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鬼火へ

[やぶちゃん注:昭和十(1935)年の雑誌『評論』九月号に掲載された。底本は昭和五十二(1977)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第九巻を用いた。底本、初出一覧の記載によると、本作品の前半部分を抜粋したものを、「梶井基次郎全集」の内容見本に推薦文として使用、とある。『該当全集』についての注記はない。これは萩原朔太郎自身も刊行委員に名を連ねている、前年の三月及び六月に出された六峰書房版の内容見本かとも思われる。しかし、時間的な齟齬(限定の該当全集は、本作発表より前である)があることと、叙述自身がずっと後の筑摩書房版の内容見本に使われたという解釈も成り立つ(しかしその場合、「使用」ではなく、「後に」本人の意思とは無関係に「使用された」となる。少なくとも全集の解題注記としては、杜撰の誹りを免れないと思われる)点に於いて、識者の言を待つ。]

 

本質的な文學者   萩原朔太郎

 

 日本の文學に對して、僕は常に或る滿たされない不滿を持つて居た。それは僕の觀念する「文學」が、日本の現存してゐる文學とどこか本質に於て食ひちがつて居り、別種に屬して居たからである。然るに梶井君の作品集「檸檬」を讀み、始めて僕は、日本に於ける「文學」の實在觀念を發見した。勿論「檸檬」の作品は。小説といふべきよりは、小品もしくは散文詩の範疇に屬すべきものであるか知れない。しかしながらこの精神は、すべての文學を通じて普遍さるべき、絶對根本のものであり、僕の常に觀念して居る「文學」の正觀と符節して居る。

 僕は考へる。文學の條件すべき要素は、單なる理智でもなく、觀照でもなく、またもとより、單なる感覺や趣味でもない。文學の眞の本質は、生への動物的な烈しい衝動(意志)に發足して居り、且つその意志が、對象に向つて切り込むところの、本質の比較解剖學的摘出でなければならない。即ちゲーテの言ふ如く、すべての文學者は、素質の詩人と素質の哲學者とを、性格に於て要素して居る人物でなければならぬ。そしてしかも、日本にはかうした文學者が少ないのである。

 梶井基次郎君は、日本の現文壇に於ては、稀れに見る眞の本質的文學者であつた。彼は最も烈しい衝動(パツシヨン)によつて創作するところの、眞の情熱的詩人であつて、しかもまた同時に、最も冷酷無情の目を持つたニヒリスチツクの哲學者だつた。彼は肉食獣の食慾で生活しつつ、一角獣の目をもつて世界を見て居た。彼の病んで蝕ばんだ肉體は、常にその意志の烈しい衝動によつて惱まされて居た。そしてそこに、彼の作品の恐ろしい「歪力」が感じられる。彼の見た世界は狹い。しかしながら底が深く、測量の重い錘が、岩礁にまでずつと届いて居るのである。あらゆる智慧は明徹して居る。しかしながら單純でなく、海底の藻草のやうに、章魚(たこ)の吸盤のある足のやうに、意地惡くからみながら、内臓で呼吸して居るのである。梶井君は夭折した。おそらく彼はその當然爲すべき仕事の十分の一も果さなかつたらう。にもかかはらず彼は眞の本質的な「文學」を書いたところの、眞の本質的な文學者であつた。

 

 近頃になつて、梶井君の夭折がまたつくづくと惜しまれる。梶井君がもし大成したら、晩年にはドストイエフスキイのやうな作家になつたか知れない。或はまたポオのやうな詩人的作家になつたかも知れない。どつちに行つても大變なものである。

 梶井君とは僅かの交際だが、その人物にも色々な複雜な多面性があり、ちよつと得體がわからず氣味の惡いやうな男であつた。尾崎士郎氏は、その或る小説の中で、梶井君のことを「古狸」と書いてるが、たしかに食へないやうな所があり、油斷の出來ない感じがした。一見トボケてゐるやうであつて、實は何もかも鋭く見ぬいてゐるのである。その性格にはドストイエフスキイのやうな破倫性と病理學的憂鬱性とがあり、また一面ポオのやうな詩的浪漫性と聰明さとがあつた。そして一番本質してゐる人間的素質は、宗教的にさへも近いところの純情性であつた。

 梶井君のやうな男は、友人としてはちよつとやりきれない男である。やりきれないといふのは、こつちが神經的に疲れてしまふのである。ドストイエフスキイやボードレエルは、多くの友人から鼻つまみにされたと言ふ話だが、一體藝術の天才といふ奴は、東西古今を通じて人づきあひが惡く、厄介な持てあましものである。ただ梶井君が、一人の三好達治君を親友に持つて居たことは、同君のために生涯の幸福だつた。梶井君と三好君との交際は、側で見てさへ羨ましいほど親密で、しかも涙ぐましいほどに純情だつた。僕の見たところでは、梶井君は三好君に對してのみ、一切の純情性を捧げて、娘が母に對するやうに甘つたれて居た。おそらくあの不幸な孤獨の男は、一人の三好君にのみ、魂の秘密な隠れ家を見付けたのであらう。