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芥川龍之介の追憶   萩原朔太郎

[やぶちゃん注:昭和三(1928)年十月号の雑誌『文藝春秋』に掲載された。底本は昭和五十一(1976)年筑摩書房刊の「萩原朔太郎全集」第八巻を用いた。傍点「丶」は下線に、「こ」の字型の踊り字は「々」に代えた。]

 

芥川龍之介の追憶

 

 この頃になつて、僕は始めて芥川君の全集を通讀した。ずゐぶん僕は、生前に於て氏と議論をし、時には争鬪的にまで、意見の相違を鬪はしたりした。だが實際のところを告白すると、僕はあまり多く彼の作品を讀んでゐなかつたのだ。そこで二言目には、芥川君から手きびしく反撃された。「君は僕の作品をちつとも讀んでゐないぢやないか。」「君がもし、いつか僕の全集をよんでくれたらなあ!」

 實際、僕は芥川君と交際しながら、しかもその忠實の讀者でなかつたことを、いつも心に恥ぢ、身にひけて感じてゐた。だがその理由は、決して僕が彼の作品を好まなかつたからでない。否むしろ、芥川龍之介と谷崎潤一郎とは、僕が小説について鑑賞し得る、唯一の二人だけの作家であつた。一體言つて、僕は小説といふ文學が甚だ嫌ひだ。僕にとつて讀みたいものは、文學中で「詩」と「評論」の二つしかない。小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので、讀むからに退屈であり、僕のやうな結論を急ぐ性急者には、てんでのつけから讀む氣がしない文學である。特に就中、身邊記事のくだらない出來事を、茶呑み婆さんの繰言みたいに、絮々細々と――文壇の術語で言へば克明に――書き立てた日本の文壇小説に至つては、義務にも讀めた次第でない。序でだから言つておくが、あんな無意味で退屈な文學を、心境小説とか本格小説とか命名してありがたがつてゐる文壇は、世界的にも特殊であり、馬鹿馬鹿しさの程が知れないと言ふものだ。

 かうした小説嫌ひの僕であるが、それでも流石に、興味をもつて讀む作品もある。その異數の例外は、前に言つた通り唯二人の作家、即ち芥川龍之介と谷崎潤一郎の小説である。この二人の小説家は、氣質のいろいろな點で反對して居り、見方によつては地球の兩極を代表するコントラストであるけれども、しかも文學の或る本質的な一點で、全く立場を一にしたものがある。だがこんな人物評論は、此所に論ずべき限りでない。とにかくこの二人の作家だけは、日本の文壇の例外であり、身邊記事の退屈な茶呑話を書かないだけでも、僕にとつては興味がある。

 さうしたわけからして、僕の立場になつてみれば、芥川君の作品の如きは、先づ大に讀んでる方であるけれども、元來言つて、僕は多讀の性分でなく、たいていのものならば、人の十分の一も讀まない方であるから、嚴重の意味に於て、僕が芥川君を「ちつとも讀んでゐない」のは本當だつた。そのことから、僕は常に友情に對する負債を感じ、いつしかそれを辨償しようと思つてゐた。(もつともこれは、室生犀星君等に對しても同じであるが。)その上、近頃僕はどういふものか、芥川君に對する追憶の情が次第に濃厚になつて來た。近頃になつて考へれば考へるほど、彼の自殺には意味が深く、故人の人格について考へることが深くなつた。

 かつてあの自殺のあつた時、僕は感激して長編の文を草し、雜誌「改造」に寄せたことがあつた。その論旨は、大體に於て今尚同樣であり、特に改修すべき新意見をも持たないけれども、しかもその脱稿の後に於て、當時言ひ知らぬ不滿と食ひ足らなさとを感じたことは、その後依然として繼續し、日毎に益々思ひが深くなつて來る。何事か、どこかの或る一つの點で、僕は肝心の芥川君に觸れてなかつた。すくなくとも或る點で、僕はあの文學者を見ちがへてゐた。そして何といふ理由もなく、日増しにこの懐疑が深くなつてくるのを感じてゐた。

 ところが最近、改造社の一圓本で、殆んど芥川君の代表作を包括してゐる、その全集とも言ふべきものを通讀した。そして僕は、實に慨然として嘆息し、過去一切に亙る自分の芥川観が、殆んど淺薄皮相の邪解にすぎなかつたことを發見した。實に芥川龍之介は、僕がかつて思つたよりも、ずつと遙かに性(たち)のちがつた、崇敬すべく愛慕すべき文學者だつた。

何よりも僕が驚いたのは、彼のあらゆる作を通じて、悲痛なる人間的生活が、熱情の齒ぎしりをして叫んで居り、或るニヒリツクな争鬪意識が、文學の隅々まで血を吐いてゐることである。僕はかつて、彼のさうした文學的素質の一を新作「河童」の中に發見した。だが今にして考へれば、大てい彼の作品の大部分は、皆その同じ気概と熱情で一貫してゐる。しかも今日まで、僕がそれに氣付かなかつたのは、僕の讀書的怠惰のためと一つにはまた斷片的にしか、彼の作物を讀んで居なかつた爲であつた。若し彼の全集一巻を通じてよめば、恐らくすべての讀者が、彼の中に流るる眞の作家的モチーフを發見することができるだらう。

 この發見をしてから後、改めて僕は芥川龍之介の全貌を追懐した。そして生前の彼に於ける、一切の生活が悉く符節を合せて來た。例へば彼は、我が国今日の文壇中で、おそらくは何人よりも熱心に、しかも最も早く社會主義を研究し、マルクス理論に通曉した人であつた。そして既成文壇の大家中で、所謂プロレタリヤ文学に理解と同情を有したところの、眞の唯一の人であつた。例へばまた、彼はかつて僕の叙情詩「郷土望景詩」に感激し、朝早く寢衣のままで家を飛び出した。そしてその叙情詩は、僕の寂しい過去を語つたところの、悲憤と鬱憤に充ちたるものであつた。

 今にして、僕はこの「人間的なるあまりに人間的なる」作家――さうした作家は、今の日本の既成文壇は、全く稀有の例外である。――を考へ、愛慕の情眞に切々たるものがある。芥川君のやうな文學者は、單に天才と呼ぶべきではない。むしろ人間的生活を惱んだところの、眞の人間的作家と言ふべきである。僕は實に、日本文壇の技巧的文學に飽き飽きしてゐる。芥川君の如く、單なる才能での小説でなく、靈魂と情熱とを以て書くところの、眞の人間的文學者は、今後に於ても益々見ることが無いだらう。しかもその芥川君が、生前全く人々に理解されず、誤つて「文人」の名で呼ばれたり、甚だしきは「技巧派」の範疇で論じられたりしたことを考へると、世評のいかに妄誕であり、天才の理解されがたい眞事實を、しみじみと痛感せざるを得ないのである。然り! 芥川君は何人にも理解されず、孤獨の中に悲痛なる自殺を遂げた。