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鬼火へ

[やぶちゃん注:昭和十七(1942)年七月刊の「芥川龍之介研究」(山崎武雄(大正文学研究会)編による河出書房刊行本かと思われる。底本全集には注記なく、未確認。)に掲載された。底本は昭和五十二(1977)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集」第十一巻を用いた。]

 

芥川龍之介の小斷想   萩原朔太郎

 

 芥川龍之介ほど、多くの矛盾した毀誉褒貶の批評を受けてる文學者はない。或る人は彼の文學を典型的の近代小説と評し、他の人はそれを一種のエツセイにすぎないといふ。一方では彼を詩人と稱し、彼の作品を散文詩だといふ人があるに對して、一方では反對に、詩的情操なんか少しもなく、素質的に詩を持たなかつた文學者だといふ人もある。或る人は彼を天才と呼び、或る人は單なる秀才に過ぎないといふ。前者は彼を聴明な知性人で、すぐれた頭腦を持つた思想家だといふに對し、後者は單なるぺダンチストで、思想なんか少しもなく、生意氣な中學生といふ程度の、幼稚な頭腦者に過ぎないといふ。さらに或る人々は、彼の作品を主観の熱烈な告白であり、眞のヒユーマン・ドキユメントであると評し、他の人々は反對に、全然自我の生活を書かないヂレツタントで、人生の皮肉的傍觀者に過ぎないと誹謗する。さらにまた或る人々は、彼の文學がすべて小常識の概念であり、初等数學的に割り切れ過ぎるといつて輕蔑し、他の人々は反對に、不思議に理解できない神秘の謎が、一種の捕捉しがたい悽愴の鬼氣を感じさせるといつて驚歎する。(山岸外史君の著書「芥川龍之介」は、芥川文學のミステリイについて、新しい獨創的の批判を述べてる。)

すべて之等の矛盾した、兩極的に正反對の批評は、芥川龍之介の場合に於て、各一面の眞理をもつてる。實際彼は、聖德太子の聴明さと中學生の子供らしさを、文學的性格の兩面に素質して居た。非常に發育した成人の頭腦が、非常に未熟な發育不全者と同居した。純粹を求める詩人的性格が、それを全く否定するやうな心情の中に雜居して居た。そしてまた彼の文學は、實際に小説でもあり、エツセイでもあり、同時にまたそのどつちでも無かつた。

 彼は名譽の絶頂に死んで、不名譽のどん底に突き落された。青少年の時、彼の文學に魅惑されて、その崇拝者の書斎に群集した多くの青年や學生が、彼の死後になつてから言つてる。何であんな文學に感心したのか、今になつて考へると馬鹿馬鹿しく、我ながら腹が立つと。だがそれにも關らず、彼の本當の名聲は、今日尚少しも衰へては居ない。依然として今日でも、彼の作品は多くの知識階級者や學生の讀者をもつてる。そして以前よりも、もつと多くの新しい讀者を、もつと社會の廣汎な層に擴大して居る。年々歳々、彼の讀者は大衆の中に普遍して來る。東西古今を問はず、すべての優れた藝術品が、必然にさうした運命を持つてる如く。――おそらく彼の文學は、永遠に「新しいもの」であるかも知れない。

 およそ文學者には、評家から見て二つの異つたタイプがある。一つは「問題を持つてる文學者」であり、一つは「問題を持たない文學者」である。たとへば佛蘭西の詩人の場合で、ボードレエルは前者に屬し、ヹルレーヌは後者に屬する。十九世紀から二十世紀にかけ、いかに多くの評論家が、いかに無數のボードレエル論を書いてることか。これに反してヹルレーヌが、極めて少數の人々にしか稀れに評論されて居ないか。けだしその理由は明白である。前者の詩文學の内容には、時代の一切の問題を含んだところの、無數の宿題やトピツクが實質されてる。さうした文學的實質は、これを分析すればするほど複雜であり、いかに論じても論じ表せないところの、無限の謎と興味を人々に與へるであらう。これに反して後者は多くの批評家が言ふ通り、「眞の詩人中の眞の純粹の詩人」であり、しかもその絶贊の評語によつて、一切が解決され盡してゐるのである。ヹルレーヌの詩については、世界の多くの人々が、ボードレエル以上の魅力を感じて居る。すくなくとも純粹性といふ點では、彼はボードレエル以上に評價されてる。だがそれにもかかはらず、多くの人々は彼に評論的の興味を持たない。なぜならヹルレーヌの詩は、純粹すぎることによつて、問題を含んで居ないからである。

かうした二つのタイプは、日本の文學者の中にも普通に見られる。だが、明治大正時代の作家の中で、最も多くの「問題を持つた作家」は、おそらく芥川龍之介であるだらう。彼はボードレエルと同じく、評家によつて、無限に盡きない興味の對象人物である。すくなくも大正時代の日本文化と、その時代の或る社會思潮を表象するところの、多くの「問題」が彼の作品に内容して居る。しかもその問題の多くは、今日尚未解決のままで殘され、近い未來にまで繼續して、宿題を殘すものである。そしてその限りに於て、彼の文學は長く人々の興味をひき、決して退屈されることがないであらう。その上もつと面白いことは、毀誉褒貶の兩極端から、どんなにも價値を評價することができるところの彼の文學の不確定性にある。

 

(以上小論したことは、僕の芥川龍之介論の序論にすぎない。もし本論に入るとすれば、少なくとも百枚以上の原稿紙が必要になるかも知れない。だが今の僕は暫らくその機會を保留したい。)