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L 氏殺人事件 片山廣子
[やぶちゃん注:昭和28(1953)年6月に暮しの手帖社刊の片山廣子「燈火節」に所収されている書き下ろしと判断されるエッセイである。底本は2004年月曜社刊の片山廣子/松村みね子「燈火節」を用いたが、底本は新字であり、親本は正字であったと判断されることと私のポリシーから、恣意的にその殆んどを正字に換えた。最後に本作に記された事件についての補注を加えた。【2008年1月17日】
2007年月曜社刊の正字版の片山廣子「新編 燈火節」を入手したため、再校訂を行った(結果は、一箇所、最後の一文、底本が「含めて」とあるのが、「ふくめて」となっていた。こちらを採った)。但し、ルビについては編集者が適宜処理したものであり、その追加してある部分は殆んどが不要と私が判断したことから、「花車(きやしや)」一つを除いて採用しなかった。【2010年12月26日】
リンク修正。【2016年11月26日】]
L 氏殺人事件
今から何十年も前のことである。L氏殺人事件といふ騷ぎが麻布の或る女學校に起つて世間をおどろかした。私はまだ十三か十四の少女でその女學校の寄宿生であつた。ちやうどイースタアのお休み中で、寄宿生徒で東京に家のあるものはみんな歸つてゐて、學校は大へん靜かな時だつた。
その學校は丘の下の平地に建つてゐて、門を入ると右手に生徒の出入口があり、教室がいくつも續いて、二階三階が寄宿生の部屋になつてゐた。門から正面に植込を隔てて學校の玄關があり、西洋應接間、事務室、父兄の應接間、新聞室、先生方のひかへ室などあり、こちらの二階も生徒の部屋になつてゐて、ひろい廊下の突きあたりの扉をあけると、外國人教師の部屋が二つ三つ續いて、みんな南に向いて窓をもつてゐた。その一ばん端の、東南に向いた角に校長L夫人の部屋があつて、L氏もその部屋に夫人と一しよに暮してゐた。その部屋の扉のそとでL氏が殺された。
L夫人は前にはミスSと言つてもう長くこの女學校の校長をつとめてゐた。L氏は丘の上のT學校の教授で夫人よりはずつとあとから日本に來た人だが、縁あつて二人は結婚し、二つぐらゐの女の子も出來てゐた。
先生たちの部屋の前の廊下に、東に向いた階段があつて玄關に通じ、西に向いた裏の階段がキツチンや小使部屋に通じた。
小使部屋のそばの出入口の戸をあけて、(たぶん鍵がかかつてゐなかつたらしい)泥棒はすぐ裏の階段を上がつて二階の廊下に出ると、大きな吊りランプが一つ廊下を照らしてゐた。彼は別に案内をしらべて置いたのではないから、まづ一ばん端のいちばん大きさうな部屋の扉を叩いた。女ばかりの學校ときいてゐたので、おどかして何か奪らうと思つたらしく、拔身の刀を持つてゐた。扉があいて中から出て來たのは女ではなく、背の高い大きな西洋人の男だつた。「何ですか?」と言つて彼は拔身の刀をみると、ひと目で強盜であることがわかつたから、妻や子供を守るために一息に押へつけるつもりでその手をつかまうとした。泥棒は小男ではなかつたが、この大きな若い男につかまへられる前に、めちやくちやに刀を振り廻した。ひどい物音で夫人が戸口に出て來ると、泥棒がいま倒れてゐる夫の上に刀をふり上げたところだから、彼女は「おお」と言つて手をのばしてその刀を受け止めようとした。その拍子に夫人の右手の指が二本人差指と中指とがぱらりと切り落されて夫人は失神して倒れてしまつた。泥棒は思ひのほかの自分の仕事に途方にくれて、血刀を下げて突立つてゐるとき、隣りの部屋に大きな叫び聲や泣きごゑが聞えて、窓を開けて、一人ならず二人位の聲で「どろぼう、どろぼう」と騷ぎ始めたから彼ははじめて正氣に返つて、あわてて階段を駈け下り、逃げてしまつた。
隣りの部屋に二人の若い女教師がゐた。NH女史とEH女史だつた。人ごゑや格鬪の音で目さめた一人が扉をあけてこの慘げきを一目みるや、夢中で扉をしめて鍵穴からのぞいてゐた。一人はふるへながら窓をあけ、庭に向いて大聲で助けを呼んだ。
鍵穴からじいつとのぞいてゐたEH女史は音樂の先生で花車(きやしや)な姿をしてゐたが、すばらしい度胸で、もう泥棒がゐないと見るや扉をあけて廊下に出て、倒れてゐる夫妻を助けようとした。L氏はもうすでに完全に息が絶えてゐた。夫人は額をきられ二本の指を切られ出血がひどかつたが、EH女史の手當で生命をとりとめることが出來た。
教頭のM女史とボーイッシュで美しいA女史とは東の建物の二階の二つの部屋にそれぞれ起居してゐて、廣い庭をへだててゐたからこの騷ぎは知らなかつた。小使の知らせで二人は急いで起きて來て、それから漸く醫者と警察に連絡をした。
新聞は大々的にこの殺人事件を書き立てた。書かうとして探ぐれば、いろんな事が出てくる。警察はすぐに犯人を探しあてるつもりで大奮鬪した。しかし血刀をさげて駈け出したその殺人者はすこしも跡を殘さず消えてしまつた。死んだ人と囘復をあやぶまれる人とが眼前に證據を見せてゐるのでなければ、まつたく、だれかが夢をみたのだと思はれさうに、犯人は完全に隱れてしまつた。
二人の被害者のほかに、悲しい犧牲者がもう一人ゐた。
L氏が教へてゐた丘の上のT學校の校長は神學博士C氏で、この老博士に二人の令孃があつた。L氏はC博士の家に親しく出入りして故郷にあるやうな氣やすさで交際してゐるうちに、むかし風の淑女であるC令孃の姉の方に温かい愛を感じ、彼等はじきに婚約した。C博士もC夫人も非常に喜んだことだつた。しかしその晴ればれとした幸福のただ中に、金髮の青い眼をしたすばらしい才女、丘の下の女學校の校長であるS女史が現はれると、L氏の心に急な變化が來た。彼は生れてはじめての熱情を以て女史を戀した。周圍の人たちも同情してこの戀愛を成り立たせ、結婚させたのだつた。C令孃はしづかに身をひいて、今まで教へてゐた女學校の方も止め、丘の上の學校にはL氏が教へてゐるから、そこにも教へる氣がしないで、麻布の裏街の家々を訪問して個人傳道をはじめてゐた。さういふ過去の話も警察が聞き出すと、すぐそこに一つのスキヤンダルがあつたとして、或る手がかりを握つたやうに騷ぎ立てた。C令孃はじつに不幸であつた。しかしまた幸であつたのは、殺人の現場を隣室の鍵の孔からEH女史がこまかに覗いたことであつた。日本人の泥棒が刀を持つてL氏と組合つたことを確かに見たことで、いろいろな奇想天外の警察側の空想も破られて、彼等もその泥棒を探すより仕方がなかつた。C令孃はその夏ぐらゐまでしんぼうしてゐたが、ついに兩親とわかれて故郷に歸つて行つた。その後の彼女の生活はきこえてゐない、やはり淸くつつましく生きたことと思はれる。
この騷ぎがしつまつてL夫人がやつと囘復すると、教頭のM女史を校長にして自分は顧問といふやうな位置につき、小さい子供を育てながら上級の生徒たちには料理とか洗濯といふやうな家庭の仕事を教へた。子供が五つぐらゐになつた時彼女は故郷に歸つて行つた。むろん彼女と子供だけを旅立たせることはあまり痛ましいので、教師の中で最年少者のA女史が同伴者として一しよに立つて行つた。
T女學校はさういふ悲劇が一つの暗い影を落して、それと同時にハイカラな風がだんだん倦きられて急に古風な女子教育法が世間一ぱんに流行して來た時代の波で、最も進歩的であつたこの女學校もひどく急に生徒の數を減らしてしまつた。この學校をやめた生徒たちは華族女學校とか虎の門女學館なぞに入學して、みんなが宗教のにほひのする世界のそとに育つて行つた。
この時の悲劇はほんとうに突發的なもので、路傍に電線が垂れ下がつてゐて偶然それに觸れた人が感電したのと同じやうなわけだつた。何の原因があるでもなく誰のせゐでもない。もしL氏がほかの人と結婚して別の場所に暮してゐたら、彼は何の怪我もなく、學校の案内もよく知らずに侵入した泥棒は、校長かほかの先生かの指を二ほん切り落しただけで、殺人もしなかつたであらう。通り魔といふやうな物すごい一瞬の出來事ではあつたが、初めの一つの不幸がいくつもの不幸を引いて來たと言はれるかもしれない。生徒たちは學校の體面をおもひ、また二本の指を失くした未亡人の姿を朝に晩に見てゐるので、それ以後だれも決してこの悲しい事件を口に出すものはゐなかつた。しかし物に感じやすい少女たちの心にはいろいろな陰影がうごいてゐて、神祕的に考へるものと常識的に考へるものと、それはただ彼等のをさない心の世界にだけくり返された問答であつた。
新しい校長M女史は深く物を考へる學者型の人で、決して傳道者型ではなかつた。洗禮をうける人數が多いのを誇りにしてゐたこの女學校の初期の氣風とはすつかり離れて、彼女は西洋風の教養を持つ日本の新しい女性をつくり出さうと力いつぱいに骨を折つた。M女史は教へることが上手で、また樂しみでもあつた。それゆゑ不景氣時代の學校の經營もむづかしかつたらうけれど、生徒を教授することが生命がけで、學校は今までとは達つた地味なものになつたが、しづかに根づよく育つて行つた。
迷宮に入つたまま葬り去られるかと思はれた殺人事件は、しかしもう一度新聞に書かれる時が來た。それは三十何年か過ぎた後のこと、東京のどこかの警察にちよつとした微罪で擧げられた一人の男が、自分はむかし、今から三十餘年前、麻布で人を殺したことがあると自白したのだつた。その委細が新聞に出たが、それだけ古い事になると讀む人をあまり動かさなかつた。讀者の半分以上は自分たちの生れ出ない前の話なのだから、また年をとつて大ていの事は忘れてしまつた人も多かつたから。しかし少數のものは、私もその中の一人で、熱心にこの記事を讀んだ。もう疾うに時効にかかつてゐるから、この犯人はその昔の殺人事件のため罰せられるわけにはゆかないで、その新しい微罪のため行くところにゆかせられたと覺えてゐる。その後のことはどうなつたか知らない。學校と警察とからは故郷に靜かに生きてゐた老夫人にこの最後の知らせを送つた。一人の泥棒が物盗りに入つた拍子に何のゆかりも恨みもない人を殺してしまつて、一生その罪の重荷に苦しみながら生きて來たが、警察で隱せばかくし了へられる古い事件をついに自分から言ひ出してしまつたといふことを「御報告するよろこびを持ちます」と手紙には書いたと思はれる。
もうすでに一世紀の半分ほどを經過してゐるけれど、その事件を身近く見聞きした人たちの幾人かがまだ生きてゐると思ふ。その人たちの平和としづかな餘生を祈りたい、私自身もその中にふくめてである。
[やぶちゃん補注:本作は当時、東鳥居坂町13番地にあった東洋英和女学校で明治23(1890)年4月4日*
(*前年1889年とする資料も多いのだが、サイト「青山霊園外人墓地お墓の縁者捜索プロジェクト!」ページに所収する以下の被害者の墓碑の写真画像と墓碑銘の記載を正しいと判断する。
“in memory of Rev. T. A. Large B. A. killed April 4 1890 This stone is erected by Japanese friends. My meat is to do the will of him that sent me and to finish his work. John 4:34 /”「北米加奈多メソヂスト派遣宣教師 學士チー. エー. ラージ君之墓 明治廿三年四月四日罹兇夊没 日本人朋友建石」)
午後11時頃、日本刀様の凶器を持った男が校内に侵入(後に馬場恒八・小笠原重季の二名の複数犯行であることが判明)、遭遇したカナダ国籍カナダ・メソジスト教会宣教師で同校英語教師**
(**同校の「校長」と記載するものも多いが廣子の記述を正しいと判断する)
アルフレッド・ラージ氏(Large,Thomas Alfred)30歳(32歳とする資料もあり)に対し、切りつけ、14箇所の創傷を負わせて即死させ(状況から私は失血死と推定する)、止めに入った同校校長であり、被害者の妻であったスペンサー・ラージ(Large, Spencer)女史も顔面切創及び指切断(本作の記載を採用する)の重傷を負った事件を指す。本殺人事件の詳細は、サイト“DEEP AZABU”の「むかし、むかし-事件」中の「13.東洋英和ラ-ジ殺人事件」に詳しい。なお、この事件に関わって阪急電鉄等の阪急グループ・東宝映画・阪急ブレーブス・宝塚歌劇団の創始者である、あの小林一三の名が見出されるのは驚き。そのまさに驚天動地のエピソードは必読である。そこで語られる小林が学生時代に本事件に取材して執筆した推理小説「練絲痕」については、以下の佐藤清文氏の「小林一三で見る作家の先見性」の記載が誠に素晴らしい。]