やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ

鬼火へ

[やぶちゃん注:大正十五(1926)年一月四日付『大阪毎日新聞』に掲載。底本は岩波版旧全集を用いたが、ルビは省略した。一部に注を付した。]

 

文章と言葉と   芥川龍之介

 

       文  章

 

 僕に「文章に凝りすぎる。さう凝るな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覺えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多にすらすらと行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に對する注文も僕自身に對するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出來ない。少くとも好きになることは出來ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。

 僕は誰に何といはれても、方解石のやうにはつきりした、曖昧を許さぬ文章を書きたい。

[やぶちゃん注:「アポロ主義」は哲学者ニーチェの謂い。ニーチェは人間を「アポロ的なるもの」と「ディオニュソス的なるもの」とに分け、「アポロ的なるもの」は、統一された論理や秩序、実証に基づいた分析的手法による完全な自覚的存在と捉えた。]

 

       言  葉

 

 五十年前の日本人は「~」といふ言葉を聞いた時、大抵みづらに結ひ、首のまはりに勾玉をかけた男女の姿が感じたものである。しかし今日の日本人は――少くとも今日の年は大抵長ながと顋髯をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「~」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに變遷してゐる。

  なほ見たし花に明け行く~の顏(葛城山)

 僕はいつか小宮さんとかういふ芭蕉の句を論じあつた。子規居士の考へる所によれば、この句は諧謔を弄したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても莊嚴な句だと主張してゐた。畫力は五百年、書力は八百年に盡きるさうである。文章の力の盡きるのは何百年位かかるものであらう?

[やぶちゃん注:「なほ見たし花に明け行く~の顏」は「笈の小文」や「猿蓑」に所収する、元禄元年(168846歳の芭蕉の句。句意は『花盛りの中に明けてくる葛城山の朝日の美しさの中、醜いと言い伝えられるこの山の一言主神(ひとことぬしのかみ)、その顔を、是非見てみたいものだ。それはこの朝日の如く、きっと神々しく美しいに違いない。』]