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鬼火へ

惡魔の舌   村山槐多


[やぶちゃん注:底本は平成五(1993)年彌生書房刊の山本太郎編「村山槐多全集 増補版」を用いたが、本来の原文に近いものは正字体であるとの私のポリシーに基づき、多くの漢字を恣意的に正字に直した(なお、この全集は凡例が杜撰で、新字体表記とした旨の記載がない)。但し、「慾」と「欲」の字は、底本では使い分けがなされていると判断し、底本のままとして統一をとっていない。この全集には各作品の解題もなく、全集が底本としたものの記載もない。本作の著述年代も、明治四四(1911)年頃、京都府立第一中学校時代の『強盗』『銅貨』『アルカロイド』『青色癈園』『新生』などという自作の回覧雑誌に発表されているもの、という編者による底本の年譜の漠然とした記載があるばかりである。但し、本作の初出は大正四(1915)年八月発行の雑誌『武侠世界』である(1996年9月号「ユリイカ」所収の浜田雄介「村山槐多の探偵小説」参照)。この浜田氏の同論文の記載に従って、『武侠世界』の本文の前にあったキャッチコピーを斜体で挿入してみた(但し、実物を見いていないので復元とは言えない)。本文の前に初出誌の雰囲気を再現した。なお、底本では(一)から(七)の章番号は、括弧ともに太字で、ポイントも大きい。濁音の踊り字「/\」は正字に代えた。一部に注を附した。]

 

惡魔の舌

 

三〇一とは何をか表示する

 

肉親の弟を喰殺す惡魔詩人

 

   (一)

 

 五月始めの或晴れた夜であつた。十一時頃自分は庭園で青い深い天空に見入つて居ると突然門外に當つて『電報です。』と云ふ聲がする。受取つて見ると次の數句が記されてあつた、『クダンサカ三〇一カネコ』『是は何だらう。三〇一と云ふのは。』實に妙に感じた。金子と云ふのは友人の名でしかも友人中でも最も奇異な人物の名であるのだ。『彼奴は詩人だから又何かの謎かな。』自分は此不思議な電報紙を手にして考へ始めた。發信時刻は十時四十五分、發信局は大塚である。どう考へても解らない。が兎に角九段坂まで行つて見る事にし着物を着更へて門を出た。

 吾住居から電車線路までは可成りある。その道々自分はつくづくと金子の事を考へた。丁度二年前の秋、自分は奇人ばかりで出來て居る或宴會へ招待された際、彼金子鋭吉と始めて知合になつたのであつた。彼は今年二十七歳だから其時は二十五歳の青年詩人であつたが、其風貌は著るしく老けて見え、その異樣に赤つぽい面上には數條の深い頽廢した皺が走つて居、眼は大きく青く光り、鼻は高く太かつた。殊に自分が彼と知己になるに至つた理由は其唇にあつた。宴會は病的な人物ばかりを以て催された物であつたから、何れの來會者を見ても、異樣な感じを人に與へる代物ばかりで、知らない人が見たら惡魔の集會の如く見えたのであるが、其中でも殊に此青年詩人の唇が自分には眼に着いた。

 彼は丁度眞向に居たから、自分は彼を思ふ存分に觀察し得た。實に其唇は偉大である。まるで緑青に食はれた銅の棒が二つ打つつかつた樣である。そして絶えずびく/\動いて居る。食事をする時は更に壯觀である。熱い血の赤色がかつた其銅棒に閃めくと、それは電光の如く上下に開いて食物を呑み込むのである。實にかゝる厚い豐麗な唇を持つた人を見た事のない自分は、思はず暫らく我を忘れて其人の食事の有樣に見惚れた。突然恐ろしい彼の眼はぎろつと此方を向いた。すつくと立ち上つて彼はどなつた。『おい君は何故そうじろじろと俺の顏ばかり見るんだい。』『うん、どうもすまなかつた。』我にかへつて斯う云ふと彼は再び坐した。『人にじろ/\見られるのは兎に角氣持が善くないからな、君だつてさうだらう。』斯う云つて彼はビールの大杯をぐつと呑み乾して、輝かしい眼で自分を見た。『さうだつた、僕はだが君の容貌に或興味を感じた物だから。』『有難くないね、俺の顏がどうにしろ君の知つた事ではあるまいではないか。』彼は不機嫌な樣子であつた。『まあ怒るな仲直りに呑まう。』かくして彼金子鋭吉と自分とは相知るに至つたのである。

 彼は交れば交る程奇異な人物であつた。相當の資産があり父母兄弟なく獨りぼつちで居る。學校は種々這入つたが一も滿足に終へなかつた。それ等の經歴は話す事を厭がつて善く解らないが要するに彼は一詩人となつた。彼はまつたく祕密主義で自分の家へ人の來る事を大變厭がるから如何なる事をしつゝあるのか全然不明であるが、彼は常に街上を歩いて居る。常に酒店(バー)や料理屋に姿を見せる。さうかと思ふと二三箇月も行方不明になる。正體が知れぬ。自分は最も彼と親密にし彼もまた自分を信じて居たが、それでも要するにえたいの知れない變物とよりほか解らなかつた。

 

   (二)

 

 かゝる事を思ひつゝいつしか九段坂の上に立つた。眺むれば夜の都は脚下に展開して居る。神保町の燈火が闇の中から溢れ輝いて、まるで鑛石の中からダイヤモンドが露出した樣である。自分は坂の上下を見廻はした。金子が多分此處で自分を待ち合はして居るんだらうと思つたのである。が誰も其らしい物は見えなかつた。大村銅像の方をも搜して見たが人一人居ぬ。約三十分程九段坂の上に居たが遂に彼の家に行つて見る事にした。彼の家は富坂の近くにある。小さいが美麗な住居である。家の前へ來ると警官が出入りして居る。驚ろいて聞くと金子は自殺したのだと云ふ。すぐ飛び込んで見ると六疊の室に金子が友人二三人と警察の人々とに圍まれて横たはつて居た。火箸で心臟を突刺して死んだのである。二三度突き直した痕跡がある。其顏は紫白色を呈して居るがさながら眠れる樣である。醫師は泥醉で精神錯亂の結果だらうとした。自殺者の身體には甚だしい酒精の香があつた。時刻は今し方通行者が苦痛の唸聲を聞きつけてそれから騷ぎになつたのだ。

 何の遺書もなかつた。が自分にはさつきの電報が一層不思議になつた。時刻から考へると金子はあの電報を打つて歸るとすぐ死んだ物らしい。自分はそつとまた九段坂の上へとつてかへして考えた。電報の三〇一と云ふ數字は何を意味するのであらう。九段坂の何處にそんな數字が存在して居るのであらう。見廻して見るに何もない。ふと氣が付いた。九段坂の面積中で三百以上の數字を有つて居る物は一つしかない。それは坂の兩側上下に着いた溝の石蓋である。そして始め上から見て右手の方の石蓋を下へ向つて數へ始めた。そして第三百一番目の石蓋をよく調べて見たが何も別段異状はない。殊に依ると此は下から數へた數かも知れない。石蓋は全部で三百十枚ある。だから上から數へて十枚目が下から數へて三百一枚に當る。驅け上つて其石蓋をよく見ると上から十枚目と十一枚目との間に何だか黑い物が見える。引出して見ると一箇の黑い油紙包である。『是だ是だ。』と其を摑むや宙を飛んで家へ歸つた。

 包みを解くと中から一册の黑表紙の文書が表はれた。讀み行く中に自分は始めて彼金子鋭吉の正體を眼前にした。その正體こそ世にも恐ろしい物であつた。『彼は人間ではなかつた。彼は惡魔であつた。』と自分は叫んだ。讀者よ、自分はこの文書を今讀者の前に發表するに當つて尚未だ戰慄の身に殘れるを感じるのである。以下は其文書の全文である。

 

   (三)

 

 友よ、俺は死ぬ事に定めた。俺は吾心臟を刺す爲に火箸を針の樣にけづつてしまつた。君がこの文書を讀む時は既に俺の生命の終つた時であらう。君は君の友として選んだ一詩人が實に類例のない恐ろしい罪人であつた事を以上の記述に依つて發見するであらう。そして俺と友たりし事を恥ぢ怒るであらう。が願はくば吾死屍を憎む前に先づ此を哀れんで呉れ、俺は實に哀む可き人間であるのだ。さらば吾汚れたる經歴を隱す所なく記述し行く事にしよう。俺は元元東京の人間ではない。飛騨の國の或山間に生れ其處に育つた。吾家は代々材木商人であり父の代に至つては有數の豪家として附近に聞こえた。父は極く質朴な立派な人物であつたが壯時名古屋の一名妓を入れて妾とした、その妾に一人の子が出來た。其が俺であつた。俺が生れた時既に本妻即ち義母にも子が一人あつた。不倫な話であるが父は本妻と妾とを同居せしめた。從つて子供達も一所に育てられた。俺が十二歳になつた時義母には四人の子があつた。そして其年の四月にまた一人生れた。その弟は奇體な赤ん坊として村中の大變な噂であつた。それは右足の裏に三日月の形をした黄金色の斑紋が現はれて居るからである。

 或る日赤ん坊を見たその旅の易者は、「此の子は惡い死樣をする。」と言つたさうだ。今思ふと怪しくも此の豫言は的中した。俺も幼心に赤ん坊の足の裏の三日月を實に妙に感じた。其時はまた俺にとつて實に忘れ難い年であつた。それは父が十月に急に死んだ事であつた。父は遺言書を作つて置いて死んだ。俺と母とは一萬圓を貰つて離縁された。家は三つ上の長男が繼ぐことになつた。父は親切な人であつたから、俺等母子(おやこ)の幸福を謀つて斯く遺言したのである。事實に於て母と義母との間には堪へざる暗鬪があつたのであつた。義母が家の實權を握れば吾母の迫害せられることは火を見るよりも明かであつた。そこで吾等二人は父の葬儀が終ると直に東京に出て來た。それ以來俺は一度も國へ歸らず又國の家とは全然沒交渉になつてしまつた。二人は一萬圓の利子で生活する事が出來た。母は藝妓氣質の塵程も見えぬ聰明な質素な女であつた。

 十八歳の時彼女は死んだ。以後俺唯一人暮し遂に詩人としての放埒な生活を營むに至つた。是が吾經歴の大體である。この經歴の陰に以下の恐ろしい生活が轉々と附きまとうて居たのであつた。俺は幼少から眞に奇妙な子であつた。他の子供の樣に決して無邪氣でなかつた。始終默つて獨り居る事を好み遊ばうともしなかつた。山の方へ行つてはぼんやりと岩の蔭などに立つて空行く雲を眺めて居た。このロマンチツクな習癖は年と共に段々病的になつて、飛騨を離れる二年ばかり前の年であつた。半年ばかり私は妙な病氣に惱んだ。其は背すぢが始終耐らなくかゆくてだるいのである。そして眞直に歩く事が出來ず身體が常に前へのめつて居る。血色は惡くなり身體は段々痩せて來た。母は大變に心配して種々な療法を試みたが其内いつしか癒つてしまつた。その病中俺は奇妙な事を覺えてしまつた。其は妙に變つた尋常でない物が食べたいのである。始めは壁土を喰ひたくて耐らぬので人に隱れては壁土を手當り次第に食つた。そのまた味が實に旨い。殊に吾家の土藏の白壁を好んだ。恐ろしい物で俺が喰つて居る内厚い壁に大きな穴が開いてしまつた。それから俺は人の思ひ及ばぬ樣な物をそつと食つて見る事に深い興味を覺えて來た。人嫌ひで通つて居る事がかゝる事柄を行ふのに便利であつた。幾度かなめくぢをどろ/\と呑み込んだ。蛙蜿[やぶちゃん後注※]はもとより常に食つた。是れ等は飛騨邊りではさう珍らしくもないのである。それから裏庭の泥の中からみゝずや地蟲を引きずり出して食べた。春はまた金や紫や緑の樣々の毒々しい色をした劇しい臭氣を發する毛蟲いも蟲の奇怪な形が俺の食慾を絶えまなく滿たしたのである。唇が毛蟲に刺されて眞赤にはれ上つたのを家人に見つけられた事もある。其他あらゆる物を喰つた。そして又中毒した事がなかつた。此奇妙な癖は益々發達しさうに見えたが、母と共に東京へ出て都會生活に馴らされて自然かゝる惡習は止んだ。
[※やぶちゃん後注:「蛙蜿」は普通ならば、「かへるみみず」と訓読していると考えるの自然であるが、「蜿」には蛇のうねるさまの意味があるので、「かへるへび」と訓読しているとも取れる。考えるに、後文ですぐに「みゝず」が現われ重複してしまうことから、ここは「へび」と取っておくことにする。飛騨地方で「蛙蜿」という熟語で、ある単独特定の生物種を表現している可能性も否定できない。なお、この辺り、底本でも正字の「蟲」の表記にしてあるのは、気の利いた配慮と思う。]

 

   (四)

 

 然るに丁度十八歳の冬母の死んだ時節は悲哀に耐へなかつた。悲しさ餘つて始終泣いて居た。元來虚弱な身體は忽ち劇しい神經衰弱に侵されてしまつた。まるで幽靈の樣に衰へてしまつた。そして小さい時の脊椎の病がまた發して來た。俺は此ではならないと思つて二十歳の時丁度在學した中學校を退いて鎌倉へ轉地した。かくて鎌倉に居たり七里ヶ濱、江の島に居たりして久しく遊んだ。散歩したり海水を浴びたりして暮して居た。その内に身體は段々と變化して行つた。久しく都會の喧騷の中に居た物が俄に美しい海邊に遊ぶ身となつたのだから吾身も心も段々と健康になつて行つた。本然に歸つて來た。嘗て飛騨の山中に獨りぼつちを悦んで居た小童の心は再び吾に歸つたのであつた。或日の夕方の時俺はこの一箇月ばかり食物が實に不味(まず[やぶちゃん注:ママ。])いことをつくづくと考へて見た。海水浴から歸つて來る空腹には旅館最上位の食事が不味いと云ふ筈はないのだ。俺は鏡に向つた。青白かつた容貌は眞紅になつた。ぼんやりして居た眼玉は生き生きと輝き出した。斯かる健康を得ながら、何故物が旨く喰へないのかしらん。舌を突き出してふと鏡の面に向けた。その刹那俺は思はず鏡を取り落したのである。俺の舌は實に長い。恐らく三寸五分もあらうと云ふのだ。全體いつの間にこんなに延びたのか知ら、そして又何と云ふ恐ろしい形をした舌であらう。俺の舌はこんな舌であつたか。否々決して此んな舌ではない。が鏡を取つてよく見ると、やはり紫と錦との鋭い疣が一面にぐりぐり生えた大きな肉片が唾液にだら/\滑りながら唇から突き出して居る。しかも尚よく見ると、驚くべき哉、疣と見たのは針である。舌一面に猫のそれの如く針が生えて居るのであつた。指を觸れて見れば其はひり/\するばかり固い針だ。かゝる奇怪な事實がまた世にあらうか。俺はまた以上に驚愕した事は鏡の中央に眞紅な惡魔の顏が明かに現はれて居るのであつた。恐ろしい顏だ。大きな眼はぎら/\と輝いて居る。俺は驚きの爲一時昏迷した。途端鏡中の惡魔が叫ぶ聲が聞こえた。『貴樣の舌は惡魔の舌だ。惡魔の舌は惡魔の食物でなければ滿足は出來ぬぞ。食へすべてを食へ、そして惡魔の食物を見つけろ。それでなければ。貴樣の味覺は永劫滿足出來まい。』しばらく俺は考へたがはつと悟つた。『よしもう棄鉢だ。俺はあらゆる惡魔的な食物をこの舌で味はひ廻らう。そして惡魔の食物と云ふ物を發見してやらう。』鏡を投げると躍り上つた。『さうだ。[やぶちゃん後注※]この一箇月に舌がかくも惡魔の舌と變へられてしまつたのだ。だから食物が不味かつたのだ。新らしい、まるで新らしい世界が吾前に横たはる事となつた。すぐ俺は今までの旅館を出た。そして鎌倉を去り伊豆半島の先の或極めての寒村に一軒の空家を借りた。そして其處で異常な奇食生活を始めた。事實針の生えた舌には尋常の食物は刺激を與へる事が出來ぬ。俺は吾獨自の食物を求めなくてはならなくなつたのだ。二箇月ばかりその家で生活した間の食物は土、紙、鼠、とかげ、がま、ひる、いもり、蛇、それからくらげ、ふぐであつた。野菜は總てどろ/\に腐らせてから食つた。腐敗した野菜のにほひと色と味とをだぶ/\と口中に含む味は實に耐らなく善い物であつた。是等の食物は可なりの滿足を俺に與へた。二箇月の後吾血色は異樣な緑紅色を帶び來つた。俺は段々と身體全部が神仙に變じ行く樣に感じた。其中に、不圖『人肉』は何うだらうと考へ出した。さすがにこの事をおもつた時、俺は戰慄したが、この時分から俺の欲望は以下の數語に向つて猛烈に燃え上つたのである。『人の肉が喰ひたい。』それが丁度去年の一月頃の事であつた。
[やぶちゃん後注:この「さうだ。」の前にある二重鍵括弧の後ろは存在しない。叙述から判断すると、「だから食物が不味かつたのだ。」の後ろにあるべきか。]

 

   (五)

 

 それからと云ふ物はすこしも眠れなくなつた。夢にも人肉を夢みた。唇はわな/\と顫へ眞紅な太い舌はぬる/\と蛇の樣に口中を這ひ廻つた。其欲望の湧き上る勢の強さに自分ながら恐怖を感じた。そして強ひて壓服しようとした。が吾舌頭の惡魔は『さあ貴樣は天下最高の美味に到達したのだぞ。勇氣を出せ、人を食へ、人を食へ。』と叫ぶ。鏡で見ると惡魔の顏が物凄い微笑を帶びて居る。舌はます/\大きくその針はます/\鋭利に光り輝いた。俺は眼をつぶつた。『いや俺は決して人肉は食はぬ。俺はコンゴーの土人ではない。善き日本人の一人だ。』が口中にはかの惡魔が冷笑して居るのだ。かゝる耐へ難い恐怖を消す爲には始終醉はなければならなかつた。俺は常に酒場(バー)に入浸つてどうかして一刻でも此慾望から身を脱れようとした。が運命は決して此哀れむべき俺を哀れんで呉れなんだ。

 忘れもしない去年の二月五日の夜であつた。醉つて醉つぱらつて淺草から歸りかけた。その夜は曇天で一寸先も見えぬ闇黑は全部を蔽うて居た。この闇黑を燈火の影をたよりに傳ふ内、いつの間にやら道を間違へてしまつた。轟々たる汽車の響にふと氣づくと、いつの間にか日暮里ステーシヨン横の線路に俺は立つて居る。俺は踏切を渡つた。坂を上つた。そして日暮里墓地の中へ這入り込むとそのまゝ其處に倒れてしまつた。ふと眼を開けると未だ深々たる夜半である。マツチをすつて時計を見ると午前一時だ。俺は大分醒めた醉心地にぶらぶらと墓地をたどつた。突然片足がどすんと地へ落ち込んだ。驚いてマツチをすつて見ると此處は共同墓地で未だ新らしい土まんぢゆうに足を突つ込んだのであつた。その時一條の恐ろしい考へがさつと俺の意識を確にした。俺は無意識にすぐ棒切を以つて其土まんぢゆうを掘り出した。無暗に掘つた。狂人の樣に掘つた。遂には爪で掘つた。小一時間ばかりで吾手は木の樣な物に觸つた。『棺だ。』土を跳ね除けて棺の蓋を叩き壞はした。そしてマツチをすつて棺中を覗き込んだ。

 その時その刹那ばかり恐ろしい氣持のしたことは後にも前にも無かつた。マツチの微光には眞青な女の死顏が照らし出された。眼を閉ぢて齒を喰ひ縛つて居る。年は十九許りの若い美しい女だ。髮の毛は黑くて光がある。見ると黑血が首にだく/\と塊まり着いて居る。首は胴からちぎれて居るのだ。手も足もちぎれたまゝで押し込んである。戰慄は總身に傳つた。が此はきつと鐵道自殺をした女を假埋葬にしたのだらうと解るとすこし戰慄が身を引いた。俺はポケツトからジヤツクナイフを出した。そして女の懷へ手を突つ込んだ。好きな腐敗の惡臭が鼻を撲つ。先づ苦心して乳房を切り取つた。だらだらと濁つた液體が手を滴たり傳つた。それから頰ぺたを少し切り取つた。この行爲を終へると俄かに恐ろしくなつて來た。『どうする積りだ、お前は。』と良心の叫ぶのが聞えた。しかし俺はしつかり切り取つた肉片を、ハンカチーフに包んだ。そして棺の蓋をした。土を元通りかぶせると急いで墓地を出た。俥をやとつて富坂の家へ歸りついた。

 家へ這入るとすつかり戸締りをしてさてハンカチーフから肉を取り出した。先づ頰ぺたの肉を火に燒いた。一種の實にいゝ香が放散し始めた。俺は狂喜した。肉はじり/\と燒けて行く。惡魔の舌は躍り跳ねた。唾液がだく/\と口中に溢れて來た、耐らなくなつて半燒けの肉片を一口にほほばつた。此刹那俺はまるで阿片にでも醉つた樣な恍惚に沈んだ。こんな美味なる物がこの現實世界に存在して居たと云ふことは實に奇蹟だ。是を食はないでまたと居られようか。『惡魔の食物』が遂に見つかつた。俺の舌は久しくも實に是を要求して居たのだ。人肉を要求して居たのだ。あゝ遂に發見した。次に乳房を嚙んだ。まるで電氣に打たれたやうに室中を躍り廻つた。すつかり食ひ盡すと胃袋は一杯になつた。生れて始めて俺は食事によつて滿足したのであつた。

 

   (六)

 

 次の日俺は終日掛かつて俺の室の床下に大きな穴を掘つた。そして板で圍つた。人間の貯藏室を作つたのである。ああ此處へ俺の貴い食物を連れて來るのだ。それがら吾眼は光つて來た。町を歩いてもよだればかり流れた。會ふ人間會ふ人間は皆俺の食慾をそゝる。殊に十四五の少年少女が最も旨さうに見えた。何だがさう云ふ子に會ふとすぐ食ひ付いてしまひさうで仕樣がなかつた。がどんな方法で食物を引つ張つて來ようか、まづ麻醉藥とハンカチーフをポケツトに用意した。これで睡らしてすぐ引つ張つて來る事にした。

 四月二十五日、今から十日ばかり前の事である。俺は田端から上野まで汽車に乘つた。ふと見ると吾膝と突き合はして一人の少年が坐して居る。見ると田舍臭くはあるが、實に美麗な少年である。吾口中は濕つて來た。唾液が溢れて來た。見れば一人旅らしい。やがて汽車は上野に着いた。ステーシヨンを出ると少年は暫らくぼんやりと佇立して居たがやがて上野公園の方へ歩いて行く。そして一つのベンチに腰を掛けるとじつと淋しさうに池の端の燈に映る不忍池の面を見つめた。

 見廻はすと邊りには一人の人も居ない。己れはそつとポケツトから麻醉藥の瓶を出してハンカチーフに當てた。ハンカチーフは浸された。少年はぼんやりと池の方を見て居る。いきなり抱き付いてその鼻にハンカチーフを押し當てた。二三度足をばた/\させたが麻藥が利いてわが腕にどたり倒れてしまつた。すぐ石段下まで少年を抱いて行つて俥を呼んだ。そして富坂まで走らせた。家へ歸ると戸をすつかり閉ざした。電燈の光でよく見れば實に美しい少年だ。俺は用意した鋭利な大ナイフを取り出して後頭部を力を籠めてグサと突刺した。今まで眠つて居た少年の眼がかつと大きく開いた。やがてその黑い瞳孔に光がなくなり、さつと顏が青くなつた。俺は眞青になつた少年を抱き上げて床下の貯藏室へ入れた。

 

   (七)

 

 俺は出來得る限り細かくこの少年を食つてしまはうと決心した。そこで一のプログラムを定めた。俺はそれから諸肉片を順々に燒きながら腦味噌も頰ペたも舌も鼻もすつかり食ひ盡した。その美味なる事は俺を狂せしめた。殊に腦味噌の味は摩訶不思議であつた。そして飽滿の眠りに就いた翌朝九時頃眼が覺めると又たらふく腹につめ込んだ。

 あゝ次の日こそは恐ろしい夜であつた。俺が死を決した動機がその夜に起つたのだ。實に世にも殘酷な夜であつた。その夜野獸の樣な眼を輝かして床下へ下りて行つた俺は、今夜は手と足との番だと思つた。鋸を手にして何れから先に切らうかと暫らく突つ立つて居た。ふと少年の左の足を引いた。其拍子に、少年の身體は俯向きになつた。その右足の裏を眺めた時俺は鐵の捧で横つ腹を突飛ばされた樣に躍り上つた。見よ右足の裏には赤い三日月の形が現はれて居るではないか。君は此文書の最初に吾弟の誕生の事が記されてあつたのを記憶して居るであらう。考へて見ればかの赤ん坊はもう十五六歳になる筈だ。恐ろしい話ではないか。俺は自分の弟を食つてしまつたのだ。氣が付いて少年の持つて居た包みを解いて見た。中には四五册のノートがあつた。それにはちやんと金子五郎と記されてあつた。是は弟の名であつた。尚ノートに依つて見ると弟は東京を慕ひ、聞いて居た俺を慕つて飛騨から出奔して來たことが分明(わか)つた。あゝ俺はもう生きて居られなくなつた。友よ俺が書き殘さうとした事は以上の事である。どうぞ俺を哀れんで呉れ。

 

 文書は此で終つて居た。字體や内容から見ても自分は金子の正氣を疑はざるを得なかつた。金子の死體を檢査した時その舌は記述の通り針を持つて居たが、惡魔の顏と云ふのは恐らく詩人の幻想に過ぎまい。