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Бирюк

   Иван Сергеевич Тургенев

狼(ビリューク)

   ――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯



 [やぶちゃん注:これは

Иван Сергеевич ТургеневIvan Sergeyevich Turgenev

Записки охотника”(Zapiski okhotnika

イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(18181883)の「猟人日記」(18471851年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が1852年に刊行されたが、後の70年代に更に三篇が追加され、1880年に決定版として全二十五篇となった)の中の

Бирюк”(Biryuk

の全訳である(1848年『同時代人』初出)。底本は昭和311956)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の上巻の、平成2(1991)年再版本を用いた。なお、底本では、ルビではなく本文にも「ビリューク」の語が登場し、そこではカタカナ拗音「ュ」が明確に示されているため、特にこの語のみ、そのほかのルビも底本の「ビリユーク」ではなく、「ビリューク」に統一した。これは近年(現在でもそのような表記のものを散見するのは、恐らく活版印刷の時代の悪しき名残りであろう)迄、ルビの拗音は拗音でなく表記されることが一般的であったからである(最近、妻や同僚の国語教師等、このことに全く気づいていなかった人が結構多いことに驚いた)。巻末にある訳者注を作品末に示し(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した)、一部に他翻訳の注を参照にした私の注も混在させた(記号で明確に区別した)。訳者である故中山省三郎先生への私のオードは「生神樣」の冒頭注を参照されたい。【2008年8月8日】

 

 狼(ビリューク)

 
 或る晩、私は競走馬車に乘つて、ただひとり獵から歸るところであつた。家まではまだ八露里(り)ほどあつた。足並の早い、うちの駿馬は時をり鼻な鳴らしたり、耳を欹てたりしながら、埃の立つ道を勇ましく走つてゐた。疲れた犬は車に縛りつけられてゐるからのやうに、車の後輪(あとわ)から一歩も後れずに駈けて來た。雷雨がやつて來さうになつた。行く手を見ると、薄むらさきの巨きな夕立雲がむくむくと森のかげから湧きあがつて來る。長い、灰色のくもが頭の上に落ちかかるやうに漂つて來る。楊がざわざわと動いて、さざめく。息づまるやうな暑さは忽ちに濕りを帶びた冷たさに變り、物蔭は見る見るうちに濃くなつて來る。私は手綱を絞り、馬に一鞭(ひとむち)あてて、谿を下り、野楊(のやなぎ)の一面に生ひ繁つた水のない谿川を渉つて、山に登り、森の中に入つた。行く手の道は、早くも闇につつまれた胡桃の叢林(しげみ)の間を曲りくねつてゐる。私はやつとのことで馬を進める。馬車は、深い縱溝――百姓馬車の轍の跡を引きも切らずに横切つてゐる古い槲や菩提樹の堅い根つ こに乘り上げる。馬もやうやく躓きがちになつて來た。強い風が俄かに高く唸り出し、樹々がざわめくと思へば、大粒の雨がはげしく落ちて來て、樹の葉を鳴らす。電光(いなづま)が閃いて、雷が凄しく鳴る。雨は瀧のやうに降りそそぐ。少しばかり踏み出してはみたが、間もなく停まらざるを得なくなる。今は竦(すく)んでしまふ。一寸(すん)先も見えなくなる。どうにかかうにか、廣い叢林(しげみ)に逃げ込んだ。身を屈めて、顏を蔽ひ、私は嵐のやむのを待つてゐた。すると不意に電光の明りに、背の高い人影が道に見えて來た。じつと眼を凝らして、私はその方を見た、――その人影は馬車のあたりの地面からでも湧き出て來たかのやうであつた。

 「誰だ?」と、よく徹る聲で訊ねた。

 「お前こそ誰だ」

 「俺はここの山番だ」

 私は自分の名を名乘つた。

 「あ、存じてます! お歸りになるところですか?」

 「さうだ。だが、何しろこの雷雨(あれ)で……」

 「さうでござんす、えらい雷雨(あれ)で」と、その聲が答へる。

 白い電光(いなづま)が山番の頭の先から足の先まで照らす。すると忽ち耳をつんざくはかりの雷がそれに續いて鳴り渉る。雨は一層はげしく押し寄せて來た。

 「直ぐには止みませんねえ」と山番はつづける。

 「どうしたもんだらう?」

 「何なら、私の小舍(うち)へ御案内しませう」と切れ切れに山番がいふ。

 「さうして貰はう」

 「まあ、お乘んなさいまし」

 彼は馬の頭のところへ行つて、轡を取つて引き出した。馬車は動き出した。私は『海に漂ふ獨木舟(まるきぶね)のやうに』搖れる馬車のクッションに身を凭せて、犬を呼んでゐた。可哀さうに、馬は難儀さうに泥濘(ぬかるみ)に足をぽちやぽちやと突き込みながら、辷つたり、躓いたりした。山番は轅の前を右に左に幽靈のやうに搖れて行く。私たちはかなり永いあひだ、驅つて行つた。つひに私の案内人は立ちどまつた。「さあ、旦那樣、ここが手前どもの家で」と彼は落ちついた聲でいつた。木戸がきしむ。幾匹かの仔犬が一せいに吠え立てる。頭をあげて、電光(いなづま)の光に見ると、籬(まがき)をめぐらした廣い庭の眞ん中に小さな小舍があつた。一つの小さな窓からぼんやりと灯影(ほかげ)が洩れてゐる。山番は上り段の際まで馬を曳いて行つて、戸を敲いた。「唯今(ただあま)、唯今(ただあま)!」と細い聲が聞こえる。ばたばたと跣の足音がして閂(かんぬき)が軋むと、粗末な襯衣を着て、衣(きぬ)の耳を締めた十二ばかりの女の子が提灯をさげて、閾のところに現はれた。

 「旦那に灯(あかり)をお見せ」と山番は娘にいひつけ、私には「馬車は檐の下へ入れて置きます」といふ。

 女の子は私をちらと見て、奧に入る。私は後からついて行つた。

 山番の小舍は煤けて、低く、がらんとして、天井床(パラーチ)もなく、仕切りもない、たつた一の部屋はあるばかりであつた。壁にはぼろぼろの毛皮外套(トウループ)がかかつてゐる。腰掛には單發銃が置いてあつて、片隅には襤褸ぎれが山のやうに積まれ、煖爐のわきには大きな壺が二つ置いてある。テーブルの上には木片(こつぱ)が燃えて、物悲しさうに燃えあがつたり消えたりしてゐる。小舍の眞ん中には、長い竿の先に括りつけた搖籃(ゆりかご)が下がつてゐた。女の子は提灯の火を消して、小さな腰掛に腰をかけ、右の手で搖籃をゆすぶり、左の手で木片(こつぱ)を直しはじめた。あたりを見まはすと、――私の胸は疼き出した。夜分、百姓家へ入つて來るのは氣持のよいものではない。搖籃の中の赤ん坊は苦しさうに、せかせかと呼吸(いき)をしてゐる。

 「お前、ここに一人つきりかい?」と私は女の子に訊ねる。

 「はい」と、やつと聞こえるやうな聲でいふ。

 「お前、山番の娘(こ)かい?」

 「はい」と囁く。

 戸が軋めいて、山番が頭をかがめながら、閾を跨いで入つて來た。提灯を床(ゆか)から放り上げてテーブルのところに行き、蠟燭に火をつけた。

 「何でせうな、木片(こつぱ)のあかりなんかお珍しいでせうな?」といつて、縮れた毛をゆるがす。

 私は彼を眺める。こんな立派な男を見たことは、めつたになかつた。背が高く、肩幅が廣くて、見るからに均齊がとれてゐる。濡れた、手織りの襯衣のかげから遙ましい筋肉がむくむくと盛りあがつてゐる。黒い縮れた髯は、嚴めしく、男らしい顏の半ばを蔽ひ、兩方が繋がつてゐる太い眉毛のかげからは、さして大きくない鳶色の眼が憚るところなく覗いてゐる。彼は手をかるく腰にあてて、私の前に立ち止まつた。

 私はお禮をいつて、名前を訊いた。

 「名はファマーですけれど」と彼は答へた、「綽名を狼(ビリューク)と申します」

 「え、お前が狼(ビリューク)だつて?」

 私は一そう強い好奇心なもつて彼を眺めた。うちのエルモライやその他の人たちから、この邊の百姓の誰も彼もが火のやうに怖れてゐる山番のビリュークの話を私は度々聞いてゐた。彼等にいはせると、世界廣しといへども、自分の仕事をあれほど巧くやつてのける者は未だ曾てなかつたとのことである。「あいつは枯枝の一把も持つて行かせねえ。そんなことでもしたら、いつ何時(なんどき)でも、たとひ眞夜中だらうが、雪なだれのやうに、いきなり押つかぶさつて來るんだ。あいつに手向ふなんて考へたつて駄目だ、――何ていつたつて惡魔みてえに馬鹿力はあるし、すばしこいんだから……。どんなにしたつて、こつちの者にや出來ねえ。酒を飮ましたつて、錢をつかましたつて、どんな囮(をとり)をかけたつて駄目だ。これまでも上手(うはて)な連中が彼奴な娑婆から迫ひ出さうと目(もく)ろんだことが一度や二度ぢやなかつたが、駄目の皮だ、うまく行きやしねえ」

 近所近邊の百姓たちは、ビリュークのことをかういつて噂してゐたのである。

 「それぢや、お前が狼(ビリューク)なんだね」と私は繰り返した、「お前のことは時に聞いたことがあるよ。お前は誰にも容赦がないさうだな」

 「眞直ぐに、するだけのことをするまででさ」と彼は無愛想に答へた、「何もしないで、御主人樣に食べさしていただく譯には行きやせんもの」

 彼は腰に挾んだ斧を取つて、床に腰を下ろし、木片を割り始めた。

 「時に、お前、女儀(かみ)さんはないのかね?」と私は訊いてみた。

 「はい」と答へて、力いつぱい斧を振る。

 「亡くなつたんだね、して見ると?」

 「いんえ……はい、亡くなつたんです」と附け加へて、わきを向いてしまつた。

 私はそれきり默つてゐた。彼は眼をあげて、

 「實は田舍廻りの商人(あきんど)と駈落ちしましてね」と彼は痛々しげな微笑をうかべていつた。女の子は顏を伏せた。赤ん坊が眼を覺まして泣き出したので、女の子は搖籃のそばへ行つた。「そら、これをやれ」とビリュークは汚いおねぶりを娘の手へそつと渡しながらいふ、「まあ、こいつまで見棄てて行つちまつたんで」と赤ん坊の方を指しながら聲低くいひつづける。彼は戸口へ近づいて、立ち止り、こちらを振り向いた。

 「きつと、旦那樣なんかは」と彼はいひ出した、「わつし共の麺麭なんかはお上(あが)りにならんでせうが、さうかといつて、ここには麺麭のほかに……」

 「お腹(なか)は空(す)いてゐないよ」

 「それぢや、どうか御隨意に。サモワールくらゐ支度してもよろしうございますが、生恰お茶がありませなんで、…‥まあ、ちよつと行つて、お馬を見て參りませう」

 彼は表へ出て、戸をぴたりと閉めた。私はもう一度あたりを見廻した。小舍は前よりもーそう物悲しく思うはれた。冷たい煙のはげしい匂ひが不快に私の息をつまらせる。女の子はその場を少しも動かず、眼をあげなかつた。時をり搖籃を押したり、さがつて來る襯衣をおづおづと有に引き上げたりしてゐた。露はな足は微かに動くこともなく垂れてゐた。

 「お前の名は何ていふの?」と私は訊ねた。

 「ウリータ」物悲しさうな顏を更に俯向けて女の子はいふ。

 山番が入つて來て、腰掛に腰をおろす。

 「雷もやみました」と暫く默つてゐた後でいふ、何なら、森(やま)の出口までお伴(とも)しませう」

 私は立ちあがつた。ビリュークは鐵砲を出して、藥池(ひざら)をあらためる。

 「そんなものをどうするんだ?」と私は訊ねた。

 「森ん中にいたづらをする奴がゐやんしてね、……『馬ケ谷』んところの樹を伐るもんですから」と私の不審さうな眼つきに答へて附け足した。

 「へえ、それがここから聞こえるのかね?」

 「おもてへ出れば聞こえます」

 私たちは連れ立つて外へ出た。雨はやんでゐた。遠くの方にはまだ雨雲の團々が重く群がつてゐて、時をり長く稲光りが光つてゐた。けれども、空を見上げると、ここかしこに紺碧の空が見えて、疎らに、箭のやうに飛んで行く雲のかげには、星がちらちらと覗いてゐる。雨に濡れ、風に搖れる樹々の形は闇の中からくつきりと現はれはじめる。私たちは耳を澄ます。山番は帽子を脱いで、うつ向いた。「あ……あれです」と彼はだしぬけに言つて、手をさし伸べた、「御覧なさい、こんな晩を選(よ)つて來たんです」私には樹の葉のざわめきのほかには何も聞こえなかつた。ビリュークは檐の下から馬を連れ出した。「だが、こんなことをしてゐると、ひよつとして」と大きな聲で附け足した、「取り逃がすかも知れん」「私も一緒に行かう、……構はなかつたら?」「どうぞ」かう答へて、馬をまた曳き入れる。「今ぢきに捉まへて、それからお見送りしませう。さあ、參りませう」

 私たちは出かける、ビリュークが先に立つて、私がそれに蹤いて。彼がどうして道々見分けるのか、それはまるで分からなかつた。彼はほんの一二度、立ち止まつたが、それは斧の音に耳を傾けるためであつた。「ほら」と彼は齒を喰ひしばつたまま呟いた、「聞えませう?聞こえるでせう?」「一體どこに?」ビリュークは肩を竦めた。私たちは谿へ下りて行つた。一しきり風が靜まる。調子をとつて打ちおろす斧の音が、はつきりと私の耳にも聞こえて來た。ビリュークは私をちらと見て、頭を振つた。私たちは濡れた羊齒(しだ)や蕁麻(いらくさ)を押し分けて、ずんずん進んで行つた。低い、籠つたやうな唸りが聞えて來た。

「轉がしやがつたな……」とビリュークが呟いた。

 その間に、空はだんだんと霽れて來て、森の中も仄明るくなつて來た。やつとのことで私たちは谿間を出た。「ここで一寸お待ちなすつて」と私に舌うちして、山番は身をかがめ、鐵砲を上にさしあげながら、叢林(しげみ)の中へ消えて行つた。私は息を殺して耳を欹てた。絶え間ない風のざわめきに交つて、間近いところから微かな物音が聞こえるやちな氣がした。あたりに氣をつけて枝を拂ふ斧の音や、車輛のきしめき、馬の鼻息など……。「どこへ行くっ? 止まれっ」[やぶちゃん注:この台詞の拗音はママ。]ビリュークの破(わ)れ鐘のやうな聲が俄かに響き渡る。もう一人の聲は、罠にかかつた兎のやうに、おどおどと憐れな叫び聲であつた。……組打ちが始まつた。「ふざあけやがる、ふざあけやがつて!」とビリュークは息をはずませながら繰り返した。「逃がすもんか……」私はどよめく方を目ざして飛んで行き、一足ごとに躓きながら摑合ひの現場へ駈けつけた。地べたの、伐り倒された樹のそばに、山番は蠢(うごめ)いてゐた。彼は泥坊を組み敷きながら、帶で後ろ手に縛り上げてゐたのである。私はそばへ寄つて行つた。ビリュークは起きあがつて泥坊を引き立てた。見ると、襤褸を身につけ、長い髯をかき亂し、濡れ鼠になつてゐる百姓であつた。そこには、ごつごつした蓆を半分かぶつたやくざ馬が荷馬車の空(から)の車臺をつけられて立つてゐた。山番は一言(ひとこと)も物をいはない。百姓もまた默り込んで、頭をふらふらさせてゐるばかりである。「放してやれ」私はビリュークの耳に囁いた、「樹の代は私が拂ふから」

 ビリュークは默々として、左手で馬の額毛(ぬかげ)を引つつかみ、右手で泥坊の腰帶をつかまへた。「さあ、急げ、この狐鼠盗奴(こそどろめ)!」と彼は荒々しくいつた。「そこにある小斧(をの)を取つて下せえ」と百姓は譫言のやうに呟いた。「これを失くして堪まるかい!」といつて山番は斧を拾ひ上げた。みな歩き出した。私はうしろから躓いて行く……。雨はまたぼつぼつ振り出して、忽ち土砂降りになつた。やつとのことで私たちは小舍に辿り着いた。ビリュークは捕へて來た馬を庭の眞ん中にうつちやらかして、百姓を部屋に連れ込み、帶の結び目をゆるめて、片隅に坐らせた。煖爐のそばに深い眠りに落ちかかつてゐた女の子がむつくり起きあがつて、口もきかず怖ろしさうに私たちを眺め始めた。私は腰掛に腰をおろす。

 「や、ひでえ降雨(ふり)だ」と山番がいふ、「やむまではどうしてもお待ちなすつて。横にでもおなんなすつては?」

 「ありがたぅ」

 「旦那樣のお邪魔になりやんすから、こいつを物置へでもぶち込んで置きたいんだけど」と百姓を指しながら言葉をついだ、「でもその閂(かんぬき)が……」

 「そこへ置いてやれよ、そつとして置けよ」と私はビリュークを遮つた。

 百姓は上眼づかひに、そつと私の方を見た。私は心の中で、どんなことがあつてもこの哀れれな男を放してやらうと誓つたのである。百姓は身動きもせずに腰掛に腰をかけてゐた。提灯のあかりによつて、頰のこけた皺だらけの顏、垂れさがつた黄色な眉、きよときよと落ち着かない眼、痩せ切つた手足などを私は見分けることが出來た……。女の子は百姓のすぐ足もとの床(ゆか)の上に横になつて、また寢入つてしまつた。ビリュークは兩手で頰を抱へながら、テーブルに向つてゐた。蟋蟀が隅の方で鳴いてゐた、……雨は屋根をたたいて、窓づてに滑り落ちる。私たちはみんな默つてゐた。

 「ファマー・クヂミッチ」不意に百姓が縺れた微かな聲で言ひ出した、「ファマー・クヂミッチ」

 「何だ?」

 「勘忍してくろよ」

 ビリュークは返事もしない。

 「勘忍してくろよ……、食ふに困つて、やつたことなんだ……、勘忍してくろよ」

 「貴樣らがことは分かつてるんだ」山番は無愛想にやつつけた、「貴樣らが村はみんなさうなんだ……。どいつもこいつも泥坊だ」

 「勘忍してくれろ」と百姓は繰り返すばかりである、「お邸の執事さまがひどいんで……、俺らは落ちぶれさされて、ほんとに……勘忍してくれろ!」

 「落ちぶれたつて!……いくら落ちぶれたからつて、盜むつちふ法はねえんだ」

 「勘忍してくれろ、ファマー・クヂミッチ、……あんまりな目に遭はせねえでくろよ。あの執事には知つての通り、咬み殺されるだらうからな、きつと」

 ビリュークはわきを向いた。百姓は熱病にでもとりつかれたかのやうに、ぶるぶる顫へてゐる。顎をがくがく動かして、とぎれとぎれに呼吸をしてゐる。

 「勘忍してくれろ」と百姓は失望落膽して繰り返した、「勘忍してくれろよ、後生だから勘忍して! 金は拂ふから、それあ、きつと拂ふから。全くのところ、食ふに困つてしたことだ、……、餓鬼どもが泣くんで、お前も覺えがあるだらうが。全く、どうにもせつぱつまつて」

 「だと言つて、とにかく、盜むつちふ法はねえんだ」

 「でもあの馬を」と百姓は言ひつづけた、「あの小馬を、せめてあれだけなりと、……あれは、後にも先にもたつた一つしかねえ生物(いきもの)なんだから……放してやつてくれろ!」

 「駄目だといふのに。俺だつて自由の身ぢやなし、役目があるんだ。そんなことをしたら、こつちが罪を着るだけだ。それに、貴樣らの言ひなりにしちや置けねえんだ」

 「勘忍してくろよ! 困つたからしたことだ、ファマー・クヂミッチ、困つたからなんだ、ほんとに、何も別に譯はねえんだから、……勘忍してやつてくろよ!」

 「分かつてるんだ!」

 「なあ、勘忍してくろよ!」

 「ええ、貴樣なんぞと兎や角いつたつて仕樣がねえ。おとなしく坐つてろ、言ふこと聞かなけりや、いいか? ここに旦那のいらつしやるのが見えねえのか、あ?」

 哀れな男はうなだれてしまつた……。ビリュークはあくびをして、テーブルの上に頭をもたせかけた。雨はまだ止みさうもない。私はどうなることかと待つてゐる。

 百姓はいきなり反り身になつた。彼の眼は輝き、顏は朱を注いだやうに眞赤になつた。「やい、さあ、來い。斬るなり燒くなりしてみろ、さあ」と眼を釣り上げ、口もとを歪めて言ひ出した、「さあ、この罰あたりの人殺し、基督信者(しんじや)の生血が飮めたら、飮んでみろ……」

山番はくるりと向き直る。

「貴樣に言つて聞かしてるんだ、貴樣に。この外道奴、人非人(ひとでなし)!」

「辭つばらつてんのか、あ、何を惡態つくつもりなんだ!」山番は呆れてかう言ひ出した、「氣でも違つたのか、あ?」

「醉つばらつたつて! ……醉はうと醉ふまいと、貴樣の世話になつたか、この罰當りの人非人(ひとでなし)、畜生、、畜生、畜生!」

「ええ、この野廊……ようし、貴樣を一つ!……」

 「俺をどうするつて? どつちみち同じことだ、どうせ駄目なんだ、馬を取られて,どうなるもんか! 叩き殺せ、いつそ一思ひに殺せ。餓ゑ死しようと、ここで殺きれようと、結局おんなじことだ。みんな死んじまへ、女房も餓鬼も、――みんなくたばれ……。だが、貴樣は待つてろ、それだけのごとはしてやる」

 ビリュークは立ちあがつた。

 「叩け、叩き殺せ」と百姓は殺氣だつた聲で詰め寄つた、「殺せ、さあ、さ、殺せ」(女の子はあわてて跳び起きて、百姓に眼を注いだ)「殺せ! 投せ!」

 「默れ!」と山番は呶鳴つて、二歩(あし)ばかり踏み出した。

 「澤山だ、澤山だよ、ファマー」と私は叫んだ、「放(ほ)つとけよ……構ふなよ」

 「默んねえぞ」と不幸な男はいひつづけた「おんなじこんだ、――どうせ、一度はくたばるんだ、この人非人(ひとでなし)、畜生、貴樣も打つ潰されねえでおくものか、……まあ待つてろ、勿體ぶるのも永くはねえぞ! 追つつけ貴樣の首も締められるんだ、待つてろ!」

 ビリュークは百姓の肩をつかんだ。私は駈け寄つて、百姓を助けようとした……。

 「且那、構はねえで下せえ!」と山番は私を呶鳴りつけた。

 私はこの脅やかしをも怖れず、すでに手をさしのべてゐた。ところが、實に驚いたことには、山番はぐいと引つぱつて百姓の臂を括つた帶をほどき、襟元をつかまへて、帽子を目深(まぶか)にかぶせ、戸を開けて表へ突き出した。

 「馬をつれて、さつさとどこへなと行きやがれ!」と彼は百姓の後ろから呼びかけた、「だが、氣をつけろよ、今度おれん所へ來たら……」

彼は小舍へ引き返して來て、隅の方で何かを掻き探し始めた。

 「や、ビリューク」と漸く私は口を切つた、「たまげたぞ。今の樣子を見ると……、お前はなかなか素晴らしい奴だなあ」

 「いや、もう結構です、旦那」と彼は忌々しさうに、私の言葉を遮つた、「それだけは仰つしやらないで。それよりももう、そろそろお見送りをいたしませう」といつて、なほ附け足した、「これくらゐの小降りならお待ちになるがものはないでせうから……」

 表では百姓の馬車の車輪(くるま)が軋り出した。

 「ふむ歩き出した!」と彼は呟くやうにいつた、「しかし、俺はあいつを! ……」

 半時間ほどして、彼は森の出口で私に別れを告げた。

 

 

 

■訳者中山省三郎氏による「註」(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)及びやぶちゃん注(私の注は新字・現代仮名遣とし、冒頭に「◎」を附して全体を〔 〕で括った)

 

〔◎疲れた犬は車に縛りつけられてゐるからのやうに、車の後輪から一歩も後れずに駈けて來た。:如何にも古風な分かりにくい表現である。昭和271952)年新潮文庫版の米川正夫訳等と比較すると、「車に縛りつけられてでもいるかのように」の謂いであることが分かる。〕

・木片:木片を燃やしてランプの代用にする。

・狼(ビリューク):オリョール縣では寄邊なく暮らして、氣むづかしい人をかう呼んでゐる。(作者の註)