――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯
[やぶちゃん注:これは
Иван Сергеевич Тургенев(Ivan Sergeyevich Turgenev)
“Записки охотника”(Zapiski okhotnika)
イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818~1883)の「猟人日記」(1847~1851年に雑誌『同時代人』に発表後、「二人の地主」一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の掉尾を飾る
“Лес и степь”(Les i step)
の全訳である(1849年『同時代人』初出。発表順では本篇は実際には「猟人日記」シリーズの掉尾ではない。この後、同じ『同時代人』誌上で1850年に「歌うたひ」「あひびき」、1851年に「ビェージンの草原」「クラシーワヤ・メーチャのカシヤン」が発表されている)。底本は昭和31(1956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の上巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。なお、底本本文冒頭にはゴシック体の「エピローグ」という標題が附されているが、ロシア語サイトの原文や他の訳者のものを見ても、そのような該当単語は見当たらない。私は訳者中山氏が附されたものと判断し、恣意的に削除してある。私の「猟人日記」電子テクスト公開方法自体、私の好きな作品から選んでいるため、その公開順は全く出鱈目である。故に、「エピローグ」という語が更に相応しくないからでもある。末尾に私に気になった表現についてのオリジナルな注を附した。訳者である故中山省三郎先生への私のオードは「生神樣」の冒頭注を参照されたい。なお、一部判読不能・明白な誤字部分は、同テクストを用いたと思われる昭和14(1939)年岩波書店刊の岩波文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」を参照して、補正したが、その部分については一部を除いて特に断っていない。【2009年10月29日】私の電子テクストの愛読者からの御指摘を受け、数箇所の誤植を訂正した。感謝致します。【2009年11月1日】]
森と曠野
いよいよ心ひかれぬ、
かの村の暗き園生に、
菩提樹の大樹(おほぎ)の影の暗くして、
鈴蘭の花、淸らにも香(かぐ)はしく、
圓き柳、堤より水のうへに、
つらなり垂れて、
ゆたかなる槲、ゆたかなる畑に生ひ立ち、
大麻(おほあさ)や蕁麻(いらくさ)のにほへるところ、
思ひ寄す、かの村の廣き大野に
天鵞絨のごと、地は黑々と、
見わたす限り、ライ麥の静かにも
輕きうねりを寄せかへし、
圓らかに白く透きいる雲間より
重たくも黄色(わうじき)の光(かげ)の落つるところ、
かの村なれば、何もかもよき……
(火中に投ぜられたる詩篇の世より)
讀者はおそらくすでに私の手記に倦かれたことであらう。そこで取り敢へず私は今までに發表された斷片をもつて筆をとどめるといふ約束を果して、重荷をおろしていただかうと思ふ。然しながら、讀者と別れるに際して、なほ獵について數言を費やさないわけには行かないのである。
鐵砲を肩にし犬をつれて獵をするといふことは、昔よくいはれたやうに für sich それ自身すでに美しいことなのだ。が、諸君は生まれつき獵人ではないにしても、とにかく自然を愛して居る以上は、やはりわれわれ獵人仲間を羨まずに居られまいと思ふ、……先づ聞いていただきたい。
諸君は例へば春の夜明け前に出かける樂しさがどんなものか、御存じであらうか? 先づ表の階段に出る……。暗い衣色の空にはあちこちに星がちらついてゐる。しつとりとしたそよ風が時をり輕い波のやうに吹いて來る。忍びやかな、はつきりしない夜のささやきが聞こえる。蔭につつまれた樹々が微かにそよぐ。そこで馬車には毛氈をかけ、足もとにはサモワールをいれた箱が置かれる。添馬が身を震はす、鼻を鳴らす、氣取つた歩き方をする。今しがた眼をさましたばかりの白い鵞鳥が聲も立てずに、のろのろと道を横切る。籬のむかふの庭園のなかには、番人がいと安らかに鼾をかいてゐる。一つ一つの物音が凍(し)みとほる空氣のなかに停(と)まつてでもゐるかのやうだ、停(と)まつてゐて、流れないかのやうに。腰をかける。すぐに馬は動き出す。馬車は轣轆と輾り出す……。乘つて行く、――教會を過ぎ、山を下りて右の方へ、堤を越えて乘ってゆく……。池はやうやく煙りかける。いくらか冷え冷えする。毛皮の外套の襟を立てて顏をかくす。うとうと睡たくなつて來る。馬は音高く水溜りをはねかして行く。駁者が口笛を吹く。ところがもう四露里(り)ほどもやつて來てゐるのである。……空の涯(はて)が紅らんで來る。白樺の木立のなかに眼がさめて、不細工に飛び渡る鴉。雀が暗い稻叢(いなむら)のあたりで、ちちと鳴く。空氣は光り、道はいよいよはつきりと、空は澄んで、雲は白く、野は青々と。あちこちの小舍の中には木片(こつぱ)が赤い火を發して燃えかがやく。門のむかふから睡たげな人の聲が聞こえる。さうかうしてゐるうちに朝燒の色が燃えあがる。早くも金色の縞が空にひろがる。谿には霧が卷きあがる。雲雀が聲うるはしく歌つてゐる。夜明け前の風が吹き出した。それからしづかに韓紅(からくれなゐ)の太陽が浮きあがつて來る。水の流れのやうに光りが迸る。胸は小鳥のやうに羽ばたきする。何もかもが新鮮で、樂しく、なつかしく! あたりは遠くまで見渡される。あの林のむかふには村がある。それから少し離れて白い教會のある村が一つ。そこの山には白樺の木立があつて、その後ろに、これから行く沼地がある……もつと早く、馬よ、もつと早く! 大きく、跑をふんで進んで行け!……まだ三露里(り)ほどある、それより多くはない。太陽は忽ちに昇る。空は清らかである……。すばらしい天氣になるだらう。村から家畜の群れがこちらへぞろぞろとやつて來る。山に登る、……何といふ眺めであらう! 川は霧の間にぼんやりと青く、十露里(り)も、うねりうねつてゐる。川のむかふにはみづみづしい緑の草原。草原のむかふには、なだらかな丘陵がつづいて、遠い沼地のうへには、田鳧(たげり)が鳴きながら飛んでゐる。空にあふれた、うるほひのある輝きの中に遠くの方がはつきりとあらはれる、……夏のやうではないけれど。人の胸はどんなに思ひのままに息づくことか、どんなに手足が輕々と動くことか、どんなに身も心も健かになることか、春の新鮮な息吹きにいだかれて!
さてまた夏の七月の朝! 夜の明けぎはに、叢から叢とさまよひ歩くことが、どんなに樂しいものか、獵人ならで誰がまた味はひ得るものか? 足跡は露に白々とした草の上に緑の線を引いてゐる。濡れた叢を分けてゆく、――すると今まで貯へられてゐた温い夜の匂ひを浴びせかけられる。空氣は苦蓬の新鮮な苦味(にがみ)や蕎麥や甘薺(あまなづな)の蜜のやうな甘い香ひにしつとりとしてゐる。遠くには樹の森が城壁のやうに立つてゐて、日ざしをうけて輝き紅らんでゐる。まだ清涼(すず)しくはあるが、すでに暑さの近づいて來たことが感じられる。かぐはしい匂ひを一ぱいに浴びせかけられて、ぼんやりと眩暈(めまひ)がする。叢林(しげみ)は極まるところもなく……。ただ遠くところどころに熟れたライ麥が黄ばんでゐるのと、蕎麦が細い畝をなして赤らんでゐるのが見えるばかり、そこへ馬車が輾り出す。一人の百姓がこつそりと大股に歩いてゆく、暑さの來ないうちにと樹蔭に馬を引き入れる……百姓は挨拶をして行つてしまふ、――すると後ろから大鎌のチンカンといふ爽やかな音が聞こえる。太陽はいよいよ高く昇る。忽ちに草は乾く。さあ、もう暑くなつて來た。一時間、二時間と過ぎて行く……。空は地平線に近いあたりは薄暗くなつて、動かない空氣は、刺すやうな熱さに炎々と燃える。
「おい、ここいらで何處へ行ったら水がたんと飮めるんだらう?」
と、草を刈つてゐる人に訊ねる。
「そりやむかふの谿ん中に井戸がありますよ」
蔓草の這ひまはった、こんもりとした胡桃の林を通り拔けて、谿の底に下りてゆく。なるほど、斷崖の眞下に泉が隱れてゐる。槲の一むらが水の上に、鳥の趾のやうな枝を貪るやうに張つてゐる。大きな銀のやうな水の泡が細かな、天鵞絨のやうな苔におほはれた底からゆらゆらと湧きあがつて來る。地べたに身を投げて、がぶがぶと水を飮む。すると、もう動きたくなくなる。樹蔭へ入つて香りの高い露じめりを吸へば、快よくなつて來る。眼の前の叢林(しげみ)は日に燃え立つて、まるで黄いろに變つたやうだ。しかし、これは何であらう? 風がゆくりなく吹いて來て、颯と吹き過ぎる。あたりの空氣がふるへる。これは雷ではなかつたか? 谿を出てゆく……。あの地平線のうへの鉛いろの筋は何であつたか? 暑さが増して來るのか? 黑い雲が沸き立つて來るのか?……しかも今かすかに稻妻がひらめいた……。あゝ、これは雷雨だ! あたりにはまだ太陽がきらきらと、光つてゐる。まだ獵をすることはできる。けれども黑い雲はむくむくと湧いて來る。雷雲の前の縁は袖のやうに伸びて、穹窿のやうに垂れて來る。草や灌木(き)や、あらゆるものが暗くなる……。急げ! むかふの方に干草小舍が見えるやうな氣がする、……さあ急げ! 駈けつける。中に入る……。何といふ雨であらうか? 何といふ稻妻であらうか? そこここに藁屋根を洩れて、雨水が香りの高い干草のうへに降りかかる……。が、もう太陽はまた照つてゐる。雷雨は去つた。外に出る。あゝ、どんなに樂しげに、あたりの凡ゆるものが輝いてゐることか、この空氣の新鮮なこと、淡いことはどうだらう、白花蛇苺(しろはなのへびいちご)や菌の香ひは……!
しかし、間もなく夕暮がやつて來る。夕映えの光りが炎々と燃え立つて、客を半ば掩つてゐる。陽は落ちかかる。そこらの空氣は何かしら際立つて、硝子のやうに透きとほつてゐる。遠くにはやはらかな、見たところは温かさうな靄が立ちこめてゐる。ついさつきまで、淡い黄金(きん)の流れを浴びてゐた野邊には露とともに眞紅の光りが落ちる。樹から藪から高い干草の山から長い影が走る。……陽は沈む。星が一つ點(とも)つて、日沒の火の海にふるへてゐる、……今は火の海も色あせて、姿は青み、くつきりした物の影も消えて、あたりは薄闇に閉ざされる。もう、一夜の宿をとるべき村の小屋へ歸る時刻だ。銃を肩にして、くたびれたにもかかはらず、さつさと歩いてゆく……。そのうちに夜がやつて來る。二十歩さきは見えぬ。かすかに闇の中に犬たちが白く見える。むかふの黑い林のうへに空の縁がぼんやりと明かるんでゐる……。あれは何だらう? 火事かしら?……いや、あれは月の出だ。またその下の、右手の方には、村の灯がもうちらちらしてゐる……そこで、いよいよ小舍へ來る。小さな窓から眞白な卓布(クロース)をかけた食卓が見える、燃え明かる蠟燭が見える、晩餐だ……。
また時として競争馬車(ドローシキ)を仕立てさせ、松鷄(えぞやまどり)を撃ちに森へ出かける。兩側に高いライ麥が壁のやうに立つてゐる細い徑を苦勞して通るのは愉快なものだ。麥の穗が靜かに顏にあたる。矢車菊が兩足にまつはりかかる。あたりに鶉が啼いてゐる。馬はおぼつかない跑を踏んで走る。さあ、森へ來た。樹蔭と靜寂。頭の上には、すらりとした白楊が、聲高く呟いてゐる。長く垂れた白樺の枝は殆んど動かない。堂々たる樹の樹は美しい菩提樹のほとりに戰士のやうに立つてゐる。樹蔭に斑模樣を織る緑の徑を乘つて行く。黄いろい大きな蠅が黄金(きん)いろの空氣の中にじつとぶらさがつたやうにして羽を動かしてゐるかと思ふと、ふつと飛んで行つてしまふ。薊蚊(あざみうま)が樹かげに入れば光り、日向に出れば黑くなつて、雲のやうに群がりながら飛んでゐる。小鳥がのどかに歌つてゐる。鶲(ひたき)の麗しい聲は無邪氣な、おしやべりな喜びをひびかせる。その聲は鈴蘭の香りにふさはしい。更に遠く、遠く、森の奧深くわけ入る……。森はいよいよ深くなる…。心はいひ知れぬ靜けさに充たされる。あたりもまた、微睡んでゐるかのやうに、ひつそりと靜りかへつてゐる。しかし今、一陣の風が吹いて來た。樹々の梢は落ちて來る波のやうにざわめき出した。去年の枯葉の間から、あちこちに高く伸びた草が生えてゐて、菌は笠を冠つて、ちらほらと立つてゐる。不意に白い兎が跳び出す、犬がはげしく吠えながら後を追ひかける……
秋もふけて山鷸が飛んで來る時分には、かういふ森はいかばかり美しいことであらう! 山鷸は森の奧にはゐないので、森の縁(へり)に沿うて探さなければならない。風もなく、陽の目も見えず、光りもなければ影もなく、動きもなけれは、音もなく、柔らかな空氣のなかには酒の匂ひのやうな秋の匂ひが漲つてゐる。淡い霧が遠くの黄いろな野原のうへにかかつてゐる。花も葉もない鳶いろの樹枝(こえだ)の間から、變らぬ空が和やかに白んで見える。菩提樹の枝にはところどころ、名殘りの金色の葉が垂れてゐる。濕つた地面は足もとに彈ねかへるやうだ。丈の高い枯草はそよともしない。長い蜘蛛の糸が生氣のない草のうへに光つてゐる。胸は安らかに呼吸(いき)をする。けれども魂(こころ)のなかには不思議な不安が押し寄せてくる。森のへりについて行く、犬のあとを見まもる、さうしてゐるうちにも、なつかしい人の姿、なつかしい顏、今は亡き人々、今もなほ生ける人々の面影がありありと心にうかんで來る。疾うの昔に眠りについて、忘れはててゐた印象が思はぬうちに眼がさめる。想像が小鳥のやうに翼を擴げて駈けめぐる。さうして凡ゆるものが極めてはつきりと動いて、眼の前に立ちどまる。すると、胸は急にわなわなと鼓動を高めて、ひたすら前へ突き進まうとする。さうかと思ふと、永劫にかずかずの思ひ出のうちに沈んでしまふ。.今までのあらゆる生活が卷物のやうに、容易にさらさらと繰り展げられる。ありとある自身の過去、ありとある感情、力、ありとある自己の魂に人は想ひ到る。さうして周圍には何ひとつ彼を妨げるものはない、――陽もなく風もなく――物音すらも……
また秋の好く晴れて、薄ら冷たく、朝ごとに霜を見る頃ともなれば、白樺はお伽噺のなかの樹木のやうに、すつかり黄金(きん)いろにかがやいて水淺黄(みづあさぎ)の空美しく描き出される。太陽は低くかかつて、もう温い光りを投げはしないが、夏の陽よりも眩ゆく輝いてゐる。白楊の小さな林は、裸になつて立つてゐるのが樂しく氣輕ででもあるかのやうに一帶にすき通つて、きらきらと光つてゐる。凍つた冷たい水蒸氣は谷の底にまだ白々として、爽やかな風が靜かに乾反(ひぞ)つた落葉をひらひらさせては追ひまくる。河の流れには青い波が、うつかりしてゐる鵞鳥や鴨を調子よく搖り上げながら、喜ばしげに走つてゆく。遠くの方には、柳に半ば隠れた水車場が音をたてて、そのうへに明かるい空氣にまだらかに、鳩がすばやく輪を描いては飛んでゐる……
獵をする人たちは好まないけれど、夏の霧の深い日もまた、なかなか嬉しいものである。かやうな日には、銃を撃つこと出來ない。鳥が足もとから羽ばたきしながら飛び立つて、すぐに動かぬ霧の白い薄ら闇に消えてしまふからである。けれどもあたりのものが何もかも靜かなことは、口にいへないほど靜かなことはどうだらう! 何もかもが眼をさまして、しかもみな聲ひそめてゐる。樹のそばを通りかかる、――樹がさゆらぎだにもしない。樹は安佚をむさぼつてゐるのだ。空に平らにひろがつた淡い靄を透して、眼の前に長い條理(しま)が黒く見える。それ直ぐ近くの森だと思ふ。そこで待つて行つて見る。すると森は地境ひに高く積まれた苦蓬に變る。上にも、周圍にも……到るところに霧がある……。けれども、微かに風が動くと見れば、水淺黄の空の一片がうすれゆく煙のやうな靄を透して、ぼんやりと見えて來る。黄金(きん)を帶びた黄いろな日ざしがさつと射し込んで、長い川のやうに流れて、野面を照らし、林にあたる。かと思へば、また何もかも霧に蔽はれる。暫くこの鬪ひが續く。が、遂に光りが勝利を占めて、温められた霧の最後の波が滑り落ちて、卓布のやうに敷き擴げられ、或ひは、うねりうねつて奧深く、やはらかに輝く山の中へと消えてゆくとき、その日はいかばかり言語に絶して、壯麗な、晴々しい日となることであらう……
また速く離れた野原へ、曠野へ行かうと考へる。およそ十露里(り)ほどが間は、村の道を辿つて行く、――そのうちに遂に街道に出る。荷車のはてもない列を越えて、檐の下にサモワールがしゆつしゆつと音を立て、門を開け放して、井戸まで見える旅籠屋を通り過ぎて、村から村へら、涯しもない野原を横切り、緑の大麻の畑に沿つて、長いこと、長いこと馬を驅る。鵲(かささぎ)が楊から楊へ飛びうつる。手に長い草掻きを持つた農婦たちは畠の中をさまよつてゐる。すり切れた南京木綿の上衣(カフタン)を着た旅の者が頭陀袋を背負つて、疲れた足を引きずつて行く。丈の高い六頭の足の弱つた馬に曳かせて、がつしりした地主の箱馬車が眼の前にやつて來る。窓のところからクッションの端がはみ出てゐる。後ろの馬丁臺の叺(かます)のうへには、綱に凭れながら眉のところまで泥をはねあげて、外套を着た從僕が横向きに腰をかけてゐる。やがて小さな郡の町に着く、そこには歪んだ木造の小さな家や、どこまでもつづく柵があり、人のゐない石造の商館があり、深い谿にかけ渡した古風な橋がある……。更に更に、遠くへ行く……! すると曠野の地方になる。山の上から眺める、――何といふ見晴らしであらう! 上まで耕されて、種をおろされてゐる圓い低い丘は、大きな波のうねりのやうに起伏してゐる。その間を灌木の生ひ繁つた谿がうねつてゐる。小さな林が細長い島のやうに散在してゐる。村から村へ細い小徑が走つてゐる。教會堂が白く見える。柳の生ひ茂つてゐる間に小川がちらちらと光つて、四ヶ所ばかり堤に堰きとめられてゐる。速い野原の中には野雁が一列に並んでゐる。長屋や果樹園、麥打場などのある古い地主の邸が小さな池に臨んでゐる。なほ、もつともつと進んで行く。丘はいよいよ小さくなつて、樹は殆んど見られない。ここに至つて、つひに――きはまるところを知らない廣大な曠野(スチエピ)へやつて來たのだ……!
また冬の日には高い雪の堆(つか)を兎を逐つて駈けめぐる。嚴寒の刺すやうな空氣を吸ふ。やはらかな雪の眩しい細かな閃めきに、思はずも眼を細くする。紅らみを帶びた森のうへにかかる大空の緑の色に見とれる!……また早春の頃ともなれば、あたりのものは何もかも輝き、崩れて、解けた雪の重苦しい蒸氣のなかに、温められた土の匂ひがする。雪の解けたところに、斜めにさす日さしをうけて、雲雀が心置きなく歌つてゐる。また、陽氣なざわめきと咆りごゑをあげながら、雪消(ゆきげ)の奔流は谿から谿へと渦卷き落ちる……
それにしても、もう終りにすべき時が來た。序に――私は春のことまで言つてしまつた。春のわかれはいと易い、春は幸福な者も遠くに心ひかれる。さやうなら、讀者諸君、冀はくは恒に幸福ならむことを。
□やぶちゃん注
○冒頭詩篇について
本詩篇、というよりも本詩篇を含むこの作品全体が、実はツルゲーネフの「散文詩」の「田舎」に描かれている内容と極めて似ているのである。但し、「田舎」は散文形式の詩であるから、もしかすると「田舎」にはプロトタイプに相当する韻文詩が存在し、その焼却した一部をツルゲーネフは想起して、ここに引用したのかも知れない。
・「槲」は「かしわ」又は「かし」と読む。ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentata。正式和名はカシワであるが、中山氏が「かし」と読んでいる可能性はあるし、また、この詩を朗読するに際しても、私は「かし」で行きたい気がする。
・「大麻」双子葉植物綱イラクサ目アサ科アサ属Cannabis。雌雄異株で高さは2~3m(品種や環境によっては更に高く成長する)。ヒマラヤ山脈北西部山岳地帯が原産とされる。マリファナの原料として忌避され危険視されるが、熱帯から寒帯域に至る広範な地域に分布しており、本邦でも北海道等で時に自生株が見つかって処理されたという報道を聞く。
・「圓らかに」は「まどらかに」と訓じているものと思われる。「なめらかに」と訓ずることも不可能ではないが、であれば中山氏はルビを振るであろうと思われる。
・「(火中に投ぜられたる詩篇の世より)」の「世より」は意味不明。岩波版でも同じ。ここは原文では“(Из поэмы, преданной сожжению.)”とあり、“Из поэмы”は、「叙事詩の中から」の意味であるから、この「世より」は、の「一節より」または「から引用」という意味であるらしいが、「世」にそのような意味はない。何らかの誤植と考えられる。
・「für sich」ドイツ語。フューア・ジィッヒ。「対象それ自体として」「自律的に」の意。ドイツ語辞書の前置詞“für”の項には、「自分に」の意の再帰代名詞“sich”と共に、“an und für sich”(それ自体としては)と言う風に常套句として用いる、とある。
○「諸君は例へば……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「轣轆と輾り出す」の「轣轆」は「れきろく」と読み、車の車輪の軋る音を言う。「輾り出す」の「輾」は、「まろぶ・めぐる・半回転する・車輪が物をひき潰す・きしる」等の意味があるが、「めぐりだす」ではこの場の雰囲気に合わない。中山氏は「輾(きし)り出す」読ませているものと私は判断する。
・「池はやうやく煙りかける」は原文で“Пруд едва начинает дымиться.”、これを機械翻訳で英語に変換すると確かに“Pond hardly begins to smoke.”となる。この“дымиться”という単語は「煙を吐く・煙る・湯気を立てる・蒸気を上げる」の意がある。ここでは春の早朝の寒冷な大気と池の水の温度差から水面から蒸気が上がり始めることを言っている。
・「四露里(り)」「獵人日記」の他篇でも、又以下の文でもそうだが、中山氏は「露里」の熟語に一字の「り」のルビを振っている。「露里」はメートル法以前のロシアの長さの単位、 “верста”(ヴィルスター)の訳語。1верста は約1.07キロメートル。
・「跑」この字は音「ハウ(ホウ)」で、漢和辞典では「あがく。足で地を掻く。」及び「蹴る」「走る」の意がある。米川正夫氏の新潮文庫版訳でも全く同様に『大きく跑をふんで進め!』となさっている。馬術用語には「諾足(だくあし)」というのがあり、馬が前脚を高く上げてやや速く歩くこと、並足(なみあし)と駆け足との中間の速度又はその際の足なみを「だく」と言うが、実はそれには当て字でこの「跑」の字を当てるのである。従ってここでは「だく」と読んでいるのである。因みに原文は“Крупной рысью вперед!..”で、これは“Крупной”(大きく)+“рысью”(馬がだく足で走る)+вперед!(前へ! 進め!)”で、佐々木彰氏の岩波文庫版訳ではルビを効果的に用いて『伸張速歩(ラウンド・トロツト)でやってくれ!』とされている。これは意味は一目瞭然、音読も格好好い。
・「田鳧(たげり)」鳥綱チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリVanellus vanellus。水辺に棲息し、全長約31.5cm。背面は光沢のある暗緑色で腹面は白く、頸部には黒い首輪状の斑紋を持つ。頭部に発達した黒い冠状の羽が特徴で、鳴き声は「ミューミュー」と猫に似る。
○「さてまた夏の七月の朝!……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)では一行の空行が存在する。私は文脈からも、それを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「甘薺(あまなづな)」原文は“медом гречихи и «кашки»;”とあり、“медом”の“мед”は「蜂蜜」、“гречихи”は「蕎麦」である。ここで“«,»”で括られている“кашки”が、この「甘薺」であるが、これはロシア語の口語でクローバーのことを指す。英語“Clover”クローバーはマメ科シャジクソウ属の総称であるが、一般にはマメ目マメ科シャジクソウ属シロツメクサ(白詰草)Trifolium repensを指すことが多い。佐々木氏の訳では正確に括弧を附して「『ウマゴヤシ』」とする。
・「一人の百姓がこつそりと大股に歩いてゆく」の「こつそりと」は原文“шагом”で、これは「並足で」「ゆっくりと」の意味で、米川氏も佐々木氏もそう訳している。中山氏は地主階級の主人公に対する百姓の遠慮を訳に含ませたものと思われる。
○『「おい、ここいらで何處へ行ったら水がたんと飮めるんだらう?」』以下の直接話法改行について
この箇所は底本では改行がないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では二箇所とも改行されている。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない会話文改行を施した。
・「鳥の趾」米川氏は『熊の足』、佐々木氏は『獣の足』と訳しておられる。原文は“лапчатые”で、この“лапa”というのは「動物の足」、俗語で「人間の手」を意味する単語ではあるが、中山氏は確信犯的に「鳥の趾」と表記されている。「趾」は踝(くるぶし)から先の部分を言うからである。私はカシワの葉は、確かに正に鳥の「趾」に形に似ていると思う。因みに、名古屋以西では鶏肉のことを「カシワ」と呼ぶが、これは地鶏の羽色が柏の葉の紅葉の色に似ていることからである、とウィキの植物の「カシワ」にあった。
・「灌木(き)」中山氏は「灌木」の二字熟語に「き」の一字ルビを振っている。底本では「ぎ」のようにも見えるが、昭和14(1939)年岩波書店刊の岩波文庫では「き」とあり、恐らく活字のスレと思われるので、そちらに従った。
・「白花蛇苺(しろはなのへびいちご)」の原文は“земляникой”で、これは辞書ではオランダイチゴとある。但し、オランダイチゴは通常の広範なバラ目バラ科バラ亜科オランダイチゴ属 Fragariaのイチゴ類を指し、更にはもっと外延を広げてキイチゴ属 Rubus やヘビイチゴ属 Duchesnea をも含んだ総称としても機能する。従ってここでの同定は不可能だが、実はここで中山氏が訳している「しろはなのへびいちご」は種として存在し、恐らく中山氏のイメージはその種であったと私は考えている。それは、ややこしいのであるが、実はヘビイチゴ属Duchesneaではない真正のオランダイチゴ属のシロバナノヘビイチゴ Fragaria nipponica である。但し、学名でお分かりのように、この種は八ヶ岳等の本州中部の亜高山帯にのみ隔離分布する本邦産固有種で、残念ながらここでの同定としては完全な誤りである。
・「菌」は「きのこ」と読む。
○「しかし、間もなく夕暮がやつて來る。……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「黄金(きん)」中山氏は「黄金」の二字熟語に「きん」のルビを振っている。
○「また時として競争馬車(ドローシキ)を仕立てさせ、……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「競争馬車(ドローシキ)」“дрожки”は無蓋の軽四輪馬車のこと。
・「松鷄(えぞやまどり)」キジ目ライチョウ科エゾライチョウTetrastes bonasia。
・「馬はおぼつかない跑を踏んで走る」の「跑」は「だく」。前掲注「跑」を参照。
・「白楊」米川訳では『泥柳』、佐々木訳では『ヤマナラシ』と三者三様である。「しろやなぎ」ならばヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属セイヨウシロヤナギSalix alba、「どろやなぎ」ならばヤナギ科ハコヤナギ属ドロヤナギ Populus maximowiczii、「やまならし」ならばヤナギ科ヤマナラシ
Populus tremula であるが、中山氏は「しろやなぎ」と読ませずに「はくよう」と読ませているのかも知れない。一般に白楊というと本邦ではドロヤナギPopulus maximowiczii を指すらしい。しかし、果たしてそのように単純に同定してよいものとも思われない。識者の御教授を乞うものである。
・「薊蚊(あざみうま)」とはウィキ等の記載によれば昆虫綱アザミウマ目(旧称:総翅目)Thysanopteraに属する昆虫の総称である。通常は体長1㎜以下、細い桿状体型、翅も棒状で全体に微細な毛が密生する。近年は農業害虫として悪名が高いが、この和名は、体躯がスマートなところから馬を連想させることと、「馬出よ」などと言いながらアザミの花を振り、本属の中でも花粉食のアザミウマを振り出す昔の子供の遊びに由来する、とする。但し、原文では“мошки”で、これは単に小蠅や蚋等の小さな昆虫を指す複数形であるから、ここまで同定できる要素はない。中山氏は全く同じことを、ツルゲーネフの「散文詩」の「田舎」の中で行っており(「小さな薊馬(はへ)」)、ここにはもしかすると中山氏の幼少期のアザミウマへの思い入れがあるのかも知れない。
・「鶲(ひたき)」米川訳では『山鶯』、佐々木訳では『コマドリ』となっている。原文の“малиновки”はスズメ目ヒタキ科コマドリ属ヨーロッパコマドリErithacus rubecula を指す。但しこれは本邦産のコマドリErithacus akahige とは別種であるから、佐々木氏の訳がベストとは言い難い。寧ろ、ヒタキ科は実際にはツグミ亜科 Turdinae とヒタキ亜科 Muscicapinaeに分けて分類する考え方があり、そのヒタキ亜科には多数のヒタキ族Muscicapini が存在する。「ヒタキ」科という上位タクソンによる観点からは決して的外れの訳ではないとも思われる。米川氏の山の中のウグイスは、差し詰め一番いい加減である(ヤマウグイスなる種は存在しない)。
○「秋もふけて山鷸が飛んで來る時分には、」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「山鷸」は「やましぎ」と読む。チドリ目シギ科ヤマシギScolopax rusticola。
・「疾うの昔に眠りについて、忘れはててゐた印象が思はぬうちに眼がさめる。」は、日本語として、こなれていない。米川訳では、
『疾くの昔に眠り果ててゐた印象が思ひがけなく眼ざめて來て、』
佐々木訳では、
『とっくの昔に眠りについた印象が思いがけなく眼を覚ます。』
となる。私なら日本語としては(ロシア語に暗いので「翻訳」としてではない)、
『とっくの昔に眠りについたはずの印象が、思いがけず、眼を覚ます。』
としたいところである。
○「また秋の好く晴れて、……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「水淺黄」浅黄とは葱の色からきた色名で、緑色がかったやや薄い青色を言う。水浅黄とはその浅黄色のやや薄い色、黄色がかった青色を言う。
・「まだらかに」勿論、「斑模様に」という意味であるが、素晴らしい!
○「獵をする人たちは好まないけれど、……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「安佚」「あんいつ」と読む。「安逸」に同じ。気楽に過ごすこと。何もせずにただただ遊び暮らすこと。
○「また速く離れた野原へ、……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「檐」は「ひさし」と読む。
・「サモワール」“самовар”は紅茶のための湯沸し用の金属製大型ポット。以下、ウィキの「サモワール」によれば、『通常紅茶をいれるのに利用されるため、多くのサモワールは上部にティーポットを固定して保温するための機能が備わっている』。『素材は銅、黄銅、青銅、ニッケル、スズなどで、富裕層向けには貴金属製のものや非常に装飾性の高いものも作られた。胴部に水を入れられるようになっており、伝統的なサモワールは胴部の中央に縦に管が通っていて、そこに固形の燃料を入れて点火し、湯を沸かした。胴の下部には蛇口がついていて、そこから湯を注』ぐ。古くは燃料に石炭や炭を用いた。名称はロシア語の接頭語“camo-”「サミ(独力の・自動的な)」と“вapнть”「ワリーチ(煮る・茹でる・火にかけて食事を作る)」を結合したもの、とある。
・「鵲(かささぎ)」スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラスとも呼ぶ。
・「南京木綿」黄褐色を帯びた太糸で厚地に織った平織りの綿布。中国南京地方から多く産出するのでこう言った。原文“нанковом”で、事実、これは南京木綿を指す語であるようだ(辞書にないが、この綴りは南京(ナンキン)の発音のロシア語訳である。
・「上衣(カフタン)」“кафтан”は昔風の裾の長いロシア式のコート。
・「叺(かます)」藁の莚(むしろ)を二つ折りにして縁を縫いとじた袋。食物・石炭・弾薬等の貯蔵運搬に用いる。本来はガマを編んで作ったことから「蒲簀(かます)」という。
・「曠野(スチエピ)」“степь”。ステップ。大草原。
○「また冬の日には……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「咆りごゑ」の「咆」は通常は(獣などが)「ほえる」と訓ずるが、ここでは「咆(たけ)りごゑ」と読ませているものと思われる。
○「それにしても、……」の段落の前の空行について
底本ではここに行空けはないが、原文(例えばこのロシア語サイトの“Лес и степь”)及び佐々木彰氏の岩波文庫版訳では一行の空行が存在する。私はそれを正しいものとして、ここに底本にない一行空けを配した。
・「冀はくは」は「こひねがはくは(こいねがわくは)」と読みたい。勿論、「ねがはくは」と読むことも可能であるが、ここで中山氏がこの「冀」の字を用いられた意図は、「猟人日記」の最後を飾るしんみりとした、しかし改まった、そしてロシアの巨人の誠実に満ちた、心からの別れの思いを日本の読者に伝えたかったからに違いない。米川訳の「希くは」は言うの及ばず、佐々木氏の「請い願わくは」の表記でさえも、私には「冀はくは」と違って弱いと感じるものである。