やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ


我鬼氏の座談のうちから   芥川龍之介氏座談

[やぶちゃん注:大正9(1920)年1月の雑誌『ホトトギス』に無署名で掲載された。これは厳密には、座談の筆記録であり(それは題名と末尾の『社末一人記』からも極めて明白であり、従って今回は「芥川龍之介氏座談」というクレジットとした)、芥川龍之介の実著作物とは言い難い。実際、読んでみると微妙に言葉の使用法や単語の用い方に芥川龍之介らしからぬものを感じる。しかし、現行の芥川龍之介全集ではすべて通常の作品群に準じて採られ続けている(新全集でも同様の扱いである)。これは確かに、彼の当時の「現代俳句」観を知る上に於いては特異的に「現在的」な貴重な文章ではあると思うが、にしても、これを談話や記録として別個に採録しない従来の全集編集方針には納得し難い。そうした違和感も含めて、本テクストは公開する。底本は岩波版旧全集を用いた。漢文に現れる繰返記号の「こ」の字を続けたようなものは「々」に代え、傍点「○」は下線に代えた。一部に注を附したが、そこでは岩波版新全集の中島礼子氏の注解を参考にさせて頂いた。]

 

我鬼氏の座談のうちから

 

□僕は新傾向の句といふものは面白いと思つてゐる。新傾向の句集を買つて來て讀む位の勇氣はある。けれども自分であゝいふものを作らうとは思はない。新傾向の句を俳句とは認めない。

□俳句は初めから季題趣味と十七字とに立脚したものなので、それを破壊すれば形式が無くなつてしまふ。鐵瓶には鐵瓶の形式があり、德利には德利の形式があり、各々其形式で區別出來るので、單に内容といふ點からだけ云へば、俳句の内容と漢詩なんかの内容との區別がつけにくゝなつて來る。だから俳句は飽くまでも十七字形式で、少なくとも求心的に是に近づかうとするものでなければならない。然るに新傾向の句は遠心的に之を離れようとするものだから、俳句として認めるわけには行かない。

□子規は早く「獺祭書屋俳話」で俳句は明治で滅亡すると云つてゐる。實際ホトヽギスだけでも年々歳々作られる夥しい俳句の數を見てゐると、恐ろしいやうな氣がする。かう澤山作つて行くうちには自から固定して來るから、それを打破しようと云ふので新傾向は生れるのだらう。

□打破するのはいゝ。それなら何故打破した近所にばかり低徊してゐるのか。うちへよく來る瀧井折柴なんかにもさう云つてゐるのだが、今日の新傾向の句は勘當された子供が放火をするのに親父の家の近所でやるやうなものだ。もつと遠く離れて行かなければ駄目だと思ふ。

□ホトヽギスでは寫生といふことが唱道されてゐるが、僕は俳句を作るには三つの態度があると思ふ。一つは物をありの儘にうつす純客観の態度で、寫生といふのは大體これに當る。――寫生といふことも子規あたりの唱へたのと、今日云はれてゐるのとには意味の變遷があらうけれども――。例を擧げれば「かたまりて黄なる花咲く夏野かな」とか、「屋根屋來てごみ掃き落す芭蕉かな」と云つたやうなものである。

[やぶちゃん注:「かたまりて黄なる花咲く夏野かな」と「屋根屋來てごみ掃き落す芭蕉かな」はどちらも正岡子規の句と思われる。前者は明治331900)年8月に発表された句と相同、後者は明治321899)年11月に雑誌『日本』に発表された「屋根葺のごみ掃落す芭蕉かな」という句と近似する。後者について、岩波版新全集注解で中島氏は芥川龍之介の誤記であろうと記す。]

□次は自然や周圍が自分に與へる印象なり感じなりを捉へて現はすもの、これは石鼎君の句に多いが、例へば「短日の梢微塵に暮れにけり」と云つたやうな句である。

[やぶちゃん注:石鼎の句は大正7(1918)年1月の『ホトトギス』の虚子選による「雑詠」欄に掲載。]

□最後は純主観句で、「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」のやうな句がそれである。三つのうちでどれがいゝかと云ふことは一概に云へないけれど、私は中の態度を採る。

[やぶちゃん注:当該句は大正6(1917)年11月の『ホトトギス』に発表された虚子の句。「夜都府樓趾に佇む。懷古。」の詞書を持つ。]

□先達寒山落木を讀んだが、子規の亡くなる前一二年の句は非常なものだと息つた。其以前の利口な句はうまいと思つて尊敬はするがどうも難有味が無い。晩年の句に至つて本當に追つけないといふ感じがする。

[やぶちゃん注:「寒山落木」は正岡子規による自作の明治181885)年~明治291896)年の作品12700句を編年体で浄書した全5巻から句集。子規の死後、大正131924)年から大正151926)年にかけて刊行された。]

□古い人の句をよんでゐたら、藤野古白の句に「傀儡師日暮れて歸る羅生門」といふ句があつて、僕の著書の名が二つも入つてゐたには驚いた。暗合つて妙なものですね。

[やぶちゃん注:「藤野古白」は俳人(明治4(1871)年~明治281895)年)。愛媛県生。正岡子規の四歳年上の従兄弟であった。明治251892)年東京専門学校に入学後、句作を始め、子規を鼓舞しつつ盛んな文芸活動に邁進したが突如ピストル自殺して果てた。]

□一茶といふ人は、あの境涯の句はえらいには違ひないが、あんなに世間で大騒ぎするほどの人とも思はれない。物に對する同情にしても、芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」と云つたやうな處までは行つてゐないと思ふ。多くは平淺な、「やれ打つな蠅が手をする足をする」といふ位なところで餘程突込んで云つても「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」位な程度である。惡くすると動物愛護會の廣告に使はれさうな句が多い。僕には蕪村の方がありがたい。

□德川時代の文學が元禄を絶頂とするだけに、俳句もやはり元禄が一番いゝやうである。前の近松、西鶴と後の馬琴、三馬とを比べてみると、どうしても馬琴、三馬の方に遜色がある。太祇や蕉村がいくらえらいと云つても、やはり芭蕉には及び得ないやうな氣がする。

□古來僞書といふものがある。史實から云つたら何にもならないが、文藝品として見たら注意すべきものだと思ふ。僕もまだ讀んでゐないが、德川時代に先代舊事本紀といふ僞書があつて、萬葉以前の歌は其時代のやうな調子で作つてゐるさうだ。かうなれば立派な文藝品で、讀んでみたら馬琴の八犬傳なんかより面白いかも知れない。之を一概に書物の敵だと云つて排斥するのは、尻の穴の狹い話だ。

□色男の變遷、例へば名古屋山三から世之助、それから丹次郎と云ふやうな變遷も研究してみたら面白いだらうと思つてゐる。同じ色男でも共時代々々によつて、全然連ふ。その變り方を研究するのである。

[やぶちゃん注:「名古屋山三」は名古屋山三郎のこと。戦国時代の武将で蒲生氏郷の小姓。一説に出雲阿国の愛人とも言われ、そこから歌舞伎の祖ともされるが史実としては疑わしい。芥川はその伝承を受けて語りだしている。「世之助」は井原西鶴の「好色一代男」の主人公、「丹次郎」は為永春水「春色梅暦」(「春色梅児誉美」とも標記)の主人公の色男。]

□幽靈の變遷なんかも面白いに違ひない。誰もやらなければ僕が遣らうと思つてゐるが、本を讀まなければならないから面倒で手を着けずにゐる。

□幽靈と云へば今昔物語にある話が二つ聊齋志異の中に入つてゐる。處が今昔物語は平安朝時代、支那で云へば晩唐あたりのものだし、聊齋志異は清朝のものだから、支那から來たものとすると時代が合はない。それでは日本から輸入されたものかと云ふと二つとも純然たる支那系の話である。まづ初め支那から日本へ渡つたものが、後に再び逆輸入されたものかとも思ふが、その間のことはよくわからない。

□虚子先生の小説はうまいものだと思ふ。先生が日本で一番うまい小説家だと云つたら反對が起るかも知れないが、そのうまい人の一人だといふことは慥かである。「俳諧師」なんかほさうも思はないが、「落葉降る下にて」或はもう少し遡つて「朝鮮」あたりから後の小説ほ、實にうまいものだと思ふ。そのうまさが文壇一般の人々は勿論、ホトヽギス派の諸君、更に先生自身にも判つてゐないかと思ふ。

□寫生文と云ふものも從來の事實や事件の寫生ばか巧りでなしに、物の寫生、例へば鷄頭の花なら鷄頭の花を畫家が寫生するやうな態度で寫生したら面白いものが出來るだらうと思ふ。たゞ事實なり事件なりをうつす側から行けば、その事實なり事件なりに主観を裏打ちした小説といふものがあるから、それに比べて見劣りがすると云ふことを免れない。

□言を換へれば場面を限つて、その間に於ける時間的變化を出來るだけ少なくして寫すことだとも云へる。假りに庭を寫生するとして、朝書き晝書き夕方書けば、三通りの違つた文章が出來るわけである。云はゞ額縁に嵌めた文章とでも云ふべきもので、これはむづかしいに違ひないし、讀者にも受けないに極つてゐるが、一つかういふやうなものを書いてみたいとも思つてゐる。 (社末一人記)