やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

斷橋の嘆――芥川龍之介氏の死と新興文壇――   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:本文中にも現われる雑誌『文芸公論』第一巻第九号・昭和二(一九二七)年九月号に掲載された。底本は筑摩書房昭和五一(一九七六)年刊「萩原朔太郎全集」第八巻所収の校訂済本文を用いた。初出形に戻すことも考えたが、校異表を見ると明らかな誤記や誤字、歴史的仮名遣の誤りなどが非常に多く含まれているため、校訂本文のままとした。
 『文芸公論』は昭和二(一九二七)年一月から翌三年五月にかけて、当時新進の詩人で、評論家・小説家としても活躍した、やはり本文で朔太郎が高く評価している(発表誌が同人の同誌で、内容も多分に同誌のプロパガンダ的要素が大で一見手前味噌の感は拭えないけれども)橋爪健(明治三三(一九〇〇)年~昭和三九(一九六四)年)が殆んど一人で編集発行した総合文芸誌で、まさに本文で朔太郎が主張しているところの、既成文壇打倒の旗印を掲げて新感覚派からプロレタリア文学に至る各派の新人を糾合、創作・評論・漫画・合評会・アンケート及び海外や地方の文壇紹介など、様々な新機軸を駆使して誌面を構成した雑誌であった。短命に終わったものの、参照した八木書店の「近代雑誌複刻資料」の復刻合本解説によれば、『例えば、創刊号一冊を取り上げても、松永延造、葉山嘉樹、稲垣足穂、橋爪健、十一谷義三郎の創作、千葉亀雄、久野豊彦、林房雄らの評論、尾崎士郎、今東光、片岡鉄兵、稲垣足穂らによる合評会、編集者・文芸家の興味深いアンケートなど、時代の転換期を迎えて新しい文学をひたすら求めて模索する若々しい熱気が生き生きと伝わって』くる、『昭和初年代の文学状況をたどる上で逸することのできない雑誌』である、とある。
 本テクストは私のブログ・アクセス470000突破記念として電子化したものである。藪野直史【2013年6月2日】]

斷橋の嘆
        (芥川龍之介氏の死と新興文壇)

 芥川龍之介●●●●●氏の自殺は、いろいろな意味で文壇に強いシヨツクをあたへた。そこには考へさすべき、また考へねばならない所の、深遠無量の哲學がびそんでゐる。だが今の輕挑な文壇人は、そんな哲學に觸れようともせず、また實際に觸れることもできないだらう。彼等は馬鹿の犬のやうに、空虛なぼんやりした口をあいて、この知名な文士の死に怪訝の意外感をもつのみだらう。せいぜいの所を言つて、生前交遊のある五六の友が人情の厚くこもつた、しかしながら内容の少しもない、愚劣な世間並の弔辭を敍べ、以て死者の靈を慰める(?)位にすぎまい。
 そんな事を考へると、僕は故人の靈に對して、言ひがたい鬱憤を痛感する。この近い三年間、故人と密接な友情をつづけた僕は、自殺直前の氏の口から、いろいろな悲痛な告白をきいてゐるので、眞に無限の感慨がある。しかし僕の問題は此所でそれに解れずにおく。ただ芥川●●氏の死が、實に「悽愴」といふ言語の最も強い響を意味したこと。丁度彼の藝術が一種の悽愴な「鬼氣」をもつてたやうに、彼の死がその藝術的高調であつたことを、故意に暗示するに止めておく。この重大なる件については、他の別の機會に書かねばならない。此所ではそれを避け、彼の死が及ぼす所の、一般文壇の影響を考へよう。

         

 我々の混沌たる文壇は、今や明白に割線され、二つの境界に別れつつある。古く、現にある所の文壇と、新しく、正に興りつつある新興の文壇である。そもそもこの二つの文壇は、どこでその特色を區別されるか。或は説をなするものがある。既成文壇とは、所謂ブルジョア文學の謂であつて、新興文壇とは、所謂プロレタリヤ文學の謂であると。然るに一方では、その反對を考へてる所の、所謂「新感覺派」の人々が居る。彼等によれば新しき文學の特色とは、アメリカ的陽氣であること、ジャツヅ的元氣であること、活動寫眞的通俗であること、自由樂天主義であること、そして要するに米國資本主義のブルジヨア氣質を情操する點になければならない。
 そもそも新興文壇の特色は、果してどこにあるのだらうか。一方ではニヒリツクの憂鬱感や、プロレタリヤ情操を以て「新しき文學」と考へてるのに、一方の人々は反對に、米國的陽快の樂天主義や、ブルジョア情操やを以て「新しきもの」の本質と考へてる。そしてこの反對矛盾する兩極者が共に竝行して實在するのが、現時の所謂新興文壇であるとすればそもそも新興文壇の本質點はどこにあるのか。だが僕等は、始からさうした人々(プロレタリヤ派や新感覺派)の黨派的偏見の中に彼等の見えすいた詭辯を蔑見してゐる。ほんとの新興文壇はさうでなく、むしろ何等の黨派を組まない、眞の個人的實力とユニツクな藝術境に獨行してゐる、最近現はれた多くの新人――彼等は「驢馬」や「靑空」や「葡萄園」やそ他の種々な同人雜誌によつてる――の無名な作家によつて、次第に形づくられようとしてゐる。僕は確信を以て百度も斷言する。近く既成文壇に代つて新しき文壇を建てるものは、プロレ派や××派や××派やの如き「文壇的黨人」でなく、そんな群團意識やお利口な看板を持たない所の、眞の實力ある純眞の新人一派であることを。
 それはとにかく、今や一般に興りつつある新しき文學は、その黨派や個性の別にかかはらず、或る一つの共通な本質點で明白に古い既成文學と區別される。その著るしい本質點は何だらうか。一言にして言へば新興文壇の特色は、新しい意味の詩に立脚してゐる●●●●●●●●●●●●●●といふこと、之れである。實にこの一つの本質點では、プロレ派も新感覺派も、況んやその他の「名目を持たない派」の新人も、悉く皆必然に一致してゐる。そして此所で「新しい意味の詩」と言つたのは、詩が文學の本質である以上、既成文壇の作家にも、古い意味の詩を持つてる人は多々あるからだ。たとへば島崎藤村●●●●氏や、正宗白鳥●●●●氏や、泉鏡花●●●氏や、それから尚見方によつては、德田秋聲●●●●氏ですらが詩を持つてゐる。しかし藤村●●氏の詩は、所詮新體詩の詩であり、德田秋聲●●●●氏の詩は傳統的俳味の詩であり、そして正宗白鳥●●●●氏の詩に至つては、あの日本的自然主義の陰慘感を基調とする、新默阿彌風の古典詩であるだらう。
 それ故に彼等は、日本傳統の俳句を理解し、江戸民謠の小唄を理解し、義太夫節のリズムを悦び、進んで明治初年の新體詩程度まで、詩的鑑賞の理解を持つてる。その限りについて言へば、彼等の既成文學もまた「詩に立脚してゐる」。だが我々の新しい詩、一九二〇年代の詩については、全然まつたく理解がなく、表現上にも精神上にも、てんで解れる所がないのである。實に我々の詩壇は、之れによつて長い間文壇から除外された。そして最近、この長く虐待された僕等の詩壇が、逆に文壇を革命して、新興文學の先頭に立つ旗手となつた。詳説すれば、最近興つた一切の「新しい文學」は、悉く皆詩を基調し、僕等の新しい詩壇から發展した。即ちたとへば新感覺派の表現は、明らかに僕等の印象詩壇から學んだものでダダイズムやプロレタリヤ派の精神は、僕等の詩壇が先驅した詩的情熱の發展である。そして他の多くの「黨派なき新人」たちは、その作品の形式や精神で、だれも例外なしに僕等の新しき詩を取り入れてる。實に新興文學の特色は、この「新しき詩に立脚する」所にある。彼等が新人である限りは、たれも多少は詩を理解し、僕等の表現や精神につき、可成に深く接觸する點を有してゐる。そしてこの點から、彼等は判然と既成文壇の人々から、過去の所謂大家たちから差別される。實に今日の文壇では、詩人が列の先頭に立ち、作家が之れに從つてゐるのである。(もちろん此所に詩人といふのは、あの詩人この詩人を指すのでない。個人的に言へば、そんな偉い詩人は無いのだらう。此所で言ふのは、さうした具體觀念の詩人でなく、どんな個人にも屬しない、抽象觀念の詩人である。)

          

 かつて僕等は、さういふ時代を過去に見てゐた。即ちあの所謂「浪漫派時代の文壇」である。その頃の文壇では、詩が文壇の花であり、あらゆる新潮流の指導者だつた。故に當時にあつては、詩人が文壇の玉座に坐つて、常に小説家や、戲曲家を從へてゐた。たとへば當時の詩歌雜誌「明星」は、文壇における新思潮の最大權威で、與謝野晶子●●●●●氏や與謝野寛●●●●氏の詩人たちが、常に多く若い小説家や戲曲家を社友とし、之れを指導して文壇に送り出してゐた。實に與謝野●●●氏夫妻の如き詩人によつて、當時の大部分の作家と文壇とが、絶えず支配されて居たのである。
 今や正に、漸く興らうとする「新しい文壇」が、この意味に於て過去の浪漫派時代を髣髴させる。この想像される新現象はあまりに長く詩が虐げられてゐた反動として、むしろ當然起るべき事情でさへある。現に既に今日、吾々の新しい作家たちは文壇的にもそれを痛感してゐるだらう。何となれば彼等の「新しい文學」は始から僕等の詩と共通する本質の上に立つてるのに、てんで全く現詩壇と交渉のない晩成文壇の大家等が、どうして之れを理解することがあり得ようか。新しい作家が、もし眞に本質的な新しい作家であるなら、決してどんな場合にも、彼等の作品は文壇的に理解されず、したがつて出世する機會がない。彼等の立場は、この點で絶望的でなければならない。
 實に今日の新興文學に同情し、且つ之れによき理解を有するものは、既成文壇の大家や批評家の仲間でなくして、意外にも僕たちの詩人なのだ。ただ詩人だけが今日では新興文學に同情し、且つそれを理解する一人者である。故に新しい作家たちは、彼等の文壇に出ようとする機會をつかむべく、緣なき既成作家にたよるよりは、むしろ先輩たる詩人によつてその指導と紹介とを求める方が、遙かに合理的であることを考へてる。換言すれば今日の新しき文壇は、詩人によつて編輯される雜誌「明星」の復活を望んでゐるのだ。そして現に最近、僕等はその一二の時代的な例を見てゐる。たとへば詩人橋爪健●●●君によつて編輯され、新人の紹介につとめてる雜誌「文藝公論」の如き、ややこれに類するものの例である。
 しかしながら事情は、いろいろな點に於て昔とちがつてゐる。今日では、雜誌の經營が純粹の資本事業となつてる上に第一詩人の文壇的地位がちがつてゐる。昔の與謝野●●●夫妻のやうな地位は、今日の虐待され輕蔑される詩壇に於て、どんな一流の詩人にも許されてない。正直な所を言ふと、詩人は文壇の圈外者で、議會における發言權はもちろんのこと、文壇衆議院議員の選擧權さへ有してゐない。のみならず惡いことは、詩人自身が低落して著るしく質を下落してゐる事である。實際今日「新しき文學の先頭」に立つてゐるのは、個々の具體的の詩人でなく、抽象的に概念された詩人――詩人といふ無形の觀念――である。個々の實際の詩人については、遺憾ながら新文壇を指導するほど、それほど強大な天才者がない。何よりも今の詩人は、久しい間の文壇的逆境と壓迫でいぢけてヽヽヽヽしまひ、自分から繼子のやうに小さくなつてる。彼等は詩壇の島國に納つて居り、偏狹な娯妬や猜疑で排他的の爭ひを事とするのみ。昔の詩人がもつてゐたやうな文壇的の大野心は今の去勢された詩人には全く無くなつてゐる。即ち要するに彼等は、資力もなく名聲もなく、また文壇的地位もなく氣概も無くなつてしまつてゐる所の、ケチな三下奴にすぎないのだ。
 そこで、「新しい作家」たちは、こんな賴りにならない詩人たちを、勢ひ輕蔑するやうになつてくる。厭でも應でも、彼等が文壇へ出るためには、過去の既成作家と妥協し、或る程度までの讓歩をして、その人々の勢力ある文壇にまで、自ら辭儀して行かねばならない。(實際に於て、今日多少の地位を有する新人作家は、皆この傳で成功したのだ。その證據は彼等の半ば妥協的な作品が、いかに文壇的惡臭をはなつかを見よ。)
 此所に至つて新興文學の唯一のたよりは、過去の既成作家の文壇中で、比較的新しき傾向に理解を有し、彼等の詩に同情を有する所の、二三の有力な大家を物色し、その人々の手によつて、自分等の「新しき世界」と「古き世界」とを通ずる所の一つの橋を架けてもらふことにある。既に橋が架かれば、彼等はそれを渡ることから、續々として舊文壇を占領することができるだらう。ただ問題は、だれがその橋を架けるか。だれがその工事にまで、人選されるかといふことである。

         

 だれが橋を架けるだらうか? この工事の人選には、次の二つの條件が要求される。第一には、先づ何よりも「新しき意味の詩を理解し得る人物」が條件される。なぜならば前記の如く、新興文學の特色がそれであるから。次に第二には、文壇的に地位と勢力を有する人物が要求される。なぜならば權威のない紹介は、文壇的に無力であるから。(この第二の條件から、詩人は皆落第である。)
 そこで既成文壇を物色しよう。既成文壇の大家の中でも、我々と交渉のある人物と、全く交渉のない人物とがある。たとへば武者小路實篤●●●●●●氏、その他舊白樺派の系統に屬する人々は、すくなくともゲーテやホイツトマンを理解する程度にまで、新しい意味の詩を持つてる。單に彼等は、自分が詩人であるのみでなく、僕等の詩壇に對して絶えず注意し、現に千家元麿●●●●佐藤惣之助●●●●●等の詩壇人を、彼等の同族から送り出してる。白樺派一派の文學者は、たしかにすくなくとも現文壇では、新しき時代に接觸して居り、比較的本質感のある文學者である。(彼等の人生觀や藝術觀における異論は、此處に言ふべき限りでない。)
 しかし白樺派の詩的情操は、彼等の獨斷的な見識による所の、特殊の狹い趣味や藝術觀に立脚して居り、もっと廣い一般の詩、特にホイツトマン以後における西歐的新傾向の詩――象徴派や、印象派や、立體派や、表現派や、ダダイズムや――についての新しい理解を缺いてる。然るに僕等の最近詩壇で、ホイツトマン的ヒロイズムの民衆詩やトルストイ張りの人道詩やは、既にやや過去のものに屬して居る。最近詩壇の主流は、主として新象徴派や、印象派や、ダダイズムやであり、之れがまた文壇の「新しい小説」で、その表現や内的情操の主脈となつてる。この點から白樺派は、やや新興文學と距離が遠く新人にとつて物不足の感を起させる。
 しかしながら白樺派の人々以外、どこにまた新しい時代の詩をもつ人が、過去の既成文壇に居るだらうか。もちろん我々の文壇には、辻潤●●氏のやうな聰明なる新時代の理解者が居るけれども、彼が小説家でないために、遺憾ながら文壇の圈外に客遇されてる。文壇の中心的地位に立つてる人で、僕等の新しき詩――及びその詩的情操の發展たる新興文學――に好意と理解とを有する人は、殆んどごく僅かにすぎない。即ち白樺派以外の文學者では、詩人小説家たる佐藤春夫●●●●室生犀星●●●●の二氏が居る位にすぎないだらう。
 此等の人々は、現に自ら詩作して居り、一方で小説家であると共に、一方で詩壇に籍を置いてる關係上、文壇のたれよりも、最も新しい詩を理解して居り、したがつて新興文壇に接觸してゐる。すくなくとも新興文學の理解者として、彼等は現文壇の一人着であり、白樺派の人に此してよりヽヽ新しい傾向と、よりヽヽ廣い詩壇への批判を持つてる。(佐藤春夫氏が常にダダイストや象徴派の作家を認め、多くの新人を文壇に紹介してゐること。室生犀星氏が雜誌「驢馬」等による有爲な新人作家を認め來るべき文壇の黎明に努力してゐる等のことは、だれもよく知つてゐる筈である。)
 けれども以上の入々に比し、さらに一層「若い時代」に屬し、一層よく新しい文學と、新しい詩の精神に理解をもつてる一人があつた。即ちあの自殺した文學者、芥川龍之介●●●●●氏であつた。思ふにこの僕の言は、諸君の或る者にとつて多少意外の感をあたへ、事によると理解なき反感を抱かせるかも計られない。しかし諸君にして、實に芥川●●氏の文學觀、その人物の眞實相とを知るならば、むしろ却つて僕の言の思ひ半ばにすぎるのを知るだらう。

         

 芥川龍之介●●●●●氏は詩人でなかつた。單に詩壇人でないのみならず、文學者としての氣質性で、詩的精神に缺ける所が多かつた。(生前、僕は常にこの點で彼に不服し、面と向つて指摘してゐた。)しかしながら彼が「詩人でない」といふことは、詩への熱情や理解を持たないといふこととは、全く意味がちがつてゐる。世には音樂に熱情し、音樂を理解し、音樂を表現しようと意志しながら、しか不幸にして、彼自身が音樂家であり得ない人物が居る。芥川●●氏の詩に對する關係が、正に丁度この通りだつた。
 實に芥川●●氏の文學論は、詩的なものへの追求によつて一貫し、その熱情によつて高調してゐた。けだし彼の一生は自分の中にひそむ眞の「詩」を書かうとして、遂によく書き得なかつた悲慘な文學的生涯だつた。すべての天才者の運命が矛盾によつての悲劇である如く芥川●●氏の一生がまたさうだつた。實に彼は「詩人たらんとする熱情」と、他の「非詩人的である所の氣質」との矛盾によつて、壯烈悲慘な文學的生涯を送つたのだ。彼は實に眞の文學者であり異常な惱みをもつた天才だつた。
 だが自分は、此所で芥川龍之介●●●●●論を書かうと思はない。(それは別の機會に、別の表題で發表する。)ただ此所で言ふべきは、彼がいかに純眞な「詩の熱情者」であり、いかに聰明なる「詩の理解者」であつたかといふことである。けだし彼は自分で詩を欲しながら、遂にそれを持つことができなかつた僞、詩に對する憧憬が一層はげしく、熱情が純一無垢あつたのだ。最近「改造」その他に發表した彼の文學論をよんだ人は、およそかうした彼の心境を知り得るだらう。それらの論文でいかに彼が純一に詩を熱情してゐたか。實に芥川●●氏は、彼自身を「詩人」と稱してゐたのである。
 この「詩の熱情家」といふ點で、彼は明らかに佐藤春夫●●●●室生犀星●●●●とちがつてゐる。佐藤●●氏や室生●●氏は、彼等自身が詩人であり、詩の表現を持つてる人物である。然るに芥川氏に至つては、詩を持たずして詩に熱情してゐる人物である。だから前者――佐藤●●氏や室生●●氏――にとつて、詩は熱情されるものでなく、むしろしばしば、時には退屈されてるものでもある。したがつて彼等は、その詩に對する熱情の程度に於て、遙かに芥川●●氏に及ばず、且つ態度の純一さが劣つてゐる。換言すれば、芥川●●氏ほど純一の態度で、熱心に詩を讀んでゐた文學者は、恐らく他に一人も無かつたのである。
 芥川●●氏は、單に詩を熱情するのみでなく、また最もよき理解と批評眼を持つ人だつた。詩話會その他から發行される詩の雜誌及び著名な新刊詩集は、いつ臭も大てい熱心に、しかも卓越せる批評眼を以て讀んでゐた。單に知名の人ばかりでなく新進無名の詩人の作すら、僕以上によく讀んでゐた。特に彼に就いて敬服すべきは、廣い範圍に亙る多方面の理解力を持つてたことだ。たとへば一方で藝術的香氣の高い、佛蘭西風の新象徴詩や印象詩を認めながら、一方では破壞的なダダイズムやニヒリツクな詩も認めてゐた。けだし彼の文學論(改造所載)によれば、デイオニソスが睡眠することによつてアポロになり、そして藝術とは、デイオニソス的情熱の願つてゐる睡眠の安息であるからだ。(註。眞の藝術とは、破壞的な生命感がそれの苦惱から願つてゐる安息。即ち獅子が睡眠によつて少女になり、野蠻な不調和から完成した美が作られるの意。)
 かく、詩の理解者としての芥川●●氏は、同時に言ふ迄もなく新興文學の理解者だつた。けだし最近の我が文壇で、芥川●●氏の如く「心の若い作家」は無かつたらう。自然主義末期の頃から、日本文壇の特色は「老成ぶる」ことにかかつてゐた。たいてい多くの作家は、中年にもならない中から老成ぶり、そして老成ぶることに自誇を感じ、それで以て大家の風格を任じてゐる。然るにこの中で、ただ一人の異例者が芥川●●氏だつた。彼は文壇と反對に常に、若くあることに、少年であることに自誇を感じ、自ら好んで靑年書生の如くふるまつてゐた。それ故に彼の作品ほど、常に靑年の元氣に充ち、進取の氣象に富み、一體に鮮新で若々しい氣分に充ちた文學はない。實に芥川●●氏の作品は、その構想にも言語の上にも、初夏五月の新綠を見る如き、或は鮮新なるバタの匂ひを嗅ぐ如き、言外の若々しき情操がをどつてゐた。
 この文壇無比の情操的靑春感が、彼をして詩――詩はいつも文學の靑春期に屬してゐる――を欲情させ、一方で新しき文學の若い精神と觸れさせたのだ。僕をしてやや誇張的に言はしめれば、プロレタリヤ派や、新感覺派や、新象徴派や、その他の多くの「若き文學」の内實する情操は、殆んど皆芥川●●氏の感覺中に取り込まれ、多少先見的に含蓄批判されてゐたのである。すくなくとも芥川●●氏の聰明と敏感とは、此等のあらゆる傾向に屬する新文學を、文壇のだれよりもはつきりとしかもだれよりも純眞な同情で理解してゐた。實に此所で注意すべきは、芥川●●氏の持たうとしてゐた●●●●●●●●――だが實には持たなかつた詩の本質は、佐藤春夫●●●●氏等の既に持つてゐる●●●●●詩に此して、より新しき情操のものに屬してゐたといふことである。この意味で芥川●●君こそ、新時代への無比な理解者であつたのだ。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字半下げで、表記通り、ポイントも小さい。]
 註。この論文で、自分は「詩」といふ言語の用法を、故意に少しく曖昧にし、漠然と廣く使つてゐる。即ち「詩」といふ言語を、一方では形式上の詩文とし、一方では内容上で、文學の本質に屬する情操(詩的情操)の意味に使つてる。だが文學の内容と形式とは、本來不離不即のものであるから、この論文における二義同語の混同も、多少注意してみれば解るだらう。
 要するに芥川●●氏は、新興文壇の先見者であり、その最も好意ある理解者だつた。もし彼にして尚數年生きてたならば、この「新しきもの」を「古きもの」の彼岸に渡し、新人のために公道する橋を架したであらう。今や不幸にも ――實に不幸にも――この唯一の選ばれた人は死んでしまつた。新しき文壇が望んだ橋は、工事半ばにして落ちたのである。これ實に新興文壇の打擊であり、之れより出ようとする作家にとつて、取り返しのつかない不運事である。單にそれのみでない。同時にまた不幸は文壇にも響いてくる。何となれば彼は、今日の理解なき日本文壇で、僕等の虐たげられてる詩人に同情し、且つ眞にそれを理解してゐた一人者であつたから。彼死して我等詩人は、また文壇に一人の知己をも有し得ない。ああまた我等は、犬の如く文壇の野に迷ふのみだ。(むしろこの文壇と戰ふべく、我等は新人と共に突擊しよう。)
 秋近くして、いかに斷橋の嘆が深いかな。見よ! 飛ぶものは影をひき、雷鳴は空に鳴つてる。既に橋の落ちた岸に立つて、我等の考へることは一つである。飛ばんかな! 飛ばんかな! ただ勇氣によつて構へ沒落を期して超跳せんのみ。