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鬼火へ

繪馬堂を仰ぎて   村山槐多

[やぶちやん注:底本には、1999年青土社刊の雑誌『ユリイカ』6月号「特集 村山槐多」を用いたが、これは基本的には新字新仮名であるので、本来の原文に近いものをという私のポリシーに基づき、多くの漢字や仮名遣いを恣意的に正字正仮名遣いに直した(なお、底本には解題がなく、新字への変換についても一切不明)。本作は彌生書房版全集に未収録(底本雑誌発行の1999年6月現在)でありながら、その作品名が同全集年譜には登場しているという不思議がある(但し「絵間堂を仰ぎて」と表記。誤植であろう)。大正三年(1914・十九才)五月の下りで、この時、三月に京都府立第一中学校を卒業後、画家としての出発を決意して東京へと槐多は向かった。以下、該当部分を引用する(元は「五月」が太字、槐多の葉書の引用部は全文が一字下げとなっている。また葉書の引用部については恣意的に正字正仮名遣いに直した。)。

五月 上京にあたり、槐多は当時の心境を友人にあてのハガキで次のように書いている。
「未來へ行け未來へ行け。
未來には恥がある。悲哀もある。失敗もある。苦痛もある。しかし生命がある。未來の生命にいけ。生命の薔薇畑へ突入せよ、花ととげとの中を。」
 上京の途中、槐多は燃ゆる希望を抱いて信州小県郡大屋(今は上田市大屋)に山本鼎の両親を訪ねた。鼎はまだパリにいた。
 信州から大阪朝日新聞に「絵間堂を仰ぎて」の一文をよせ、三日間、京都附録版に掲載された。ナショナル・ギャラリーの建設を提唱したものである。

底本本文末尾には、

初出――『朝日新聞』京都付録版、一九一四(大正三)年五月六日。

とある。1996年春秋社刊の荒波力「火だるま槐多」の巻末年譜によれば、槐多の信州入は五月一日である。、この後、六月二十五日に上京した槐多は、七月五日より小杉未醒宅(鼎の紹介による。信州行は、東京での未醒の槐多受け入れが調うまでの待機であった)に寄寓、製作に没頭する。九月には日本美術院研究生となって幾多の作品を発表することとなる。なお、引用の葉書の文中で繰返される「未來」は当時日本に、キュビズムと共に流入したフューチュアリズムの影響下の言辞であろう。]

 

繪馬堂を仰ぎて   村山槐多

 

 神社に入てその一隅の古びた堂に古人の獻じた多くの繪畫や彫刻やが展觀されて居るのを見る毎に吾は言ひ難い悦樂を感ずる。そは實に日本及びそこに住む人々の心の美しさと優しさとを意識する其悦樂である。昔ギリシヤ人は神と共に其藝術を樂んだ、そして彼等は實に立派な藝術を殘したのであつた。吾々の國の祖先も矢張り斯うであつたのかと不圖心に考へた、左樣考へた眼でその繪馬堂内の小藝術を見た時にそこに名品の少くないのにビツクリした。此の感は特に田舍の神社に深い、田舍の神社ではテクニツクが粗末であるだけその信仰が最も大膽に畫面に現じて居る。勿論此等の藝術の多くは低級なものであらう。又信仰と言つても勿論この堂の繪や彫刻はギリシヤ人のその神々に於ける如くルネツサンス畫派のキリストに於ける如く、若くは三角派立體派のギリシヤ理學に於けるが如き關係の信仰ではあるまい、が其等が神社といふものの爲に製作されて斯く神に捧げられて居るといふ事實其のもの直に美しい信仰であらねばならぬ、斯る信仰に依て國民の藝術的感覺は向上してゆかねばならぬ、それで吾は現代の日本國民に向つて切に望む、彼の健やかなりしギリシヤ人の如く君達の藝術をして神とともに樂しむものたらしめよ、爾かすべく[やぶちゃん注:「爾(し)かるべく」の誤植か。]神社の繪馬堂をモツと高級な意味のものとし擴大してその神社が支配する區域内の總ての人の藝術的展覽場としたいのだ、そして神社は總ての自由なる藝術を許容する筈だ。たとへ繪馬堂にロダンの接吻が置かれようともそれは我が國神話の思想上決して敬神を褻すものであるまい。要するに我が希望は京都に就いて言へば拙劣な西洋建築の美術館などを造る代りに各神社に新しい繪馬堂を建ててそこを美術展覽場としたいのだ、建築の樣式は古來のもので既に理想的である、只少し首筋を痛めずに見るやうにすれば善い、斯くすれば京都市民が如何に藝術の感覺を多く得て、而して如何に藝術が盛大になるかは寧ろ想像の外にある、吾は我が好む夫の北野や祗園などの神社の繪馬堂で日本畫に限らず版畫や油繪や水畫やブロンズの裸像をも見ることの出來る日、相手の物寂びた音と共に未だ裏若い聲がマチスやピカソを語り合ふ聲の朱の玉垣を洩れて聞ゆる美しい、そして樂しい敬神の日の、この古き都に來らんことを切に待つ。