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[やぶちゃん注:本稿は南方熊楠が出版を企図していた『続々南方随筆』の原稿として書かれたものであるが、結局、未発表に終わった。ちなみに『続南方随筆』の刊行は大正15=昭和元(1926)年11月で、南方熊楠の逝去は昭和16(1941)年12月29日である。但し、『南方閑話』(1926年2月)、『南方随筆』(同年5月)、『続南方随筆』と、この時期の出版は矢継ぎ早であることから、かなり早い時期から書き溜めていたと考えてよいと思われる。底本は1985年平凡社刊「南方熊楠選集 第五巻 続々南方随筆」を用いた。なお、本稿は残念ながら未完(原稿消失?)である。一部に後注を附した。]

 

安宅関の弁慶   南方熊楠

 

 伴蒿蹊の『閑田耕筆』二に、「弁慶、義経を打ちて人の見咎むる難を遁れしこと、『義経記』にみゆ。世にも伝うる話なり。『鶴林玉露』の内、三事相類すという条下に記されし事状、全く同じ。ここにしては四事相類すというべし、云々」とある。『耕筆』より四十四年ほど前(宝暦五年)出た新井白蛾の『牛馬問』にいわく、「義経奥州下りの時、安宅の関にて、弁慶、義経を打ちたるという、云々。謡などの作意にて、実はなきことなり。さて、晋の成都王、名は穎という者反(そむ)く時に、晋帝この害を恐れて、京を潜幸あって、河陽の渡りに至る。津吏(わたしもり)これを咎めて河を渡さず。時に宗典という臣下、跡より来てこの様を見、すなわち鞭を揚げて帝を打っていわく、津の長吏(ぶぎょう)は非常の奇を止め禁ずるの役なり、汝今留められて急ぎの道を妨げ、貴人に似たる奴(やっこ)かなといえば、津吏も釈して通しけるとなり。弁慶、義経を打ちたるとは、これより作りたるにや」と。蒿蹊の言に随えば、こんな話が今二つ支那にあるのだが、只今『鶴林玉露』を持たぬから手が及ばぬ。持ち合わせた方は教えて下され。

 この一件、『義経記』七には如意の渡しで渡し守平権頭に、謡曲「安宅」には富樫介の安宅の関所で、「笈探し」の舞の本には鼠つきの関守井沢与一に、答められた節のこととした。河陽の渡しに倣うて如意の渡しと書いた『義経記』が、謡曲や舞の本より古いと判る。白蛾は宗典が主君を打った話を何の書でみたか。たぶん記臆のまま書いたらしい。それに帝と言ったは 琅邪王睿[やぶちゃん注:「ろうや-おう-えい」と読む。]で、この時まだ帝位に即かず、後に東晋の中宗元皇帝と立ったのだ。宗典が琅邪王を打ったは、弁慶が義経を打ったという年より八百七、八十年早い。白蛾が述べた譚の本文らしいのは、『淵鑑類函』鞭二に、蕭方等の『三十国春秋』を引いて、成都王穎、黄門孟玖を誅す、ここにおいて東海王越、高密王簡、みな懼れて国に奔る。琅邪王睿またまさに出でんとす。しかして徼禁[やぶちゃん注:国境を越えることを禁じることかと思われる。]はなはだ密なり。穎またまず諸津に下して禁止し、諸貴人河陽に至ればすなわち拘せらる。宗典後れ至り、鞭をもってこれを払うていわく、舎の長官貴人を禁ず、しかして爾(なんじ)拘せらるるや、と。よって大いにこれを笑う。吏すなわち放ち遣る、よって帰国するを得たり、云々、というのだ。

 この筋の譚で欧州に生じたのは、十四世紀の初めごろ成った『ゲスタ・ロマノルム』一八〇章で、ロンゴパルジの史家パウルス(八世紀)が書いたは、ロンゴパルジ王ゴドベルトをラヴェンナの君ゲリバルズスが弑した時、王弟ポルタチクスは、べネヴェントの君グリムモアルズス方へ奔り、自家の臣オヌルフスの斡旋で和睦した。しかるに讒言を信じてグリムモアルズスたちまちポを殺そうとて、まず人をしてポに酒を勧め大酔せしめた。オヌルフスこれをきき郎党一人を率いてポの家に入り、ポの身代りに郎党を褥を被って[やぶちゃん注:「郎党に褥を被させて」または「郎党をして褥を被さしめて」の誤記か。]臥さしめ、ポを郎党の体に作り立てて伴れ出で、叱ったりどやしたりしたから、ポルタチクスの邸につけあった番卒も怪しまず、平凡な郎党と思うて看過ごした。それからオヌルフスが主人を石垣の上に立てた自宅へ伴い、縄で吊り下ろしたから、主人ポルタチクスは拾い馬に乗って仏国へ遁れた。明朝事露われて、オヌルフスと郎党をグリムモアルズスが糾明すると、ありのままに白状した。陪席の輩いずれも死刑が相当と判じ、磔殺すべしとも生きながら皮を剥ぐべしとも言った。グリムモアルズスは、われを作った上帝も照覧あれ、この二人は処刑すべからず、その不撓の忠誠は洵(まこと)に褒美すべきものと言って、おびただしく賞賜するところあった、と。[やぶちゃん後注]

 同じことをしても、やり方の少しの手加減と、相手の気質のちがいで、もってのほかの悪結果を致した例もある。唐の昭宗が寿王といった時、兄の僖宗に従って黄巣の乱を蜀に避けた。急なことだったゆえ諸王多くは徒(かち)で歩いた。山谷中で寿王疲れて進む能わず、石の上に臥した。ところへ、宦者田令孜来たり、速く行け、というた。王は、足痛むから幸いに一馬を給せよ、というと、令孜が、この深山に馬があるものかとて、鞭で王を打ち進めた。王顧みて言わず、心これ銜(ふく)む。即位に及び、人を遣わし西川軍を監せしむるに、令孜詔を奉ぜず、とあって、トドの詰りはどうなったか知らぬが、むかし鞭で打たれた仕返しに、帝は令孜をたしなめんとし、令孜は抵抗して、大捫択(もんちゃく)があったらしい(『淵鑑類函』鞭四)。

 鱗長の『猿源氏色芝居』、木曽路の流人籠の章に、官女奉公の詰まらなさを述べたにも増して、宦者の多くは貧乏な親が糊口のために幼い子を宮した者で、満目みな花なる美姫の中に常住しながら、提燈で餅を抱いても何ともならず。したがってわが一生を廃物にした親を怨んで骨髄に徹する者多し。明の時、「中官初めて選に入り、東華門を進む。門内に橋あり、皇恩橋という。これよりすなわち意を受くるの謂(いい)なり。俗に呼んで亡恩橋という。中官すでに富貴となれば、必ずその所生(おや)に讐いるをもってなり。けだしこれを恥とするなり」。自分を生んだ親にさえ不足はなはだしい上は、一切の他人に酷薄残忍なは固(もと)よりその所で、胃癌で飲食の成らぬ者が美酒珍膳を破棄するごとく、威勢を濫用して不自然に貴人の羨む美女を淫し、はなはだしきは強辱するもある。その初め、人主の勢力無限で無用の妻妾を多く蓄え、一人も他人に触れしめざるべく、男子の睾丸を抜き去って監視の役を勤めしめ、婦女にのろければのろいほど宦者を寵用し、これに信頼すること骨肉にも勝り、ついには定策国老門生天子の号を事実に挙げしめたので、支那といいローマといい、東京(トンキン)といい回教諸国といい、宦者のために亡びたり衰えたりしたは、上一人の情慾を擅(ほしいま)まにせんとて、多くの男子去勢した輪廻で自業自得、宦者輩の立場より言わば、窮して後に大いに通じたのだ。されば田令孜が寿王を鞭打ったも、不断睾丸分配の不公平に対する鬱憤の勃発せるもので、気の毒千万な訳もある。(『日下旧聞』七および三八補遺。一八一一年板、ピンカートン『水陸紀行全集』八巻一○八頁、九巻六九〇頁。関徳氏標註『十八史略校本』五。一七一八年板、アンション『閹人顕正論』)

 事(こと)倉卒に聾しって諸王多くは徒歩し、一疋の馬もない所で馬を給せよと寿王が望んだは無理な注文だが、すべて貴人は世事に疎いから、この深山にいずくんぞ馬あらんやと言い放って鞭打たれたのを憤ったも、もっともなことだ。むかしカムボジア[やぶちゃん注:底本にはここに編者注で〔以下欠文〕とある。]

[やぶちゃん後注:本段落に現われる人名地名の現行の呼名などを注しておく。まず「ロンゴバルジ」は「ロンゴバルド」(英語読み)もしくは「ランゴバルド」(イタリア語読み)“long beard”、ゲルマン系民族で、568年に族長アルボイーノに率いられた一族がイタリアに侵攻、571年にパヴィアを首都とした王国を建国、その後、イタリア中南部にスポレート公国とベネヴェント公国を建国して、イタリアを席巻した(後、カール大帝のイタリア侵攻によってロンゴバルドによる支配は終わる)。本文に現われるロンゴバルド王「ゴドベルド」=「ゴデベルド」“Godeberto”はロンゴバルド支配の中期の王で、治世は661〜662年、後継者はやはり本文に登場している人物と同一人物と思われる「グリモアルズス」=「グリモアルド」“Grimoaldo”(治世662〜671年)である。「ベネヴァント」は「ヴェネチア」のことである。]