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愛撫     梶井 基次郎

[やぶちゃん注:昭和五(1930)年五月稿。同年六月武蔵野書院刊の雑誌『詩・現實』第一冊に掲載、後に作品集『檸檬』に所収された。底本には昭和四十一(1966)年筑摩書房刊「梶井基次郎全集」第一巻を用いた。]

 

 

愛撫

 

 猫の耳といふものはまことに可笑しなものである。薄べつたくて、冷たくて、竹の子の皮のやうに、表には絨毛が生えてゐて、裏はピカピカしてゐる。硬いやうな、柔らかいやうな、なんともいへない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳といふと、一度「切符切り」でパチンとやつて見度くて堪らなかつた。これは殘酷な空想だらうか?

 否。全く猫の耳の持つてゐる一種不可思議な示唆力によるのである。私は、家へ來たある謹嚴な客が膝へあがつて來た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓つてゐた光景を忘れることが出來ない。

 このやうな疑惑は思ひの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるといふやうな兒戲に類した空想も、思ひ切つて行爲に移さない限り、われわれのアンニユイのなかに、外觀上の年齡を遙かにながく生き延びる。とつくに分別の出來た大人が、今もなほ熱心に――厚紙でサンドウイツチのやうに挾んだうへから一と思ひに切つて見たら? ――こんなことを考へてゐるのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露してしまつた。

 元來、猫は兎のやうに耳で吊り下げられても、さう痛がらない。引張るといふことに對しては、猫の耳は奇妙な構造を持つてゐる。といふのは、一度引張られて破れたやうな痕跡が、どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、また巧妙な補片(つぎ)が當つてゐて、全くそれは創造說を信じる人にとつても進化論を信じる人にとつても不可思議な、滑稽な耳たるを失はない。そしてその補片(つぎ)が、耳を引張られるときの緩めになるにちがひないのである。そんな譯で耳を引張られることに關しては、猫は至つて平氣だ。それでは、壓迫に對してはどうかといふと、これも指でつまむ位では、いくら强くしても痛がらない。さきほどの客のやうに抓つて見たところで、極く稀にしか悲鳴を發しないのである。こんなところから、猫の耳は不死身のやうな疑ひを受け、ひいては「切符切り」の危險にも曝されるのであるが、ある日、私は猫と遊んでゐる最中に、たうとうその耳を嚙んでしまつたのである。これが私の發見だつたのである。嚙まれるや否や、その下らない奴は、直ちに悲鳴をあげた。私の古い空想はその場で壞れてしまつた。猫は耳を嚙まれるのが一番痛いのである。悲鳴は最も微かなところからはじまる。だんだん强くするほど、だんだん强く鳴く。Crescendo のうまく出る――なんだか木管樂器のやうな氣がする。

 私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまつた。しかしかういふことにはきりがないと見える。此頃、私はまた別なことを空想しはじめてゐる。

 それは、猫の爪をみんな切つてしまふのである。猫はどうなるだらう? 恐らく彼は死んでしまふのではなからうか?

 いつものやうに、彼は木登りをしようとする。――出來ない。人の裾を目がけて跳びかかる。――異ふ。爪を研がうとする。――なんにもない。恐らく彼はこんなことを何度もやつて見るにちがひない。その度にだんだん今の自分が昔の自分と異ふことに氣がついてゆく。彼はだんだん自信を失つてゆく。もはや自分がある「高さ」にゐるといふことにさへブルブル慄へずにはゐられない。「落下」から常に自分を守つて吳れてゐた爪が最早ないからである。彼はよたよたと步く別の動物になつてしまふ。遂にそれさへしなくなる。絕望! そして絕え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元氣さへ失せて、遂には――死んでしまふ。

 爪のない猫! こんな、賴りない、哀れな心持のものがあらうか! 空想を失つてしまつた詩人、早發性痴呆に陷つた天才にも似てゐる!

 この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥當であるかどうかといふことさへ、私にとつては問題ではなくなつてしまふ。しかし、果して、爪を拔かれた猫はどうなるのだらう。眼を拔かれても、髭を拔かれても猫は生きてゐるにちがひない。しかし、柔らかい蹠(あしのうら)の、鞘のなかに隱された、鉤のやうに曲つた、匕首のやうに銳い爪! これがこの動物の活力であり、智慧であり、精靈であり、一切であることを私は信じて疑はないのである。

 ある日私は奇妙な夢を見た。

 X――といふ女の人の私室である。この女の人は平常可愛い猫を飼つてゐて、私が行くと、抱いてゐた胸から、いつも其奴を放して寄來すのであるが、いつも私はそれに辟易するのである。抱きあげて見ると、その仔猫にはいつも微かな香料の匂ひがしてゐる。

 夢のなかの彼女は、鏡の前で化粧してゐた。私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めてゐたのであるが、アツと驚きの小さな聲をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顏へ白粉を塗つてゐるのである。私はゾツとした。しかし、なほよく見てゐると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じやうに使つてゐるんだといふことがわかつた。しかしあまりそれが不思議なので、私はうしろから尋ねずにはゐられなかつた。

「それなんです? 顏をコスつてゐるもの?」

「これ?」

 夫人は微笑とともに振向いた。そしてそれを私の方へ抛つて寄來した。取りあげて見るとやはり猫の手なのである。

「一體、これ、どうしたの?」

 訊きながら私は、今日はいつもの仔猫がゐないことや、その前足がどうやらその猫のものらしいことを、閃光のやうに了解した。

「わかつてゐるぢやないの。これはミユルの前足よ」

 彼女の答は平然としてゐた。そして此頃外國でこんなのが流行るといふので、ミユルで作つて見たのだといふのである。あなたが作つたのかと、内心私は彼女の殘酷さに舌を卷きながら尋ねて見ると、それは大學の醫科の小使が作つて吳れたといふのである。私は醫科の小使といふものが、解剖のあとの死體の首を土に埋めて置いて髑髏を作り、學生と祕密の取引をするといふことを聞いてゐたので、非常に嫌な氣になつた。何もそんな奴に賴まなくたつていいぢやないか。そして女といふものの、そんなことにかけての、無神經さや殘酷さを、今更のやうに憎み出した。しかしそれが外國で流行つてゐるといふことについては、自分もなにかそんなことを、婦人雜誌か新聞かで讀んでゐたやうな氣がした。――

 猫の手の化粧道具! 私は猫の前足を引張つて來て、いつも獨り笑ひをしながら、その毛竝を撫でてやる。彼が顏を洗ふ前足の橫側には、毛脚の短い絨氈のやうな毛が密生してゐて、なるほど人間の化粧道具にもなりさうなのである。しかし私にはそれが何の役に立たう? 私はゴロツと仰向きに寢轉んで、猫を顏の上へあげて來る。二本の前足を摑んで來て、柔らかいその蹠(あしのうら)を、一つづつ私の眼蓋にあてがふ。快い猫の重量。溫かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、此の世のものでない休息が傳はつて來る。

  仔猫よ! 後生だから、しばらく踏み外さないでゐろよ。お前は直ぐ爪を立てるのだから。