やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

魚と蠅の祝日
海豹

         フィオナ・マクラオド 松村みね子訳


[やぶちゃん注:本作は大正14(1925)年3月15日に第一書房より「かなしき女王 フイオナ・マクラウド短篇集」として刊行されたものの一篇である。原作は
Fiona Macleod“The Works of Fiona Macleod vol.Ⅱ”arranged by Mr.William Sharp, Unicorn Editionである。テクスト化に際し、使用した底本は筑摩書房2005年刊のフィオナ・マクラウド「かなしき女王 ケルト幻想作品集」松村みね子訳を用いた。原文は出版年から考えて正字正仮名であると思われるが、底本にはその表記がない。また第一書房版原本を所持していないので、底本通りの新字新仮名とする。但し、松村みね子に敬意を表し、原作者の表記は原著のままとする。
実は、底本では「海豹」が冒頭にあり、「魚と蠅の祝日」はその後、「女王スカァアの笑い」「最後の晩餐」「髪赤きダフウト」を挟んで4篇目に配されている。しかし、私は両作品を読み、その主人公コラムの伝承的時系列としては、「魚と蠅の祝日」の後に「海豹」があると読む(反論される方とは何時でも議論する)。マクラオドの原典を所持しないので、確認出来ないが「三つの不思議」の一節として原典がこの順になっている可能性も高い。しかし、この時系列の逆転は勿論、みね子自身にも分かっていたことと思われる。従って、私は敢えてこの配置にしたみね子の意識に或る特別な意図を感じるのである。それは私の勝手な思い込みであるかも知れない。そこで、私は私の自然と信じる時系列にこの作品を並べて公開したいのである。その順列化の中で逆に、何かが見えてくるかも知れない幽かな期待を抱きながら――
なお、底本の井村君江女史の解題によれば、みね子が「かなしき女王」の翻訳底本に用いたと思われるマウラオド全集第2巻には芥川龍之介の蔵書印があったという。彼女は言う。『みね子は、翻訳に使用していたこの大切な一冊を、思い出と共に芥川に贈っていたのであった。』――この出版の、同じ年の同じ月、大正15(1925)年3月1日、芥川龍之介は雑誌『明星』に「越びと」を発表している――だから? それはそれ、それぞれの方の読みにお任せしよう。
「魚と蠅の祝日」の「煮えている魚」の「煮」は、底本では「者」の下部に「火」の字体である。
「海豹」については、底本では以下のムルタックの台詞が「コラムよ、まだあなたの時は来ない、天の門が深く根ざしている深淵の中なる永遠の生命の泉のましろい光に沿している私は、それを知っている」と、「沿している」と表記されているが、誤字と判断して「浴している」に変えた。また両作品とも末尾の『「三つの不思議」の一節』は底本ではゴシックの太字である。(以上の注は合冊時の2008年2月23日に補正追記した)
★本日(2012年4月12日)午後、私の本頁を見られた識者の方より、重大な消息がもたらされた。則ち、この「海豹」には大きな欠落が存在する、という事実である。尚且つ、それは底本自体の原本からの欠落、ページにして二ページに及ぶとんでもない欠落、という驚天動地の事実なのであった。
 その方のお話によれば、これは大正十四(一九〇三)年第一書房刊行の元本(もとぼん)から、何と見開き二ページ分が丸々欠落している、というのである。則ち、それを親本とした沖積舎による復刊本が、復刊の際にその二頁分を完全に欠落させて復刊してしまい、更にそれを底本にした、私が底本にした筑摩書房2005年刊ちくま文庫版もまた、元本との校合もせずに、恐るべき同じ誤りをまたしても引き継いでしまった、というのである。その方は『たまたま文章がつながってしまったため、見過ごされてしまったのでしょう。単純な編集ミスと思われます』とお伝え下さったが、私は読みながら大きなショックを受けた。それは誤った編集者に対して、ではなく、それに気づかずに誤ったテクストを流してきた私に対してであった。少なくとも、私はそれに気づくべき責任の一端を担っていたはずだ、と思うのである。その違和感に気づかなかったということへの、内心忸怩たる思いが生じた。
 マクラウドへ、というより――私は松村みね子――片山廣子への深い陳謝の意を込めて、今夜、その補正を行った。
 実はその指摘をして下さった方が、同じ中で、その元本が「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」にあることを、その脱落当該データのページ数まで示してお教え下さったため、急遽、データのダウンロードと補正を行うことが出来たのである。元本は正字正仮名であったが、本テクストに合わせて新字新仮名に直し、そのまま該当箇所に挿入した。底本編集者のミスであり、特に本文ではその箇所を指示していないが、具体的には「海豹」の冒頭から五段落目の、

 僧房の入口で彼は振りむいて、兄弟たちに内に入れと命じた「平和なんじらと共にあれ」

の鍵括弧直下に続く部分から、コラムの台詞、

「あなたは誰か」

の前行までの部分である。
 恐るべき――何十年にも及ぶ――二ページ分もの脱落――何十年もの間、誰一人、それに気づかず、いや、気づいてもそれを誰も指摘せず、誰も直さなかった――勿論、その最大の現存在の犯罪者は、今、こうしてのうのうとそれを公表して平気でいた、この私自身に他ならなかったのである――
 私はそれでも、こうして自らの犯罪行為(私にとっては結果として許すべからざる行為なのである――愛する片山廣子に対しての――である)を是正することが出来たのであった。
 ここをかりて、お便りを下さった方へ、心よりの御礼申し上げるものである。【2012年4月21日22:23 藪野直史】]


魚と蠅の祝日   フィオナ・マクラオド 松村みね子訳

 

 コラムは三日のあいだ断食した。口に入れるものとては、あけがたにひと口の割麦、ひるに一片の黒パン、日の入る頃に藻草のひと口といっぱいの泉の水、それだけであった。三日の夜、コラムの部屋にオランとキイルが来た。コラムは跪(ひざまず)いて一心に祈っていた。部屋には、かすかにささやくコラムの脣(くちびる)の音と、土を塗った壁の上に一匹の蠅がいて物うげにうなっている声と、それよりほかに音もなかった。

 オランはあわれみと惶(おそ)れと交った低い優しい声で呼びかけた「師よ、師よ」

 コラムは聞かなかった。口はまだ動いていた、下脣のしたにもつれた髭は弱々しい息とともにふるえた。

 女のように物やさしいキイルが呼んだ。

「父よ、父よ」

 コラムは壁から眼を動かさなかった。蠅はあらい壁土の上にねむそうな声でうなっていた。しばらくは、ぐずりぐずり這っていたが、やがて動かなくなった。ぶんぶんいうゆるやかな暑い声が部屋いっぱいに聞えた。

 オランが言った「師よ、兄弟たちのお願いです、断食をお止め下さい。あなたは御老年です、神様はもう十分に御栄(みさかえ)を得られましたから、どうぞ私どもを安心させて下さい」

 コラムは気がつかないらしく跪いて、灰色の髭の上の脣をうごかしていた、白い髪はまるい石の上から滑りおちる吹雪のように頭から乱れ落ちていた。

 キイルは言葉を添えた「父よ、父よ、あわれんで下さい、私たちは饑(う)えかわくようにあなたのお顔を見たがっております。もう私たちはこのうえ断食をつづけることは出来ませんが、そうかといって、あなたがおいで下さらなければ食事いたす気にもなれません。どうぞ聖者よ、私たちの仲間におはいりになって、おいしく煮(に)えている魚をあがって下さい。私たちはあなたのお眼の祝福を待ち切っています」

 その時コラムは漸く立ってゆっくりと壁の方に歩いて行った。

「小さい黒い生物」コラムはねむたそうに唸ってすこしも動かずにいる蠅に言った「小さい黒い生物、お前が何者であるか私はよく知っている。お前は私の祝福を得るつもりでいるのだろう、私の霊魂をまどわすために地獄からやって来たくせに」

 そう言うと蠅はおもたそうに壁から飛びはなれて「しろき」コラムの頭のまわりをゆるやかに飛び廻った。

「お前はこれをどう思う、兄弟オラン、兄弟キイル」ながい断食と身の疲れのために枯れがれになった低い声で訊いた。

「悪魔でしょう」オランが言った。

「天の御使でしょう」キイルが言った。

 そうすると蠅はふたたび壁にとまって、ねむたい暑い唸りごえを立てはじめた。

 コラムは眼中にきつい色を見せて言った。

「小さい黒い生物、お前がここに来たのは平和のためか、それとも罪のためか、父と子と聖霊のおん名に依って命ずる、返事をしろ」

 壁のうえの蠅はそのとき天井に飛んで行き、くるくると輪を描いて飛んだ。蠅はうつくしい歌をうたった。

 

  神はほむべきかな、ほむべきかな

  しろきコラム、鳩のコラム神をあがめて

  あれたる野を花ぞのとし

  人ごころの汚れの中よりかおり高き燻物(たきもの)を神にささぐ

 

  聖壇の火に燻物のかおり美しくかおる

  荒野のなかにコラム燻物をささぐ、救われたるものみな喜ぶ

  牝牛にも、牡牛にも、コラム天の祝福めぐみをさずく

  そらの鳥にも、人間の眼を持つ海豹(あざらし)にも、

   獺(かわうそ)にまでも

 

  さりとても、天の青くひろき国の御城の中に

  琴ひき等おん栄を琴にひくところに、おん父なる神は物おもいしたまう

  うま酒の川ながるるところに、神は坐したまうて

  大なる剣を折り、塵の中に槍をつきさして、神は物おもいしたまう

 

  星の砂もて消されたるひろき空洞(うつろ)の空をうごきゆく

  かみなり雲の如く、神のおん心に動くおもいは

  「コラムわが名をたたうる為に安息日をつくりたりとも、

   何のいさおにかなる

  コラム空気の深みと海の深みに住むわが子等のことをおもわずあれば」

 

 その歌をうたうと蠅は彼等のまぼろしから消えうせた。部屋の内には、水を越してきこえる遥かな笛の音にも似た珍らしい優しい歌が残っていた。

 オランは惶(おそ)れの低い声で言った「おお、神よ」

 キイルはおそろしさに蒼じろくなって言った「おお、神よ、神よ」

 しかしコラムは立ち上がって壁にかけてあった笞(むち)をとった。しぶい微笑がその黒い髭の中に巣くう鳥のように動いた。

「オランよ、平和のために、キイルよ、平和のために」

 そう言ってコラムはキイルとオランのうな垂れた背に強く笞をあてた、三日間の断食もコラムの強い腕にやどる深い信仰を弱めはしなかった、それは神のみさかえの為とコラムは思った。

 やがて笞うつ手が疲れ切った時にコラムの心に平和が来た、「アーメン」とコラムは溜息した。

「アーメン」オランが言った。

「アーメン」キイルが言った。

「これは、神のみゆるしのないうちに断食を止めて魚を食えと言ったお前方と兄弟たちの罪ふかい願いから起ったことなのだ。見よ、私は不思議を学ぶことが出来た。明日の安息日に、お前がたはこの不思議をまのあたり見るであろう」

 その夜、弟子たちはいろいろに考えた。ただオランとキイルの二人は海の深みの魚を呪い、空気の深みに飛ぶ虫どもを呪った。

 翌あさ、太陽が黄ばんだ海草の上に黄ろく、平和が島の上にも水の上にもあった、その時コラムと弟子たちは徐(しず)かに海の方に歩いて行った。

 海に近い草原に来て聖者は立ち止った。みんなが頭を下げた。

「おお空中の羽ある虫ども、近く寄れ」コラムが呼んだ。

 すると空気は無数の蠅と蚊と蜂と虻と蛾とすべての羽虫の唸りごえで消された。虫どもは動きもせず無言に神を讃えていた弟子たちの上にとまった。「神にみ栄と誉れあれ! 空気の深みにすむ神の子等の安息日を見よ、かれらの上に祝福と平和あれ」コラムが叫んだ。

「平和あれ、平和あれ」弟子たちは一つの声で叫んだ。

「父と子と聖霊の御名によって」神の御栄(みさかえ)を喜んだしろきコラムが叫んだ。

「父と子と聖霊の御名によって」弟子たちすべてがかしこみうな垂れて叫んだ、中にもオランとキイルは深く感じていた、コラムの部屋で見たかの蠅が総大将であるが如く虫の全軍をひきいて不思議な美しい歌をうたっていたから。

 オランとキイルはこの話をした、みんなは驚きと畏れにみたされた、コラムは神をほめ讃えた。

 やがて聖者と弟子たちは其処から進んで岩の上に出た。潮になびく藻草のなかに一同は膝までひたして立った。コラムは叫んだ。

「おお水底の魚たち、ちかく寄れ」

 そう言うと見わたす海のかぎり銀と金にきらめいた。

 海のあらゆる魚たち、大きな鰻ども海老ども蟹どもがすばやく恐しい行列をつくって寄って来た。すさまじい光景であった。

 コラムが言った「おお大洋(おおうみ)の魚たち、お前らの王は誰か」すると青魚と鯖と小鮫とが泳ぎ出て、めいめいに自分が王だと名のった。しかし波から波に響きわたった声は、青魚こそ王であるということだった。

 コラムは鯖に向って言った 「お前の知っている歌をうたえ」

 鯖がうたった、狂暴な海の漂泊者の歌や歓楽の慾の歌であった。

 コラムが言った「罪ふかい魚よ、神のみめぐみがなければ、私はお前を呪うかもしれない」

 それから小鮫にもうたえと言った、小鮫は殺戮のうた猟のうた血のよろこびの歌をうたった。

「お前は地獄に相当している」コラムが言った。

 しずかな沈黙が来た。その時青魚が言った。

「父と子と聖霊の御名によって」

 するとその無数の群衆は海底に沈もうとしておのおのが違ったすがたに鰭(ひれ)を振り尾を振り一つの声にくりかえした。

 “An ainm an Athar, ¸s an Mhic, ¸s an Spioraid Naoimh! ”――「父と子と聖霊の御名によって」

 その時のイオナ海峡の壮観は、神が星の網を水にひかせて網の目ごとにかがやく星がやどり波の背ごとに金の月が流れると見えた。

 しろきコラムは両手をのばして海の深みにすむ神の子等と空気の深みにすむ神の子等を祝福した。

 こうしてイオナの島にすむ生物とイオナの上の空中にすむ生物とイオナをめぐる海中の生物とすべての上に安息が来た。

 コラムのいさおしであった。

                              「三つの不思議」の一節



*   *   *


海豹   フイオナ・マクラオド 松村みね子訳


 神がコラムを永遠の宴に召される一年ほど前のことである。ある夜、兄弟たちの中の最年少者「雀斑(そばかす)」とあだなされたポウルが彼のもとに来た。
「月が星のなかにあります、おおコラムよ、きょう神と共にある老ムルタックは、神とあなたのお心どおり、島の東端のかわいた砂の深みに葬られます」
 そこで聖者は疲れねの床から起きあがり、ムルタックの葬られたところに行って、その場所を祝福した、地に這う虫もいかなる生物も聖き死者に触るるなと命じた。彼は言った「ただ神のみが、神のみが御手ずから造りたまいしものを奪(と)りたまえ」
 帰るみちすがらねむけが去ってしまった。海のうつくしい潮の香がコラムの鼻に入った、彼は体じゅうの血管に波が走るのを聞いた。
 僧房の入口で彼は振りむいて、兄弟たちに内に入れと命じた「平和なんじらと共にあれ」彼は疲れたように言つた。
 それから彼はひとりで海の方に下りて行った。
 近頃になって高僧コラムはたいそうやさしくなって来た。彼が神の子らの最も小さき者なる魚ども蠅どもにまで祝福を与えて以来、そのたましいはより清い焔にかがやいた。その灰色の眼には深いあわれみが宿って見えた。夜なかに彼は目がさめた、神がそこにおいでなされた。
 コラムは老いて真白な頭をひくく下げて言った「おおキリストよ、このよろこび、このよろこび、今こそわたくしの時が来た」
 しかし神は仰せられた「いやコラムよ、今も十字架にかけているコラムよ、まだお前の時は来ない、私が栄光(さかえ)に連れて行こうとする霊は、ムルタックだ、むかし曾てドルイドであったムルタックだ」
 その時コラムは懼れ悲しみつつ立ち上った。部屋には灯がなかった。深い暗黒のなかに彼の霊がうなだれた。しかし、心のうつくしさが彼の身のまわりに和らかい光を与えた、その徳のかがやきの中に彼は立ち上がってムルタックの寝ているところまで行つた。
 老僧ムルタックはまことに眠っていた。うつくしい息をついて――今わかく美しくなった彼は天の林檎の樹の下で平和に笑っているのであった。
 コラムは叫んだ「おおムルタックよ、曾てお前がドルイドであった為、また、お前の異教の同族(みより)が悔い改めないで殺されるのをお前が見るのをいやがっていた為に、私はお前をわが兄弟たちの中の最劣等者と見ていた。しかし、まことに、私はこの年になって何も知らないで教えられる少年のようになった。神よ、私の生涯からたかぶりの罪をあらい清めたまえ」
 そういうと和らかい白い光が翼ある美しいものの姿で、死者の側に立った。
「あなたはムルタックか」コラムは深く畏れて囁いた。
「いや、ムルタックではない」消えてゆく歌のような息がした。
「あなたは誰か」
「私は平和だ」その栄光(ひかり)が言った。
 コラムは跪(ひざまず)いて、歓びにむせび泣いた、曾(かつ)てあり今はもうない悲しみのために。
「おお真白き平和よ、きかせよ、神のいます林檎の樹の陰にいるムルタックに私の声はきこえるか」
「神の愛はあちこちに吹く風である。言え、お前は聞くことができる」
 コラムが言った「おお兄弟ムルタックよ、教えてくれ、私はどんな風にして、まだ神を十字架にかけているのか」
 そのとき部屋のうちに物音がきこえた、子供たちの朝の笑い声にも似た、鳥のうたう声にも似た、天の青い野をとおして日光の流れるにも似た物音が。
 やがてムルタツクの声が天からきこえて来た、やさしくやさしく。その声は蜜のように優しかった、そして栄光の深い惶(おそ)れに包まれていた。
「キリストのしもべコラムよ、立て」
 コラムは立った、一枚の葉のように、風のなかにある一枚の葉のように。
「コラムよ、まだあなたの時は来ない、天の門が深く根ざしている深淵の中なる永遠の生命の泉のましろい光に浴している私は、それを知っている」
「おおムルタックよ、私の罪は、罪は?」
「あなたが悔い改めないから、神は待ちくたびれておいでなされる」
「おおわが神、わが神! ムルタックよ、もしそれが真実なら、それが真実にちがいない、しかし、それは私の知らない事だ。私は凡ての男にも女にも祝福を与えた、獣類にも、鳥にも魚にも、地に這う物にも飛ぶものにも、みどりの草にも茶いろの土にもさかまく波にも、吹き来り吹き去る風にも、焔(ほのお)の不思議さにも、すべてに祝福を与えた! 私は自分の罪のためにいつも悔いている、たった一つの罪のためにも断食をし祈りをした、かなしい哉――私は呪われている、何の罪が私を抑えているのか」
 するとムルタックは、そのあたりをまぶしくも美しく見せた幸福の涙の虹と美しい夢の奥から声をひびかせて、また言った。
「おおコラムよ、あなたは盲目だ。いつかあなたは黒い大きな海豹(あざらし)を捕えた、それは呪文によって姿を変えさせられた人間であったが、あなたは弟子の僧たちと一緒になってその男を大岩の上で十字架にかけた、むかしあなたの小舟が始めて岸に着いたほとりで。あなたはそれを悔い改めたか」
「おお神に愛されたるムルタックよ、天地の王なる『彼』にあなたから言いわけをしてくれ、黒きアングウスと呼ばれたあの海豹は人間の女に罪を犯したものだ、そのために、霊魂を持たぬ海族の子がひとり世に生れている」
 それには返事がなかった、あたりを見廻すと、和らかい光は消えてただ老僧ムルタックの骸のみが残った。コラムは重い心を抱いて、たましいは苦痛の海に沈んでゆく小舟のような気持で、身をかえしてそとの夜のなかに歩み出た。
 そとは美しいすばらしい夜であった。月は海の上に低く下りて、さざなみ立てて走る水の流れる金とかがやく銀とはその月の方に流れゆく洪水となって、輝くうつろのまばゆさの中に落ち込んでゆくかと見えた。
 海草を踏みながら、老いたる聖者は疲れかなしみ歩いて行った。砂のほとりまで来て彼は立ち止まった。岩の上に一人の女の子がいた。その子は裸体で、和らかい白い月光を身にまとうていた。髪には黄ろい海草をかぶり、それが月の輝きに金いろに光っていた。両手で大きな貝を持って、その貝に彼女の口をつけていた。歌をうたっていた、海の楽のひびきがふくまれて、聞くに痛みを覚えるほどの美しい歌であった。

  わたしはさびしい小さい子
  たましいのない子
  神はわたしを家もない波のようにおつくりなされた
  あてもない波のように

  わたしの父はあざらし
  人間の身を変えたあざらし
  母は父をいとしう思うた、人間の
  姿でもない父を

  父は波を立てて母を沈めた
  母は波に乗って父を浮かせた
  まぼろしの陰でわたしは生れた
  暗い海のみなそこで

  照る陽の青いうつくしいあいだは
  わたしはみどりの波間にすべり泳ぐ
  ひるまのうちはかなしい陸は
  わたしの眼にはいらない

  やみが波の上に来れば
  わたしは貝を持って陸に来る
  岩に腰かけてわたしは
  さびしい歌をうたう

  おおわたしがうたう狂わしい歌はなに
  あやしい暗いこころの歌は
  わたしは霊のない子、わたしは海の波
  霊のない子のうたをうたう

 静かにコラムが近よった。
「平和なれ」コラムは言った「平和なれ、おさない者よ、ああ、優しいおさな心、平和なれ」
 子供はかすむ海のようにひろい目をあけてコラムを見た。
「あなたは聖者コラムか」
「いや、仔鹿よ、真白いおさなごよ、わたしは聖者コラムではない、神を知らないあわれな愚人(おろかもの)コラムだ」
「おおコラムよ、あすこの渦巻のなかに住む海の女となったわたしの母を呪ったのは、あなたか」
「ああ神よゆるしたまえ」
「おおコラムよ、わたしの父を十字架につけたのはあなたか、曾て人間であって黒きアングウスと呼ばれた父を」
「ああ神よゆるしたまえ」
「おおコラムよ、この国の子供たちがわたしを見て逃げるようにしたのはあなたか、わたしが霊魂のない子だと言って、海のあやしい力でほかの子供を青い波間にひき入れるかも知れぬと言って」
「ああ神よゆるしたまえ」
「おおコラムよ、それは神のおん栄光(さかえ)のためか」
「おお、神は御存じである、今宵死んだムルタックからもお聞きとりなさるであろう」
「見よ」
 コラムは見た、彼は月光の波間に人間の海豹、黒きアングウスが黒く浮いているのを見た、その丸い頭にある目は愛の眼であった。おとこの海豹の側に見目うつくしい女が泳いでいた。女はよろこびを以て男を見、自分のうみの子を見、そしてコラムをも見た。
コラムはそのとき跪(ひざまず)いて叫んだ――
「わたしを呪ってくれ、あら海の女」
「コラムよ、平和なれ」彼女は答えて、陰影のかさなる波に沈んだ。
「わたしを呪ってくれ、黒きアングウス」悲しみに震えながら聖者が叫んだ。
「コラムよ、平和なれ」おとこの海豹は答えて、海底(ふかみ)の暗い静かさの中に沈んだ。
「ああ、このくるしみ! おさなごよ、神にゆく道を教えてくれ」老いたるコラムは霊を持たぬ子の方に振り向いて叫んだ。
 その時、見よ、栄光(さかえ)と不思議があった!
 なぐさめるような眼でコラムを見たのは小さい裸体の子であったが、髪に海草も交らず、小さい両手に貝も持っていなかった。今、そこに立っているのは男の子であった、内からの光にひかり輝いて、日光のような金髪には茨の冠をかむり、片手に大きな真珠を持っていた。
「おお、わが神、キリスト」コラムはきえぎえの声で言った。
「コラムよ、今こそこれはお前の物だ」その子は白くかがやく大きな真珠をさし出した。
「おおわが神よ、何を下さるのか」神の老いたる僕(しもべ)は歓びに満ちてささやいた「今、わたくしに、何を下さるのか」
「まったき平和」                      「三つの不思議」の一節