鬼火へ

入庵雜記   尾崎放哉   
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[やぶちゃん注:初出は『層雲』大正十五(一九二六)年新年号から五月号に五回に分けて掲載され(尾崎放哉は同年四月七日死去)、後、「放哉俳句集 大空」(大正十五(一九二六)年六月春秋社刊)に所収された。底本は昭和五十八(一九八三)年八月ほるぷ社刊「詩歌文学館 紫陽花セット」中の復刻本を用いた。本文中にある「已」の一部は、明らかに「己」の植字がなされているが、それについては前後から「已」と同定して変更した(因みに、本作中に放哉は「己」の字は用いていない)。また、一部の脱字(植字ミスと思われる)は複数の別資料で補った(文脈と無関係なので特に脱字補正の指示はしていない)。その他は、可能な限り、底本を再現した(リーダの中には三点の他に二点一点のものが見られ、その組み合わせでは、十中八九、いい加減な植字や印刷のスレによるものと判断される部分が散見されるが、初版本の雰囲気を出すために、敢えて殆んどそのまま再現した。但し、繰り返し記号「〱」「〲」に関してのみは横書版の表示を考慮して正字に直した)。なお、現在一般に知られている「入庵雑記」と較べると、句読点や表記。表現に於いて、かなり有意な異同が見られる。各篇末にオリジナルな注を附した。【二〇一二年四月二十二日 藪野直史】「放哉俳句集 大空」(復刻本)背と箱(表:これは本体の見開きと同じ)と背及び本体表紙の画像を以下に挿入した。【二〇一二年五月一日 私の二十二年目の結婚記念日の朝に】]








    入 庵 雜 記

     
島に來るまで

 この度、佛恩によりまして、此庵の留守番に座らせてもらふ事になりました。庵は南郷庵と申します、も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奧の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ケ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奧の院となつて居りますから番外であります。已に奧の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
 庵は六疊の間にお大師樣をまつりまして、次の八疊が、居間なり、應接間なり、食堂であり、寢室であるのです、其次に、二疊の疊と一疊ばかしの板の間、之が臺所で、其れにくつ付いて小さい土間に竈があるわけであります。唯これだけでありますが、一人の生活としては勿體ないと思ふ程であります。庵は、西南に向つて開いて居ります、庭先きに、二タ抱へもあらうかと思はれる程の大松が一本、之が常に此の庵を保護してゐるかのやうに、日夜松籟潮音を絶やさぬのであります。此の大松の北よりに一基の石碑が建つて居ります。之には、奉供養大師堂之塔と彫んでありまして、其横には發願主圓心禪門と記してあります。此の大松と、此の碑とは、朝夕八疊に座つて居る私の眼から離れた事がありません。此の發願主圓心禪門といふ文字を見る度に私は感慨無量ならざるを得ん次第であります。此の庵も大分とそこら中が古くなつて居るやうですが、私より以前、果して幾人、幾十人の人々が、此の庵で、安心して雨露を凌ぎ且はゆつくりと寢させてもらつた事であらう、それは一に此の圓心禪門といふ人の發願による結果でなくてなんであらう、全く難有い事である。圓心禪門といふ人は果してどんな人であつたであらうかと、それからそれと思ひに耽るわけであります。
 東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八疊の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居ますが、大體に於て鹽濱と、野菜畑とであります。其間に一條の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になつて居るのであります。茲は瀨戸内海であり、殊にズツと入海になつて居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狹く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入つて參ります、それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。
 さて、入庵雜記と表題を置きましたけれども、入庵を機會として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思つて居るのであります。私の流轉放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。此間には全く云ふに云はれぬ色々なことがありました、此頃の夜長に一人寢てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。然るに只今はどうでせう、私の多年の希望であつた處の獨居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で營ませていたゞいて居るのであります。私にとりましては極樂であります。處が、之が皆わが井師の賜であるのだから、私には全く感謝の言葉が無いのであります。井師の恩に思ひ到る時に私は、きつと、妙法蓮華經觀世音菩薩普門品第二十五を朗讀して居るでありませう、何故なれば、どう云ふものか、私は井師の恩を思ふ時、必普門品を思ひ、そして此の經文を讀まざるを得ぬやうになるのであります。理窟ではありません。觀音經は實に絶唱す可き雄大なる一大詩篇であると思ひ信じて居ります、井師もきつと共鳴して下さる事と信じて居ります。猶、此機會に於て是非とも申させていただかねばならぬ事は西光寺住職杉本宥玄氏についてゞあります。已に此庵が西光寺の奧の院である事は前に申しました通り、私が此島に來まして同人井上一二氏を御尋ね申した時、色々な事情から大方、此島を去つて行く話になつて居りましたのです、其時此庵を開いて私を入れて下すつたのが杉本師であります。杉本師は數年前井師が島の札所をお廻りになつた時に、井上氏と共に御同行なされた方でありまして、誠に温厚親切其のものゝ如き方であります、師とお話して居ますと自ら春風蕩漾たるものがあります。私は此尊敬す可き師の庇護の下に此庵に座らせてもらつて居るので、何と云ふ幸福でせうか――、又、同人井上氏の御同情は申す迄も無く至れり盡せりでありまして、是等一に、井師を機緣として生じて來たものであると云ふ事に思ひ到りますれば、私は茲に再び、朗々、觀音經を誦さなくてはならない氣持となるのであります。
 丁度明治卅五年頃の事と覺えて居ります、其頃、井師も私も共に東京の第一高等學校に居りました。井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句――新派俳句と云つた時代です――が非常に盛で、其結果「一高俳句會」といふものが出來、句會を開いたものでした。句會は大抵根津權現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其處で開きました。そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一ツ宛持つて來ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、會費は五十錢位だつたと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虛子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです。虛子氏が役者見たいに洋服姿で自轉車をとばして來たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顏や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其當時の根津權現さんの境内はそれは靜かなものでした、椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上に立てゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした、日曜日なんかには、目白の啼き合せ會なんか此境内でやつたのですから、それは閑靜なものでしたよ。
 處で私は三年の後、一高を去ると共に、此會にも關係がなくなりました。そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました。處が此緣が決して切れては居りませんでした。火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます。世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこヽヽヽヽヽありませんね。其後、私は已に社會に出て所謂腰辨生活をやつて居たわけであります、そして茲に機緣を見出したものか層雲第一號から再び句作しはじめたものであります、それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として經過して居ります内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以來は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の關係となつて來た譯なのであります。そこで、私が此島に參りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。井師の此度の今熊野の新居は淸洒たるものではありますが、それは實に狹い。井師一人丈ですらどうかと思ふ位な處へ、此の飄々たる放哉が轉がり込んだわけです。而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい、一人釣りの蚊帳の中に、井師の布團を半分占領して毎晩二人で寢たわけです。其の狹い事狹い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまつたのです。鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有つたのではあるが、全く呉下の舊阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい經驗もありませう。又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです、包擁力が出來て來たのであります。井師は私に決してミユツセンヽヽヽヽヽと云つた事がありません。一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります。それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな氣持になつて來るのであります、之が大慈悲でなくてなんでありませう。
 井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれ共、其私に與へた印象は深甚なものでありました。井師と二人で田舍路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になつたねえ」といふたつたヽヽヽ一言に直に私が共鳴するのです。或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢つて極めて自然に、ソツヽヽと夏帽をとつて頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。二人で歩いて居て、井師も亦、妻も兒も無い人なんだなと思つてつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手くそヽヽなのです。而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ、何時でも着物の着方の下手くそヽヽなので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。下駄の先鼻緒に力を入れて突つかけて歩くもの故、よく下駄の先をまだ新しいうちに壞してしまつたり、先鼻緒を切つたりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。其外、床の間の上に乘せてあつた白袴……恐らくは學生時代のであつてほしかつたが …一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとつては實に異常なもので有つたのであります。
 井師は今、東京に歸つて居らるゝ日どりになつて居る、なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ氣持がして來るのです。私は茲で又、觀音經を讀まなければならぬ。机の上には、いつでも此のお經文が置いて有るのですから――。扨、私は此邊で一寸南郷庵に歸らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。

我昔所造諸惡業。  皆由無始貪瞋癡。
從身口意之所生。  一切我今皆懺悔。

[やぶちゃん注:「南郷庵」は「みなんごあん」と読む。放哉の入庵は大正十四(一九二五)年八月二十日のことであった。
「渠」は「みぞ」(溝)と訓じている。
「腹燗」御銚子を懐ろに入れて、人肌に御燗することを言うか。
「春風蕩漾」の「蕩漾」は「たうやう(とうよう)」と読み、揺れ動く、漂うの意。
「層雲第一號から再び句作しはじめた」とあるが、現在の知見によれば、放哉の句が『層雲』に初出するのは、大正四(一九一五)年十二月号で、『層雲』創刊は明治四十四(一九一一)年四月である。
「鋒鋩」は「ほうばう(ほうぼう)」と読み、原義は刃物の切っ先、転じて、相手を追及する激しい気質・気性を言うが、ここでは放哉は「きっかけ」、若しくは次の「呉下の舊阿蒙に非ず」(人物が暫く会わないうちに見違えるほどに成長したことを賞す言葉。「三国志」の呂蒙に拠る故事)と掛けて「(驚くべき強靭な精神力の)芽生え」という意味で用いている。
「ミユツセン」はドイツ語の助動詞“müssen”で、「~しなければならない」という義務・強制を意味する。
最後は「華厳経」四十巻本の「普賢行願品」にあるで、懺悔文として在家檀信徒の日々の読経で称えられる。懺悔偈さんげげ
 我昔所造諸惡業
「がしやくしよざうしよあくごふ(がしゃくしょぞうしょあくごう)」
 皆由無始貪瞋癡
「かいいうむしとんじんち(かいゆうむしとんじんち)」
 從身口意之所生
「じゆうしんごいししよしやう(じゅうしんごいししょしょう)」
 一切我今皆懺悔
「いつさいがこんかいさんげ)(いっさいがこんかいさんげ)」
と読み、訓読すると、
 我れ昔より造る所の諸悪業
 皆、無始の貪瞋癡に由る
 身語意より生ずる所
 一切、我れ今、皆、懺悔
で、意味は、
  私が重ねて参った諸悪業あくごうは、
  悉く皆、前世の遙か昔より重ねて参った三毒――欲と怒りと無知――に基づくもので御座る。
  肉体と言葉と心の三業の生みだしたこの諸々の罪を、
  私は今、一切全て、仏さまに懺悔し申し上げ奉りまする――
と言った意味である。]



      


 庵に歸れば松籟颯々、雜草離々、至つてがらんヽヽヽとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を拂ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく、と云ふ處から出て居るのださうでありますが、全くこの庵にも、糠味噌壺一つ無いのであります。緣を人に絶つて身を方外に遊ぶ、などと氣取つて居るわけでは毛頭ありませんし、また、その柄でも勿論ないのでありますから、時々、ふとした調子で、自分はたつた一人なのかなヽヽヽヽヽヽ、と云ふ感じに染々と襲はれることであります。八疊の座敷の南よりの、か細い一本の柱に、たつた一つの脊をよせかけて、其の前に、お寺から拜借して來た小さい低い四角な机を一つ置いて、お天氣のよい日でも、雨がしとしと降る日でも、風がざわざわ吹く日でも、一日中、朝から默つて一人で座つて居ります。
 座つて居る左手に、之も拜借もの‥‥と云ふよりも、此庵に私がはいりました時殘つて居つた、たつた一つの什器であつた處の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。此の火鉢は殆ど素燒ではないかと思はれる程の瀨戸の黑い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるりヽヽヽが、凡そこれ以上に毀す事は不可能であらうと思はれる程疵だらけヽヽヽにしてあります。之は必、前住の人が煙草好きであつて、鐵の煙管かなんかでノベツヽヽヽコツンコツンヽヽヽヽヽヽ毀して居た結果にちがひないと思ふのです、誠に御丹念な次第であります。此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらんヽヽヽとし過ぎたことであります。此の南よりの一本の柱と申すのが、甚形勝の地位に在るので、遙に北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。居ながらにして首を少し前にのばせば、そこは廣々と低みのなだれヽヽヽになつて一面の芋畑、そして遠く、土庄町の一部と、西の空の開いて居るのが見えるのであります。東は例のこの庵唯一の小さい低い窓でありまして、其の窓を通して渠の如き海が見え、海の向うには、島のなかの低い山が連つて居ります。西はすぐ山ですから、窓によつて月を賞するの便があるのみで、別に大した風情は有りませんのです。お天氣のよい日には毎朝、此の東の空に並んで居る連山のなかから、太陽がグングンヽヽヽヽ昇つて來ます。太陽の昇るのは早いものですね、山の上に出たなと思つたら、もう、グツグツグツと昇つてしまひます。その早いこと、それを一人座つてだまつて靜に見て居る氣持ツたらヽヽヽ全くありません。私は性來、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大抵な腦の中のイザコザヽヽヽヽは消えて無くなつてしまふのです。「賢者は山を好み、智者は水を愛す」といふ言葉があります。此の言葉はなかなかうま味のある言葉であると思ひます、但し、私だけの心持かも知れませんが――。一體私は、ごく小さな時からよく山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとつて來るに從つて、山はどうも怖い……と申すのも可笑しな話ですが、……親しめないのですな。殊に深山幽谷と云つたやうな處に這入つて行くと、なんとはなしに、身體中が引締められるやうな怖い氣持がし出したのです、丁度、怖い父親の前に座らされて居ると云つたやうな氣持です。處が、海は全くさうではないのであります、どんな惡い事を私がしても、海は常にだまつて、ニコニコヽヽヽヽとして包擁してくれるやうに思はれるのであります。全然正反對であります。ですから私は、これ迄隨分旅を致しましたうちで、荒れた航海にも度々出逢つて居りますが、どんなに海が荒れても、私はいつも平氣なのであります、それは自分でも可笑しいやうです。よし、船が今微塵にくだけてしまつても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ滿足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます、丁度、慈愛の深い母親といつしよに居る時のやうな心持になつて居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛… と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。處がです、此の、個人主義の、この戰鬪的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出來にくい事であります。そこで、勢之を自然に求めることになつて來ます。私は現在に於ても、假令、それが理窟にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊嚴を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。母の慈愛――母の私に對する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、惡人であらうが、一切衆生の成佛を… その大願をたてられた佛の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。
猶茲に、海に附言しまして是非共ひとことヽヽヽヽ聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。私が、流轉放浪の三ケ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い處にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い處にある空が、……殊更その朝と夕とに於て……そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々樣々に變形し、變色して見せてくれると云ふことであります、勿論、其の變形、變色の底に流れて居る光りヽヽといふものを見逃がす事も出來ません。之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつヽヽヽが絶對に見られない事であります。私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧糢糊たるものに憧憬れて、三年の間、飄々乎として歩いて居たといふわけであります。それが、この度、佛恩によりまして、此庵に落ち着かせていたゞく事になりまして以來、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す譯で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年中の人間好時節といふ次第なのであります。
[やぶちゃん注:「秋の色糠味噌壺も無かりけり」元禄四(一六九一)年(芭蕉四十八歳)、膳所義仲寺での作。句空編「柞原ははそはら集」に、
   菴に掛けむとて句空が書せける兼好の繪に
 秋のいろぬかみそつぼもなかりけり
という前書を持って所収する。句空の兼好の閑居を描いた絵に芭蕉が入れた讃という句柄で、この時のことを句空は「草庵集」序文で、「秋のいろぬかミそつぼもなかりけり、といふ句ハ、兼好の賛とて書きたまへるを、常ハ庵の壁に掛て対面の心地し侍り。先年義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。何事にかと答たれバ、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴よハりたる、と。かゝる事まで思ひ出だして、しきりに涙のこぼれ侍り」と感慨深く回顧している(「鳴よハりたる」は「鳴き弱りたる」のこと)。
「世捨人は浮世の妄愚を拂ひ捨てゝ、糂汰瓶ひとつも持つまじく」は、「徒然草」第九十八段で、
 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覺えし事ども。
一 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり。
一 後世を思はん者は、糂汰瓶一つも持つまじきことなり。持經・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。
一 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上﨟は下﨟に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。
 この外もありし事ども、覺えず。
の二項目に現れる。法然の弟子俊乗房重源の言葉で、物欲への徹底したストイシズムを述べる。「糂汰瓶」は「じんだがめ」と読み、糠漬けを漬けるための糠味噌壺のことで、世俗の食生活の最低必需品を比喩したもの。
「賢者は山を好み、智者は水を愛す」「論語」の「雍也第六 二十三」に載る孔子の言葉、
子曰、知者樂水、仁者樂山、知者動、仁者静、知者樂、仁者壽。
子曰く、「知者は水を樂しみ、仁者は山を樂しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は樂しみ、仁者はいきながし。」と。
に基づく。――私は海産無脊椎動物の研究を趣味とし、人生を微妙に変えた右腕橈骨遠位端骨折も横浜国大真鶴の臨海研究所での総合学習海岸生物観察での出来事だった。翻って、二十三歳の時からワンダーフォーゲルや山岳部の顧問として丹沢を皮切りに槍や穂高、八ヶ岳に登り続けて来た――而して今、私はどうかといえば――やっぱり海が、いい――さすれば、野人と言うても、まだまだ、だな――]



     
念    佛

 六疊の座敷は、八疊よりも七八寸位、高みに出來て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。此の六疊が大變に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て疊代へをしたばかりのとこなのださうでした、六疊の佛間は奇麗になつて居ります。此の島の人…・と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地藏さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて來て、この六疊の佛間にみんなが座つて、お念佛なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。
 それはお念佛を申すヽヽとか、御詠歌を申すヽヽとか、島の人は云ふのです。それで、只單に「申しヽヽに來ました」とか、「申さうヽヽヽぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。そこで可笑しい事には、このお念佛なり、御詠歌なりを申しますのに、舊ぶしヽヽヽ新ぶしヽヽヽとがあるのであります。「舊ぶし」と云ふのは、ウンヽヽと年とつたお婆さん連中が申す調子であります、「新ぶし」は中年増と云つたやうな處から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふしヽヽであります。そのふしヽヽ廻しを聞いて居りますと、舊ぶしヽヽは平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶしヽヽの方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓座あり、中々に面白いものであります。ですから、其の持つて居る道具にしても、舊ぶしの方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶしヽヽの方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位なリンを持ちます。その鈴の棒の處々には、洋銀か、ニツケルヽヽヽかのカネヽヽの輪の飾りが塡めこんでありまして、ピカピカ光つて居る、棒の上からは赤い房がさがつて居る。中々美しいものでありますが、それを右の手に持つてリンリンヽヽヽヽ振りながら、左手では鉦をたゝく、中々面白くもあり、五人も十人も調子が揃つて奇れいなものであります。處がです、此の兩派が甚合はない、云はゞ常に相嫉視して居るのであります、何しろ、一方は年よりばかり、一方は若い連中、と云ふのでありますから、色々な點から考へて見て、是非もない次第であるかも知れませぬ。
 一體關東の方では、お大師さまの事をあまりやかましく云はないやうですが、關西となると、それはお大師さまの勢力といふものは素破らしいものであります。私が須磨寺に居りました時、あすこのお大師さまは大したものでありまして、殊に盆のお大師さまの日と來ると、境内に見世物小屋が出來る、物賣り店が並ぶ、それはえらいヽヽヽ騷ぎ、何しろ二十日の晩は夜通しで、神戸大阪邊から五萬十萬と云ふ人が間斷なくおまゐりに來るのですから全くのお祭であります。……丁度、東京の池上のお會式……あれと同じ事であります。その時のことでしたが、ある信者の團體は一寸した舞臺を拵へまして、御詠歌踊と云ふのをやりました。囃しにはさき程申し上げました美しいリンと、それに小さい拍子木がはいります。其の又拍子木が非常によく鳴るのです。舞臺では十三から十五六迄位の美しい娘さんが、手拭と扇子とをもつて、御詠歌に合して踊るのであります。此島には未だ、この拍子木も、踊もはいつて來て居らぬやうでありますが、何れは遠からずしてやつて來る事でせう。然し、島の人々の信心深い事は誠に驚き入るのでありまして、内地ではとても見る事が出來ますまい。祖先に對する厚い尊敬心と、佛に對する深い信仰心には敬服する次第であります。慥か、お盆の頃の事でしたが、庵の前の道を、「此のお花は盆のお墓にあげようと思つて此春から丹念に作つて居りましたが……」など云ひ交しながら通つて行く島人の聲をきいて居まして、しんみりとさせられた事でした。
[やぶちゃん注:「東京の池上のお會式」東京都大田区池上にある日蓮宗大本山池上本門寺で行われる御会式おえしき。御会式は日蓮入滅の十月十三日を中心とした日蓮宗寺院での祭事であるが、池上本門寺は実際の日蓮入滅の霊跡であるため、最も盛大に行われる。]



     
鉦 た た き

 私がこの島に來たのは未だ八月の半ば頃でありましたので、例の井師の句のなかにある「氷水でお別れ」をして京都を十時半の夜行でズーヽヽとやつて來たのです。ですから非常に暑くて、浴衣一枚すらも身體につけて居られない位でした、島は到る處これ蟬聲嘒嘒。しかし季節といふものは爭はれないもので、それからだんだんと虫は啼き出す、月の色は冴えて來る、朝晩の風は白くなつて來ると云ふわけで、庵も追々と、正に秋の南郷庵らしくなつて參りましたのです。
 一體、庵のぐるりヽヽヽの庭で、草花とでも云へるものは、それは無暗と生えて居る實生の鷄頭、美しい葉鷄頭が二本、未だ咲きませぬが、之も十數株の菊、それと、白の一重の木槿が二本……裹と表とに一本宛あります。二本共高さ三四尺位で、各々十數個の花をつけて居ります、そして、朝風に開き、夕靄に蕾んで、長い間私をなぐさめてくれて居ります。まあこれ位なものでありませう。あとは全部雜草、殊に西側山よりヽヽの方は、名も知れぬ色々の草が一面に山へかけて生ひ繁つて居ります。然し、よく注意して見ると、これ等雜草の中にもホチホチヽヽヽヽ小さな空色の花が無數に咲いて居ります、島の人は之を、かまぐさヽヽヽヽ、とか、とりぐさヽヽヽヽ、とか呼んで居ります。丁度小鳥の頭のやうな恰好をして居るからださうです。紺碧の空色の小さい花びらをたつた二まい宛開いたまんま、數知れず、默りこくつて咲いて居ます。私だちも草花であります、よく見て下さい――と云つた風に。
 かう云ふ有樣ですから、追々と涼しくなつて來るといつしよに、所謂、虫聲喞々。あたりがごく靜かですから晝間でも啼いて居ます、雨のしとしと降る日でも啼いて居ります。ですから夜分になつて一層あたりがしんかんヽヽヽヽとして來ると、それは賑かなことであります。私は朝早く起きることが好きでありました、五時には毎朝起きて居りますし、どうかすると、四時頃、まだ暗いうちから起き出して來て、例の一本の柱によりかゝつて、朝がだんだんと明けて來るのを喜んで見て居るのであります。さう云つた風ですから、夜寢るのは自然早いのです。暮れて來ると直ぐに蚊帳を吊つて床の中には入つてしまひます、殆んど今迄ランプヽヽヽをつけた事が無い、これは一つは、私の大敵である蚊群を恐れる事にもよるのですけれども、まづ、暗くなれば、蚊帳のなかにはいつて居るのが原則であります、そして布團の上で、ボンヤリヽヽヽヽして居たり、腹をへらしたりして居ります。ですから自然、夜は虫鳴く聲のなかに浸り込んで聞くともなしに聞いて居るときが多いのであります。ヂツヽヽとして聞いて居ますと、それは色々樣々な虫が鳴きます、遠くからも、近くからも、上からも、下からも、或は風の音の如く、又波の叫びの如く――。その中に一人で横になつて居るのでありますから、まるで、野原の草のなかにでも寢てゐるやうな氣持がするのであります、斯樣にして一人安らかな眠のなかに、いつとは無しに落ち込んで行くのであります。其時なのです、フト鉦叩きヽヽヽがないてるのを聞き出したのは――。
 鉦叩きヽヽヽと云ふ虫の名は古くから知つて居ますが、其姿は實の處私は未だ見た事がないのです、どの位の大きさで、どんな色合をして、どんな恰好をして居るのか、チツトも知りもしない癖で居て、其のなく聲を知つてるだけで、心を牽かれるのであります。此の鉦叩きヽヽヽといふ虫のことについては、かつて、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られたやうに思ふのですが、只今、チツトも記憶して居りません。只、同氏が、大變この虫の啼く聲を賞揚して居られたと云ふ事は決して間違ひありません。東京の郊外にも――澁谷邊にも――ちよいちよいヽヽヽヽヽヽ居るのですから、御承知の方も多いであらうと思はれますが、あの、カーン、カーン、カーンと云ふ啼き聲が、何とも云ふに云はれない淋しい氣持をひき起してくれるのです。それは他の虫等のやうに、其聲には、色もなければ、艷もない、勿論、力も無いのです、それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の聲々と少しも混雜することなしに、只、カーン、カーン、カーン………如何にも淋しい、如何にも力の無い聲で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものヽヽヽヽを持つて居るのです。そのカーン、カーンと云ふ聲は、大抵十五六遍から、二十二三遍位くり返すやうです、中には、八十遍以上も啼いたのを數へた‥ 寢ながら數へた事がありましたが、まあこんなのは例外です、そして此虫は、一ケ所に決してたくさんは居らぬやうであります、大抵多いときで三疋か四疋位、時にはたつた一疋でないて居る揚合――多くの虫等の中に交つて――を幾度も知つて居るのであります。
 瞑目してヂツヽヽと聞いて居りますと、この、カーン、カーン、カーンと云ふ聲は、どうしても此の地上のものヽヽとは思はれません。どう考へて見ても、この聲は、地の底、四五尺の處から響いて來るやうにきこえます、そして、カーン、カーン、如何にも鉦を叩いて靜かに讀經でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の聲では無い、……坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黑い衣をきて、たつた一人、靜かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の聲なのだ、何の呪詛か、何の因果か、どうしても一生地の底から上には出る事が出來ないやうに運命づけられた小坊主が、たつた一人、靜かに、… 鉦を叩いて居る、一年のうちで只此の秋の季節だけを、佛から許された法悦として、誰に聞かせるのでもなく、自分が聞いて居るわけでも無く、只、カーン、カーン、カーン、……死んで居るのか、生きて居るのか、それすらもよく解らない…‥只而し、秋の空のやうに靑く澄み切つた小さな眼を持つて居る小坊主… 私には、どう考へなほして見ても、かうとしか思はれないのであります。
 其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雜草のなかに居たのであります。私は最初その聲を聞きつけたときに、ハツヽヽと思ひました、あゝ、居てくれたかヽヽヽヽ、居てくれたのかヽヽヽヽヽ‥‥それもこの頃では秋益々闌けて、朝晩の風は冷え性の私に寒いくらゐ、時折、夜中の枕に聞こえて來るその聲も、これ恐らくは夢でありませう。
[やぶちゃん注:「蟬聲嘒嘒」「嘒嘒」は「けいけい」と読み、これ自体が蟬の鳴き声のせわしい形容である。
「かまぐさ」「とりぐさ」不詳。トリグサという里名称で呼ばれるものにはナデシコ目ナデシコ科ハコベ Stellaria やアカネ目アカネ科ヤエムグラ Galium があり、花の色からは前者のように思われるが開花期が合わず、本文の「小さい花びらをたつた二まい宛開いたまんま」というのも解せない。識者の御教授を乞う。
「虫聲喞々」「喞々」は「しよくしよく(しょくしょく)」と読み、原義は機を織る小さな音の頻りな形容、転じて虫の頻りに鳴く声の形容。
「鉦叩き」直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科カネタタキ科 Ornebius 属カネタタキ Ornebius kanetataki 。成虫は八月から十二月にかけて出現し、夜行性。♂は夏から初秋にかけては夜間、次第に気温が低くなってからは昼夜を問わず、梢や叢の中で「チッチッチッチッ」という小さな声で鳴く。和名は、この♂の鳴き声が鉦を叩く音に似ていることによる。但し、♂同士が接近した場合、「チルルチルル!チルチル!チルルルルルル!」という競い鳴きに変化する(以上はウィキの「カネタタキ」に拠った)。「手釣りのロダン」氏の「カネタタキの観察」のページで、画像や解説、温度差によるカネタタキの音色の変化も楽しめる。「千葉県立中央博物館」の「虫の音声」の「カネタタキ」のページでは、更に温度差四種の泣き声を聴くことが出来る。
「かつて、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られた」は、「大變この虫の啼く聲を賞揚して居られた」という叙述部分から推して、恐らくカネタタキではなく、作品集『骨董』所収の「草雲雀」のクサヒバリのことを指すと思われる。コオロギ上科カネタタキ科クサヒバリ Paratrigonidium bifasciatum で、八雲はこのクサヒバリの鳴き声をこよなく愛した。Taiju氏のHPのこちらで田代三千稔みちとし訳で読めるので参照されたい。クサヒバリは「フィリリリリリリ……」「キリリリリリ……」などと音写され、カネタタキと比すと、遙かに華やかであるが(「千葉県立中央博物館」の「虫の音声」のクサヒバリのページ)、出現期はカネタタキとシンクロする。]



   


 土庄の町から一里ばかり西に離れた海邊に、千軒といふ村があります。島の人はこれを「センゲヽヽヽ」と呼んで居ります。この千軒と申す處が大變によい石が出る處ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の聲を發するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。今でも繪はがきで見ますと、其の當時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で殘つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆ど石から出來上つて居るこの島、大變素性のよい石に富んで居るこの島、‥…こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立つて居るかなり高い山の頂上には――それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない――實になんとも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合つて、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黑いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別樣の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ擴げたヽヽヽヽヽヽ山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの耶馬溪よりも、と稱せられて居る寒霞溪を、其の岩石を、懷深く大切に愛撫して居ることを――。
 私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのであります。而も岩石であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一絲かくす處のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一聲山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。
 話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の怪、石の奇、或は又、石の妙に對してのみ嬉しがるのではありません、否、それ處ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツこヽヽヽろに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前齒で蹴とばされて、何處へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころヽヽヽヽ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンヽヽヽヽとそこらにころがつて行つて默つて居る石ツころヽヽヽヽ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも默々としてだまつて居る……其邊にありはしないでせうか、いや、石は、物が云へないから、默つて居るより外にしかたヽヽヽがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない、反對に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころヽヽヽヽでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈默は益々意味の深いものとなつて行くのであります。よく、草や木のだまつて居る靜けさを申す人がありますが、私には首肯出來ないのであります。何となれば、草や木は、物をしやべりますもの。風が吹いて來れば、雨が降つて來れば、彼等は直に非常な饒舌家となるではありませんか。處が、石に至つてはどうでせう、雨が降らうが、風が吹かうが、只之、默又默、それで居て石は生きて居るのであります。
 私は屢々、眞面目な人々から、山の中に在る石が兒を産む、小さい石ツころヽヽヽヽを産む話を聞きました。又、久しく見ないで居た石を偶然見付けると、キツト太つて大きくなつて居るといふ話を聞きました。之等の一見、つまらなく見える話を、鑛物學だとか、地文學だとか云ふ見地から、總て解決し、説明し得たりと思つて居ると大變な間違ひであります。石工の人々にためしに聞いて御覽なさい。必ず異口同音に答へるでせう、石は生きて居ります‥…と。どんな石でも、木と同じやうに木目と云つたやうなものがあります、その道の方では、これをくろたまヽヽヽヽと云つて居ります。ですから、木と同樣、年々に太つて大きくなつて行くものと見えますな………とか、石も、山の中だとか、草ツ原で呑氣に遊んで居る時はよいのですが、一度吾々の手にかゝつて加工されると、それつ切りで死んでしまふのであります、例へば石塔でもです、一度字を彫り込んだ奴を、今一度他に流用して役に立てゝやらうと思つて、三寸から四寸位も削りとつて見るのですが、中はもうボロボロヽヽヽヽで、どうにも手がつけられません、つまり、死んでしまつて居るのですな、結局、漬物の押し石位なものでせうよ、それにしても、少々輕くなつて居るかも知れませんな… とか、かう云つたやうな話は、ザラヽヽに聞く事が出來るのであります。石よ、石よ、どんな小さな石ツころヽヽヽヽでも生きてピンピンヽヽヽして居る、その石に富んで居る此島は、私の感興を惹くに足るものでなくてはならない筈であります。
 庵は町の一番とつぱしヽヽヽヽの、一寸小高い處に立つて居りまして、海からやつて來る風にモロヽヽに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりヽヽヽにして居るのであります。庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます、そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此邊はもう大分高みヽヽでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無數に林立してをります。そして、どれも、これも皆勿體ない程立派な石塔であります、申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです、そして、雨に、風に、月に、いつも默々として立ち並んでをります。墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆ど死に絶えたのか、美しい其聲もきく事が出來ません、只々、いつ迄もしんかんヽヽヽヽとして居る墓原。これ等無數に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります、地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、私のなつかしい石ツころヽヽヽヽを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころヽヽヽヽを――。
[やぶちゃん注:「其の當時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で殘つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居る」大坂城石垣構築の際、小豆島から採石されながら、積み出されずに残った巨石は、「残念石」「残石」などと呼ばれて、今も島のあちこちに残る。「小豆島観光協会」公式HPの「残念石(大坂城築城残石)」のページを参照されたい。
「山高くして月小なり」は、蘇軾の「後赤壁賦」の中間部の一節に現れる。
 江流有聲
 斷岸千尺
 山高月小
 水落石出
 曾日月之幾何
 而江山不可復識矣
  江流 聲 有り
  斷岸 千尺
  山 高くして 月 小さく
  水 落ちて 石 出づ
  曾て日月の幾何いくばくぞや
  而るに江山復た識るべからず
「猛虎一聲山月高し」北宋の詩人兪紫芝ゆしし(姓を「周」とするものもある)の「宿蒋山栖霞寺」(蒋山の栖霞寺に宿りて)という七絶、
 獨坐淸談久亦勞
 碧松燃火暖衾袍
 夜深童子喚不起
 猛虎一聲山月高
 獨り坐す 淸談 久しく亦 勞す
 碧松 火と燃え 衾袍きんはうを暖む
 夜 深く 童子 喚きて起きず
 猛虎一聲 山月 高し
に基づき、好んで画題とされる。
「つまらない石ツこヽヽヽろ」表記通り、この最初の「石ツころ」の「ろ」には傍点「ヽ」がない。
「草や木は、物をしやべりますもの。」の句点は印字のスレによって、句点か読点か判別不能である。現行本は殆んど読点であるが、私は文脈から句点とした。
「地文學」は「ちもんがく」と読み、地球の形状、地形・気候などの地球と地表近くの自然現象を研究する自然地理学や地学のことを言う。
「くろたま」現在の石材用語では「黒玉くろだま」というと、石を構成している鉱物群の内、色の黒い鉱物が一ヶ所に集まって出来た黒い斑点を言うが、ここで言っている石の年輪のようなものとは微妙に異なるようである。




    


 市中甚遠からねば、杖頭に錢をかけて物を買ふ足の勞を要せず、而も、市中又甚近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳靜なり。それ、巣居して風を知り、穴居して雨を知る……
 かう書き出しますると、まるで、鶉衣にある文句のやうで、すつかり浮世離れをして居る人間のやうに思はれるのですが、其の實はこれ、俗中の俗、窃に死ぬ迄の大俗を自分だけでは覺悟して居るのであります。が然し、庵の場所は全く申し分なしで、只今申上た通り、市中を去る事餘り遠くもなく、さりとて又近過ぎもせず、勿論、巣居であり、穴居でありますが、俗物にとつては甚以て都合の宜しい位置に建つて居るのであります。巣と申せば鳥に非ずとも必ず風を聯想しますし、穴と申せば虫に非ずとも必ず雨を思ひ起します、入庵以來日未だ淺い故に、島の人々との間の交渉が、自らすくなからざるを得ないから、自然、毎日朝から庵のなかにたつた一人切りで座つて居る日が多いのであります。獨居、無言、門外不出…‥他との交渉が少いだけそれだけに、庵そのものと私との間には、日一日と親交の度を加へて參ります。一本の柱に打ち込んである釘、一介の疊の上に落ちて居る塵と雖、私の眼から逃れ去ることは出來ませんのです。
 今暫くしますれば、庵と私と云ふものが、ピタリヽヽヽと一つになり切つてしまふ時が必ず參ることゝ信じて居ります。只今は正に晩秋の庵‥……誠によい時節であります。毎朝五時頃、まだウスヽヽ暗いうちから一人で起き出して來て、‥‥庵にはたつた一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります‥‥東側の小さい窓と、兩側の障子五枚とをカラリヽヽヽとあけてしまつて、佛間と、八疊と、臺所とを掃き出します、そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。この頃になると電氣が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、旭日の昇る準備を始めて居ります、其の雲の色の美しさ、未だ町の方は實に靜かなもので、何もかも寢込んで居るらしい、たゞ海岸の方で時折漁師の聲がきこえてくる位なもの――。これが私のお天氣の日に於ける毎日のきまつた仕事であります、全く此頃お天氣の日の庵の朝、晩秋の夜明の氣持は何とも譬へやうがありません。若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別樣な面白味があるのであります。島は一體風の大變よく吹く處で、殊に庵は海に近く少し小高い處に立つて居るものですから、其の風のアテ方ヽヽヽは中々ひどいのです。此邊は餘り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります、それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります。一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の眞ツ赤な色ではないのです、之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます、實になんとも形容出來ない程美しいことは美しいのだけれども、その眞ツ赤の色の中に、破壞とか、危惧とか云つた心持の光りをタツプリヽヽヽヽと含んで、如何にも靜かに、又、如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、… 間も無くそろそろ吹き始めて來ます、庵の屋根の上には例の大松がかぶさつて居るのですから、之がまつ先きに風と共鳴を始めるのです、悲鳴するが如く痛罵するが如く、又怒號するが如く、其の騷ぎは並大抵の音ぢやありません。庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居る切りなのですから、だんだん風がひどくなつて來ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切つてしまひます、それでおしまひ。他に閉める處が無いのです。ですから、部屋のなかはウスヽヽ暗くなつて、只西側の明りをたよりに座つて居るより外致し方がありません。こんな日にはお遍路さんも中々參りません。墓へ行く道を通る人も勿論ありません。風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで來るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで參ります。庵は餘り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します。大松獨り威勢よく風と戰つて居ります。夜分なんか寢て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶつかつてヽヽヽヽヽ其の儘押し上げるものと見えまして、寢て居る身體が寢床ごとヽヽいつしよにスーヽヽと上に浮きあがつて行くやうな氣持がする事は度々のことであります、風の威力は實にえらいものであります。私の學生時代の友人にK…‥今は東京で辯護士をやつて居ります‥…と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい、本郷のある下宿屋に二人で居ましたときなんかでも、夜中に少々風が吹き出して來て、ミシミシそこらで音がし始めると、とてもヽヽヽ一人でじつとヽヽヽして自分の部屋に居る事が出來ないのです。それで必ず煙草をもつて私の部屋にやつて來るのです、そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸つたりしてゴマヽヽ化して置くのですね。私も最初のうちは氣が付きませんでしたが、とうとう終ひに露見したと云ふわけです、あんなに風の音ヽヽヽを怖がる男は、メツタヽヽヽに私は知りません、それは見て居ると滑稽な程なのです。處が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始つたのです。それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由來、高い處にあがるのが怖いのです、それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、斷崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデングヽヽヽヽヽの頂上の欄干もなにもない其一角に立つて垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです、そんな處に長く立つて居ようものなら、身體全體が眞ツ逆樣に下に吸ひ込まれさうな氣持になるのです、イヤヽヽ、事實私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません、と申すのは、さう云ふ高い處から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。處が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平氣の平左衞門なのです。例へば淺草の十二階‥‥只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意氣地無し奴がと云ふやうな顏付をして私を苦しめるのです。丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。淺草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乘せて、それを下からスルスルとあげて、高い空からあたりを見物させることをやつたことがあります。處がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乘者で、そして大に痛快がつて居るといふ有樣なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全體、此島は雨の少い土地らしいのです、ですから時々雨になると大變にシンミリヽヽヽヽした氣持になつて、座つて居ることが出來ます。しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍しいのでした。そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも來ず、一日中晝間は手紙を書くとか、寫經をするとか、讀經をするとかして暮します。雨が夜に入りますと、益々しつとりヽヽヽヽした氣分になつて參ります。
[やぶちゃん注:放哉、しんどい実感を述べながらも、一章を風狂の「風」として語って、
ひどい風だ、どこ迄も靑空
という自信作もあるが、実際には書簡を見ると、ここの暴風にはほとほと悩まされたことが分かる。]



     


 庵のなかにともつて居る夜の明りと申せば、佛さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであつたのですが、お地藏さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。一に西光寺さんの御親切の賜であります、入庵以來幾月もたゝないのですが、どの位西光寺さんの御親切、母の如き御慈悲に浴しました事か解りません。具體的には少々樂屋落ちになりますから、これは避けさせていたゞきます……それだけの明りがある丈であります、扨、庵の外の灯ですが、之が又數へる程しか見えないのであります。北の方五六町距つた處の小さい丘の上にカナヽヽ佛さまがあります……矢張りお大師さまで…‥其上に一つの小さい電燈がともつて居ります。それから西の方は遙か十町ばかり離れて町家の灯が低く一つ見えます、東側には海を越えた島の山の中腹に、ポツチリヽヽヽヽ一つ見えます。多分お寺かお堂らしいですが、以上申上た三つの灯を、而もどれも遙かの先に見得る丈であります、しぜん、庵のぐるりはいつも眞ツ暗と申して差支へありますまい。イヤヽヽ、お墓を殘して居りました。庵の上の山に在る墓地に、ともすると時々ボンヤリヽヽヽヽと一つ二つ灯が見えることがあります、之は、新佛のお墓とか、又は年回などの時に折々灯される灯火なのです、「明滅たり」とは、正にこの墓地の晩に時々見られる灯火のことだらうと思はれる程ボンヤリヽヽヽヽとして山の上に灯つて居ります。私は、こんな淋しい處に一人で住んで居りながら、之で大の淋しがりやヽヽヽなんです、それで夜淋しくなつて來ると、雨が降つて居なければ、障子をあけて外に出て、このたつた三つしかない灯を、遙の遠方に、而も離れ離れに眺めて一人で嬉しがつて居るのであります。墓地に灯が見える時は猶一層にぎやかなのですけれ共さうさうヽヽヽヽは贅澤も云へない事です。庵の後架は東側の庭にありますので、用を足すときは必ず庵の外に出なければなりません。例の、晝間海を眺めるにしましても、夜お月さまを見るにも、そしてこの灯火を見るにも、私が度々庵の外に出ますのですから、大變便利であります。何が幸になるものか解りませんね、後架が外にあることがこれ等の結果を産み出すとは。
 灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に對して抱いた深酷な感じを忘れる事が出來ません。此の機會に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものゝ樣子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ヶ谷にあります、紅葉の名所で有名な永觀堂から七、八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツンヽヽヽと一軒立つて居ります、それは實に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります、いつぞや北朗さんとお二人で園にお尋ねにあづかつた事がありますから…‥それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります、用水は山水、之が竹の樋を傳つて來るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は毎日、去る者あり、來る者ありといふのでした、在園者は實によく變ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日新甞祭の日を卜して園にとび込みました。私は滿洲に居りました時、二囘も左側濕性肋膜炎をやりました、何しろ零度以下四十度なんと云ふこともあるのですから、私のやうな寒がりにはたまりません、其時治療してもらつた滿鐵病院院長A氏から……猶これ以上無理をして仕事をすると‥‥と大に驚かされたのが此生活には入ります最近動機の有力なる一つとなつて居るのであります。滿洲からの歸途、長崎に立ち寄りました、あそこは隨分大きなお寺がたくさん有る處でありまして、耶教撲滅の意味で、威嚇的に大きくたてられたお寺ばかりです、何しろ長崎の町は周圍の山の上からお寺で取りかこまれて居ると見ても決して差支へありません。そこで色々と探して見ましたが、扨、是非入れて下さいと申す恰好なお寺と云ふものがありませんでした、そこで機緣が一燈園と出來上つたと云ふわけであります。長崎から全く無一文、裸一貫となつて園にとび込みました時の勇氣と云ふものは、それは今思ひ出して見ても素破らしいものでありました。何しろ、此の病軀をこれからさきウンと勞働でたゝいて見よう、それでくたばるヽヽヽヽ位なら早くくたばつてヽヽヽヽヽしまへ、せめて幾分でも懺悔の生活をなし、少しの社會奉仕の仕事でも出來て死なれたならば有り難い事だと思はなければならぬ、と云ふ決心でとび込んだのですから素破らしいわけです。殊に京都の酷寒の時期をわざわざ選んで入園しましたのも、全く如上の意味から出て居ることでした。
 京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツヽヽヽ風のやうなものぢやありません、そして鹿ケ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。一體、園には、春から夏にかけて入園者が大變多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウンヽヽと減つてしまひます、いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ、何しろ死ねば死ねヽヽヽヽヽの決心ですから、怖い事はなんにもありません、園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトーヽヽヽヽでありますから、園では朝から一飯もたべません、朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの讀經をやります、禪が根底になつて居るやうでして、重に禪宗のお經をみんなで讀みます。但、由來何宗と云ふことは無いので、園の者はお光り、お光り、お光りを見ると、申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ、以前、耶教徒の在園者が多かつた時は、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやつたものださうです、それも、オルガンヽヽヽヽを入れてブーカブーカヽヽヽヽヽヽやり、一方では又、佛黨の人々が木魚をポクポクヽヽヽヽ叩いて讀經したのだと申しますから、隨分、變珍奇であつたであらうと思はれます。現在では皆讀經に一致して居ります、讀經がすむと六時から六時半になります、それから皆てくてくヽヽヽヽ各自その日の托鉢先き(働き先き)に出かけて行くのです。園から電車の乘り場まで約半里はあります。そこからまづ京都の町らしくなるのですが、園の者は二里でも三里でも大抵の處は皆歩いて行く事になつて居ります――と申すのは無一文なんですから。先方に參りまして、まづ朝飯をいたゞく、それから一日仕事をして、夕飯をいたゞいて歸園します。歸園してから又一時間程讀經、それから寢ることになります。何しろ一日中くたびれ果てゝ居ることゝて、讀經がすむと、手紙書く用事もなにもあつたもんぢやない、煎餅のやうな布團にくるまつて其儘寢てしまふのです。園にはどんな寒中でも火鉢一つあつた事なし、夜寢るのにも只障子をしめるだけで雨戸は無いのですから、それはスツパリヽヽヽヽしたものです。  扨、私が灯火に對して忘れる事の出來ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して來て、遙か山の下の方に、まだ寢込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮鬪に疲れ果てゝ今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、數千萬の白たゝけたヽヽヽヽヽ京都の町々の灯を眺めて立つて居る時と、夜分まつ暗に暮れてしまつてから、其日の仕事にヘトヘトヽヽヽヽに疲勞し切つた足を引づつて、ポツリポツリヽヽヽヽヽヽ暗の中の山路を園に戻つて來る時、處々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遙か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歡樂の都‥‥京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他數萬の灯火の生き生きした、誇りがましい輝かさを眺めて立つて居た時の事なのです。此時の私の心持なのであります。此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツヽヽヽとして居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀樂を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです、灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な點から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつくづく感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
 次に、この毎日の仕事・…園では托鉢と申して居ります…‥之が實に種々雜多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衞生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大學の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作爭議、病院の研究材料(之はモルモツトヽヽヽヽヽの代りになるのです)等々、何しろ商賣往來に名前の出てないものが澤山あるのですから數へ切れません。これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日毎日やつて居ります間に、大に私のためヽヽになることを一つ覺えたのであります。それはかう云ふ事です、百萬長者の家庭には入つて見ても、カラカラヽヽヽヽの貧乏人の家庭には入つて行つて見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相續人が無いとか、かう云つた風なことなのです、ですから萬事思ふまゝになつて、不滿足な點は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無いヽヽヽヽヽと云ふ事でありました。佛力は廣大であります、到る處に公平なる判斷を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な體驗なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとほふり出した肉體は、其後今日迄別段異状無くやつて來たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら氣の方は慥であつても、筋肉、體力の方が承知を致しません、無理は出來ない、力は無くなつて居る。園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニヽヽ若い者に負けるものかと云ふ元氣でやつて居つたものゝ、到底長續きがしないのです。ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の靑年がよろしいやうです、又實際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません、居つても續きません。私は入園した當時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです、こんな若い年をして、何處に人生に對し、又は宗教に對して疑念なんかを抱くことが出來るであらう?…而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます、年輩者には駄目です。天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない、あの園が、二十年の歴史を持つて居ると云ふ點だけ考へて見ても解ることです、そして、智能の尤もすぐれた人であります。茲に一つの揷話を書いて置きませう。或日、天香さんと話して居たとき、なんの話からでしたか、アンタヽヽヽは俳句を作られるさうですな、と云ふ事なので、えヽヽヽさうです。どうです、一日に百句位作れますか? さすがの天香さんも、俳句については矢張り門外の人であつたのであります、園で俳句をやつて居る人々もあるやうでしたが、大抵、ホトトギス派のやうに見受けました。
 いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタゴタヽヽヽヽして來ましたから、此の入庵雜記もひとまづ此邊で打切らしていたゞかうと思ひます。筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません、次に西光寺住職、杉本師に對しまして、之又御禮の言葉も無い次第であります。杉本師は、同人としては玄々子と稱して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相對座して御話して居ると、全く春風に頰を撫でられて居るやうな心持になるのであります、此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。同人、井上一二氏に對する御禮の言葉は餘りに親しき友人の間として、此際、遠慮して置きます。扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。南無阿彌陀佛。
(十四年、十一月五日)
[やぶちゃん注:「お地藏さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました」大正十四(一九二五)年九月十一日。この日は旧暦で七月二十四日で地蔵菩薩の縁日でも地蔵盆に当たる。実に入庵から二十三日後のことであった。
「年回」は「ねんくわい(ねんかい)」と読み、年忌のこと。
「一燈園」は西田天香(明治五(一八七二)年~昭和四十三(一九六八)年)によって明治三十七(一九〇五)年に創立された懺悔と奉仕を主軸とする一種の超宗派的な包括的宗教団体。京都府山科区に現在も存続する。天香は「衣なき者を慰藉せんとして衣を粗にするの已むを得ざるに至り、金錢なき者の爲めに自らも貧に居り、魚鳥獸の生命に同情を寄せて口に魚鳥獸の肉を入れず、失戀の人の爲めに甘き家庭を遠離せんとす」(「一燈園」公式サイト概要より但し、恣意的に正字化した)と述べている。
「濕性肋膜炎」湿性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性という。放哉はこの時に結核に罹患していた可能性が高いと思われる。大正十四年十月下旬の左側肋膜癒着から十一月上旬には左側肋膜完全癒着、翌大正十五(一九二六)年一月三十一日には癒着性肋膜炎に伴う肺機能の衰弱と合併症として湿性気管支カタルの診断が下る。これは最早、肺結核と咽喉結核である。未確認ながら、かつて私が逢った『層雲』関係者は、最後は腸結核にも冒されていた由、聴き及んでいる。
「耶教」は「やけう(やきょう)」と読むものと思われ、当時、耶蘇教と同様、キリスト教を呼称するのに用いられたものらしい。
「白たゝけた」は「しらたたけた」と読む。放哉のよく用いる語であるが、元は「白しらたくれる」という動詞で、「色があせて白っぽくなる」の意。「しらたたける」は一種の方言と思われる。
「商賣往來」近世に流布した往来物(初等教科書風の実用書)の一種で、商業に必要な語彙・職種一覧・商業経済知識、商人の心構えなどを説いた、言わば商業従事者の初等教科書と言える。参照したウィキの「商売往来」によれば、『江戸時代前期から明治時代初期にかけて発展し、語彙を羅列したものだけのもの、読み仮名や返り点を加えたもの、語彙に解説を加えたもの、図画を加えたものなど、さまざまに種類を増やした。これら商売往来系の往来物は、実業に関する往来物(商業、農業、工業などの職業に関するもの)のなかでもっとも早く成立し、多くの往来物の編集方法や内容に大きな影響を与えたといわれる』、とある。
「大分ゴタゴタヽヽヽヽして來ましたから」底本では、傍点が「大分ゴタゴヽヽヽヽタして來ましたから」となっているが、訂した。]