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明日の道德   芥川龍之介

[やぶちゃん注:底本は岩波版旧全集を用いた。これは大正十三(一九二四)年十月發行の雑誌『教育研究』に掲載されたものであるらしい(同全集後記によると当該雑誌未見にして、当該雜誌の切り抜きに拠ったとの記載がある)。同全集後記に、従来の全集には文末に「(大正十三年六月十日 第二十二囘全國教育者協議會にて)」とあるとする。鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」の該当日には、この講演の記載の後に、小石川偕楽園での「新潮合評会」に出席、とあり、本文中の「今日の二時から出席する會」というのがそれに当たる。]

 

明日の道德

 
 今日は遲くなりましたが、實は十日の午后三時と云ふのを、どう云ふ譯けか、十三日の午后三時と記憶して居りました故、今朝速達を頂きまして、びどく驚きました。それに今日の二時から出席する會がありましたので、愈々狼狽して、其の方を一時間待つて貰つて、午前中に原稿を作つて、周章て馳參じた次第であります。從つて話も纏らないと思ひますが、其邊は寛大に御聞逃しを願ひます。元來余[ヤブチャン字注:ママ。]り纏つた話の出來る柄でありませんが、あなた方も私共も大欒似寄つた職業――職業と言つては失禮か知れませぬが、マア天職と言つても差支ない。兔に角似寄つた天職に從事して居る。違ふのは唯あなた方は大人よりも聽明なる小學校の子供を教へ、私は小學校の生徒よりも聽明ならざる大人に、小説を讀まして居るだけであります。其の略ぼ似た同職の者が、今日の倫理問題と云ふか、道德と云ふか、それをどう考へて居るかと云ふ點に付て、多少興味を繋いで御聽き下されば、仕合せと思ひます。もう一つ序に御斷りして置きますが、私はあなた方と同じ職業に從事して居ると申しましたが、私は小説を書いて居るのであります。小説と申すも烏滸がましいが、世間で小説と言つて居りますから、小説と申しますが、兔に角小説と稱せられるものを書いて居ります。從つて私の話の中に、興味のない文藝上の話が出て來るかも知れませぬ、それは私の職業上已むを得ないと御諦めを願ひます。味噌の味噌臭きは何とかと申しますが、どうも已むを得ない事と思ひます。又私の演題を早く通知するやうにと云ふ、御手紙を頂きましたが施行した爲めに怠りましたので、私の演題はと後を見て書いてあると、大變都合が宜いが、私の不行屆の爲め書いてないので、誠に殘念に思ひます。

 私の演題は明日の道德と云ふのであります。此の明日と云ふのは、今日の次ぎの日の明日と云ふ意味ではありませぬ、即ち次の時代と云ふ意味でありますが、此の次の時代と云ふ意味にしても、何年經つた後の時代かと云ふと、甚だ曖昧であります。今日の中に明日があつたり、明日の中に今日があつたりするかも知れません。併しそれは極く相對的に、唯今日、明日とお考へ下さるやうに願ひます。

 明日の道德を考へる前に、昨日の道德を考へて見ますと、昨日の道德はどう云ふものでありませう、先づ大握みに明治前の道德はどう云ふものかと云ふと、それは色々な人が言ひますやうに、封建主義の道德であります。此の封建主義の道德は、今日の目より見ますと、甚だ實際を離れた、或は甚だ理想的に出來上つた、實踐上困難な道德であります。と申しますのは、忠臣孝子烈女と云ふが如き、理想的の人物を一つ目安に立てて、其の典型的人物に、己れを合せしめるに努力するのでありますが、なかなかさう云ふ道德的標準から見て、完全な行爲は出來難いのであります。昔の本を見ますと、殊に德川時代の本を見ますと、今日の目からは滑稽な事があります。私の友人の菊池寛と云ふ人の書いた、小説の中に、將軍家の御通夜の晩に、小姓が笑つた爲めに、遂に腹を切らなければならぬと云ふ事がある。此の笑ふと云ふ事は如何なる場合でも、起らないとも限りませぬ。殊に私のやうな神經質の男は、笑つてはならないと云ふ事になればなる程おかしくなる。是は餘談でありますが、私が大學を卒業する時に、今の天皇陛下が御臨場になりまして、吾々も卒業證書を貰ひに行きましたが、夏服がないので――別に貧乏であつた譯でないが、まあさう云ふ趣味であつたのです。――裸體の上に冬服を着て出掛けましたが、何しろ七月十日だから堪らない。式場に花氷が立つて居つたので、それをナイフで壞はして、ハンケチに包んで脇の下に挾んで居りましたが、愈々山川級長の祝辭となるとおかしくて弱つた事があります。是が昔であつたら、私は腹を切らなければならぬ場合であります。さう云ふ封建時代の道德を成立し或は保存せしめたものは何でせう、成立し或は保存せしめたと云ふのは封建時代の道德の本質と云ふ意味でありませぬ。封建時代の道德は、それがなければ成立しないと云ふのでない。成立せしむるに便宜であつた原因、或は原因と云ふよりは條件と言つた方が宜い、その保存せしめた條件は何かと申しますと、それは色々ありましたらうが、最も著しいものを引出すと、批判的精神の缺乏ではないかと思ひます。この批判的精神の缺乏の現れ方を觀察すると、先づ縱に時間的に考へれば、吾々から遠ざかつた過去の人間、即ち過去の忠臣、過去の孝子、過去の烈婦と云ふものを吾々と同じ血肉を具へた人間だとは考へずに、何か神樣の生まれ代りのやうに考へるのです。例へば儒者が唱へる堯舜の如きは、其一例でありますが、存在したかしないか疑問な人物に、完全無缺な德を備へさして、後世の人がそれに追付かうと努力するのであります。が、更に又横に空間的に考へると、自分の居る町を離れては、交通機關が不便でありますから、山の向ふには八犬傳の中の人物が、向ふ三軒兩隣に住んで居るが如き感じを起したのです。況や萬里の波濤を隔てた支那などには二十四孝と云ふ事も實際あつたと思つたでせう。それで縱と横の説明は付いたが、その外に昔は士農工商と云ふ階級があつて、上の階級を町人から見れば、大名或は御三家、御三卿、將軍家と云ふものはどんな人間だかわからなかつた、餘程前でありましたが、偶然讀んだ本の中に、昔大名が參覲交代の途中甚だ尾籠な話で恐縮しますが、大名でも糞をするので、大名が糞をすると云ふ事を士分以下の者に見せては危險と解繹したかどうかは知れませぬが、兔に角威嚴に係るとは思つた。しかし東海道五十三次を我慢する事も出來ませぬから、一々取つて砂の入つた樽に詰めて、之を江戸なり國なりへ送つたさうであります。元來階級的差別があつて、上の人は吾々と同じ人間かどうか分らないものになつて來た上、さういふ人工的方法を加へて、人間性を蔽ふに至つては、分らなくなるのは當然と思ひます。それ等の原因の合した結果、生まれて來たものが昨日の道德であります。

 而して其の昨日の道德に取つて代つたものが、今日の道德でありますが、其の昨日の道德が如何に實際離れのした餘り、理想的であつたかを証據立てるのは、申し合せたやうに維新の先覺が批判的精神に充ち滿ちたリアリストだつたことであります。日本に適當な言葉はありませぬが、西洋人の言葉を使ふと維新の先覺の言葉を見ると、何れも、批判的精神の發揚して居る。例へば林子平が、日本橋の水は英國のテームス川に通じて居ると言つた事がありますが、其の言葉も今日から考へれば、馬鹿々々しいほど當り前の話であります。併し其の言葉が當時の人には、言ふ可らざる新しい刺戟を與へた事と思ひます。其の刺戟を與へたと云ふ事は、如何に當時の人心が、批判的精神を失つて、理想的に或は空想的になつたかを證明するに足ると思ひます。斯う云ふ事を擧げれば制限なくあつて、講演が長くなりますが、長州の村田淸風が初めて東海道を通つて富士山を見た時に、何とかして聞くより低し富士の山釋迦や孔子も斯くやあらんと言つた。是も富士の山の面目を誇張なしに見たものと言つて差支へないと思ひます。

 扨日本の昨日の道德は大體上に述べた通りでありますが、一體昨日の道德と申すものは今日の道德と一致するものでありません。何しろ今日の道德は昨日の道德の反動として生まれて來るのですから、一致しないのも當然であります。併し此處に妙な事がある。成程昨日の道德は今日の道德と一致しない。けれども一昨日の道德とは兩立する可能性を持つてゐます。前に妙な事があると言ひましたが、實は妙でも何でもない。もし今日の道德を昨日の道德の反動とすれば、その昨日の道德は一昨日の道德の反動でせう。すると今日の道德は一昨日の道德の反動の又反動ですから、自然と一昨日の道德と兩立することも出來る筈です。これは道德ばかりぢやない。文藝の歴史に徴して見ても、浪曼主義が極點に達すると、その反動として自然主義が生まれる。その又自然主義が極點に達すると、今度はその又反動として新浪曼主義が生まれる。新浪曼主義と浪曼主義とは名前の示してゐるやうに兩立する可能性を持つてゐます。

 日本の今日の道德もやはりこの原則に洩れず、昨日の道德と兩立しません。封建時代の道德と、封建時代以後の道德と打當つた例は、細に歴史を調べたら多いでせうが、文部大臣の森有稽が暗殺された如きは、二つの道德の衝突を表徴した事件でないかと思ひます。斯やうに前時代の道德と、後の時代の道德は衝突しますが、新しい道德を捕へるものは、山の中でも高い山にだけ朝日が當るやうに、時代の先覺でなければ、新しい光を受ける事が出來ない。其の時代の先覺者は新しい道德を捕へて居るに拘らず、賢明なる民衆は、光を捕へ損ふのであります。それでありますから、實際社會状態に就いて見ると、其の時代の道德と、其の次の道德は同時に其社會に存在し得るのであります。私は今年三十三歳でありますが、私の小供時代の道德は、今日から見れば、封建時代の道德が澤山に殘つて居りまして、其爲めに尠からざる迷惑をしたのであります。其の最も著しい例は、最近外の物にも書きましたが、私は小學校の時代に、二宮金次郎を教へられました。金次郎のおやぢ、――おやぢと言つては失穩でありますが、お父さんは如何なる人か分らない。兔に角貧乏であつた事は事實であります。それが爲めに金次郎は、田を植ゑたり草鞋を作つたりして、其の問に本を讀んで、あゝ云ふ偉い人になつたと教へられました。私共も金次郎の轍を履んで、如何なる難儀辛苦しても、本さへ讀めば偉くなる事と思ひましたが、併しあれは今日考へると、親の爲めには甚だ都合が好くて、子供の爲めには都合が惡い道德であります。今日は不幸にして小學校の教科書を失つて、讀む機會がありませぬが、金次郎を讃美[ヤブチャン字注:ママ。]する前に、田を植ゑたり草鞋を作つたりしなければならぬ家庭に、金次郎を陷れた、金次郎の父並に母に憤慨を感ずるだらうと思ひます。又事實憤慨を感じつゝある事も事實であります。併し斯の如き舊時代の道德は過去つて、新しい道德が來た、之を私は今日の道德と申すのでありますが、其の今日の道德とは如何なるものかと言ふと、一言すれば個人主義の道德であります。是も前に申上げたやうに、個人主義の道德の本質でない。それを成立せしめる條件、それは何かと云ふと、前の封建時代の道德を成立せしめた、批判的精神の缺乏の當然の歸結として、批判的精神の覺醒であります。吾々は今日は前に述べた如く、時間的にも、空間的にも、階級的にも昔の人の考へた如き、忠臣、孝子、烈婦の存在を信じませぬ。尤も大體は信じないにもせよ、一部は信じてゐるかも知れません。斯う云ふ事を申して居ると、話が段々延びますが、後の話に關係があるから申し上げます。成程吾々は忠臣、孝子、烈婦の存在は信じません。併し西洋の藝術家は皆日本の藝術家より偉いかの如く信じてゐます。あれは空間的に批判的精神に目醒めてゐないものぢやないでせうか。又昔の藝術家は皆今の藝術家より偉いかの如くも信じてゐます。あれは時間的に批判的精神の缺乏してゐる證據でせう。更に又資本家と言へば悉惡魔、プロレタリアと言へば悉善魔、――善魔と言ふのは可笑しいが、兔に角虐げられたる神の子の如く考へるのも、階級的に批判的精神の目覺めないと申しても宜い。

 では今日吾々の批判的精神を目覺めさしたものは何かと云ふと、それは色々な原因がありますが、其の一つ著しいものを引出すと、大體に於て西洋文明の恩惠と云つても差支ないと思ひます。之を文藝に徴しますと、自然主義の文藝の功績と申して宜いと思ひます。私は常に自然主義文藝の惡口を言つて居りますが、功績は功績として認めたいのです。もし日本の文壇が硯友杜の文藝以上に出なかつたとしたら、吾々は到底今日ほど自由の精神を感得する事は出來なかつたらうと存じます。日本の文壇の歴史から云つて自然主義以後の時代――私が高等學校、大學に居つた時分は、舊い道德に代つて新道德が興つて、勢のよい氣分に滿ち/\た時代であります。其時分の色々の出版物を見て、一番澤山出た言葉は何かと云ふと、「我」といふ言葉でありまして、何事も必ず「我」を主張したのであります、雜誌には「エゴ」即ち「我」といふのが出る。本には京都の朝永三十郎氏の書いた近世に於ける「我」の發達史等といふものが出る。後年菊池寛が「我鬼」といふ小説を出版したが、あれもその名ごりであります。共時分の事で最も私の記憶に殘つて居りますのは、私が高等學校に居りました頃、校長は新渡戸稻造氏で、同氏の倫理の講義を聽きましたが、(實は時々休んで、人に返事をして貰つた事もあります。併し先生の講義は非常に評判が宜いので、兔に角聽く事は聽きました。)或日其講義中に斯う云ふ事を云はれたのです。人間は色々汚いものを有つてゐるから、友達同志でも醜いものを遠慮なくさらけ出し合ふと、互に愛想が盡きて世は成立ない。あの男も此の位下等か、自分も其の位下等で宜いと云ふ樣な事で、滔々として墮落すると言はれた事があります。私は之を聽いて非常に憤慨しました。其の憤慨は時間にすると、彼是三四年連續しましたが、今日では新渡戸先生の言葉に、よし多くでないにしても、多少の眞理を認めて居ります。併し其の當時は、吾々自身が幾ら見惡いものを有つにしろ、それは有つてゐる事は事實である、事實を糊塗するのは怪しからんと思ひましたから、それ以來倫理の講義を休むことにしました。と言つても新渡戸先生を攻撃するのではないのですよ、如何に其の當時吾々が有りの儘の我を尊重したかと云ふ事の爲めに、例に引いたのみであります。

 今日は個人主義の道德が天下を支配して居ります。現在吾々は或程度迄卑しさは互に認めて居ります。併し昔の人は、自分の弱點を口に出さなかつたのみならず、人に知られる事を欲しなかつた。自分自身でも自分に弱點の存在する事を、否定せんとしてゐた。併し今日の吾々は平然と弱點をさらけ出して居ります。甚だ著しい證據は近來新聞の廣告を見ると、其の廣告の標語になつて居るものは、人間的といふ事であります。さう云へば「人間」と云ふ雜誌が里見弴君や久米正雄君主宰となつて出した事もあります。是は吾々から見ますれば、別に不思議はありませぬが、實は雜誌に「人間」といふ名を付けた事は、古往今來なかつたに相違ありませぬ。其の證據には、「人間」の編輯者が、他に行つて「人間」から來ましたといふと、必ず其處の女中は驚く、是に依つても如何に「人間」と云ふ名が、不思議であつたかゞ分るのであります。斯る例を擧げますれば、幾らでもありますが私の友達に哲學をやつて居る男があります。其の男は大學の卒業論文に、カントの純粹理性の批判を書いた位で、びどくやかましい事ばかり云つて居る男であります。其の如何にやかましいかと云ふ例證は、或時私に向つて君僕にどうしても分らないものは、待合といふもののフンクチオオネン(作用)だと云ふ。それは分らなかつたに違ひない。其の男に四五日前に會ひましたら、兎に角カントの研究者でありますから、談直ちにカントに及びました。私はカントを讀んで居りませぬ。しかしカントの事を書いた物は讀んで居ります。從つてカントの書いた物も讀んで居る位の顏はして居ります。而して色々論を上下して居りましたら、友達の言ふには、僕はカントの良心の絶對命令に疑問を持つ、どう我々の倫理的の態度から、幸福とか快樂を除いては考へられない。さう云ふ事を捨る事は人間的でないやうな氣がすると云ふ。此の人さへ此の言のある事は、滔々として天下が今日迄、個人主義の道德の潮流に押流されてゐる證據でないかと思ひます。

 併し玆に甚だ困つた事には、人間といふ者は甚だセンチメンタルな動物であります。元來センチメンタリズムは、――日本語にすれば感傷主義ですね――その感傷主義は批判的精神とは兩立しない筈であります。しかし前人が批判的精神で捕へたものを後人が繼承する。例へば私が私の批判的精神を働かして、或現實を捕へたものを書いたとする、あなた方がそれを讀んで、成程尤もだと思つたとする、その尤もだと思つたあなた方が最初に言あげをした私程批判的精神に富んで居るかどうかは疑問であります。かう云ふ例を取ると、あなた方にはお氣の毒ですが、これは勿論逆にしてもよろしい。即ちあなた方に雷同した私が先驅者たるあなた方程批判的精神に富んでゐるかどうかは疑問であります。すると批判的精神の覺醒から生れた今日の道德或は個人主義の道德と雖も、この文藝センチメンタリズムの爲めに、頗る無批判的な方向へ發展しないとは限りません。其の邊はよく御理解の事と思ひますが、念の爲にもう一つ例をとれば書畫骨董を買ふ場合、私の目で見て間違ひないものを一つ買つて、それを私の子孫に讓るとする、其處までは甚だ批判的ですが、私の子孫は無批判的に何でもそれに似たものを蒐集しないとは限りません。さういふ傾向が今日の道德の上にも起り得るのであります。さうしてそれが現在起りつ證據には、先刻申上げた、新聞に掲げられた本の廣告文の中の、人間的といふ言葉を考へて見ると、人間的の苦、人間的の悲しみを書いた筋でありますから、實際書いてあるかと思つて讀むと、中の主人公の苦や悲は、どうもあまり人間的でない場合が多い、是は作者が下手の時を云ふのぢやありません。下手の時は人間だかアイスクリイムだかわからぬものが出現するだけでありますが、さうでなくて人間的といふよりは、寧ろ動物的なる主人公が出て來る場合が多い。かやうに不幸なる我々は何時もセンチメンタリズムに動かされてゐる。丁度馬に乘らうとする時に、右から飛び乘れば左へ飛び過ぎ、左から飛び乘れば右へ飛び退ぎ、何時も鞍を飛超えて仕舞ふやうに兔角中正を失ふのです。或は人間と云ふ者は永久に馬に乘れないかも分りません。併し地球の亡びる迄には五六百萬年ありますから、先づ今日の歴史を以て將來を判斷する事は、どうかと思ひますので、差當り馬に乘れる工夫をする方が宜からうと思ひます。此のセンチメンタリズムが或道德的觀方に加へられる。さうすると時勢が滔々として、それに動かされて極端な方向に走る。其處へ今度はそれに反對する先生が出て來まして、又其の潮流を抑へやうとしまする事は、何れの國の歴史へも現はれて居るのであります。たとへば近代の近代の西洋文學史上で顯著であつたのは、イブセンが人形の家を書いた時であります。御承知の通りイブセンの人形の家は、ノラと云ふ主人公が、何時迄も人形の家の如き妻であるのは惜しいと、御亭主にたんかを切つて飛出します。飛出して如何にして衣食するかは疑問でありますが、芝居は其處で幕が降りて居りますから、其の先きは問題になりませぬ。尤もイブセンより二十年前に佛蘭西の小説家リイル・ラダンと云ふ人が、それと同じ問題を取扱つて劇を書いて居ます。イブセン程傑作でありませぬが、これは其の先を書いて居ります。細君が飛出しますと、舞臺は暗くなる。其の中に、夜明けとなつて、段々舞臺が明くなる、御亭主はまだ卓子の前にへこたれて座つて居る。其處へ御亭主を離れては生活出來ぬ事を知つた細君が歸つて來ると云ふ劇であります。扨此のイプセンの人形の家は露西亞、獨逸、佛蘭西、英吉利を動かし、途に其の潮流は日本に迄及んだのであります。すると天下の善男、善女が餘りにセンチメンタルに人形の家の教を奉ずる事に反抗して、同じ人形の家と云ふ名前で短篇を書いたのがストリントベリイと云ふ人であります。是も御承知の方が多いと息ひますが或海軍士官の細君がオールドミスと友達になる。之れがイブセンの信者で、人形の家を讀んでゐる、細君はこの友達にかぶれて、遂に御亭主に向つて、あなたの人形になつて居るのはいやだと言出した。主人公大に弱つて、お前は人形ではない、亭主の物質的欲望を滿す外にも、精神的欲望を滿す家内ではないかと言ふ、すると細君は物質的欲望を滿しながら、精神的欲望を滿すと云ふ事はあり得ない、それは黑であつて同時に白であると云ふのと同じだと云ひます。御亭主はそれでも剛情に黑であつて同時に白であると云ふ事は言ひ得る、お前の洋傘を見れば、表は白で裏は黑だと云ふ。所が細君の母が一策を其の御亭主に授ける。御亭主は歸つて來て何知らぬ顏して、其の細君の友だちのオールドミスを晩餐に招待して、其の席でオールドミスにイチヤ付く、オールドミスも忽ち戀を感ずる、すると、細君は燒餠を燒いて、オールドミスを追出して、又幸福に暮すと云ふ筋であります。斯やうに新たな道德もセンチメンタリズムが加はる爲にいつも極端迄進み勝ちでありますが、現代の日本に之を徴しますると、自然主義の文藝が陷つたのもこの弊であります。即ち自然主義の文藝は餘り人間を下等に書き過ぎたのであります。それは誰も言つて居る事でありますが、一般西洋文明の影響もやはりセンチメンタルに走つて居ります。今日は何か西洋風な事を言ひませぬと、時勢に遲れてゐるが如く言はれます。最近上野に美術展覧會が開かれまして、佛蘭西のロダンの出品物を、見せるか見せないかに付て、警視廰と美術家との間に於て議論して居りますが、美術家の立場からロダンの作は、何も布を以て蔽ふ必要はないと云ふ。其の位の理屈は誰も言ふ。文學靑年でも言ひます。又一般民衆に害がなければ宜いが、一般民衆に惡い影響を與へるといけないから、布を蔽ふて見せない方が宜いといふ事も、警視廰でさへ考へる位でありますから、幼稚園の生徒でも考へるのに違ひがありません。けれども一體西洋人は肌を他人に見せる事を非常に嫌ひます。肌を見せる者は野蠻人だと言はれてゐる。上海や漢口に行つても領事のやかましい事は非常なものであつて、浴衣がけで散歩する事は出來ず、素足で歩く事は禁じられて居る。此の風が日本にも入つて來まして、此の頃は女でも足袋の外に、向脛を包むべく靴下やうのものを用ひて居りますが、其の位西洋人は肉體を晒すことを恥辱と心得て居ります。尤も夜會服は背中を出して居ります。而も歐洲の大戰後は餘計出すやうになりました。羅馬法王は大いに之を憂慮して、苟も善良なるカトリツクの信者は背中迄出す事はならぬと言つて居ります。しかし勿論利き目はありません。これは話の横道ですが、扨裸體畫を出し或は裸體の彫刻を出す事は、如何に辯明しても素足を恥じる西洋人には矛盾であると思ひます。斯く申すとお前は頭が古い、繪や彫刻にすれば美的であつて、物質的欲望が起らないと云ひませうが、實際は西洋の俗人ばらが物質的欲望を繪や彫刻によつて慰めて居るとしか考へられませぬ。今日ではロダンの彫刻を見るにあの特別室へはひる資格のある人は役人とか大學教授とか精々專門學校の生徒と云ふやうなものですが、さうすると貧乏人の子供と生れた者は、專門學校に入れず、從つてロダンの彫刻は見られませぬが、さう云ふ制限を設けるよりは、ロダンの作を見て、物質的欲望を起させないものだけに見せる方が至當であります。即ち特別室に脱衣所を設けて、裸體となつて其の室に入れて、若しも物質的欲望を起した徴候を認めた場合は、千圓位の罰金を科してやるのですね。それを冒しても見る勇氣のある人は、見る資格があるのであります。かう云ふと大いに美術家を貶して警視廰の肩を持つやうでありますが、今日警視廰にも罪があります。吾々から見て物質的欲望を與へない事も、警視廰から見るとさうでない。其處を見ると上は警視総監より、下は巡査に至る迄、餘程物質的欲望の旺盛な人ばかり揃つてゐるのでせう。これは勿論國辱であります。佛蘭西のアナトール・フランスと云ふ人の話でありますが、ルーブルとかルクサンブールでは、全部裸體になつて居る彫刻は、一々葡萄の葉で前を隱してある。さう云ふ事はすべきでない、初めから出して置けば何とも思はないのに、隱すから、いけない。何故かと云ふと、人間の聯想作用は微妙でありますから、さう云ふ事をして置くと、今に葡萄畑に入つた時に、妙な感を有つやうになると言つて居る、まことにこの説の通りであります。

 大分喋り過ぎて時間を取りましたが、簡單に後を付けますと、今日の道德が個人主義的の道德なりとすれば、明日の道德は、此個人主義的道德に反對である事は、想像するに難くないと思ひます。而して明日の道德は、個人主義と利己主義とは別でありますが、適當な言葉がありませぬから、それを使ひますが、今日より利他主義的な或は共存主義的な道德である事も、容易に看取する事が出來ると思ひます。尤も前に申上げたやうに、今日、明日と云ふ差別はぼんやりして居りますから、必しもまだ明日の道德が始まらないのでない、始まりつゝあることも考へられます。同樣に明日の道德を有つて居る人も多いのに違ひありません。既に明日の道德が、今日の個人主義の道德と反對のものと申しますと、明日の道德は昨日の道德を其の儘繰返すかと云ふ、御質問があるかも知れませぬが、歴史は嚴密に同じ事を繰返へさないのでありますから、明日の道德は其の個人主義でない點に於て、今日の道德に異るにしても、其の前の昨日の道德をその儘繼承する事は、勿論ないと思ひます。此の邊の理解のない道德家、時に堂々たる道德的大家は、今日日本國民の道德の、弛緩を覺ます薦めに、全國民に論語を讀ませ、孔子の廟でも興したら、もつと國民思想を善導する事が出來るであらうと云ふ議論を述べますが、其の議論の滑稽である事は、論を俟たないと思ひます。尤も其の論語を出版する費用は何處から出るか、孔子廟を建てる費用は何處から出るか分りませんから、冗談に言つて居るのかも知れませぬ。前にも一度引合ひに出した明治維新を考へても、維新當時の名高い話でありますが、岩倉具視公が或時玉松操と云ふ人と明治の大業に付て話をして、建武中興の基礎に依るべきものかと申した時に、玉松操は、イヤ神武創業の昔に遡るべきものであると申したので、岩倉公も非常に感心したと云ります。是は事實かどうか知りませぬが、此の話の如く神武創業の昔其の儘にせよと言つても、神武創業が如何なるものかは重松操と雖も知らなかつたのに違ひない。只當時に於て理想的の政治状態と云ふ言葉を神武創業の昔と云ふ言葉と言ひ換へたものと思ひます。さうすると明治の維新にしても、徒らに過去の道德に範を求めた次第ではない。それを今日昔にさへ還れば國家安穩のやうに考へるのは維新の古老にも恥づる次第であります。

 明日の道德は個人主義的の道德でない事は、今申す通りであります。それは如何なる道德かを申上げるのは、私の任でないか知れませぬが、少くも是だけは、何等危險なしに申す事が出來ると思ひます。たとひ國家とか家族とかを中心にしたものにしても、兔に角大勢の人が集つて立つて居る或社食的團體を、目標に置いた道德であると云ふ事だけは、確であらうと思ひます。もう一度繰返へしますと、私は今日の道德は、昨日の道德と兩立しないと申しましたが、今日の道德も亦明日の道德と、兩立しないと考へるのであります。今日の道德と明日の道德の間に、今日の道德と昨日の道德との間に於けるやうに、衝突が起るのは自然と思ひます。而してそれの起るのを起らないと考へるのは卑怯であります。又新聞を見て居りますと、さう云ふ事件が吾々の目に、常に觸るのであります。且又今日の道德は、昨日の道德と兩立しないにしても、一昨日の道德とは兩立する、或は共存し得ると申しましたが、それと同時に明日の道德と昨日の道德とは兩立しないにしても、共存する所があるかも知れませぬ。既にさうであるとすれば、封建時代的道德家も案外容易に明日の道德家と握手するかも知れません。これは本統の道德の本筋の發達の仕方でありますが、日本の現在の國状から申しますと、自然其の儘の發達の外にもいろいろ又複雜な影響がある。何しろ日本は近々五六十年に進歩したのですから、思想的には冬至も夏至も同時に起つてゐる觀があります。其處へ又在來の因習があり物質的方面から來る諸威力があるとなると、日本の現在の道德状態は複雜な、又可なり渾沌たるもののある事は明であります。のみならずこの渦卷へ人間本來有つて居る、センサメンタリズムが各々加はつて、敵とも味方とも分らない位、眞赤になつてやつて居りますから、混亂も亦非常なものであります。眞に國を憂へる士なら、今日の日本の道德的状態の收拾すべからざる光景には、浩歎の聲を發せずには居られないでないかと思ひます。でありますから吾々――と云ふのはあなた方も含めて言ふのでありますが、差當り私共は此の國民の爲めに、昨日、今日、明日の道德を整理する必要上、先づ少くともセンチメンタリズムを離れて何事も有りの儘に見る事を天下に教へると云ふと偉さうで、又教へやうと思つてもなか/\覺えて呉れませぬが、兔に角心懸だけは、天下に教へる積りで立ちたいと思ひます。詰り私の道德と云ふよりは倫理教育の希望は、甚だ陳腐な希望でありますが、新舊共餘りのぼせ上らないやうに、それこそ孔子の所謂中庸道に立還つて靜かにものの正體を見る心がけだけでも助長さしたいと思ひます。大變話がごた/\しましたが、殊に末段は駈歩になりましたが、前に申す次第でありますから、是で御免を蒙ります。