小說作法十則 芥川龍之介
[やぶちゃん注:昭和二(1927)年九月刊の雑誌『新潮』掲載された。定本は岩波版旧全集を用い、後記に記載された日本近代文学館蔵の著者自筆原稿の抹消・訂正部分を取り消し線で復元した。]
小說作法十則
一 小說はあらゆる文藝中、最も非藝術的なるものと心得べし。文藝中の文藝は詩あるのみ。卽ち小說は小說中の詩により、文藝の中に列するに過ぎず。從つて歷史乃至傳記と實は少しも異る所なし。
二 小說家は詩人たる以上に歷史家乃至傳記作者たるを要す。詩人たる以外に歷史家乃至傳記作者なり。從つて人生(一時代に於ける一國の)と
三 詩人は常に自己の衷心を何人かに向つて訴ふるものなり。(女人をくどく爲に戀歌の生じたるを見よ。)既に小說家は詩人たる以上に歷史家乃至傳記作者なりとせん乎、傳記の一つなる自叙傳作者も小說家自身の中に存在すべし。從つて小說家は彼自身暗澹たる人生に對することも常人より屢々ならざるべからず。そは小說家自身の中の詩人は實行力乏しきを常とすればなり。若し小說家自身の中の詩人にして歷史家乃至傳記作者よりも力强からん乎、彼の一生は愈出でて愈悲慘なるを免れざるべし。ポオの如きはこの好例なり。(ナポレオン乃至レニンをして詩人たらしめば、不世出の小說家を生ずるは言を待たず)
四 小說家の人生(同上)に相亘ると言ふも、四 小說家的才能は前に擧げたる三條により、詩人的才能、歷史家的乃至傳記作者的才能、處世的才能の三者に歸着すべし。この三者を
五 既に一生の平穩無事なるを期すべからずとせば、體力と金錢と
六 然れども若し現世にありて比較的平和なる一生を送らんとせば、小說家は如何なる才能よりも處世的才能を練鍛すべし。但しそは
七 文藝は文章に表現を托する藝術なり。從つて文章を練鍛するは勿論小說家は怠るべからず。若し一つの言葉の美しさに恍惚たること能はざるものは、小說家たる資格の上に多少の缺點ありと覺悟すべし。西鶴の「阿蘭陀西鶴」の名を得たるは必しもー時代の小說上の約束を破りたる爲にあらず。彼の俳諧より悟入したる言葉の美しさを知りゐたる爲なり。
八 一時代に於ける一國の小說はおのづから種々の約束のもとにあり。(こは歷史の決定する所による。)小說家たらんとするものは努めてこの約束をこの約束に從ふべし。この約束に從ふ利益は前人の肩の上に乘りて自己の小說を作り得ること、二に眞面目に見ゆる爲に文壇の犬ども天才にはかかる約束を脚下に天才にはかかる約束を脚下に躙メリメエの如きはこの好例なり。[やぶちゃん注:この「メリメエ」は「スタンダアル」に更に書き換えられ、結果、最後に全体が抹消されている。]從つて當代に理解せられざるは勿論、後代にも知己を得れば見つけものなるべし。(こは單に小說の上のみにあらず、あらゆる文藝に通用すべし。)
九 小說家たらんとするものは常に一時代の思想乃至理論の支配を受けざ哲學的、自然科學的、經濟科學的思想に反應することを警戒すべし。如何なる思想乃至理論も
十 あらゆる小說作法は
附記。僕は何ごとにも懷疑主義者なり。唯如何に懷疑主義者ならんと欲するも、詩の前には未だ嘗懷疑主義者たる能はざりしことを自白す。同時に又詩の前にも常に懷疑主義者たらんと努めしことを自白す。 (大正十五・五・四)