腐りたる葡萄の實はわが眠(ねむり)目覺むるまへに

ことごとく地に叩きつけられけむ。

篠懸(すゞかけ)の葉は翼(つばさ)撃(う)たれし鳥に似て次々に黒く縺れて浚はれゆく。

 

いま如何(いか)ならんかの暗き庭隅の菊や薔薇(さうび)や。されどわれ

汝(なんぢ)らを憐まんとはせじ。

物皆の凋落の季節(とき)をえらびて咲き出でし

あはれ汝(なんぢ)らが矜(ほこり)高かる心には暴風(あらし)もなどか今さらに悲しからむ。

 

こころ賑はしきかな。ふとうち見たる室内の

燈(ともしび)にひかる鏡の面(おもて)にいきいきとわが雙(さう)の眼(まなこ)燃ゆ。

野分よさらば驅けゆけ。目とむれば草(くさ)紅葉(もみぢ)すとひとは言へど、

野はいま一色(ひといろ)に物悲しくも蒼褪(あをざ)めし彼方ぞ。

 

 

 

 若死

 

大川(おほかは)の面(おもて)にするどい皺がよつてゐる。

昨夜(さくや)の氷は解けはじめた。

 

アロイヂオといふ名と終油(しゆうゆ)とを授かつて、

かれは天國へ行つたのださうだ。

 

大川は張つてゐた氷が解けはじめた。

鐵橋のうへを汽車が通る。

さつきの郵便でかれの形見がとゞいた、

寢轉んでおれは舞踏といふことを考へてゐた時。

 

しん底(そこ)冷え切つた朱色(しゆいろ)の小匣(こばこ)の、

眞珠の花の螺鈿(らでん)。

  若死をするほどの者は、

自分のことだけしか考へないのだ。

 

おれはこの小匣(こばこ)を何處(どこ)に藏(しま)つたものか。

氣疎(けうと)いアロイヂオになつてしまつて……。

鐵橋の方を見てゐると、

のろのろとまた汽車がやつて來た。

 

やぶちゃん注:「アロイヂオ」とは、教え子であった、このN君のクリスチャン・ネーム。

 

 

 

  沫雪

 

冬は過ぎぬ 冬は過ぎぬ。匂ひやかなる沫雪(あわゆき)の

今朝わが庭にふりつみぬ。籬(まがき) 枯生(かれふ)はた菜園のうへに

そは早き春の花よりもあたたかし。

 

さなり やがてまた野いばらは野に咲き滿たむ。

さまざまなる木草(きぐさ)の花は咲きつがむ ああ その

まつたきひかりの日にわが往きてうたはむは何處(いづこ)の野べ。

 

…… いな いな …… 耳傾けよ。

はや庭をめぐりて競(きそ)ひおつる樹々のしづくの

雪解けのせはしき歌はいま汝(なれ)をぞうたふ。

 

 

 

 笑む稚兒よ

 

笑(ゑ)む稚兒(ちご)よわが膝に縋れ

水脈(みを)をつたつて潮(うしほ)は奔(はし)り去れ

わたしがねがふのは日の出ではない

自若として鷄鳴をきく心だ

わたしは岩の間を逍遙(さまよ)ひ

彼らが千の日の白晝を招くのを見た

また夕べ獸(けもの)は水の畔(ほとり)に忍ぶだらう

道は遙かに村から村へ通じ

平然とわたしはその上を往(ゆ)く

 

 

 

  孔雀の悲しみ 動物園にて

 

蝶はわが睡眠の周圍を舞ふ

くるはしく旋囘の輪はちぢまり音もなく

はや清涼劑をわれはねがはず

深く約せしこと有れば

かくて衣光りわれは睡りつつ歩む

散らばれる反射をくぐり……

玻璃なる空はみづから堪へずして

聽け! われを呼ぶ

 

 

 

 夏の嘆き

 

 

われは叢(くさむら)に投げぬ、熱き身とたゆき手足を。

されど草いきれは

わが體温よりも自足し、

わが脈搏は小川の歌を亂しぬ。

 

夕暮よさあれ中つ空に

はや風のすずしき流れをなしてありしかば、

鵲(かささぎ)の飛翔の道は

ゆるやかにその方角をさだめられたり。

 

あゝ今朝わが師は

かの山上に葡萄を食しつつのたまひしか、

われ縱令(たとへ)王者にえらばるるとも

格別不思議に思はざるべし、と。

 

 

 

 

 早春

 

風がそこいらを往つたり來たりする。

すると古い、褐色の、ささくれた孟宗の葉は、

一頻に騷(ざわ)めかうと氣負うてみるが、

ひつそり後はつづかない。

 

犬は毛並に光澤があり、何も覓(もと)めてゐない癖に、

草の根かたなど必ず鼻先をもつてゆく。

が忽ちその氣紛れが、馬鹿らしく、

あちらの方へ行つて仕舞ふ。

 

梨? 桃? 藪の空地(あきち)に、それは何の花か、知らない。

早過ぎた憐れな白い花を見て、

ひとはふつと自分のすごして來た歳月に、

在る氣懸りな思ひが、してくる。

 

空は一面うそ寒く、陰(かげ)つてゐるのだが、

誰も太陽の在處(ありか)を氣にしない。

ただ、樹々に隱された小道のうへの、水溜りが、

不思議な空氣の明るさの鏡。

 

 

 

金星

 

河原にちらばる しろい稜石(かどいし)をながめる人の 目のやうに

陽のすべりおちた 夕べの空はいつまでも明るく わたしを眺め入る

 

そのあかるさの河床(かはどこ)に 大川のあさい水は 無心に蜘蛛手にながれ

樹々はとり圍む垣に似てつらなり とほく退いて 自(みづか)ら暗くなつた

 

ひとり金星が 樹々の影繪のはるかうへに

ゆらゆらと光ゆれながら わたしを時間のうちへと目覺めさす

 

 

 

  そんなに凝視めるな

 

そんなに凝視(みつ)めるな わかい友

自然が與へる暗示は

いかにそれが光耀にみちてゐようとも

凝視(みつ)めるふかい瞳にはつひに悲しみだ

鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな

夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな

手にふるる野花はそれを摘み

花とみづからをささへつつ歩みを運べ

問ひはそのままに答へであり

堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ

風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友

そんなに永く凝視(みつ)めるな

われ等は自然の多樣と變化のうちにこそ育ち

あゝ 歡びと意志も亦そこにあると知れ

 

 

 

 早春

 

野は褐色と淡い紫、

田圃の上の空氣はかすかに微温い。

何處から春の鳥は戻る?

つよい目と

單純な魂と いつわたしに來る?

 

未だ小川は唄ひ出さぬ、

が 流れはときどきチカチカ光る。

それは魚鱗!

なんだかわたしは浮ぶ氣がする、

けれど、さて何を享ける?

 

やぶちゃん注:以下のルビがあるが、スタイルを保持するため、敢えて省略した。「野は褐色と淡(あは)い紫、/田圃(たんぼ)の上の空氣はかすかに微温(ぬる)い。/何處(どこ)から春の鳥は戻る?/つよい目と/單純な魂と いつわたしに來る?/未だ小川は唄ひ出さぬ、/が 流れはときどきチカチカ光る。/それは魚鱗(ぎよりん)!/なんだかわたしは浮ぶ氣がする、/けれど、さて何を享(う)ける?」

 

 

 

     わが家はいよいよ小さし 昭和十五――十七年

 

 疾驅

 

われ見てありぬ

四月の晨(あした)

とある農家の

厩口(うまやぐち)より

曳出さるる

三歳駒を

 

馬のにほひは

咽喉(のど)をくすぐり

愛撫求むる

繁き足蹈(あしぶみ)

くうを打つ尾の

みだれ美し

 

若者は早

鞍置かぬ背に

それよ玉搖(たまゆら)

わが目の前を

脾腹光りて

つと驅去りぬ

 

遠嘶(とほいななき)の

ふた聲みこゑ

まだ伸びきらぬ

穗麥の末に

われ見送りぬ

四月の晨

 

 

 

 

  かの旅

 

杉原や檜(ひ)ばらがくれに

桃さくらはや匂ひでし

そを眺めつつ

ゆたかなる旅なりしかな

熊野路を南へゆきて

わが見たる君がふるさと

 

 

 

   形見にぞ拾ひもてきし

   玉石はみれども飽かず

   あさもよし紀の海が

   荒波にかくもみがきて

   みづぬるむ春の渚に

   おきたりし古座(こざ)の玉石

 

 

 

  なれとわれ

 

新妻にして見すべかりし

わがふるさとに

汝(なれ)を伴ひけふ來れば

十歳を經たり

いまははや 汝(な)が傍(かたは)らの

童(わらべ)さび愛(かな)しきものに

わが指さしていふ

なつかしき山と河の名

 

走り出る吾子(あこ)に後れて

夏草の道往く なれとわれ

歳月(さいげつ)は過ぎてののちに

ただ老の思に似たり

 

 

 

  春の雪

 

みささぎにふるはるの雪

枝透(す)きてあかるき木々に

つもるともえせぬけはひは

 

なく聲のけさはきこえず

まなこ閉ぢ百(もも)ゐむ鳥の

しつかなるはねにかつ消え

 

ながめゐしわれが想ひに

下草のしめりもかすか

春來むとゆきふるあした

 

 

 

  羨望

 

晝寢からゆり起されて客を見にいつたら

年少の友人が獨り坐つてゐた

みやげだと言って貝殼や海の石をとり出して

かれの語るのをきくと

或る島から昨日歸つて來たのであつた

「自炊と海水浴で

勉強は何にもできませんでした」

勉強といふのは――かれは受驗生であつた

「また 勉強してゐると

裡山で蝉(せみ)がじつにひどく鳴き立てて

――蝉は夜明から 夜ふけにも鳴くのですね――

時にはあまりの事に木刀をひつ提げて

窓からとび出して行つた程でした」

この劍道二段の受驗生は

また詩人志望者でもあつたので

わたしはすこし揶揄(からか)ひたくなつた

「蝉の聲がやかましいやうでは

所詮日本の詩人にはなれまいよ」

といふと何うとつたのか

かれはみるみる赤い羞しげな表情になつて

「でも――それが迚も耐らないものなのです」

とひとりごとのやうに言つた

そのいひ方には一種の感じがあつた

わたしは不思議なほど素直に

――それは迚も耐らないものだつたらう

しんからさう思へてきた

そして 譯のわからぬうらやましい心持で

この若い友の顏をながめた

 

 

 

  菊を想ふ 昭和17年の秋

 

垣根に採つた朝顏の種

小匣(こばこ)にそれを入れて

「藏(しま)つておいてね」といふ吾子(あこ)は

今年の夏は ひとの心が

トマトや芋のはうに

行つてゐたのであらう

方々の家のまはりや野菜畑の隅に

播きすてられたらしいまま

小さい野生の漏斗(じやうご)にかへつて

ひなびた色の朝顏ばかりを

見たやうに思ふ

十月の末 氣象特報のつづいた

ざわめく雨のころまで

それは咲いてをつた

昔の歌や俳諧の なるほどこれは秋の花

――世の態(すがた)と花のさが

自分はひとりで面白かつた

しかしいまは誇高い菊の季節

したたかにうるはしい菊を

想ふ日多く

けふも久しぶりに琴が聽きたくて

子供の母にそれをいふと

彼女はまるでとりあはず 笑つてもみせなんだ

 

 

 

  淀の河邊

 

秋は來て夏過ぎがての

つよき陽の水のひかりに遊びてし

大淀のほとりのひと日 その日わが

君と見しもの なべて忘れず

 

   こことかの ふたつの岸の

   高草に 風は立てれど

   川波の しろきもあらず

   かがよへる 雲のすがたを

   水深く ひたす流は

   ただ默(もだ)し 疾く逝きにしか

 

その日しも 水を掬びてゑむひとに

言はでやみける わが思

逝きにしは月日のみにて

大淀の河邊はなどかわれの忘れむ

 

 

 

 

  七月二日・初蝉

 

あけがた

眠からさめて

初蝉をきく

はじめ

地蟲かときいてゐたが

やはり蝉であつた

思ひかけず

六つになる女の子も

その子のははも

日さめゐて

おなじやうに

それを聞いてゐるので

あつた

軒端のそらが

ひやひやと見えた

何かかれらに

言つてやりたかつたが

だまつてゐた

 

 

 

 

  九月七日・月明

 

夜(よる)更けて醫者を待つ

吾子(あこ)の熱き額に

手をやりて

さて戸外(こぐわい)の音に

耳をかたむく

――耳傾くれば

わが家(いへ)は蟲聲の

大(おほ)き波 小(ち)さき波の

中にあり

……………

たちまちに

自轉車の鈴(りん)の音

遙かにきこゆ

つと立ちいでし

僻耳(ひがみみ)や

草原は

つゆしとどなる月ありて

すず蟲の

ただひとしきり

鈴(すず)をふる音

――わが待つものの 遲きかな

 

 

 

   なかぞらのいづこより

 

なかぞらのいづこより吹きくる風ならむ

わが家(いへ)の屋根もひかりをらむ

ひそやかに音變ふるひねもすの風の潮(うしほ)や

 

春寒むのひゆる書齋に 書(しよ)よむにあらず

物かくとにもあらず

新しき戀や得たるとふる妻の獨り異しむ

 

思ひみよ 氷れる岩の谷間をはなれたる

去年(こぞ)の朽葉は春の水ふくるる川に浮びて

いまかろき黄金(きん)のごとからむ

 

 

 

  春淺き

 

あゝ暗(くら)と まみひそめ

をさなきものの

室(しつ)に入りくる

 

いつ暮れし

机のほとり

ひぢつきてわれ幾刻(いくとき)をありけむ

 

ひとりして摘みけりと

ほこりがほ子が差しいだす

あはれ野の草の一握り

 

その花の名をいへといふなり

わが子よかの野の上は

なほひかりありしや

 

目とむれば

げに花ともいへぬ

花著(つ)けり

 

春淺き雜草の

固くいとちさき

實(み)ににたる花の數(かず)なり

 

名をいへと汝(なれ)はせがめど

いかにせむ

ちちは知らざり

 

すべなしや

わが子よ さなりこは

しろ花 黄い花とぞいふ

 

そをききて點頭(うなづ)ける

をさなきものの

あはれなるこころ足らひは

 

しろばな きいばな

こゑ高くうたになしつつ

走りさる ははのゐる廚の方(かた)へ

 

 

 

  百千の

 

百千(ひやくせん)の草葉もみぢし

野の勁(つよ)き琴は 鳴り出づ

 

哀しみの

熟れゆくさまは

酸(す)き木の實

甘くかもされて 照るに似たらん

 

われ秋の太陽に謝す

 

 

 

  わが家はいよいよ小さし

 

耳原(みみはら)の三つのみささぎつらぬる岡の邊(へ)の草

ことごとく黄とくれなゐに燃ゆれば

わが家(いへ)はいよいよ小(ち)さし そを出でてわれの

あゆむ時多し

 

うつくしき日和つきむとし

おほかたは稻穗刈られぬ

もの音絶えし岡べは

ただうごかぬ雲を仰ぐべかり

 

岡をおりつつふと足とどむとある枯れし園生

落葉まじりて幾株の小菊

知らまほし

そは秋におくれし花か さては冬越す菊か

 

やぶちゃん注:第三連一行目「園生」は「そのふ」と読む。

 

 

 

  小曲

 

天空(そら)には 雲の 影移り

しづかに めぐる 水ぐるま

   手にした 灯(ともし) いまは消し

   夜道して來た 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

 

ねむたい 野邊の のこり雪

しづかに めぐる 水ぐるま

   どんなに 黄金(きん)に 光つたろ

   灯(ともし)の想ひ 牛方と

   五頭の牛が あゆみます

 

しづかに めぐる

冬木の うれの 宿り木よ

   しとしと あゆむ 牛方と

   五頭の牛の 夜のあけに

   子供がうたふ をさな歌

 

 

 

誕生日の即興歌

 

くらい 西の屋角(やすみ)に 飜筋斗(もんどり)うつて そこいらにもつるる あの響 樹々の喚(さけ)びと 警むる 草のしつしつ よひ毎に 吹き出(づ)る風の けふいく夜 何處(いづこ)より來て あゝにぎはしや わがいのち 生くるいはひ まあ子や この父の爲 灯(ともしび)さげて 折つて來い 隣家(となり)の ひと住まぬ 籬(まがき)のうちの かの山茶花(さざんくわ)の枝 いや いや 闇のお化けや 風の胴間聲 それさへ 怖(こは)くないのなら 尤(とが)むるひとの あるものか 寧ろまあ子 こよひ わが祝ひに あの花のこころを 言はうなら「あゝかくて 誰がために 咲きつぐわれぞ」 さあ 折つておいで まあ子

 

   自註  まあ子はわが女の子の愛稱。私の誕生日は十二月十日。

この頃、海から吹上ぐる西風烈しく、丘陵の斜面に在る

わが家は動搖して、眠られぬ夜が屡々である。家の裏は、

籬で鄰家の大きな庭園につづいてゐて、もう永くひとが

住んでゐない。一坪の庭もない私は、暖い日にはよくこ

つそり侵入して、そこの荒れた草木の姿を寫生する。

 

やぶちゃん注1::「しつしつ」及び自註を含むすべての「まあ子」には、原本では「ヽ」の傍点付であるが、ここでは斜体文字とした。

やぶちゃん注2:「警むる」は「いましむる」と読む。

 

 

 

  夏の終り

 

月の出にはまだ間(ま)があるらしかつた

海上には幾重(いくへ)もくらい雲があつた

そして雲のないところどころはしろく光つてみえた

 

そこでは風と波とがはげしく揉み合つてゐた

それは風が無性に波をおひ立ててゐるとも

また波が身體(からだ)を風にぶつつけてゐるともおもへた

 

掛茶屋のお内儀(かみ)は疲れてゐるらしかつた

その顏はま向きにくらい海をながめ入つてゐたが

それは呆(ぼん)やり牀几にすわつてゐるのだつた

 

同じやうに永い間わたしも呆やりすわつてゐた

わたしは疲れてゐるわけではなかつた

海に向つてしかし心はさうあるよりほかはなかつた

そんなことは皆どうでもよいのだつた

ただある壯大なものが徐(しづ)かに傾いてゐるのであつた

そしてときどき吹きつける砂が脚に痛かつた