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鬼火へ

[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作の著述年代も、明治四四(1911)年頃、京都府立第一中学校時代の『強盗』『銅貨』『アルカロイド』『青色癈園』『新生』などという自作の回覧雑誌に発表されているもの、という編者による底本の年譜の漠然とした記載があるばかりである。その年譜の叙述から判断すると、明治四四(1911)年、槐多16歳(数え年)から20歳になる大正四(1915)年十月の「武侠世界」に「魔猿傳」を入稿するまでの間と言うことは出来るようである。なお、傍点「丶」は下線に、傍点「○」は下線斜体に代えた。]

 

廢色の少女   村山槐多

 

第 一 章

 

 上古、大和の國は、豪奢つくした國であつた。多くの邑々が有つた。其の各月には必ず、幾人かは嘗て天皇の御寵愛をかたじけなくした事の有る、宮廷的な男

女が住まつて居た。而して人民を感化した。

 されば、大和の國の民は、賢く、風雅であつた。

 美しき歌謠は、星夜の空の、限りなき寶石を限り無く列べ變へて行くが如くに、遷り變ると共に、幾らでも誰か知らの口から唱ひ出されて行つた。而して流行は激しかつた。この流行に乘じて多くの歌人が現れた。そして其の聲を研ぎ、其の精鋭を爭つた。

 此等の歌は、思ひ出づるも豐麗なる夜の歌垣の庭に唱はれた。其の時には、宮廷の貴き人も、下賤なるなりはひの者共も、うらわかき鳥の心となつて遊び嬉しがつたのである。

 其の時分の天皇の都は、南方山地近くの或邑に定められてゐた。

 美しき宮殿を別として、多くの貴族の邸宅は、其邑に建てられ、典雅なる風景と共に、時の人々をして彼の故郷高天原の空濃き美しさを、思はず連想せしむる

程、立派な姿をしてゐた。

 其の上都の音樂は、星夜、瀧と大河とを宇宙に作り、品よき戀愛のうはさ、或は、物部族の人々の、勇ましき決鬪のうはさなどに、笑ひ興ずる人々の群が、點々と見られた。

 太平は鋭き理の相を帶びて、この都より大和に傳わ[やぶちゃん注:ママ。]つた。

 或年の四月の末の事である。

 此の都から一里ばかり隔たつた小邑に歌垣が催された。

 多くの人々が其處に集まつて豐の明りをなし、歌ひ、或は戀愛をした。

 其の人月の中には、宮廷の人々も大分に交つて居たが、とりわけて、一人のうら若い芙少年があつた。

 中臣の族の、みやびなる兒であつた。名を假に穗日と云ふ。

 酒をあふり、歌に長じ、其の身は常に、温泉を透かして見るが如く其の顏は朱づくりの如く赤く、眼は光り輝いてゐた。

 そして、其のみづらの黒さは、鳥羽玉の夜の如くであつた。されば、人月は少彦名命の再來と恩つて讚嘆して飽かなかつた。

 白銀の太刀を提げ履き、青白の服を着けて、春夏秋冬、およそ歡樂の巷に其の姿を見ぬことはなかつた。

 其の夜、彼が一つの非常な感動に打たれることが持ち上がつた。宴たけなはにして、恰度彼が、舌に重き貴酒に、他の友人と共に耽つて居た時であつた。かたはらなる燈火置かれし處の一團の中より一つの唱歌が起つた。

 初め、其れに氣を留めなかつた穗日は、其の歌の連續と共に、忽ち鋭い耳を澄まし初めた。其歌は實に浮き立ちたる悦樂に苦き光の連れひきたる、實に貴い文字を以て戀を詠じたものであつた。其節廻しの立派さに穗日は忽ち猛獸の如き感動に陷つた。彼の手の酒盃は、緑色の酒と共に大地に投げられた。

「誰が唱ふのだ、彼の唄は」

と彼は叫んだ。

「あれは怪しい少女が唱ふのだ」

と彼の友達は冷笑した。

「彼の少女を知らないのか、薄暮になると山の中から出て來て、一節の唄を唱ひ、唱ひ終れば、必ず再び山に沒して、決して山以外には夜を明したことのない少女を知らぬのか」

と再び叫んだ。

 穗日は直ぐ、傍の一團中へ別け入つた。

 ああ、見よ、其處に現れた光景を。

 燈火おごそかなる側に立つた少女こそ、其唄の唱ひ主であつた。

 今や其の唄は終りに近附き、其の熱烈なる面貌は、充血以上の凄さを加へて來た。穗日は、じつと其の女を見てゐた。

「何と云ふ上品な少女なんだらう」

 彼は叫ばざるを得なかつた。彼の胸は熱して來た。涙をぼろくと流した。見よ、人も皆泣いてゐるのである。遂に唄は終つた。彼は其の悲しさに打たれた。一同は讚嘆の聲を擧げた。其の讚聲に對して、いと謙讓なる少女の樣は、人間と神との姿態をつくしてゐるのであつた。

 穗日は直ぐ、其の少女に話し掛けようとした。しかし、少女は怪しむ可し、虹の如く消えはてゝしまつた。

 その場で穗日は恐る可き戀情に囚はれ果てた。而して邊の人々に、彼の少女のことを無暗に訊き廻つた。彼が斯くて得た、彼の少女に對する智識は極めて茫漠たるものであつた。

 唯彼の少女は、薄暮となれば時として、「門の山」と人の畏れて這入らぬ山の麓に現はれて、一節の、人を恍惚たらしめる唄を唱ふかと思ふと忽ち消えてしまふと云ふ事、又歌壇の庭には必ず出て來て、其の哀しき唄を唱ひ、其唄を聞く者は必ず自分の今迄にありし悦ばしかりし事共に哀しみの趣を思ひ出でざるを得ざる事、又其の少女の一言も他人と話さざる事等に過ぎなかつた。

 

   第 二 章

 

 穗日は、其夜からまことに、うつゝなる沈思の戀慕人となつてしまつた。彼の心には彼の少女の招待状が渡された樣に感じたのである。彼は遂に、如何にしても彼の少女の正體を見附け樣と決心した。其れから毎日薄暮には、必ず「門の山」の麓へ行つて待つた。五日目の薄暮彼は薄明の情緒の中に戰慄したのである。見よ彼の少女は現れた。そしてうら哀しき眼をあげて一と節の唄を唱つた。其うら哀しさに穗日の眼は涙に霞んだ。はつと思ふと共に彼の少女は寶玉の切り口の如き餘韻と共に消えてしまつた。穗日は我を忘れて叫んだ。しかし山は唯薄明りに覆はれて神祕なる眼をじつと穗日に注いで居るのみである。

 穗日は泣いた。而して是非此の山へ入らうと決心した。そして其道なき山を登り始めた。

 かくて、夜を、迷ひ迷つて凡そ十の山を越した。すると其の第十番目の山と十一番目の山との間の谷に、きら/\した燈火が見えた。穗日は慄へ上つた。

「人知らぬ都が有る」

 其の燈火の美しさは、彼が全く今迄知らなかつた所のものである。彼は、きつとあの少女は其處に居るのだと知つた。其處で段月と燈の谷へ降りて行つた。

 燈に近附くに從つて其れは、一つの小湖水の畔にある五つの小邑である事が分かつた。

 其の邑の建築は如何にも見馴れない建築である。而して極めて美しい紅と白とにぼかした色である。燈は總ての邑に輝いて居る。而して實に靜かである。彼は先づ湖永の北邊に出た。湖水の色は薄明りを水面に保つた銀緑である。月星のみなる此の夜に怪しく薄緑を以て總ての風物を認め得るのである。

 穗日がじつと湖水に映る五つの邑々を見詰めて居ると其の湖水の上に一艘の風雅な船が浮いてゐる。而して黒い影が一つ其の上に立つて居る。其の影は恰度土偶の如くに動かぬ。彼は其時感極まつて叫んだ。すると其船は靜に答へて近附いて來た。其船の滑走のあでやかさ。

 更に彼を恍惚たらしめたのは、其船には彼の少女が乘つてゐる事であつた。

 少女の船は岸に着いた。少女はその眼の底で、じつと彼を見詰めた。

 忽ち彼は少女の全身から音樂が來る事を感じた。

「お乘りなさい」

と彼の女が言つた。

 穗日は乘つた。其れと共に船は艫橈もなくして湖上を滑り走つた。やがて五つの邑の中央の邑に着いた。穗日は彼の少女と共に岸に上つた。上つて見ると驚く可し此の美しき燈の街には唯一人として人の居ぬことであつた。少女は穗日を伴つて第一の大きな家へ這入つた。

 

第 三 章

 

 部屋は櫻色であつた。斯くて少女は此の五つの邑の激しき爭鬪及破壞の次第を物語つた。そして彼の女一人が其の遺物であると語つた。

 

第 四 章

 

 かくて其の少女と穗日とは五つの邑に遊んだ。

 或日の薄明に、突然少女は刀を以て自殺して湖に投じた。彼も共に死んだ。

 この不思議な五つの邑は次第に荒れはてた。そして遂に地の變動と共に大和の地續きとなつてしまつた。

                        (未完成)