やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇へ
鬼火へ


鬼城句集 附やぶちゃん注 ☞ 同縦書版

[やぶちゃん注:村上鬼城(慶応元(一八六五)年~昭和一三(一九三八)年 本名村上荘太郎)の処女句集大正六(一九一七)年四月中央出版協会発行の「鬼城句集」である。
 昭和五八(一九八三)年財団法人日本近代文学館刊の「名著復刻 詩歌文学館 紫陽花セット」内の同句集を底本としたが、字配(特に文字空けと句の均等割付)などは原則、無視している。踊り字「〱」「〲」は正字化し、それぞれにその旨を注した(但し、序その他では引用句以外では断っていない)。一部に禁欲的に注を附した。
 『境涯俳句』創生の共犯者大須賀乙字(というか私は乙字が正犯で虚子を共同正犯と心得るのだが)の序文がそれでもまだ凛として鋭い切り口から鬼城を相応に評してそれなりに小気味よいのに対し、私の嫌悪する高浜虚子のそれにはおぞましいまでに無意識的な差別感覚が溢れかえっている(と私は感じる。少なくとも電子化しながら激しい憤りを感じた)。それを差別感覚と認識していないのはまさに守旧派の権化となった虚子の虚子たる救い難い由縁とも言えよう(虚子の気持ちの悪さは富者の健常者の意識で障碍者の句の核心を総て精神分析出来たと思い込んでいる阿呆さ加減にあると私は思っている)。これを私は当時の時代的な一般的状況だなどという噴飯の差別表現注記でお茶を濁すことを断然拒否する。私は虚子という男はまさにそうした男なのだと思っており、彼の恰も心内に差別感覚を隠している政治家が偉くなると平気でとんでもない舌禍を起こすのと同じだと言いたいのである。ともかくも主に虚子の序に関しては差別表現や差別意識に対する批判的視座を忘れずにお読みになられたい(無論、乙字や当人の鬼城の句の中にもそうした意識や表現は見られるが、それは時代的許容の範囲内にあると私は考える)。
 本電子化のブログ・カテゴリ「鬼城句集」での始動は二〇一三年三月五日、二〇一四年二月十三日にブログで句の電子化を完遂した。本サイト完全一括版は私のサイト「鬼火」の開設(二〇〇五年六月二十六日)九周年記念として、高浜虚子と大須賀乙字の「序」及び鬼城の「例言」に奥附を添え、一部の注を増補して公開したものである。【二〇一四年六月二十六日】]

鬼城句集

[やぶちゃん注:表紙及び背・裏表紙の画像。]





    
   高 濱 虛 子

 村上鬼城といふのは既に舊い名前である。『新俳句』を讀んだ人はすでに鬼城といふ名前に親しみを持つて居ねばならぬ。獨り俳句のみならず、ホトトギスの早い頃の寫生文欄に鬼城の名前はしばしば現れてゐる。それが暫くの間、句にも文章にも餘り其名を見なかつたのであるが、數年前高崎に俳句會が催されて鳴雪翁と私とが臨席した時、其席上に鬼城君のあることを私は初めて知つた。實は其會に列席するまで、此日鬼城君に會はうといふことは格別待ち設けてゐなかつたことで、私は鬼城君が高崎鞘町の人であることは十分承知してゐながら、此席上に同君を見受けようとは豫期しなかつた程、私は其頃同君を頭に止めてゐなかつた。といふのも畢竟同君の名を其頃ホトトギス誌上に見ることが稀であつて、同君は同じ時代の多くの俳人の如く今はもう俳壇に氣を腐らして、ホトトギスも見ねば俳句も作らずに居るといふやうな狀態にあるのであらうと豫想してゐたのであつた。ところが此日地方で社會的地位を保つて居る多くの人とか若くは衒氣一杯の靑年俳人等が我物顏に振舞つてゐる陰の方に、一人の稍々年取つた村夫子然たる人が小さくなつて坐つてゐた。それが初對面の鬼城君であつた。其時は別に連座があつたわけでもなく課題句も二句宛持ち寄つたのを鳴雪翁と私とが選拔するのであつたが、其時私の天に取つた句が計らずも鬼城君の句であつた。僅か一人二句宛の出句であるから十分に同君の手腕を認める事も出來なかつたけれども、其二句共に稍々群を拔くものであることは直ちに了解された。其時俳話をせよとのことであつたので、私は何かつまらぬ事を喋舌つた。大方忘れて仕舞つたが、唯此地方に俳人鬼城君のあることを諸君は忘れてはいかぬといふやうなことを言つたことだけは覺えてゐる。其後我等は席を改めて會食した其中に鬼城君も見えた。鬼城君が不折君以上の聾であることは此夜初めて知つた。同君は極めて調子の迫つたやうな物言をしながら、こんなことを言つた。[やぶちゃん注:「鞘町」は「さやちよう(さやちょう」)と読む。「衒氣」自分の才能・学識などを見せびらかし、自慢したがる気持ち。]
『どうも危くなつてとても人中へは出られません。ちつとも耳が聞えないのだから、人が何を言つてゐるのか更に解らない。どうも世の中が危つかしくて仕方がない。今夜のやうな席に出たのは今日がはじめてである。』
とそんなことを言つて笑ひもせすにまじまじと室の一方を視詰めてゐた。
 其後同君の句を見る機會は非常に多くなつた。獨り高崎の俳人仲間で頭角を現はしてゐる許りでなく、雜詠の投句家としても嶄然として群を抽ん出てゐて。今の若い油の乘り切つてゐる俳人諸君と伍して少しもヒケを取らぬばかりか、流石に多年練磨の跡が見えて蔚然として老大家の觀を爲してゐる。[やぶちゃん注:「嶄然」は「ざんぜん」と読む(「嶄」は高く険しい意)。一段高く抜きん出ているさま、一際目立つさまをいう。「蔚然」はこれで「うつぜん」と読み、鬱然と同じで、草木の茂っているさまから転じて、物事の盛んなさま。立派な様子をいう。]
 もし同君を見て單に偏狹なる一畸人となす人があるならば、それは非常な誤りである。同君が高崎藩の何百石といふ知行取りの身分でありながら耳が遠いといふことの爲に適當な職業も見つからず、僅かに一枝の筆を力に陋菴に貧居し、自分よりも遙かに天分の劣つてゐると信ずる多くの社會の人々から輕蔑されながら、ぢつとそれを堪へて癇癪の蟲を嚙み潰してゐるところに、溢れる涙もあれば沸き立つ血もある。併し世間の人に其を了解するのに餘り近眼である。[やぶちゃん注:「高崎藩の何百石といふ知行取りの身分」本文の注にも記したが、鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住み、十一歳で母方村上家の養子となっている。]
 或る時同君は私に次のやうな意味の手紙をよこしたことがあつた。
『人生で何が辛いと言つたところで婚期を過ぎた娘を持つてゐる程苦痛なことは無い。自分は貧乏である。社會的の地位は何もない。さうして婚期を過ぎた娘を二人まで持つてゐる。私はそれを思ふ度にぢつとしてゐられなくなる。かと言つて何うすることも出來ない。いくらもがいたところで貧乏は依然として貧乏である。聾は依然として聾である。今日も一日の勞働をはたして家へ歸つて來て此二人の娘を見た時に、私の胸は張り裂けるやうであつた。私はもうぢつとしてゐられなかつた。……』
 同君の眼底には常に此種の涙が湛へられてゐる。同君は只かりそめに世を呪ひ、人を嘲るやうな、そんな輕薄な人ではない。同君の寫生文が常にとげのある皮肉な調子のものであるが爲めに同君を衒氣縱横の人であると解釋するのは皮相の見である。同君の皮肉に、其忠直なる眞面目の心からほとばしり出るのである。其人を刺すやうな刺の先に一々暖い涙の露が宿つてゐる。同君が婚期を過ぎた二人の令孃――尤も今日では共に芽出度く片附いて居られことゝ想像するが――に向つて注ぐ所の涙は、軈て禽獸草木に向つて、時には無性の石ころに向つてすらも注ぐところの涙となるのである。同君の句を讀むものは、不具、貧、老等に深い根ざしを持つてゐて憤りも、悲しみも、嘆きも乃至慰藉も安心も、總てそこから出立してゐることを明かにするのであらう。
   世を戀うて人を怖るゝ夜寒哉    鬼 城
[やぶちゃん注:本句は本句集に所収しない。]
『世の中が危つかしくて仕方が無い』と言つた同君の心持は其時の言葉以上に深く強く此句に現はれてゐる。同君が世の中に出ないのは人を怖れて出ないのである。世を厭うて出ないのではない。同君が世間の人を怖るゝのは世間の人が皆聾でないからである。世間の人が皆聾であつたならば、同君は大手を振つて人に馬鹿にされず、人に壓迫されずに大道を潤歩することが出來るのである。只世間の人が皆よく聞える耳を持つてゐる。さうして耳の遠い聾者や眼の見えぬ盲者などを、輕蔑する獸性も持つて居る。同君が人を怖るゝのは其爲である。恰も人間が人間以上の武器――爪とか牙とか――を持つて居る猛獸を恐れるのと同じやうな心持である。そこで何彼につけて尻込みをして人中に顏を出さずに居ると近眼な世間の人は直ぐ畸人だといふ一言のもとに輕く其人の心持を忖度して仕舞ふ。さうして自分等の住んでゐる世間とは全く沒交渉な人のやうに解釋して仕舞ふ。何ぞ知らん鬼城君の世間を戀ひ暮ふ心持は普通の人間以上であつて、普通の人間以上の熱い血は其脈管の中に波打つてゐるのである。此熱情は或時は自己に對する滑稽となり、或時は他の癡人若くは人間よりも劣つてゐる生物等の上に溢れるやうな同情となつて現はれるのである。
   耳聾酒の醉ふほどもなくさめにけり    鬼  城
   春の夜や灯をかこみ居る盲者達      同
   瘦馬のあはれ機嫌や秋高し        同
   己が影を慕うて這へる地蟲かな      同
   冬蜂の死にどころなく歩きけり      同
   夏草に這上りたる捨蠶かな        同
[やぶちゃん注:第一句は、
治聾酒の醉ふほどもなくさめにけり
で本句集に所収する。虚子の誤記であろう。この誤記にこそ私は虚子の無意識の差別感覚を嗅いでしまうのである。]
 耳聾酒といふのは社日に酒を呑むと聾が治るといふ言ひ傳へから其日に飮む酒を耳聾酒と言つてゐる。そこで自分も聾だから、其耳聾酒をのんだがはつと醉うたと思ふ間もなく醒めて仕舞つたといふのである。初めから耳聾酒で聾が治るといふやうなことにはさう信用も置いて居ない。けれどもさういふ言傳へがある以上兎も角も飮んで見る氣になつて飮んだ。一時ぱつと醉つた時は好い心持であつたが忽ち醒めて仕舞つて、もとの淋しい聾に戻つて仕舞つた。そのはかない醉に輕い滑稽を感ずる。同時に又其酒を飮んでみる氣になつて飮んだ自分に對しても輕い滑稽を感する。此『耳聾酒』のやうな句を讀んで只輕みのみを受取る人は未だ至らぬ人である。此表面に出てゐる輕みの底には聾を悲しむ悲痛な心持が潛在してゐるのである。
 『春の夜や』り句は聾者が盲者に寄せた同情の句で春の夜の長閑な心持を味ふのは必ずしも健康な人に限られた譯ではなく、不具の人も亦これを樂しむのである。少くともこれを樂しまうとする欲望は十分にあるのである。眼の見えぬ盲者に灯は必要のないことであらう寸と考へるのは普通の人の考であつて、矢張春の夜らしく灯を置いたもとに盲人達は團坐して樂しげに語りつゝある。其樂しげに語りつゝあるといふことのうちに反つて淋しみがある。盲者が灯を圍んでゐるといふことは一つの矛盾で滑稽である。此句も表面に滑稽の味があつて裏面に心の痛みを隱してゐる。[やぶちゃん注:この段、冒頭の一字下げがないが、後段の記載に従って下げた。]
 『瘦馬の』句は廢人に對する同情が、動物に及んだものであつて、馬も肥え太つたものであれば恰も世に時めく人のやうに所謂天高く馬肥えたりといふ時候に高く嘶いて居るのを見たところで、それは當然のことで別に人の注意をも引かない。少くとも此作者はさういふ肥馬に對して餘り同情はない。所がそれは瘦馬である。それが矢張他の肥馬同樣、秋になつて空の高く晴れた時分に好い心持になつて機嫌よく働いてゐる――瘦馬には不似合な重い荷物を運んでゐる――へとへとになつて疲れ切つてゐるか、若くは不機嫌で馬子の言ふことも聞かずに打たれても撲られても動かずにゐるといふ風なのならば、同じく瘦馬の憐れむべき所な見出したにしても最早疲れ切つて用をなさなくなるとか、或は不貞腐れて馬子の意に背くとかそこに人間に對して有意若くは無意の反抗がある、ところが此句に現はれた瘦馬はそんな反抗心は少しもない。分不相樣な重い荷物を引かされながらも、秋の好い時候に唆かされて、たゞ好い機嫌で働いてゐる。そこに反つて前の反抗する馬に比べて一層深いあはれがある。瘦馬が好い機嫌でゐるといふことは一寸聞くとそれも輕い可笑しみを感ずるのであるが、其底には沈んだ重い悲しみがある。此瘦馬に對する格段な作者の同情は軈て作者自身に對する憐憫の情である。
 『己が影』の句は冬の間久しく地中に籠つてゐた地蟲が所謂啓蟄の候となつて地上に出て來た。そしてよろよろと地上を這つてゐる。其時の光景を描いたものであるが、今迄久しく地中にあつたものが久振りに地上に出て、暗い折から明るい日光の下に出たのであつて何となく心細氣である。それで此蟲は地上に映つてゐる自分の影を慕うて歩いてゐる。太陽は地蟲の這つて行く方向の反對の側にある爲めに、地蟲の影は常に地蟲に先だつて映つて行く。小さい穴の中から空爆たる地上に出て何もたよるものゝない地蟲は只己が影をたよりに這つて行くといふのである。地蟲は只無心に這ふ。地蟲の影は地蟲が這ふ爲めに無心に動く。それに對して作者の深い同情は『這うて』といふ意味を見出すのである。此作者が其蝸牛の廬を出でゝ廣い往來を歩く時には往々かゝる考を起すのではあるまいか。假令往來を歩く時にかゝる考を起さないにしても斯ういふ心持は平常何かにつけて作者の心の奧深く釀成されつゝあるのであらう。
 『冬蜂』の句は、前の『地蟲』の句に似寄つたところもあり、反對なところもある。地蟲は籠居してゐた穴な出てこれから自分の天地となるのである。假令穴を出た當時は心細げに己れの影を慕うて歩いてゐても、ゆくゆくはそこを自分の天地として横行潤歩するやうになるのである。ところが此句の冬の蜂の方は、最う運命が定まつてゐて、だんだん押寄せて來る寒さに抵抗し得ないで遲かれ速かれ死ねるのである。けれどもさて何所で死なうといふ所もなく、仕方がなしに地上なり緣ばななりをよろよろと只歩いてゐるといふのである。人間社會でもこれに似寄つたものは澤山ある。否人間其物が皆此冬蜂の如きものであるとも言ひ得るのである。
 『夏草に』の句は矢張作者の同情が昆蟲の上に及んでゐる一例で、例へば桑が足りないとか、若くは病が出來たとかで昨日まで飼つて置いた蠶を人はどこかの草原に打棄つた。ところが其蠶は其邊の地上に散らばつて各々食物を探して歩いてゐる。その中に若干の蠶はそこに秀でゝゐる夏草の上に這ひ上つたといふのである。此句には『己が影を慕うて』とか『死に所なく』とかいふやうな主觀詞は別に用ゐてなく、只客觀の光景が穩かに叙してあるばかりであるが。其でゐて何うする事も出來ぬ此蠶の憐れむべき運命の上に痛み悲しんだ作者の心持は十分に出てゐる。
    五月雨や起き上がりたる根無草    鬼  城
    小さうもならでありけり莖の石    同
 作者の同情が動物のみならず植物にまで及び、生物のみならず無生物までに及ぶ一例として此二句を擧げる。『五月雨』の句は刈り取られたか、引拔かれたか、兎に角根の無くなつた草が地上に打捨てられてあつた。それが五月雨が降る爲めに、今迄萎れて其まゝ枯れようかと思つてゐたのが、意外にも頭を擡げて起き上つて來た。それを見た時に作者はあ憐れを催して、此草は生き返つた如く、かく頭を擡はじめたが、それは降りつゞく雨の間のことで、雨がやんで日が當つたら忽ち枯れて仕舞はなければならぬものだと、反つて一時かりそめに起き上つたところに深い憐みを持つたのである。
 『小さうも』の句は古く用ゐ來つた莖の石は別に小さうもならずにゐる。と言つたので医師が小さうならぬのは當然の事であるけれども、多年古妻の手に持ち古された石に對する同情が、斯ういふ心持を作者に起さしめたのである。[やぶちゃん注:「莖の石」茎漬の際に使う漬け物石。冬の季語。]
 次に作者の句に最も多いのは貧を詠じたものである。
    麥飯に何も申さず夏の月       鬼  城
    月さして一間の家でありにけり    同
    草箒二本出來たり庵の産       同
    茨の實を食うて遊ぶ子あはれなり   同
    庵主や寒き夜を寢頰冠        同
    いさゝかの金ほしがりぬ年の暮    同
    冬の日や前にふさがる己が影     同
[やぶちゃん注:第一句目は本句集では、
麥飯に何も申さじ夏の月
で載る。これ、打消意志の助動詞「じ」でなくてはおかしい。虚子の誤記であろう。また、二句目「月さして」の句は本句集に所収しない。]
 『麥飯に』の句は、特に『貧』といふ前置が置かれてゐる句である。自分は貧乏で麥飯で飢をしのいでゐるやうな境界である。然し自分は何も言はない、決して不平がましいことなんかを言はうとは思わない、自分は仕方がないものとあきらめて分に安んじて居る、そして此中天にかゝつてゐる凉しい明るい夏の月を領してゐることをもつて無上の光榮とも感じ慰藉ともする、といふのである。
 『月さして』の句も同じことで、これは秋の月が檐深くさしんで、疊の上に淸光を落してゐる。我貧居はたゞの一間であるが、それでも此明るい月がさし込んでゐるので金殿玉樓にも勝るやうな心特がするといふのである。
 『草箒』の句は自分ところに植ゑた箒草で、草箒が二木出來た。それが非常に嬉しいので貧しい暮しをして居るさゝやかな住居であるけれども、自分の庭に生えた箒草から草箒が二木出來た。即ちこれが我庵の産物であると、誇りがに言ふのである。草箒二本を庵の産物として誇るところに作者の貧によつて亂されぬ安心がある。が其奧底には強ひて草箒をもつて庵の産物として誇らねばならね心の淋しさがある。富貴を忘れ去らうとする心の抑壓がある。前二句の月む伴侶として總ての不滿足を忘れようとするのも同じ傾向である。[やぶちゃん注:冒頭、底本では「『草箒の』句は」となっている。誤植と断じ、訂した。]
 『茨の實』の句は恐らく貧兒を描いたものであらうと思ふ。もとより子供のことであるから貧しく暮らしてゐない子でも、遊ぶ方の興味から飯事などをする時に食ふやうなこともあるかもしれないが、此句はさういふ子供ではなくつて、茨の實すら食ひながら遊んでゐる貧兒を言つたものであらうと思ふ。平常空腹勝であつたり、假令さうでなくつても砂糖其他の美味な菓子に食欲を滿足をさしてゐない子は、茨の實をすら食つて遊んでゐるのである。それをあはれと見たのである。
 『庵主や』の句は、冬も殊に寒さの烈しい夜は仕方がないので頰冠をして寐るといふのである。布團も十分に重ねる事が出來ず、ストーヴは素よりの事火鉢に火を埋めて間暖めをする事さへ出來ない。まゝよ頰冠でもして寢ろと手拭を冠つて寢たといふのである。貧に屈託しない磊落な心持もある。同時に又貧を憤るやうな心持も潛在してゐる。
 『いさゝかの』の句は、年の暮になつて頻りに金が欲しい、それも澤山な金といふのではない、それは僅かばかりの金である。富者ならばほんの小使に過ぎない程の金である、然も其金が容易に手に入らない。といふのでこれもどうすることも出來ぬ天福の薄い貧者の境遇を言つたものである。
 『冬の日』の句に、自分の影が自分の前に塞がつてゐるといふので、それが春とか秋といふ快適な時候でなく、冬といふ貧乏人には殊に不向きな時候で、寒さに顫へ、温いものも十分に食へず、軈ては年の暮も近づいて來るといふ時に、何だか自分の影法師が自分の前に立塞がつてゐるやうな物の雍塞してゐるやうな感じを言つたものである。此句の如きは月の淸光を誇りとし、草箒の産を得意とするやうな負惜みすらよう言はないでつくづく貧者の行きつまつた心持を言つものである。[やぶちゃん注:「雍塞」は「壅塞」と同義で「ようそく」と読み、ふさぐこと、また、ふさがることをいう畳語。]
    今朝秋や見入る鏡に親の顏      鬼  城
    綿入や妬心もなくて妻哀れ      同
 『今朝秋』の句は、自分が年取つて、恰も秋の立つた日に鏡を見ると鬢髮漸く白く、額の皺もやゝ刻まれて、自分が子供の時見馴れて居つた父の顏によく似てゐる。われながらよく似て居るものだと、暫くの間凝乎と鏡に見入つてゐたといふのである。
 『綿入や』の句は自分の妻の老を詠じたもので、冬になつて丸く綿入を着重ねてゐる妻は、もう嫉妬心もない位に生氣が衰へてゐる。それが流石にあはれに感じられるといふのである。
 此二句は自分並に妻の老を詠じたものであるが、尚ほ其他に老といふことを此作者は好んで題材とする。
    御僧の息もたえだえに午寢かな    鬼  城
    柿賣つて何買ふ尼の身そら哉     同
[やぶちゃん注:前句(この句は本句集に所収しない)の「たえだえ」の後半は底本では踊り字「〲」。]
 癩疾、弱者、貧、老、等に對する作者の熱情は勢ひ又方外の人にも及ぶ。僧が老いて午寢なしてゐる、その寢たところを見ると息をしてゐるかしてゐないか解らぬ位の模樣で、半ば死んだ人のやうに、殆ど木石かとも疑はるゝやうに眠つてゐるといふのである。次の句の方は尼を詠じたので、その尼は尼寺の檐端の柿を商賣人に賣つてゐる。尼はその柿を賣つた金で何を買はうといふのであらう、金を持つ樂しみといふものも畢竟身につけるものとか、口に甘いものとか、耳目を喜ばすところのものとか、さういふものを得たいが爲めである。この尼は頭を圓め、墨染の衣をまとひ、粗末なものを食ひ、貧しい田舍の尼寺に住まつてゐる身である。柿を賣つて若干の金を得たところでそれで、何を買つて樂しまうといふことも出來ない境遇のものであるではないか。全體其金を何にするのかといつたのである。斯く言つたところで敢て尼をなじづたといふ譯ではない。さういふ境遇にゐる世捨人としての女性を憐んで言つたのである。
 斯く叙し來ると君の俳句の境界は餘程一方に偏つてゐるやうに考へられるであらうが、必ずしもさうではない。
    初雪の美事に降れり萬年靑の實    鬼  城
    土塊に二葉ながらの紅葉かな     同
    樫の實の落ちてかけよる鷄三羽    同
    露凉し形あるもの皆生ける      同
[やぶちゃん注:「初雪の」の句は本句集に所収しない。老婆心乍ら、「萬年靑」は「おもと」と読み、単子葉植物綱クサスギカズラ目クサスギカズラ科スズラン亜科オモト
Rohdea japonica のこと。赤い艶のある実は秋頃につく。グーグル画像検索「オモトの実」で確認されたい。]
 これ等の句は聾を忘れ、貧を忘れ、老を忘れ、眼前の光景に打たれて其まゝ吟懷を十七字に寓したものである。此種の句も亦此作者に少くはない。
    鹿の子のふんぐり持ちてたのもしき  鬼  城
    袴着や將種うれしく廣額       同
[やぶちゃん注:後の句は本句集に所収しない。「將種」は「しやうしゆ(しょうしゅ)」で将軍の血筋を引いた者の意。時代詠。]
等は更に進んで稍々積極的の心持ちを現はした句である。けれども彼の心を躍らすものは、ふぐりか若くは廣額である。彼の句中何處を探しても女性的の艶味あるものは一つも見つからない。僅に探し當てた所のものでも、
    玉蟲や嫁が簞笥の二重ね       鬼  城
    風呂吹や朱唇いつまでも衰へず    同
の類で其着想なり調子なりに、どこまでも強味が伴つてゐる。君の句を見て輕々しく其滑稽味を非難する人も、女性的に厭味があるとして君の句を非難することは、それは木によりて魚を求る類で、終に出來ない相談である。終りに君の句が主觀に根ざしてゐるものが多いに拘はらず、客觀の研究が十分に行屆いてゐて、寫生におろそかでないといふことも是非一言して置く必要がある。
    晝顏に猫捨てられて泣きにけり    鬼  城
    草箒二本出來たたり庵の産      同
    夏草に這上りたる捨蠶かな      同
    瓜小屋や蓆屏風に二間あり      同
    土塊に二葉ながらの紅葉かな     同
    樫の實の落ちてかけよる鷄三羽    同
    庵主や寒き夜を寢る頰冠       同
    小春日や石を嚙み居る赤蜻蛉     同
    御命講や立ち居つ拜む二タ法師    同
    道ばたの小便桶や報恩講       同
    初雪の美事に降れり萬年靑の實    同
    冬蜂の死にどころなく歩きけり    同
    落葉して心もとなき接木かな     同
 是等の句を見るものは、其客觀の研究の苟めでなく、寫生の技倆の卓拔であることを誰れも否む事は出來まい。[やぶちゃん注:「苟め」は「かりそめ」と読む。]
 君の句も君の文章と同じく、昔から上手であつた。然し乍ら他の何物にも煩はさるゝ事なく、自己の境地を大手を振つて濶歩するやうになつた、其確かなる自信を見出した事は、或は最近の事ではあるまいか。君の句に曰く、
    糸瓜忌や俳諧歸するところあり    鬼 城
    蕪村忌や師走の鐘も合點だ      同
    煮凝やしかと見とゞく古俳諧     同
                
(ホトトギスより轉載す)
[やぶちゃん注:最後の三句のうち、「蕪村忌や」と「煮凝や」の句は本句集に所収しない。因みに虚子は鬼城より九歳年下で、本句集刊行時(大正六(一九一七)年)、満四十三歳。]



    
   大 須 賀 乙 字

 芭蕉を俳聖と呼ぶ所以のものは、彼の句に其境涯より出でて對自然の靜觀に入つて居るものが多いからである。明治以後隨分作者も多いけれど、境涯の句を成し得るものに至つては寥々として數ふるばかり、而も一人四五句を有すれば以て生涯の誇りとするに足る。蓋し境涯の句といふは人生の悲慘事を嘗め盡して初てめて得らるべく、杜詩以虁州爲上乘、蘆庵和哥寓太秦時稱最深妙と古人も言うて居るが、眞實其境に至らねば作意を以て得る事は出來ぬ。世間の作者は畢竟俳優である。悲哀も寂寞も逸興も皆俳諧的のはからひ、小主觀を以て色づけて居るに過ぎずして實行的努力の汗と涙とが伴つて居ぬから化の皮は直ぐ現はれるのである。しかるに[やぶちゃん注:「初てめて得らるべく」はママ。「初めて得らるべく」の衍字と思われる。また以下の漢文は出所不明。我流で書き下すと「杜詩は虁州きしうを以つて上乘と爲し、蘆庵が和哥は太秦うづまさに寓せる時を最も深妙と稱す」か。虁州は現在の重慶市奉節県。杜甫が晩年官を辞して放浪した際に三年ほど過ごした地。「蘆庵」は江戸中期の難波生まれの歌人で「平安和歌四天王」の一人小沢蘆庵(享保八(一七二三)年~享和元(一八〇一)年)。師冷泉為村に破門されて洛中の自邸は焼失、以後寛三年ほど、貧窮のうちに洛西太秦の十輪院に幽居した。出典に附、識者の御教授を乞う。]
    鳥共も寢入つて居るか余吾の海    路  通
といふやうな句になると乞食生涯の宿るに家なく、寒風に晒らされながら琵琶湖畔をさまよへる有樣で、讀者を慄然たらしむるものがある。言ふ者心なくして聞く者却て身をふるはすやうの眞實さが籠つて居る。古來境涯の句を作つた者は、芭蕉を除いては僅に一茶あるのみで、其餘の輩は多く言ふに足らない。然るに、明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追隨し一茶よりも句品の優つた作者がある。實にわが村上鬼城氏其人である。氏は近頃ホトトギス誌上に杉風論を書いて『杉風を弔して第一に燒香するの權利は、之を餘に許せ』とて杉風を借りて氏自らの境涯を論じて居る。杉風も亦よく境涯の句を作り、且つ耳聾を病めるの點相似たるが故に、同情の餘り自ら覺ずして平生の抱負を述ぶるに至つたのであらう。『乃ち、古今なく、束西なく、始なく、終なき處、未だ曾て一人の足跡を印せざる處に向つて、死所を求めざる可からず』と言ふは、或は氏が古今俳壇上特殊の位置を要求する正當の言であるかも知らぬ。又杉風の句を論じて『爪を剝がれ指を折られサンザンに責めさいなまれて、我とはなしに咽喉を破つて迸り出たる哀音なり、悉くこれ彼の骨肉の斷片なり』といふ評は杉風の大體に温藉な句風に對してよりは、寧ろ鬼城氏の作に適合した處である。又『眞個に人間の苦しみを經來つて、人生の孤獨乃至悲哀といふことが本音に知れゝば、イヤでも眞實に達すべく、而して一度眞實に達すれば物我一如の境に達す』と言はれた如く、氏は自然に對してまことの同情を有するが爲め、何物を詠じても直に作者境涯の句となつて現はれるので、句俳優の輩の遠く及ばざる處である。[やぶちゃん注:「温藉」は「をんしや(おんしゃ)」と読み、心が温かく広いこと。]
    杣の子の二つ持ちたる手毬かな
    鬪鷄の眼つぶれて飼はれけり
    鹿の角何にかけてや落したる
    花散るや耳ふつて馬のおとなしき
    水草の浮きも得せずに二葉かな
    夏草に這上りたる捨蠶かな
    瘦馬のあはれ機嫌や秋高し
    飼猿や巣箱を出でゝ月に居る
    野分して蜂吹き落す五六疋
    野分すや吹き出されて龜一つ
    小春日や石を嚙み居る赤蜻蛉
    瘦馬にあはれ灸や小六月
    鷹老いてあはれ烏と飼はれけり
集中、小百姓、盲犬、雀、老、法師等を材料に採つた句が多いのも亦境遇の然らしむる所、自嘲の詞、憫憐の情が殆ど全集に溢れて居る。
    治聾酒の醉ふほどもなくさめにけり
    時鳥鳴くと定ゆて落付けり
    月出でてつんぼう草も眺めかな
    芭蕉忌や弟子のはしなる二聾者
    冬蜂の死にどころなく歩きけり
二聾者といふは暗に杉風と自身とを指して居る。冬蜂の死所なくての一章、何ぞ悽慘たる。かの捨蠶とひ石を嚙む蜻蛉といひ、皆作者の影である。氏の寫す自然は奇拔の外形ではなく、深く其中核に滲透したる心持であから、一見平凡に見えて實は大威力を藏して居る。
    暑き日やだしぬけ事の火雷
    夏の夜や遠くなりたる箒星
    靑葉して淺間ヶ嶽の曇りかな
    淺間山の煙出て見よ今朝の秋
    街道やはてなく見えて秋の風
    谷の日のどこからさすや秋の山
    稻雀降りむとするや大うねり
    小鳥この頃音もさせずに來て居りぬ
[やぶちゃん注:「淺間山の煙出て見よ今朝の秋」は本句集では、
淺間山煙出て見よ今朝の秋
で載るが、「の」があった方が寧ろいいと私は感ずる。]
この小鳥こそ氏の獨坐愁を抱く懷情そのまゝの姿ではないか。氏杉風を評して『質を以て文に勝ち』といひ『苦吟鬼神愁』といふ語を借られたが、うつして以て氏の作風を評すべきである。僕謂ふ、鬼城氏は作者として杉風を凌駕するのみならず、實に明治大正俳壇の第一人者なりと。又謂ふ彼の蕪村子規の徒の作は之を作ること敢へて難からず、鬼城氏の作は竟に學び易からずと。之を以て序となす。
(大正五年十一月二十七日誌)
[やぶちゃん注:『苦吟鬼神愁』は中唐の詩人孟郊の五律「夜感自遣」の一節である。

 夜感自遣
夜學晓未休
苦吟神鬼愁
如何不自閑
心與身爲讎
死辱片時痛
生辱長年羞
淸桂無直枝
碧江思舊游

我流で書き下しておく。

  夜感 みづから遣る
 夜學 曉なるに 未だ休めず
 苦吟 神鬼 愁ふ
 如何ぞ 自ら閑にせず
 心と身と 讎と爲るや
 死辱 片時の痛み
 生辱 長年の羞
 淸桂 直枝無く
 碧江 舊游を思ふ

 乙字は鬼城より十六年下で本句集刊行当時は満三十六歳。この三年後に亡くなっている。]




    
例 言

[やぶちゃん注:底本では「一」とある項の初行の次行以下、次の「一」までが総て一字下げとなっている。ここでは項とその各本文を明確に区別するために、「一」で改行した。]


私共が、自分達のことを、子規先生に比べていふのは、不倫のことで相濟まぬことゝ思ひますが、子規先生の句集を見ますと、作の下に、一々、年月が記してあります。コンナことは、何んでもないことのやうですけれども、私は、コレだけでも、子規先生が非凡な方であつたといふことに感心する。
私は、此句集を作るに當り、自分で自分にあきれてしまつた。私は、不敏ながらも、俳句に全力を傾注してゐると自ら信じてゐる。句帖位は、當然、出來て居るべき筈である。然るに、私は、句帖どころか、句が、たゞ、鉛筆で次第もなく、手帳に書きつけてあるだけのことで、固より分類もなく、四季の區別すらなく、どの句か、何時、どこで、出來たといふやうなことは、殆んど知るに由なく、ソレのみならず、此句集が、明治何年に始まつて、大正何年に終つてゐるといふやうなことも、確とは知れず。この位のことは明かにしたいと思つて考へて見たのに、私が俳句を作つたそもそもの始めが、鴛鴦の句であつて、幹雄に褒められたことがあり、其句が、子規先生に見ていたゞいた句の中に、交つて居る處から推して、句作の最初の年月は、明治廿八九年の頃かと思はれる。ソレから、しばらく、句作に遠ざかり、八九年飛んで、明治三十四五年から昨今に至つたので、ホトトギス雜詠に、載錄された句を土臺にして、其外、一度どこかで發表した句、及まだどこへも發表したことのない句を併せて本集を成すに至つたのであります。
[やぶちゃん注:「幹雄」本句集の、
美しきほど哀れなりはなれ鴛
の句の注で詳述した鬼城の初期の師で宗教家でもあった三森幹雄みもりみきおのこと。続く文にもこのエピソードが出る。]

私が、俳句を作り始めて以來、直接間接に、諸君から、御恩を蒙むつたことはいふまでもなく、其中で、何も知らぬ私が、斯道に志を立つるに至つた其囚を與へられ、又は、私が、飽きるともなく、斯道に遠ざかつて、危ふく、俳句を捨てゝしまふところを、復び、元に引戻してくれた人々の御恩を記して、感謝の意を表します。
幹雄宗匠、私の家弟は、月並の俳人で、幹雄と交遊があつたので、私は、鴛鴦の俳句を作つて、家弟を介して見て貰つたことがある。其時、幹雄に大層褒められたのが嬉しくて、ソレから俳句に興味を持ち、一句二句と作つて見る氣になりました。
[やぶちゃん注:「私の家弟」弟平次郎は旧派俳人として活躍していた。但し、調べる限りでは彼は実弟なのかどうか不明。印象からすると養子先の義弟のように感じられる。]
子規先生、私は、其頃、法律書を讀んでゐたので、理路整然たる科學書に馴れた眼には、月並者流のいふことなどは、馬鹿らしく、サウかといつて、古書に取つて掛るほどの智惠もなく、俳句は、面白いやうな、クダラナイやうな、變んなものだと思つてゐた、此時、たまたま日本新聞へ、獺祭書屋主人の俳句論が掲げられて、今まで、孵へるとも、腐るとも極らなかつた、私の俳諧思想が、忽然と殼を破つた。
[やぶちゃん注:子規の教えを乞うた(広島の大本営にいた正岡子規に直接面会している)のが明治三二(一八九九)年前後、三十四歳頃で、子規は鬼城よりも二歳年下であった。]
雄美氏、私は、判檢事試驗に二度も落第して、モウ、俳諧どこの騷ぎぢやない。全く句作を止めて、一意、讀書に耽つてゐるうちに、何の彼のと妨害に逢つて、虻も取らず、蜂も取らず、八九年過ぎてしまひ、俳句のことを忘れてゐた時、不斗、雄美成が訪問されて、子規先生のお許しや、前橋の景况など承り、燒杭に火がつき、また、ソロソロ作り始めたが、本氣になれず、此間が幾年か過ぎた。
[やぶちゃん注:「雄美氏」鬼城の俳友であろうが、不詳。識者の御教授を乞う。]
蛃魚氏、明治四十年の秋だつた。蛃魚氏が、こちらの學校へ赴任して來られて、一日、突然、訪問にあづかつた。ソレ以來、日夕交遊して、益を請くることになり、同氏の發起で紫衣會が出來、殊に、同氏が熱心で、且、嚴正な方だから、私も、是迄のやうに、氣まかせ仕事といふやうな生ぬるいことをしてゐられなくなつて、コヽに、初めて本氣になりかけた。
[やぶちゃん注:「蛃魚氏」は「へいぎよ(へいぎょ)」と読み、本句集の、
似たものゝ二人相逢ふ南瓜かな
に注した、鬼城鬼城の俳友であり歌人として伊藤左千夫の弟子でもあった高崎中学校国語教師村上成之しげゆきの号。「蛃魚」は紙魚しみのこと。
「紫衣會」は不詳。識者の御教授を乞う。
「明治四十年」西暦一九〇七年。鬼城満四十二。]
四明氏翁、併し、私が、本當に本氣になりだしたのは、四明翁の一言に感奮してから後のことだ。
私は、四明翁を全く知らない。たゞ、鳴雪翁と東西の大家だということを聞いてゐるのみで、申すも憚り多いが、妙な囚緣があるのです。ソレは、ホトトギスの雜詠の創まつた時分、四明翁が、雜詠を評して、足並が揃はぬと言はれて居る、という記事が出たことがあります。何故、私はアノ記事に感奮したか、私は、固より、四明翁と一番取組んで見ようなどゝいふ、大いした了見はない。又、アノ記事が、特に、私に關することではない、四明翁とホトトギス俳壇乃至虛子先生ミの交渉で、私共末輩のあづかる所ではない。が、どうしたはずみか、飛んでもない所へ力瘤を入れて、馬鹿なお話しですが、私は、私ので力、ホトトギス雜詠が、左右し得らるゝものゝ如く一圖に考へ込んで、よしツ、足並を揃へて見せろ、吃度揃へて見せる。とイスカモない考を起し、其時分私は雜詠に投句して居なかつたが、此時から急に一生懸命になりだし、只管、四明翁を降參させなくてはならぬと思つた。四明翁の一言は、私の爲めには、大なろ興奮劑となつた。
[やぶちゃん注:「私は、私ので力、」はママ。「私は、私の力で、」の誤植と思われる。
「四明翁」中川四明(嘉永二(一八四九)年~大正六(一九一七)年)は日本派の基礎を固めた俳人。京都中学に学び、教員を経て大阪朝日新聞社などに勤務、水落露石みずおちろせきらと京阪満月会を興した。
「イスカモない」意味不明。識者の御教授を乞う。]

私に、此集を作り、先づ、私の畏敬する、蛃魚先生に呈して、魯魚の誤りや、假名遣ひを正していたゞき、大概、間違はないと信じますが、中に、まだまだ文法にはづれた句があり、御注意を受けたのですが、私が、調子論や何か擔ぎ出して、横車を押したので、ソノまゝになつてゐる句も交つてゐます。ソレは、悉く、私の責任であります。

本集を公けにするに當り、虛子、乙字其他諸先生が、深厚なる御同情を賜はりたることしを、謹謝仕ります。
  大正五年秋九月
                 聾
                    
鬼 城 謹 誌
[やぶちゃん注:虚子の「序」からここまでの頁は、右頁の右肩に『┐』、左頁の左下に『└』の大きな装飾記号を配してある(虚子の「序」は左頁でこれのみ同頁内に両方の記号が配されてある)ノンブルは虚子の「序」の左の本文の三字下げ位置左端に『(一)』から始まり、鬼城自身の「例言」の最後が『(二十九)』となってここで終わる。以下を述べると、「目次」は新たなノンブルで(一)から(十)で終わり、『鬼城句集』で始まる本当の本文頁(「目次」の次注参照)は新たに『(三)』(『新年之部』の一、その裏側の白紙頁の二頁にはノンブルはない)から始まって『鬼城句集終』のみの右頁の右端の同位置の『(百十四)』で終わっている。なお、省略した「目次」ではノンブルとの表記に有意な違いがあり、例えば「目次」では『八三』頁という表記が、実際の本文では『八十三』となっており、「目次」の『一三一』は実際の本文では『百三十一』となっていて、正直、非常に検索し難い。]



        
目次
[やぶちゃん注:ここに「目次」が入るが、省略する。なお、以下に見るように総標題「鬼城句集」は表紙以外には何故か、部立「新年之部」の表題紙の次の次の頁の冒頭に初めて現われる。私はこれが一般的とは思われない。以下、本文は概ね連続して行空けはないが、読み易さを考えて、適宜、有意に行を空けた部分がある。]



新年之部



鬼城句集


 
新年之部

  
時候
元日   緣側の日にゑひにけりお元日
     元旦や枯木の宿の薄曇り
     元日やふどしたゝんで枕上ミ
三日   一壺かろく正月三日となりにけり
四日   小坊主の法衣嬉しき四日かな
三ケ日  門さして寺町さみし三ケ日
     ともしらの酒あたゝねぬ三ケ日
松の内  松の内村人二人まゐりけり
廿日正月 正月も繿縷市たちて二十日かな
正月   正月や何して遊ぶ盲者達



  
天文
お降   お降や羽根つきに行く傘の下
     お降や袴ぬぎたる靜心



  
地理
惠方   白雲の靜かに行きて惠方かな



  
人事
御慶   御慶申す手にいたいたし按摩膏
[やぶちゃん注:底本では「いたいたし」の後ろの「いた」は踊り字「〱」。]
     髻を女房に結はせ年賀かな
雜煮   雜煮食うてねむうなりけり勿體な
     もうもうと大鍋けぶる雜煮かな
[やぶちゃん注:底本では「もうもう」の後半は踊り字「〱」。]
歌留多  二つ三つ歌も覺えて歌留多かな
     歌かるた讀み人かへてとりにけり
羽根   靜かさや冴え渡り來る羽根の音
     獅子舞に團十郎を知る子かな
     前髮に二つはさむや羽根大事
手毬   日暮るゝに取替へてつく手毬かな
     杣の子の二つ持ちたる手毬かな
破魔弓  破魔弓を掛けて時めく主人かな
     二つ掛けて老い子育つる破魔矢かな
     四十二の鬼子育つる破魔矢かな
     破魔弓をかけて寺ともなかりけり
繭玉   繭玉や店ひろびろと船問屋
[やぶちゃん注:底本では「ひろびろ」の後半は踊り字「〲」。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」の「鬼城俳句と自画讃」で猿曳の絵を添えた短冊が見られる。]
初曆   吉日のつゞいて嬉し初曆
     草の戸に喜び事や初曆
飾    古鍬を研ぎすましたる飾かな
     壁にかけて二挺の鍬の飾かな
門松   門松や蔭言多き吉良屋敷
     松立てゝゆゝしき門となりにけり
     門松や戸をさして住む百姓家
     松立てゝ大百姓の門二つ
     柴門に大きな松を立てにけり
書初   庵主の禿筆を嚙む試筆かな
食積   食積や喜び事のつゞく家
若水   若水のけむりて見ゆる靜かな
     包井や老も起きそふ草の宿
初手水  上人の御顏なつかし初手水
年玉   年玉や水引かけて山の芋
     年玉や寺でくれたる飯杓子
     年玉や大きな判の伊勢曆
初荷   山里を通り拔けたる初荷かな
     藥湯に四五俵の炭の初荷かな
左義長  左義長や河原の霜に頰冠
     大穴に霜の煮え立つとんどかな
     谷間の二軒の家のとんどかな
七草   ことことと老の打ち出す薺かな
[やぶちゃん注:底本では「ことこと」の後半は踊り字「〱」。]
     七草やもうもうけぶる馬の粥
[やぶちゃん注:底本では「もうもう」の後半は踊り字「〱」。]
     とかくして冷たうなりぬ七草粥
用始   向合うて墨すりかはせ用始
     用始禿筆嚙む小吏かな
鍬始   鍬始小松並べて植ゑにけり
     山畑に朝日大きや鍬始
     鍬始乏しき酒をあたゝめぬ
     烏帽子着て畑ヶ二打身三打かな
     鍬始淺間ヶ嶽に雲かゝる
調練始  大筒をひき出て調練始めかな
彈始   彈初や官位持ちたる琵琶法師
鏡開   老猿をかざり立てたり猿まはし
     大猿に小さき着物や猿まはし
傀儡師  傀儡師鬼も出さずに去にゝけり
懸想文  薄墨のたよりなき色や懸想文



  
植物
福壽草  福壽草咲いて筆硯多祥かな
     福壽草や卓に掛けたる白錦
     福壽草何隱したる古屛風



春之部



 
春之部

  
時候
春の日  春の日や高くとまれる尾長鷄
     あかあかと大風に沈む春日かな
[やぶちゃん注:底本では「あかあか」の後半は踊り字「〱」。]
春の夜  春の夜や灯を圍み居る盲者達
     春の夜や泣きながら寐る子供達
     春の夜や上堂したる大和尚
餘寒   春寒や隨身門に肥車
     竹うごいて影ふり落す餘寒かな
     春寒や掘出されたる蟇
     大寺に沙彌の爐を守る餘寒かな
     鏈して小舟つなげる餘寒かな
[やぶちゃん字注:「鏈」は「鎖」と同義で、「くさり」と訓じていよう。]
     仙人掌の角の折れたる餘寒かな
     山寺に菎蒻賣りや春寒し
日永   遲き日や家業たのしむ小百姓
     遲き日の暮れて淋しや水明り
     遲き日の暮るゝに居りて灯も置かず
     遲き日やから臼踏みの臼の音
暖    遠山に暖き里見えにけり
     石暖く犬ころ草の枯れてあり
     暖く西日に住めり小舍の者
     暖や馬つながれて立眠り
長閑   長閑さや大きな緋鯉浮いて出る
     長閑さや鷄の蹴かへす藁の音
     長閑さやてふてふ二つ川を越す
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。]
     麥畑にわら灰打ちて長閑かな
     曳馬の歩き眠りや長閑なる
     ひとり歩く木曾の荷牛の長閑かな
春の宵  小百姓の飯のおそさよ春の宵
     美しきの手習や宵の春
     女夫して實家さとに遊ぶや春の宵
朧    朧夜や天地碎くる通りもの
     大門に閂落す朧かな
行春   行春や机の上の金蘭薄
[やぶちゃん注:「金蘭薄」は「きんらんぱく」と読み、単子葉植物綱ラン目ラン科シュンラン
Cymbidium goeringii の品種の一。]
     何燃して天を焦すぞ暮の春
     淺間山春の名殘の雲かゝる
     行春や畑ヶにほこる葱坊主
     行春や淋しき顏の酒ぶくれ
     春行くと娘に髮を結はせけり
     亡き人の短尺かけて暮の春
     行春や夕燒したる餘所の國
     行春や看板かけて賃仕事
     草の戸に春の名殘の倡和かな
     春惜む同じ心の二法師
二月   黑うなつて茨の實落つる二月かな
     西行の御像かけて二月寺
冴返る  冴返る庵に小さき火鉢かな
     冴返る川上に水なかりけり
夏近し  夏近き曾我中村の水田かな
[やぶちゃん注:「曾我中村」は小田原市国府津の北の、現在の曽我別所梅林の東北にある六本松跡周辺山彦山山麓を指す地名と思われる。ここでの句としては、
      ほととぎす鳴き鳴き飛ぶぞいそがわし 芭蕉
      人の知る曾我中村や靑嵐       白雄
      雨ほろほろ曽我中村の田植えかな   蕪村
といった先行作がある。]
     夏近き近江の空や麻の雨



  
人事
治聾酒  治聾酒の醉ほどもなくさめにけり
     治聾酒や靜かに飮んでうまかつし
[やぶちゃん注:「治聾酒」「ぢろうしゆ(じろうしゅ)」と読む。春の社日(立春から数えて五番目の、春分に最も近い戊戌つちのえいぬの日に当たる)に土地の神に供える酒を言い、この日に酒を飲むと耳の不具合が治るという。「大辞泉」の例文はこの鬼城の冒頭の句である。御承知のことと思われるが、鬼城は耳が不自由であった(若年期の後天的な耳の疾患によるものらしい)。この最初の句は序文で虚子が実に言わいでもいい程に懇切丁寧慇懃無礼に鬼の首を捕ったような心理解説している。そこでは「治聾酒」ではなく、露骨な「耳聾酒」(つんぼざけ)という表記になっているのも私には頗る苛立たしいのである。]
畑打   小男や足鍬えんぐは踏みこむ二押三押
[やぶちゃん注:「足」を「えん」と読むのは不詳。識者の御教授を乞うものである。]
     先祖代々打ち枯らしたる畑かな
     畑打のよき馬持ちて踏ませけり
目刺   束修の二把の目刺に師弟かな
[やぶちゃん注:「束修」は「束脩」の誤りであろう。「束脩」は「そくしう(そくしゅう)」と読み、古く中国で師に入門する際の贈物とした束ねた干し肉のことで、転じて、諸師匠に入門する際の持参する謝礼を言う。]
     目刺あぶりて賴みある仲の二人かな
種蒔   種蒔いて暖き雨を聽く夜かな
     種蒔や繩引き合へる山畑
寒食   寒食や冷飯腹のすいて鳴る
[やぶちゃん注:「寒食」は「かんじき」または「かんしよく」と読み、冬至から一〇五日目の節気。古代中国の習慣で、この日は火気を用いずに冷たい食事をしたことによる。由来ははっきりしないがこの時期は風雨が激しいことから火災を防ぐためとも、また、一度火を断って新しい火で春を呼び込む再生儀礼とも言われる。]
北窓開く 北窓をこぢ放しけり鷄の中
凧    谷間に凧の小さくあがりけり
     大凧や草の戸越の雲中語
初午   初午や神主もして小百姓
     初午や枯木二本の御

雛    蕎麥打つて雛も三月五日かな
     雛の間やひたとたて切る女夫事
春の灯    思ひわづらふことあり
     春の灯や搔きたつうれどもまた暗し
摘草   摘草や帶引きまはす前後ろ
     摘草や苽市たちて二三軒
[やぶちゃん注:「苽」はマコモのことだが、これは「笊市」(ざるいち:笊を売る市)の誤植ではあるまいか。]
芋植うる 芋種の古き俵をこぼれけり
     芋植ゑて土きせにけり一つ一つ
[やぶちゃん注:底本では「一つ一つ」の後半は踊り字「〱」。]
     芋植えゑて梶原屋敷掘られけり
[やぶちゃん注:これを鎌倉の吟とする記載を見かけたが、梶原景時の所領は相模国一宮(現在の寒川町)や初沢城(現在の八王子市初沢町)などにもあって梶原屋敷と呼称する場所は他にも多く、同定する根拠に疑問がある。]
櫻餠   たんと食うてよき子孕みね櫻餠
踏靑   靑を踏む放參の僧二人かな
[やぶちゃん注:「踏靑」は「たふせい(とうせい)」と読む。中国で清明節前後(四月五日前後)に郊外へと遊んだことを言った。春の青草を踏んで遊ぶから、春の野遊びの意となった。「放參」は「はうさん(ほうさん)」と読み、禅寺で夜の参禅から修行僧を放免することを言う。]
藪入   藪入に交りて市を歩きけり
針供養  山里や男も遊ぶ針供養
干鱈   干鱈あぶりてほろほろと酒の醉に居る
[やぶちゃん注:底本では「ほろほろ」の後半は踊り字「〱」。]
彼岸   虎溪山の僧まゐりたる彼岸かな
[やぶちゃん注:「虎溪山」は岐阜県多治見市にある臨済宗南禅寺派の寺虎渓山永保寺こけいざんえいほうじのこと。]
野燒   野を燒くや風曇りする榛名山
     野を燒くやぽつんぽつんと雨到る
[やぶちゃん注:底本では「ぽつんぽつん」の後半は踊り字「〱」。]
接木   壁に題して主人を誹る接木かな
     接木してふぐり見られし不興かな
     柿の木に梯子をかける接木かな
節分   思ひ出して豆撒きにけり一軒家
草餠   草餠に燒印もがな草の庵
菊根分  妹が垣伏見の小菊根分けり
     菊根分呉山の雪の覺束な
[やぶちゃん注:「呉山の雪」は南宋の魏慶之撰「詩人玉屑ぎょくせつ」に採られている唐代の詩僧釈可士かしの「僧を送る」という詩の一節「笠重呉天雪 鞋香楚地花」(笠は重し呉天ごてんの雪 あいは香ばし楚地そぢの花」という漢詩が元で、「呉天」は呉の地方の空の意。禅語として良く取り上げられるが、後に謡曲「葛城」で、シテの里の女(実は葛城の女神)とワキの山伏が「笠はおもし呉天の雪 靴は香ばし楚地の花」と謠うことで人口に膾炙し(観世流では「呉天」をまさに「呉山」と謠う)、芭蕉も「夜着は重し呉天に雪を見るあらん」と詠んでいる。]
野遊   野遊や餘所にも見ゆる頰冠
茶摘   茶畑に葭簀かけたる薄日かな
     ねもごろに一
本の茶を摘みにけり
鷄合   鬪鷄の眼つぶれて飼はれけり
     鬪鷄の蹴上げ蹴おろす羽風かな



  
天文
霞    榛名山大霞して眞晝かな
     石ころも霞みてをかし垣の下
     郵便夫同じところで日々霞む
     野に出でゝ霞む善男善女かな
     夕霞鳥烏のかへる國遠し
     落る日に山家さみしくかすみけり
春雨   春雨や拜殿でする宮普請
     春の雨かはるがはるに寐たりけり
[やぶちゃん注:底本では「かはるがはる」の後半は踊り字「〲」。]
     新しき蒲團に聽くや春の雨
     春雨や音させてゐる舟大工
     春雨やたしかに見たる石の精
     桵の木の刺もぬれけり春の雨
[やぶちゃん注:「桵」は「たら」。双子葉植物綱セリ目ウコギ科タラノキ
Aralia elata のこと。]
     春の雨藁家ふきかへて住みにけり
     慈恩寺の鐘とこそ聽け春の雨
[やぶちゃん注:この「慈恩寺」は白居易の「三月三十日題慈恩寺」などを想起したものと思われる。]
陽炎   陽炎や鵜を休めたる籠の土
春雷   春雷にお能始まる御殿かな
春の雪  春の雪麥畑の主よく起きぬ
     春雪にしばらくありぬ松の影
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]
東風   門を出づれば東風吹き送る山遠し
春の月  春月に木登りするや童達
     誰れ待ちて容す春の月
[やぶちゃん注:「容す」は「すがたかたちす」と訓じているか。]
     米搗に大なり春の月のぼる
殘雪   谷底に雪一塊の白さかな
     熊笹の中に雪ある山路かな
風光る   送別
     新しき笠のあるじに風光れ



  
地理
春山   春山や松に隱れて田一枚
     春山や家根ふきかへる御

山笑ふ  稚子達に山笑ふ窓を開きけり
春水   大釜に春水落す筧かな
     眞菰生えて春水生えて到ること早し
苗代   苗代にひたひた飮むや烏猫
[やぶちゃん注:底本では「ひたひた」の後半は踊り字「〱」。]
     竹切れに髮の毛つけて苗代田
[やぶちゃん注:全くの勘でしかないが、こ竹枝に附けた髪の毛というのは、豊作祈願の予祝行事ではなかろうか? 識者の御教授を乞うものである。]
     苗代を作りて伐るや楢林
春の川  山の日のきらきら落ちぬ春の川
[やぶちゃん注:底本では「きらきら」の後半は踊り字「〱」。]
     春川の日暮れんとする水嵩かな
     春川や橋くゞらする帆掛舟
氷解   とけて浮く氷の影や水の底



  
動物
蝶    てふてふのなぐれて高き焚火かな
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。以下六句総て同じ。「な      ぐれて」はラ行下二段「なぐる」で、横の方へ反れるの意。]
     川風に吹き戻さるゝてふてふかな
     てふてふの翅引裂けて飛びにけり
     てふてふの虻に逃げたる高さかな
     てふてふや鬚もうつりて石にゐる
     てふてふや草にもどりて日暮るゝ
     高浪をかむりて出づるてふてふかな
地虫穴を出づ 己ノ影を慕うて這へる地虫かな
     地虫出てゝまた搜しけり別の穴
蝌蚪   川底に蝌蚪の大國ありにけり
     風吹いてうちかたまりぬ蛙の子
     蛙の子泥をかむりて隱れけり
     ちりぢりに出て遊びけり蛙の子
[やぶちゃん注:底本では「ちりぢり」の後半は踊り字「〲」。]
田螺   靜さに堪へで田螺の移りけり
     田螺賣る津守の里の小家かな
     揚げ土に陽炎を吐く田螺かな
猫の子  猫の子や親を距離はなれて眠り居る
鶯    鶯や隣へ逃げる藪つゞき
蠶    菜の花に煤掃をする飼家かな
     口腫れて桑にもつかずお蠶休
[やぶちゃん注:「お蠶休」は「おかいこやすみ」と読む。これは蚕が脱皮をする間を言い、休眠して桑を食べない期間のことである。これについては平成二十二年度総務省「地域ICT利活用広域連携事業」に採択されているプラットフォーム構築事業のウェブサイト「伝統文化の森」の「養蚕」の項によれば、春蚕はるご・夏蚕・秋蚕・晩秋蚕ばんしゅうさん晩々秋蚕ばんばんしゅうさんと五回の掃立はきたて(孵化した蚕を蚕座に移して飼育を開始する作業。羽箒をもって毛蚕を掃き下ろすことからかく言う)があるが、蚕があがるまでには「お蚕休み」がそれぞれ四回あるとし、このお蚕休みの折りには、『餅・ぼたもち・赤飯・まんじゅう等を作り、疲れた体をいたわります。しかし、この頃はお蚕が休んでも農繁期にあたり九月末まで忙しくお蚕に追われます』とある。]
     いさゝかの蠶してゐる渡守
燕    曇る日や高浪に飛ぶむら燕
     田のくろに猫の爪研ぐ燕かな
     濁流や腹をひたして飛ぶ燕
     大瀧を好んで飛べる燕かな
蛙    浮く蛙居向をかへて浮きにけり
     事もなげに浮いて大なる蛙かな
雲雀   百姓に雲雀揚つて夜明けたり
雀の子  雀子や親と親とが鳴きかはす
     雀子や大きな口を開きけり
烏の子  つながれて黑々育つ烏の子
龜鳴く  龜鳴くと噓をつきなる俳人よ
     だまされて泥龜きゝに泊まりけり
     龜鳴くや月暈を着て沼の上
[やぶちゃん注:「龜鳴く」という季題は、藤原定家の子である為家の和歌「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば龜ぞ鳴くなる」が典拠とされる。実際には亀は鳴かないが、春になると亀の雄が雌を慕って鳴くという、一種の浪漫的情緒的な雰囲気を添える季題ではある。]
猫の戀  犬吼えて遠くないけり猫の戀
     いがみ合うて猫分れけり井戸の端
虻    虻飛んで一大圓をゑがきけり
鳥交る  高き木を雀交
で落ちにけり
[やぶちゃん注:季題は「とりさかる」と読み、「鳥つるむ」(本句の「つるんで」)「雀さかる」「鳥つがふ」「鶴の舞」「鳥の恋」「恋雀」などを含む。春から初夏にかけて繁殖期を迎えた鳥の様々な求愛行動を指す。]
親雀   市に住
で雀の親の小さゝよ
鶸    水あみてひらひら揚る川原鶸
[やぶちゃん注:底本では「ひらひら」の後半は踊り字「〱」。]
歸雁   日落ちて海山遠し歸る雁
     雁金の歸り盡して闇夜かな
蜷    砂川の蜷にしずかな日ざしかな
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]
目高   菱の中に日向ありけり目高浮く
     ひちひちと頭
まはすや針目高
     古沼にかたまつて浮く目高かな
蜂    をうをうと蜂と戰ふや小百姓
[やぶちゃん注:底本では「をうをう」の後半は踊り字「〱」。]
小鮎   日暮るゝに竿續ぎ足すや小鮎釣
白魚   白魚の九膓見えて哀れなり
落角   鹿の角何にかけてや落としたる
龍昇天  龍昇つて魚介うろくづもとの水に在り
[やぶちゃん注:龍は春の盛んな気に乗じて昇天するとされる俗信に基づく。現代の一部の「プラグマティクな」歳時記には所収しない。]
百足   鷄の二振り三振り百足かな



  
植物
櫻    花散るや愁人面上に黑子あり
     しらしらと人踏まで暮るゝ落花かな
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記で、「ひらひら」の後半は踊り字「〱」。]
     草の戸にひとり男や花の春
     欝金櫻色濃く咲いて淋しいぞ
[やぶちゃん注:「欝金櫻」「うこんざくら」であろう。ウコン(鬱金/鬱金桜)はサクラの栽培品種の一つ。開花の時期は東京でソメイヨシノより遅めの四月中旬頃。花弁に葉緑体を持つなど性質はギョイコウ(御衣黄)に似ているが、色は緑色が弱く、淡黄色。数百品種あるサクラの中では唯一、黄色の花を咲かせる。大輪の八重咲きで、名はショウガ科のウコンの根を染料に用いた鬱金色に由来するが、それと混同されないように、「鬱金桜」或いは「鬱金の桜」と呼ばれることもある。また、別名として「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などがあるが、これらの別称はギョイコウを指すこともあるので注意が必要。(以上はウィキの「ウコン(サクラ)」に拠った)。]
       賀
     二人してひいて遊べよ糸櫻
     よき馬や櫻に曳いて御奉納
     山寺や彼岸櫻に疊替
     吹きよせて落花の淵となりにけり
     御經の金泥へげて八重櫻
     花散つてきのふに遠き靜心
     花ちりて地にとゞきたる響かな
     花散るや耳ふつて馬のおとなしき
      墓前
     呼べど返らず落花に肥ゆる土の色
     篝火の尾上にとゞく櫻かな
[やぶちゃん注:「尾上」は「をのへ(おのえ)」で、原義は「うへ」の意で山の頂のこと。ここでは篝火の炎の頂点を指す。]
     うつろ木のたゝけば鳴りて櫻かな
     里人や古歌かたれ山櫻
     愁人の首も縊らず花見かな
     庭の雨花の篝火を消して降る
     無信心の顏見られけり寺の花
     四五輪の花に老木となりにけり
     花雲のかゝりて暮れぬ三軒家
     里人の堤を燒くや花曇
     家こぼちて櫻さみしく咲きにけり
蘆の芽  蘆の芽にかゝりて消ゆる水泡かな
[やぶちゃん注:「水泡」は「みなわ」と読んでいよう。水粒みつぶの意で「みつぼ」とも読めるが採らない。私が、儚い譬えにもいう「みなは」(「みなあわ」の音変化。「な」は「の」の意の格助詞)という音が好きだから。]
     蘆の芽に水ふりまける水車かな
韮    韮畑や針金張つて御藥園
     韮生えて枯木のもとの古畑
葱の花  鷄に踏み折られけり葱の花
     葱の花ソクソクと風に吹かれけり
[やぶちゃん注:底本では「ソクソク」の後半は踊り字「〱」。]
木の芽  西日して木の芽花の如し草の宿
     桵の芽のほぐるゝ山の靜かな
[やぶちゃん注:「桵」は「たら」、「タラの芽」で知られるセリ目ウコギ科タラノキ
Aralia elata のこと。樹皮には幹から垂直に伸びる棘が数多くある。]
     桵の木の飽くまで刺を吹きにけり
蒲公英  芝燒けて蒲公英ところどころかな
[やぶちゃん注:底本では「ところどころ」の後半は踊り字「〲」。]
椿    椿咲く親王塚や畑の中
[やぶちゃん注:「親王塚」大阪府芦屋市翠ヶ丘町にある在原業平の父である阿保親王の古墳とされる親王塚のことか。マイケル氏の『マイケルの「芦屋と打出」』にある「阿保親王塚古墳」の叙述に『以前は畑のまん中にあったので、遠くから古墳全体の様子がうかがえた』らしい、とある。]
       墓前
     咲きかはりかはり八千歳の椿かな
[やぶちゃん注:底本では「かはりかはり」の後半は踊り字「〱」。「八千歳」は「やちよ」。]
     石の上に椿並べて遊ぶ子よ
     雨の中に落ちて重なる椿かな
     一つ殘りて落ち盡したる椿かな
水草生ふ 水草の浮きも得せずに二葉かな
薺    猫のゐてペンペン草を食みにけり
     薺咲きぬ三味線草にならであれ
[やぶちゃん注:底本では「ペンペン草」の「ペンペン」の後半は踊り字「〱」。]
梅    梅が香や廣前にゐて鷄白し
[やぶちゃん注:「廣前」は「ひろまへ」で神の御前、神社の前庭を言う語。かつて教師時代に高校生に使ったところ、誰も知らなかったので注しておく。]
     梅咲いて百姓ばかりの城下かな
鬘草   鬘草かむつて遊ぶ童達
[やぶちゃん注:「鬘草」は「かもじぐさ」(「かづらぐさ」とも読むが採らない)で、イネ目イネ科エゾムギ属オニカモジグサ変種カモジグサ
Elymus tsukushiensis var. transiens。本邦では道端でごく普通に見られる。大きめの小穂をつけた細い穂がたれ、また小穂に長い芒が出るのが目立つ。花期は五~七月、穂は茎の先端から伸びて立ち上がり、先端は弓型に垂れる。穂状花序で茎に沿ってやや間を開けて柄のない小穂をつける。小穂は軸に沿うように上向きになり、長さは一五~二五ミリメートル、多少平坦なくらいで細長く五~一〇の小花を含む。色は緑色で粉を吹いたように白く、部分的に紫を帯びるのが普通。えいの先端から伸びるのぎは長さ一・五~三センチメートルで多くは紫を帯びる。芒は穂の先端方向へすんなりと伸び、乾燥しても反り返らない(以上はウィキの「カモジグサ」に拠る)。名は本句にあるように初夏の青紫色を帯びた花と黒っぽい頴が伸びているものを採って束ね、付け髪(かもじ)に擬えて子どもが髪に刺して遊んだことに由来する。]
芍藥の芽 蟄龍の美しき爪や芍藥の芽
[やぶちゃん注:「蟄龍」は「ちつりりよう(ちつりょう)」と読み、地に潜んでいる龍。一般には、活躍する機会を得ずに世に隠れている英雄の譬えとしてしばしば用いられる語。]
大根の花 大根咲く里に才女を尋ねけり
菜の花  種菜咲いて風なき國となりにけり
     菜の花の夜明の月に馬上かな
桃の花  桃咲いて厩も見えぬ門の内
     屏風して夜の物隱す桃の花
藤の花  谷橋に來て飯に呼ぶ藤の花
     竹垣に咲いてさがれり藤の花
     藤棚を落ち來て日あり二ところ
     藤浪や峰吹きおろす松の風
     岩藤や犬吼え立つる橋の上
躑躅   谷川に朱を流して躑躅かな
蓮華草  蓮華野に見上げて高き日ざしかな
柳    靑柳や幕打張つて飛鳥井家
     靑柳の木の間に見ゆる氷室かな
蕨    松風のごうごうと吹くや蕨取り
[やぶちゃん注:底本では「ごうごう」の後半は踊り字「〱」。]
     王公の履を戴かず蕨かな
[やぶちゃん注:これは「史記」列伝第一に挙げられた殷末の孤竹国(一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟で、高名な隠者にして儒教の聖人伯夷はくい叔斉しゅくせいが、周の武王(本句の「王公」)が父文王の喪の内に紂王を討とうとするのを不忠として諌め、その不忠の君子の国の糧を食むを恥として、王の詫びと重用を拒否し(本句の「を戴かず」)首陽山に隠れ、蕨(本句の下五)・ぜんまいを食としたが、遂に餓死して亡くなった故事に基づく。因みに、私は蕨や薇の新芽の渦巻きを見ていると、いつも藁草履を思い出すのを常としている。]
     蕨たけて草になりけり草の中
     蕨出る小山讓りて隱居かな
     食ふほどの蕨手にして飛脚かな
芹    根ツ杭を打ち飛ばしけり芹の中
山吹   山吹に大馬洗ふ男かな
蠶豆の花 蠶豆を植ゑて住みたる官舍かな
[やぶちゃん注:「蠶豆」「そらまめ」と読む。漢名。]
蕗の薹  蕗の薹二寸の天にたけにけり
     蕗の薹や桐苗植ゑて棒の如し
李の花  落花する李かむりて小犬かな
     蜂の巣に落花してゐる李かな
     犬の來て李の落花掘りにけり
松の綠  金氣きんき吸うて滿山の松の綠かな
[やぶちゃん注:「金氣」は普通、秋の気配、秋気を指す語(秋は五行で金に当たる)であるが、松は常緑樹で秋になっても緑を保つ目出度い常磐木で、その秋の気を十全に吸い取って今この春も相変わらぬ緑の松葉を茂らせているの謂いであろうか。今一つ、ぴんとこない。識者の御教授を乞う。]
木瓜の花 岨道を牛の高荷や木瓜の花
[やぶちゃん注:「岨道」は「そばみち」(古くは「そはみち(そわみち)」)と読む。険しい山道。]
忘勿草  小さう咲いて忘勿草や妹が許
茅花   川霧に日の出て咲ける茅花かな
要の花  かなめ咲いておのづと風に開く門



夏之部



 
夏之部

  
時候
暑    麥飯のいつまでも熱き大暑かな
     暑き日や簾編む音ばさりばさり
[やぶちゃん注:底本では「ばさりばさり」の後半は踊り字「〱」。]
     念力のゆるめば死ぬる大暑かな
     暑き日や立ち居に裂ける古袴
     衝立に隱れて暑き食事かな
     暑き日や雜仕が着たる古烏帽子
     暑き日や家根の草とる本願寺
     暑き日やだしぬけことの火雷
     暑き日や鰌汁して身をいとふ
     暑き日や古竹燃してはぬる音
炎天   炎天や天火取たる陰陽師
[やぶちゃん注:「天火」は「てんくわ」と読み、「天火日てんかにち」の略。暦注の一つで天に火気が盛んであるとする日を指す。屋根葺き・棟上げ・竈造り・種蒔きなどを忌む。「取る」は解釈するの謂いであろう。炎天下、ゆれる陽炎の中にでも平安の昔の妖しい一齣を幻想した句と私は読む。]
日盛   日盛や合歡の花ちる渡舟
凉    凉しさや白衣見えすく紫衣の僧
[やぶちゃん注:「白衣」言わずもがなであるが「びやくえ(びゃくえ)」と読む。実は僧が、プライベートに黒衣こくえを着用せずに白い下着だけでいることを「白衣」と言い、転じて、礼にそむく、非礼の謂いでもある。但し無論、そこまでこの句を深読みする必要はなく、鬼城の視線はその色彩の玄妙な美しさに涼を感じて素朴にうたれているのでる。]
       目から死に耳から死
で暮の春と其角の言へるに答ふ
     死に死にてこゝに凉き男かな
[やぶちゃん注:底本では「死に死に」の後半は踊り字「〱」。]
     草刈の凉しき草の高荷かな
     雜兵の兜かむらぬ凉しさよ
     弟子達に問答させて凉みかな
     凉しさや犬の寐に來る藏のかげ
     布衣の身の勤め凉しや黄帷子
[やぶちゃん注:江戸時代に武士の大紋に次ぐ四番目の礼服を「布衣ほい」といい、それを着る御目見おめみえの身分のことをここではいう。それに縁語のように「黄帷子」の実装を配したところの、江戸の一人の武士を描いた先の「雜兵の」の句と同じく一種の夢想句である。鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住み、十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗っている(事蹟はウィキの「村上鬼城」に拠った)。但し、次に示す注も必ず参照のこと。]
     凉しさや梧桐もまるゝ闇の空
     鳴かねども河鹿凉じき座右かな
     そこそこに都門を辭して逃げ歸る
[やぶちゃん注:ウィキの「村上鬼城」によれば、明治一七(一八八四)年、二十歳の時、高崎から東京へ赴いて軍人を志したものの、耳疾のために断念、明治法律学校(現在の明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(現在の司法書士の前身)となり、父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となって以後、亡くなるまでの一生を高崎で過ごした、とある。この句はその、錦を飾らずに帰郷した折りの自身の印象を自嘲的に詠んだものと推測される。但し、この鬼城の「父」というのが実父であるのか養父であるのかが、今一つ、よく分からない。「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある「村上鬼城」の非常に詳しい事蹟を読んでも、かなり微妙だからである。そこでは、鬼城は鳥取藩江戸邸で藩士小原平之進長男として出生、彼の祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務めた家禄五百石取りであったものの、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には三百五十石であったとし、続けて、『明治維新後に父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住。一年ほど後に高崎に居を移し』(下線やぶちゃん。以下同じ)たとあり、更に二十四の時に結婚した妻スミとの間に『二人の娘を授かったのも束の間、父を亡くすとすぐにスミも』二十七の若さで病死し(この「父」は文脈上は実父としか読めない。なお、ウィキの方には、鬼城は八人の娘と二人の息子を儲けて子宝に恵まれたものの、生活は常に貧窮していたという記載があり、「高崎新聞」版にも三十二『歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽では』なかったと、所謂、鬼城=〈境涯の俳人〉の如何にもな強調がなされてある。私の〈境涯俳句〉批判は拙攷「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」を参照されたい)、『耳の状態が悪化し悲嘆にくれる中で、司法官も断念した荘太郎は、法律の知識を生かし、高崎裁判所の代書人(現在の司法書士)とな』ったとあるからである。ここでは一貫して実父は彼の傍におり、養父の影はまるで見えないかのように読める。則ち、どうも養父というのはただの縁組上のものに過ぎないように思われ、実父とともに生活はしていたように感じられるからである。ただ、この記載とウィキの記載とを並べてみると妙な齟齬が感じられるのである。それはウィキに出る『父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる』という部分で、「父の勤務先である」と話柄内同時時制で言っている以上、これは前掲の「高崎新聞」の叙述によって実父が既に亡くなった後のことであるから、この「父の勤務先である」の「父」は「養父」でなくてはならないことになるからである。どうも私は孰れの記載も何とも言えない言い足りていない違和感を覚えるのである。鬼城研究家の御教授を是非乞いたいところである。]
     凉しさや小便桶の並ぶところ
     凉しさや茸がはえてぬるゝ塀
夏の朝   出産
     男子生まれて靑山靑し夏の朝
夏の夕  夏夕蝮を賣つて通りけり
短夜   短夜や枕上
なる小蠟燭
     短夜や簗に落ちたる大鯰
     短夜や舟してあぐる鰻繩
     夏の夜や遠くなりたる箒星
     家鳩や二三羽降りて明昜き
[やぶちゃん注:「昜」の字はママ。但し、この字は陽が上がるの意で、強ち誤字とも言えぬが、無論、「やすき」とは読めない。]
土用   でゝ虫の草に籠りて土用かな
秋近し  秋近し土間の日ひさること二寸
[やぶちゃん注:「ひさる」は「退しざる」の転訛で後退するの意。]
     秋近しとんぼう蛻けて橋柱
[やぶちゃん注:言わずともお分かりなると思うが、「蛻けて」は「ぬけて」と読み、脱皮羽化したことをいう。]
四月   納豆をまだ食ふ宿の四月かな
[やぶちゃん注:「納豆」は本来の旬から冬の季語である。]



  
天文
五月雨  五月雨や起き上りたる根無草
     水泡立ちて鴛鴦の古江のさみだるゝ
[やぶちゃん注:「鴛鴦」はオシドリの古名で「をし」と読む。]
     五月雨のふる潰したる藁家かな
     五月雨や松笠燃して草の宿
     鹽湯や朝からけむる五月雨
[やぶちゃん注:「鹽」は底本では「皿」の上部が〔「土」(左)+「鹵」(右)〕の字体。「塩」の正字である「鹽」の異体字であるのでかく表字した。「鹽湯」は塩水を含んだ温泉若しくは塩水を沸かした風呂で「しほぶろ」と当て読みしているか。識者の御教授を乞う。]
     五月雨や浮き上りたる船住居
[やぶちゃん注:「船住居」は「ふなずまひ」と読んでいるか。識者の御教授を乞う。]
夏の月  麥飯に何も申さじ夏の月
     長々と蜘蛛さがりけり夏の月
雷    北山に雷を封せよ御坊達
     雷の落ちてけぶりぬ草の中
     北山の遠雷や湯あみ時
[やぶちゃん注:「遠雷」は「とほかみなり」と訓じているか考えられない。]
     雷落ちて火になる途上かな
     吹落す樫の古葉の雷雨かな
虎が雨  かりそめに京にある日や虎が雨
[やぶちゃん注:「虎が雨」曾我兄弟の仇討がなされた陰暦五月二十八日に降る雨のことをいう。兄十郎祐成が斬り死にして、それを悲しんだ愛人の虎御前の涙雨とされた。「曽我の雨」「虎が涙」ともいう夏の季語。鬼城には
      寢白粉ねおしろい香にたちけり虎が雨
という句もあり、私はこの嗅覚的にすこぶる上手い「寢白粉」の方が好みである。]
夕立    夕立や橋下の君子飯自分
[やぶちゃん注:「橋下の君子」河原や橋の下に停留して河原乞食とも称されたホカイビト、流浪の旅芸人をかく言い換えた。鬼城の弱者への共感的な優しい視線を私は感じる。]
      夕立の小ぶりになりぬてふてふ飛ぶ
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。]
      夕立や池に龍住む水柱
雲の峰   海の上にくつがへりけり雲の峰
      わら屋根や南瓜咲いて雲の峯
五月闇   提灯に風吹き入りぬ五月闇
[やぶちゃん注:「五月闇」は「さつきやみ」と読み、五月雨さみだれの降る頃の夜が暗いこと、また、その暗闇。また、その頃の昼の薄暗い空模様をも言う。因みに和歌では、「くら」に掛かる枕詞としても用いられる。]
靑嵐    馬に乘つて千里の情や靑嵐
露凉し   露凉し形あるもの皆生ける
旱     山畑に巾着茄子の旱かな



  
地理
夏の山   石段に根笹はえけり夏の山
      夏山や鍋釜つけて湯治馬
夏野    ぐわうぐわうと夏野くつがへる大雨かな
[やぶちゃん注:底本では「ぐわうぐわう」の後半は踊り字「〱」。]
      蓑笠に大雨面白き夏野かな
夏の川   馬に乘つて河童遊ぶや夏の川



  
人事
田植    水の邊や大鍬おんぐははづして田植馬
[やぶちゃん注:「大鍬おんぐは」特異な読みである。高崎地方の方言か。茨城方言に「犂・大鍬」の意で「おーが」というのがある(「昔の茨城弁集/茨城方言大辞典/お」に拠る)。]
      小さき子に曳かれていばふ田植馬
[やぶちゃん注:「いばふ」「嘶ふ」はヤ行下二段動詞「いばゆ」の音が変化してハ行下二段化したもの。いななく、の意。]
麥刈    麥刈や娘二人の女わざ
      麥刈の大きな笠に西日かな
      麥刈れば水到り田となりぬ
      麥打の轉子に飛べるてふてふかな
[やぶちゃん注:底本では「てふてふ」の後半は踊り字「〱」。「轉子」は恐らく「てんし」と読んでおり、麦や大豆などの脱穀作業に用いる農具の一種、唐棹・殻竿(からざお/さお:唐竿・連枷・くるりなどとも呼称し、長い竹竿の先端に回転する短い棒を取り付けた形状をし、この竿を持って莚の上に広げた穀物を短い棒を回転させながら叩いて脱穀する。このような脱穀方法を千歯扱きなどの「き」に対して「打穀」と呼ぶ。)自体、若しくはその先端の回転部分を指していると考えられる(唐棹の解説はウィキの「唐棹」に拠った)。]
團扇    君來ねば柱にかけし團扇かな
晝寐    松風に近江商人晝寐かな
[やぶちゃん注:無論、松尾芭蕉の名吟「行く春を近江の人と惜しみける」が句背にあるが、死後も偏愛した義仲所縁の近江義仲寺に葬ることを遺言するほどに芭蕉は近江を愛した(それについては個人サイト「いこいの広場」の「芭蕉と近江」によく纏められている。必読)。また、「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)ややり手商人あきんどとして「近江泥棒伊勢乞食」と揶揄された近江商人の思想や行動哲学については、勝海舟「氷川清話」に、「芭蕉の教導訓示によりて出来たもの」と言う談話が残されている、とウィキの「近江商人」にある。]
霍亂    霍亂や里に一人の盲者醫者
[やぶちゃん注:「霍亂」は漢方で日射病を指す。また、広く、夏に発症し易い、激しい吐き気や下痢などを伴う急性の病態をも言ったことから、夏の季語となった。]
新茶      宇治の茶、萬古の急須、相馬の茶碗、
        美濃の柿、伊香保の盆、かぞへ來れば
        なかなかに勿體なし
      新茶して五ケ國の王に居る身かな
[やぶちゃん注:「萬古」三重県四日市市の代表的な地場産業である萬古焼ばんこやき。万古焼とも書く。葉長石(ペタライト:耐熱性に富むケイ酸塩鉱物。)を使用して造られ、陶器と磁器の間の性質を持った半磁器(「炻器せっき」とも呼ぶ)。耐熱性に優れ、紫泥の急須や土鍋で知られる(ウィキの「萬古焼」に拠る)。
「相馬」福島県浜通り北部の浪江町大堀で焼かれる陶器。大堀相馬焼。青ひび(鈍色の器面に広がる不定型な罅で、後にひびに墨を塗り込むために黒く見える)・二重焼ふたえやき(轆轤成形で外側と内側を別に作り、焼成前に被せる手法でこれで製した湯呑茶碗は冷めにくいされる大堀相馬焼に特異的な製法)・走り駒意匠などの特徴を持つ。二〇一一年三月の福島第一原子力発電所事故によって福島第一原発から一〇キロメートル圏内に位置していた大堀は強制退去を余儀なくされ、協同組合諸共、二本松の小沢工業団地内に移転させられている。(ウィキの「大堀相馬焼」に拠る)。]
繭     繭搔の茶話にまじりて目盲めしひかな
[やぶちゃん注:「繭搔」は「まゆかき」と読む。養蚕では春蚕はるごが蛹化の兆候を見せ始めると、一つ一つを拾い、蚕簿まぶし(蚕が繭を作る際の足場にさせる人工物。ボール紙などを井桁状に組んで区画した一つに一匹を割り当てる。「ぞく」とも呼ぶ。)に、分けて移し替える。これを「蚕の上蔟あがり」と呼ぶ。上蔟から一週間ほどで蚕簿から繭をもぎ取るが、これを繭搔きという。それより質・量ともに落ちる夏蚕・秋蚕は近代の産物である。かつては世界一だった日本の繭生産量は現在では最盛期の一%以下になった。]
夏籠    夏籠や假りに綴ぢたる薄表紙
      夏籠や月ひそやかに山の上
[やぶちゃん注:「夏籠」は「げごもり」と読む。夏安居げあんごのこと。僧衆が夏の雨期の一定期間、外出せずに一所にこもって通常は集団で修行をすること。夏籠もり。夏行げぎょう。]
蚊帳    高く吊つて蚊帳新しき折目かな
      蚊帳の中に親いまは亡し月あがる
       悼吾雲兄愛兒
      枕蚊帳の翠微に魂のかへり來よ
[やぶちゃん注:「吾雲」『浦野芳雄の「創作の森」守る会』の俳人「浦野芳雄のプロフィール」に、大正元(一九一二)年三月に群馬県立高崎中学校を卒業、同四年には中学校の恩師村上成之(俳号蛃魚へいぎょ)『及び村上鬼城、岩瀬吾雲の三氏と共に紫苑会に拠り、のち同一三年三月『村上成之氏が高崎中学を辞任するに当たり、村上鬼城と蝌蚪(かと=おたまじゃくし)の会、のちに五日会を起こし、鬼城氏の死去する昭和』一三(一九三八)『年に至るまで句作、俳論等を続ける』という中に現われる俳人の知音であろう。「枕蚊帳」は子供の枕元を覆うのに用いる小さな蚊帳のこと。「翠微」は音読みで「すいび」、「大辞泉」によれば、①薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。例文「目睫の間に迫る雨後の山の翠微を眺めていた」(徳田秋声「縮図」より)。②山の中腹。八合目あたりのところ。例文「麓に細き流れを渡りて、翠微に登る事三曲二百歩にして」(芭蕉「幻住庵記」)とある。この場合は、特異的に死児の顔に添えられた枕蚊帳の青緑色のそれを、山に擬えたものであろう。]
衣更    衣更野人鏡を持てりけり
圓座    君來ねば圓座さみしくしまひけり
[やぶちゃん注:底本では「しまひけり」の方の「し」は「志」を崩した草書体表記である。「圓座」は円形の座ぶとんであるが、元来は男子専用のもので、この「君」も男性と見てよいであろう。]
虫干    虫はみし机もありぬ土用干
[やぶちゃん注:「虫」はママ。]
柏餅    酒飮まぬ豪傑もあり柏餅
編笠    編笠に靑山をふり仰ぎけり
      編笠に二日の旅の孤客かな
夏帽     老仲間
      白頭を大事にかけよ夏帽子
裸     裸身や灸だになくて大男
      裸身の一枚肋見はやしぬ
[やぶちゃん注:「一枚肋」「いちまいあばら」と読み、肋骨の並びが一枚の骨のようになって見えることを謂い、一般には「二枚腰」とともに理想的な力士の体形を評した語。胸から胴にかけてが肉身豊かで、恰も肋骨が一枚板のように見えるさまを讃した語である。言わずもがなであるが、二句とも相撲の景である。]
梅干    小百姓の梅したゝかに干しにけり
      梅干や中山道の小家勝ち
[やぶちゃん注:底本では「したゝかに」の方の「し」は「志」を崩した草書体表記。]
雨乞    雨乞や僧都の警護小百人
[やぶちゃん注:「僧都」特定個人をイメージした歴史的な空想句であろう。雨乞いを修した僧都は多いが、ものものしい警護の様子は寧ろ、皮肉に雨乞いの失敗を予感させる(ように私には思われる)ところからは、私は例えば、ことあるごとに弘法大師空海と対立した守敏しゅびん(生没年不詳)僧都を想起した。ウィキの「守敏」によれば、大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学んで真言密教にも通じ、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇から西寺が与えられたが、同時に東寺を与えられた空海とはことにつけ、対立したとされる人物である。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際には、神泉苑で修された雨乞いの儀式に於いて空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これに因み、現在の羅城門跡の傍らには「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる。菊池寛の随筆「弘法大師」に、雑誌社(「キング」)から弘法大師を主人公にした戯曲を依頼された際に、
『もう一つ戯曲になるかと思ったのは、法敵守敏との雨乞争いである。これは、諸君も御承知のごとく、「釈迦に提婆、弘法に守敏」と云う言葉さえある通り、守敏僧都は、当時弘法大師の一大法敵であり、呪力強大な高僧である。
 朝廷でも、相当重んぜられていて、弘法大師に東寺を賜ると同時に、守敏には西寺を賜って居り、僧位も弘法大師の上にいた位である。
 守敏は、学徳高く、法力秀れ、栗を水に入れて呪を誦すれば、栗が茹で栗となり、その栗を食べれば如何なる病者も忽ちに癒えたと云うのだ。嵯峨帝の天長元年の春、天下大旱した。帝が空海に雨乞の祈祷をせよと、勅せられると、守敏が横から異議を説え、<自分は空海より、年齢も上であるが、法位の上である、拙僧へ先に命ぜられるのが順序でござりましょう>と、そこで守敏に勅が下った。守敏欣んで、壇を築き祈雨の法を講ずること一七日、雷鳴轟き、大雨沛然として下った。市民歓呼の声を挙げて嘆賞した。これじゃ、守敏の勝利であるが、そのくせ加茂川の水は少しも増さない。おやと云うので、人を派して検べて見ると、雨が降ったのは、京都市内だけで東山は勿論、嵯峨御室のあたり、鳥羽伏見、どこもポツリとも降っていないので、忽ちインチキ雨であったことが分り、改めて弘法大師に勅が下った。大師は即ち京都二條の神泉苑に秘密の法壇を飾りて、一七日祈雨の法を行ったが、不思議なるかな、少しも効験もない。こんな筈ではないと、大師は定に入って、三千世界を眺め渡してその原因を尋ねて見ると、守敏が世界中の諸龍を瓶の中に封じ、呪力を以て出さないためである事を知り、大いに駭いたが、なおよく見渡すと、天竺無熱池の善女と云う龍王丈が、守敏よりも法力が上であるため、封じられて居ないのを知って、更に二日の日延を乞い、その龍王を召請して丹精を凝らすと、霊験忽ちに現われ、三日三晩の大雨となり、洛中洛外五畿七道の大甘雨となったと云うのである。
 その上、祈祷最中に、善女龍王が八寸ばかりの金色の蛇となり、九尺ばかりの長蛇の頭に乗って現われたと云う。』
とある(以上はサイト「エンサイクロメディア空海」の「空海の目利き人」に掲載された日本出版社二〇〇四年刊の夢枕獏編著「空海曼荼羅」所収のものの孫引きである。なお菊池寛のこの話は、戯曲は結局出来なかったという言い訳のエッセイでもある)。
「小」は接頭語で、数量を表す名詞や数詞に付けて、僅かに及ばないが、その数量に近いことを表す。ほぼ。]
コレラ   幾人のコレラ燒しや老はつる
[やぶちゃん注:「老はつる」とあることから、直近の明治期のコレラ流行(後述)ではなく、江戸末期のパンデミックを背景とすると考える。ウィキの「コレラ」から推測すると、安政五(一八五八)年から三年に亙った二度目の大流行(最初の世界的大流行の日本波及は文政五(一八二二)年。この二回目は九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで一〇万人死亡という文献もあるとする)及びその時の残存菌によるとされる四年後の文久二(一八六二)年の三度目のパンデミック(死者五十六万人を出したとあるが、この時、江戸には感染拡大しなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人から数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多いとある)が考えられる(この句の創作時期は「鬼城句集」発刊の大正六(一九一七)年前であるから、この発刊年でさえ既に鬼城は数え五十三歳である)、凡そ六十年ほど前になり、その際の遺体処理に関わった当時は若かった人物ならば八十を越えて「老いはつる」に相応しいと私は思うし、その遠い昔語りの様子が句背に見えてくる気が私はする。なお、これらのパンデミックの江戸への感染拡大が疑問視されるのは、『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている』とあり、事実、明治元(一八六八)年に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二、三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続いたとある。因みに、明治一二(一八七九)年 と明治一九(一八八六)年には死者が一〇万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ。明治二三(一八九〇)年には日本に寄港していたオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われ、また明治二八(一八九五)年には軍隊内で流行して死者四万人を記録しているとある。この明治期の流行をこの句の背景としてもよいとは思うが、その場合、凡そ四十年から二十年前のこととなり、対する話者の「老はつる」さまが(私は)生きてこない気がするのである(慶応元(一八六五)年で、句作当時の鬼城を借りに五十前後に措定すると、話し相手の老人は有意に、鬼城よりも遙かに年老いていないとおかしいと私は思うのである)。但し、このコレラの幕末のパンデミックが江戸に拡大していなかったとすると、それは明治の初期のパンデミックを背景とすると言わざるを得ない。この老人が当時、実際に多量に死者を出した関西に当時いたと仮定するならば問題ないのだが、実は鬼城は殆んど生地高崎から出ていないからである(自ずとこの老人も関東の人間で当時江戸若しくは東京にいた確率が高くなるからである)。逆にこの老人の思い出がその幕末のパンデミックの思い出語りであったとすると、俄然、そのパンデミックが江戸へ拡大していた証しともなることになる。たかが一句、されど一句である。そうした歴史の真実への興味からも、私はこの句の中の情景のその場に、居て見たかった気がしてくるのである。]
扇     扇繪やありともなくて銀の浪
      むくつけきをのこが舞へる扇かな
      關取の小さき扇を持ちにけり
       老妓
      老いそめてなほ繪扇の小さなる
蚊遣    蚊遣して馬を愛する土豪かな
      ほそほそと白き煙や蚊遣香
[やぶちゃん注:底本では「ほそほそ」の後半は踊り字「〱」。]
      川端に住
で流すや蚊を燒く火
      三たび起きて蚊を燒く老となりにけり
      蚊をいぶしに淺間颪の名殘かな
      水郷や家くゞらする蚊を燒く火
[やぶちゃん注:「くゞらする」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。これはユニコードには似たものとして「〴」はあるが、全く同じものはない。]
      大榾の夜々の蚊遣に細りけり
夏瘦    夏瘦や今はひとりの老の友
      雜兵や頰桁落して夏瘦する
[やぶちゃん注:「頰桁」「ほほげた(ほおげた)」は頬骨。頬輔ほおがまち。鬼城にこうした時代小説のような想像吟と思しいものが存外多いのは興味深いことである。]
鵜飼    じやぶじやぶと鵜繩ひく子や叱らるゝ
[やぶちゃん注:「じやぶじやぶ」は底本では、最初の「じ」が「志」の崩し字に濁点附き、「じやぶ」の後半は踊り字「〱]。]
      鵜飼の火川底見えて淋しけり
生湯    御佛目鼻もなくて生湯かな
[やぶちゃん注:「生湯」陰暦四月八日の釈迦の誕生日に誕生仏を安置し、甘茶(ミズキ目アジサイ科アジサイ属ガクアジサイの変種アマチャ
Hydrangea macrophylla var. thunbergii )またはスミレ目ウリ科アマチャヅル Gynostemma pentaphyllum の葉を乾燥させて煎じ出した飲み物で甘露〈梵語アムリタの漢訳で不死・天酒の意。天上の神々の飲む、忉利天とうりてんにあるという不死を得るとされる甘い霊液。ネクター。転じて仏の教えや仏の悟りを意味するものとなった〉に擬えたもの)を注ぎかけて供養する仏生会(灌仏会)のこと。歳時記によっては春・晩春とする。]
夏羽織   風呂敷に包んで持てり夏羽織
      老が身の短く着たり夏羽織
端午    老いぼれて武士を忘れぬ端午かな
天瓜粉   老そめて子を大事がるや天瓜粉
      草の戸や老い子育つる天瓜粉
[やぶちゃん注:「天瓜粉」「てんくわふん(てんかふん)」。天花粉。双子葉植物綱スミレ目ウリ科カラスウリ属変種キカラスウリ
Trichosanthes kirilowii var. japonica の塊根を潰して水で晒した後に乾燥させて得られる。日本では古来、白粉の原料や打ち粉として乳小児の皮膚に散布して汗疹・爛れの予防などに用いた。現在の市販されるベビーパウダーの主成分は滑石かっせきなどの鉱物とコーンスターチなど植物性デンプンからなり、別名のタルカム・パウダーは高給原材料の一つである水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる一般に蠟石とも呼ばれる滑石の英名“talc”(タルク)に由来する。]
柘榴取木  泥塗つて柘榴の花の取木かな
[やぶちゃん注:「柘榴取木」私は既成の歳時記が不満で嫌いであり、しかも作句に際しても季語も通常意識しない人間(始めた中学の頃は「層雲」の自由律俳句であったため)であるから、このように季題表記をするのだということを初めて知った。「取木」は「とりき」で、茎の途中から根を出させ、そこで切り取ることで新たな株を得る方法を言う(枝を切断してしまう挿し木とは異なる)。樹木の枝の先端からある程度、下の位置で樹皮を一回り切除し、その部分を乾燥しないようにミズゴケなどで巻いて不定根を発生させた上、根の直下で切除して植える(枝を土中に曲げて固定する方法(図)や詳細はウィキの「取り木」を参照されたい)。取り木は六月から七月の梅雨の時期が適期とされ(鉢上げ(切り離し)は九月)、適した樹木はモミジ・サクラ・オウバイ・エゾマツ・カリンや、このザクロなどとされる。枝ぶりのよい部分を採るのに盆栽ではしばしば行われる技法らしい。]
生節    ありがたき一向宗や生節
[やぶちゃん注:「生節」は生利節なまりぶしでここでもそう読んでいよう。生の鰹を解体して蒸すか茹でるかした加工品。]
暑氣あたり うち臥して侘めかしけり暑氣あたり
鮓     鮓壓して眞白な石を持ちにけり
      鮓つけてだまつて去にし魚屋かな
祭     大雨に獅子を振りこむ祭かな
      萬燈を消して侘しき祭かな
心太    玉を吐く水からくりや心太
[やぶちゃん注:本句は、井上井月の、
   銭取らぬ水からくりや心太
のインスパイアである。何れも心太の曲突きを水機関みずからくりに喩えたものである。]
甘茶    本堂に幕打ち張つて甘茶かな
沖膾    臺灣へ行く舟通る膾かな
日除    日除して百日紅を隱しけり
藥玉    藥玉をうつぼ柱にかけにけり
[やぶちゃん注:「藥玉」「くすだま」で端午の節供に用いる飾り物。元は中国から伝来した習俗で、現地では続命縷しょくめいる・長命縷・五色縷などと称し、五月五日にこれを肘にかけると邪気を払って悪疫を除き、寿命を延ばすとして古くから用いられてきた(端午の節供の時節は香草・薬草を含む山野草の繁茂する時期で、玉に繋がる五色の糸は万物の運航生成を支配する五行の調和を表象するものであった)。本邦では宮中の習わしとして始まり、当初は菖蒲とよもぎの葉などを編んで玉のように丸く拵え、これに五色の糸を貫いたり、菖蒲や蓬の花を挿し添えて飾りとした。室町より後は薬玉を飾る花は造花となって、さつき・菖蒲といった季節の花が用いられ、また中には麝香・沈香・丁子ちょうじ・竜脳などの薫薬くんやくを入れたため、薬玉は匂い入りの玉飾りとなった。この時、飾ったものは九月九日の重陽の節句に香りの減じたそれを新しい茱萸袋しゅゆぶくろに取り替えたりした。現在の祭礼やイベント用のくす玉はこれがルーツである(以上は平凡社「世界大百科事典」及び、かわうそ@暦氏のサイト「こよみのページ」の「端午の節供の薬玉」の記事を参照させて戴いた)。
「うつぼ柱」空柱。「うつほばしら(うつおばしら)」。雨樋として用いる中空の柱。]
田草取   田草取田の口とめて去にゝけり
      二番草取つて八專晴にけり
[やぶちゃん注:「二番草」「にばんぐさ」は田植え後に行う二回目の除草。「八專」暦で干支の十干と十二支の五行が合う比和ひわの日を言う。壬子から癸亥の一二日間のうちで間日まび(八専の期間内でも同気の重ならない丑・辰・午・戌の四日)を除いた八日。十干と十二支に五行を割り当てた際に干支の気(五行)が重なる日が全部で十二日あり、そのうちの八日が壬子から癸亥までの十二日間に集中していることから、この期間を特別な期間と考え、「専一」(同一の気を専らにする)と言い、それが八日分あることから「八専」と言う。年に六回あって、本来は吉はますます吉となり、凶はますます凶となるとされていたが、次第に凶の性質のみが強調されるようになり、現在では何事もうまく行かない凶日とされているようである。一説には棟上げは吉、結婚・畜類売買・神事仏事は忌むとする。八専の第一日目を「八専太郎」と称し、この日が雨(晴れ)なら他は晴(雨)とするともあり(以上は中経出版「世界宗教用語大事典」及びウィキの「八専」を参照した)、この中七下五の謂いはランドスーケープの鮮やかなヴィジュアルの他に、稲田の二番草が梅雨時期の始めか直前に行われたものとすれば(ただの思い付きでそういう事実については確認はしていない。ネット上で見つかるのは田の除草ではなく牧草の収穫データばかりで、そこでは梅雨時期の後に二番草収穫とする)、その日は抜けるような青空だった、だから後の七日は稲のためにしっかりと雨が降ってくれるという、農民の思いをも意味しているものではなかろうか? 農事識者の御教授を乞うものである。]
祇園會   祇園會や萬燈たてゝ草の中
日傘    船中に日陰を作る日傘かな
      日傘して女牛飼通りけり
泳ぎ    川風の幔幕を吹く泳ぎかな
      泳ぎ子や胡瓜かぶりて浪の上
井戸替   井戸替や櫓かけたる岡の寺
[やぶちゃん注:「井戸替」「いどがへ(いどがえ)」は「井戸さらえ」「晒し井」などとも称し、井戸水を清めるために井戸の中の水やその他の汚物塵芥を汲み出して掃除をすることであるが、古くは年中行事風に行なうことも多く、七月七日または六月中に行なわれていたことから夏の季語となった。因みにその折りのこの時期の江戸期風物としては、その井戸替えをする井戸の蓋の上に素麺そうめんを置いて、井戸の神・水の神に供える風習があり、これを「井戸替えの素麺」と称した。この句もその素麺の白い一点を画面の中に加えて見るのも一興と思われる。]
川狩    夜振の火うつりて水の黑さかな
      川干や石に根を持つ川原草
[やぶちゃん注:「夜振」は「よぶり」で、闇夜川面で松明やカンテラを燈して振り、その火に寄ってくる魚を獲る川漁の一種。「火振」とも。因みに「夜焚よたき」と書くと集魚灯を用いた海漁を指す。「川干」は「かはぼし」(但し、「かはひ」と読むことがある)で、川を堰き止め干し上げて魚を獲る川漁の一種。「川狩かはがり」は狭義にはこの漁法を指す場合がある。]
葛水    葛水の冷たく澄みてすずろさみし
[やぶちゃん注:「すずろ」の「ず」は底本では「〵」に濁点。]
      葛水に乏しき葛をときにけり
[やぶちゃん注:「葛水」葛粉に砂糖を入れて葛湯を作りそれを冷した飲み物。酒毒を消し、胃腸をととのえ、渇きを止め汗の出るのを防ぐ効能がある。以上は「5000季語の検索サイト」という副題を持つサイト「季語と歳時記」の「葛水」より全文引用させて戴いた。]
乾飯    乾飯してかぞふるほどの飯白し
      乾飯に市の雀の小さゝよ
[やぶちゃん注:「乾飯」は「かれいひ(かれいい)」又は「かれひ(かれい)」とも、また「ほしいひ(ほしいい)」又は「ほしひ(ほしい)」とも読めるので、前者を三音、後者を四音でとることも出来るが、私は孰れも「かれいひ」で読みたい。]
打水    打水や塀にひろがる雲の峯
幟     門の内馬もつないで幟かな
      鯉幟眼に仕掛けある西日かな
[やぶちゃん注:「眼に仕掛けある」果たして鬼城が具体にそれを指して読んだものかどうかは判然としないが、「鯉幟」の「眼」の書き方には「仕掛け」があるのである。埼玉県加須市で手描き鯉のぼり他を手掛ける「株式会社 橋本弥喜智商店」の公式サイト(加須市は鯉のぼりの生産量日本一とある)の「鯉のぼりができるまで」の中に、二番目の工程(則ち生地への最初の筆入れ)で「目廻し」があるが、そこに『目の大きさは鯉の大きさに比例して決められているので、コンパスを合わせ半径を決めます。目の輪郭は空に泳いだ場合を想定し、黒目が斜め下にくるようにされています。』とある(下線やぶちゃん)。なお、目の色附けは六番目、七番目のキンビキ(金引き:金色で文様を描くこと。因みに鯉幟の文様は時代により変化が見られ、作者の創意と工夫が窺われるとある。)の最後に画龍点晴の墨目入れが行われて鯉が誕生する、とある(その後に腹鰭を装着し真竹を細く割った口輪を附けて完成)。]
      飛驒山の質屋も幟たてにけり
菖蒲太刀   讀孝經
      菖蒲太刀ひきずつて見せ申さばや
[やぶちゃん注:「菖蒲刀」と書いて「あやめがたな」とも読むが、ここは「しやうぶだち(しょうぶだち)」である。端午の節句に飾る太刀を指し、古くは子供がショウブを太刀のようにして帯びる風習があったが、江戸期には柄をショウブの葉で巻いた木太刀や飾りものとして金銀で彩色した木太刀を指すようになった。]



  
動物
鹿の子   鹿の子のふんぐり持ちて賴母しき
      埓近く鼻ひこつかす鹿の子かな
蟇     さいかちの落花に遊ぶ蟇
[やぶちゃん注:「さいかち」マメ目マメ科ジャケツイバラ亜科サイカチ
Gleditsia japonica。別名カワラフジノキ。漢字では「皁莢」「梍」と表記する(但し、「皁莢」は本来は大陸系の別種シナサイカチ Gleditsia sinensis を指す)。日本固有種。幹は真っ直ぐに延び、樹高は一五メートルまで達する。幹や枝には鋭い棘が多数あり、葉は互生。花は雌雄別で初夏に長さ一〇~二〇センチメートルほどの総状花序を開く。花弁は四枚で黄緑色の楕円形をしている。秋には長さ二〇~三〇センチメートルで曲がりくねった灰色の莢豆をつけ、十月には熟す。木材は建家具材とされ、豆は皁莢、「さいかち」または「そうきょう」と読んで生薬とされて去痰薬・利尿薬とする。また、サポニンを多く含むため、古くから洗剤として使われている。豆はおはじきとして子供の玩具にも利用された(以上はウィキの「サイカチ」に拠った)。]
      蟇夕の色にまぎれけり
蝙蝠    蝙蝠や飼はれてちゝと鳴きにけり
      山寺や蝙蝠出づる緣の下
      蝙蝠や三十六坊飯の鐘
[やぶちゃん注:「三十六坊」知られた寺院で三十六坊を擁したのは上野寛永寺。ウィキの「寛永寺」によれば、江戸後期の最盛期の寛永寺は寺域三十万五千余坪、寺領一万千七百九十石を有し、子院は三十六箇院に及んだとある(現存するのは十九)。]
      蝙蝠や並んで打てる投網打ち
井守    石の上にほむらをさます井守かな
水馬    まひまひに勝つてのぼれり水馬
[やぶちゃん注:底本では「まひまひ」の後半は踊り字「〱」。「水馬」は有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目
Heteroptera に属するアメンボ科アメンボ亜科アメンボ Aquarius paludum 他のアメンボ類の総称。は正式和名はアメンボであるが、水黽・水馬・飴坊などと漢字表記し、アメンボウとも呼ぶ。カメムシ類ほどではないが臭腺を持っており、捕えると飴のような甘い匂いを放つことに由来する「水黽」の「黽」(音ボウ)は蛙で水面を滑る蛙の謂いであろう。ここでも無論、音数律から「あめんぼう」と読んでいる。この「まひまひ」はシチュエーションからお分かりの通り、カタツムリではあり得ない。実はこれは「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科 Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別名である。アメンボは六本の脚の先で立ち上がるように浮くのに対し、ミズスマシは水面に腹ばいになって浮く(また、アメンボは幼虫も水面で生活するが、ミズスマシの幼虫は水中で生活するという違いもある。以上のミズスマシの叙述部分はウィキの「ミズスマシ科」に拠った)。因みに、ややこしいことに「まひまひ(まいまい)」はアメンボの別名でもある。]
      水泡を跳り越えけり水馬
      相逐うて流れを上る水馬
まひまひ  まひまひのきりきり澄ます堰口かな
      月浮いてまひまひ遊ぶ野川かな
      まひまひや影ありありと水の底
[やぶちゃん注:「まひまひ」の後半は標題の季語も含め、底本では四箇所総てが踊り字「〱」。この「まひまひ」は前項の「水馬」の注で示した通り、「舞舞虫」のことで、鞘翅(コウチュウ)目飽食(オサムシ)亜目オサムシ上科ミズスマシ科
Gyrinidae に属する甲虫ミズスマシの仲間の別称。「堰口」は「せきぐち」で字余りである。「いねぐち」「ゆぐち」という特殊な読み方が存在するが、であれば鬼城はルビを振るはずである。]
蚊柱    蚊柱や吹きおろされてまたあがる
[やぶちゃん注:「蚊柱」水辺で、双翅目糸角亜目カ下目ユスリカ上科ユスリカ科
Chironomidae の形成するものが有名(老婆心ながら♂は無論、ユスリカは♀も刺さない)であるが、広くカの仲間や他の双翅類(ガガンボダマシ科やヒメガガンボ科)が軒下などに群れて柱状に長く延び上がり、上下しながら飛ぶ生殖行動に伴う現象をいう。刺すカ科の仲間でもアカイエカ・コガタアカイエカなどが顕著な蚊柱を作る。七~八月ころの夕方や朝、羽音をたてながら二〇~五〇匹時には数百匹の♂が群飛する(則ち、本来の蚊柱を形成するのは♂であるから蚊柱の蚊は刺さない)と、そこに♀が入ってきて交尾が行われ、蚊柱は凡そ四、五十分で消失する。♂は♀の入来を♀固有の羽音で感知するといわれている。蚊の産卵には水が必要で、蚊には低気圧が近づいて湿度が高まり、蒸し暑くなると本能的に生殖活動を行うプログラムがなされているらしく、蚊柱が立つと一日二日のうちに雨の降ることが多いとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」及び個人サイト「観天望気」の「蚊柱立てば雨」を一部参考にさせて頂いた)。]
蚊     蚊を打つて大きな音をさせにけり
時鳥    手燭して妹が蠶飼や時鳥
[やぶちゃん注:「蠶飼」は「こがひ(こがい)」で蚕の世話をすること。この語は単独では春の季語となる。]
    傘にいつか月夜や時鳥
[やぶちゃん注:「傘」は「からかさ」と読んでいる。]
       是非もなき身の
      時鳥鳴くと定めて落居けり
金魚    金魚の王魚沈
で日暮るゝ
[やぶちゃん注:「金魚の王」蘭鋳ランチュウのことか。私は想像しただけで、あの畸形身体には虫唾が走る。]
螢     さみしさや音なく起つて行く螢
[やぶちゃん注:名句と思う。]
       悼吾雲兄愛兒
      螢來よ來よ魂も呼
で來よ
[やぶちゃん注:「來よ來よ」の後半は底本では踊り字「〱」。同じ夏の部の「蚊帳」の同じ「悼吾雲兄愛兒」という前書を持つ「枕蚊帳の翠微に魂のかへり來よ」の句の注を参照されたい。]
      市中になぐれて高き螢かな
[やぶちゃん注:「なぐる」には、横の方へそれる、の他に、おちぶれる・身を持ち崩す、売れ残る、仕事にあぶれる、といった意味がある。無論、横にそれて飛び消えてゆく嘱目のそれであるが、「市中」というロケーションの特異性が、蛍の持つ「さみしさ」と相俟って、「なぐれて」の意をそれ以外の意味をもずらして感じさせているようにも思われる。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」の「鬼城俳句と自画讃」で雷神の絵を添えた短冊が見られる。]
蛞蝓    蛞蝓の歩いて庭の曇かな
      蛞蝓の土くれを落ちてしじまりぬ
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記、「じ」は踊り字「〵」の濁点のあるもの。「しじまりぬ」の「しじむ」は「蹙む・縮む」で、ちぢむ、小さくなるの意。]
蟬     啞蟬の捕られてぢゝと鳴きにけり
      啞蟬をつゝき落して雀飛ぶ
[やぶちゃん注:「啞蟬」は「おしぜみ」で鳴かない蟬。普通は鳴くことが出来ない雌の蟬を指すが、最初の句はたまたま鳴いていなかった雄である。季題「蟬」の句が二句とも「啞蟬」であるというのも鬼城らしさを感じさせる。]
蛇の衣   はたはたと蛇のぬけがら吹かれけり
[やぶちゃん注:「はたはた」の後半は底本では踊り字「〱」。]
浮巣    親鳥の高浪に飛ぶ浮巣かな
      鳰の巣の見え隱れする浪間かな
[やぶちゃん注:「浮巣」鳥綱カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ
Tachybaptus ruficollis の雌雄が、水辺近くの水生植物や杭などに、水生植物の葉や茎を組み合わせて営巣する逆円錐状を成した巣。以下、ウィキの「カイツブリ」によれば、本邦での繁殖期は四月から七月で、雌雄交代で抱卵(抱卵期間は二十日から二十五日)する。卵は最初は白いが次第に汚れて褐色となる。親鳥が巣を離れる際には卵を巣材で隠す習性を持つ。雛は早成性で孵化後約一週間で巣から出て泳げるようになる。小さいうちは親鳥が背中に乗せて保温をしたり、外敵からの保護を行う。雛を背中に乗せたままで潜水することもある。雛は自分で採餌できるようになるまで親鳥より餌の捕えかたを教えられ、その後追われるようにして独立を促され、凡そ六十日から七十日で巣立ち、生後一年で性成熟する。なお、リンク先では非常に詳しい標準和名カイツブリの語源を分析して面白い(古語の解釈には若干疑問があるが)いが、この「かいつぶり」という和名は室町以降みられるになったもので、二句目の古名「鳰」(「にほ(にお)」)は「水に入る鳥」の意の転訛、とある。奈良時代には「にほどり」「みほとり」と称されており、漢字「鳰」もその意を示す会意の国字である。因みに琵琶湖の別名「鳰海にほのうみ」は琵琶湖がカイツブリやカイツブリ目の構成種が多く棲息したことによる(私は実際の浮巣を見たことがないので、以下に浮巣と子育ての様子を撮った動画のリンクを這っておく)。]
閑古鳥   雨の中を飛んで谷越す閑古鳥
[やぶちゃん注:「閑古鳥」カッコウ目カッコウ科カッコウ
Cuculus canorus の別名(属名 Cuculus は本種の鳴き声に由来し、種小名 canorus もラテン語で「響く、音楽的」の意である)。]
毛虫    土くれに逆毛吹かるゝ毛虫かな
灯取虫   松明に谷飛ぶ虫の見えにけり
      机食ふ虫も出で飛ぶ燈下かな
[やぶちゃん注:「机食ふ虫」木材家具を激しく食害する鞘翅目多食亜目ナガシンクイ上科シバンムシ科
Anobiidae に属するシバンムシ類であろう。]
      行燈を押し動かすや灯取虫
      灯ともせばばさと來りて蟷螂かな
[やぶちゃん注:「蟷螂」は「たうらう(とうろう)」や「かまきり」では如何にも韻律が悪い。鬼城が殆んど生涯を通して住んだ群馬県のカマキリの方言を見ると(「日本自然保護協会」公式サイトの記載の中の「カマキリの多彩な地方名・方言」に拠る)、カマギッチョ・カミキリ(ムシ)・トカゲ・トカケ・オガミ(ムシ)・トーロー(ムシ)・トーロンボー・ハエトリ・ハラタチなどがある。私は初見で「とうろ」と読んでいるように感じたが、例えば全国的な異名として通用する「おがみ」(拝み虫)でも雰囲気は出る。]
孑孑    孑孑の浮いて晴れたる雷雨かな
[やぶちゃん注:「孑孑」孑孒とも書く。ボウフラは水面に雨が降ってきたりして何らかの震動が起こったり物の影がさしたりすると、危険を察知して沈む。因みに呼吸する際には尻にある呼吸管を使って呼吸するために倒立しているが、沈む際には頭が上となる。また、呼吸管の近くには尾葉と呼ばれる鰓と相同の器官(鰓とする叙述も多い)があるが、これは呼吸に用いらるのではなく、体内の塩分調整に使われると考えられているようである。]
うぐひ   夕燒やうぐひ飛出る水五寸
老鶯    老鶯に一山法を守りけり
[やぶちゃん注:「老鶯」はここでは「らうあう(ろうおう)」で、ウグイスは俳句では「春告鳥」として春の季語であるが、これは春過ぎても鳴いている夏の鶯を指す。李賀の「殘絲曲」などにも見られる漢詩の詩語である。「老」とあるが、ウグイスの平均寿命は八年で、しかも初夏が繁殖期に当り、現在では八月下旬頃まで元気な音が聴かれる(二〇一三年八月現在、現に私の裏山で朝方から鳴いている)。但し、人里近くで鳴く春とは異なり、営巣する山林近くで比較的多く聴かれる傾向はある。秋も十月頃まで弱い囀りをすることがあるので、「老鶯」の印象は寧ろ、そちらの方が似合うように私には思われる。「夏鶯」「残鶯」などともいう。]
蠅     草の戸や二本さしたる蠅たゝき
      蠅の宿産婦に蚊帳を吊りにけり



  
植物
茄子    茄子汁の汁のうすさや山の寺
      手燭して茄子漬け居る庵主かな
瓜     瓜小屋に伊勢物語哀れかな
      瓜小屋や莚屛風に二
間あり
      瓜主や使うて見する袖がらみ
[やぶちゃん注:「袖がらみ」袖搦は江戸時代に使用された長柄の捕り物道具。「袖絡」とも書き、「もじり」ともいう。先端にカエシのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と、刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。抵抗する者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取ることで相手の行動を封じ、捕縛するための武器。鞘の刺は相手に摑まれて奪われない様にするための工夫である。刺又・突棒などとともに捕り物の三つ道具と呼ばれ、通常は長さ七尺(約二・一メートル)で、相手が振るう打刀・長脇差の有効範囲外からの攻撃が可能である。瓜泥坊撃退用に小屋に置いてあったものか。

以上は参照したウィキの「袖搦」のパブリック・ドメイン画像。]
      瓜小屋や夕立晴れて二日月
茗荷    茗荷汁にうつりて淋し己が顏
      茗荷汁つめたうなりて済みにけり
馬鈴薯の花 じやが芋の花に屯田の詩を謠ふ
      じやが芋咲いて淺間ヶ嶽の曇かな
[やぶちゃん注:「じ」の字は底本では「志」の草書体に濁音。]
夏草    夏草に這上りたる捨蠶かな
[やぶちゃん注:「捨蠶」すてご。養蚕に於いては病気又は発育不良の蚕は野原や川に捨てられる。それを言う。]
      夏草や繭を作りて死ぬる虫
晝顏    晝顏に猫捨てられて啼きにけり
      ひるがほに笠縫の里の曇りかな
[やぶちゃん注:「笠縫の里」日本書紀で崇神天皇が天照大神を皇女豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことに祭らせたと伝えるやまとの地。奈良県磯城しき郡田原本町新木にきや桜井市内などの比定地があるが、ここは近畿日本鉄道橿原線の笠縫駅のある前者か。]
箒木    草箒二本出來たり庵の産
      小百姓の嬉しき布施や草箒
      箒木の露ふり落すむぐらかな
[やぶちゃん注:「箒木」ナデシコ目ヒユ科バッシア属ホウキギ
Bassia scoparia。箒のような細かい茎が特徴的で、秋に紅葉して茎も真っ赤になる。昔は茎を乾燥して実際に箒として利用された。晩夏、黄緑色の小花をつけ、その実は「とんぶり」として食用に供される(主にウィキの「ホウキギ」に拠る)。因みに、恐らくはこんもりとした緑の鮮やかさからであろうが、有季俳諧に於いて私はこれが何故、「夏」の季語で「なくてはならない」のかが理解出来ない。]
百合の花  白百合の花大きさや八重葎
仙人掌   仙人掌の奇峰を愛す座右かな
苔の花    墓前
      苔咲くや親にわかれて二十年
筍     たかんなに繩切りもなき庵かな
浮草    浮草や蜘蛛渡りゐて水平

蓮の浮葉  蓮の葉や波定まりて二三枚
      蓮の葉や水を離れんとして今日も暮る
蓮の花   水泡に相寄れば消ゆ蓮の花
麥     麦飯に瘦せもせぬなり古男
夕顏    葭簀して夕顏の花騙しけり
茨の花   茨咲くや二三荷流す牛の糞
玉卷芭蕉  寺燒けて門に玉卷く芭蕉かな
靑芒    お地藏や屋根しておはす靑芒
南瓜の花  南瓜咲いて西日はげしき小家かな
玉蜀黍の花 もろこしの花の月夜に住む家かな
藜     燒跡やあかざの中の藏住ひ
[やぶちゃん注:「藜」ナデシコ目ヒユ科アカザ属シロザ変種アカザ
Chenopodium album。かつては救荒植物として栽培された。博物誌は廣野郁夫氏の「木のメモ帳」にある「木あそび」の「アカザ(藜)の杖は現在でも存在するか」が秀逸である。必読。]
靑柿    靑柿や虫葉も見えで四つ五つ
卯の花   赤う咲いてそらぞらしさや毒うつぎ
      炭竈の煙らで淋しうつぎ咲く
[やぶちゃん注:「炭竈」は「すみがま」で、炭焼きの竈(かまど)のこと。単独では冬の人事の季語である。]
酸漿草の花 かたばみの花見付けたり假の宿
      かたばみに同じ色なる蝶々かな
[やぶちゃん注:「酸漿草」「かたばみ」と読む。カタバミ目カタバミ科カタバミ
Oxalis corniculata の漢名で、葉や茎が蓚酸水素ナトリウム等の水溶性蓚酸塩を含んでいるため、咬むと酸っぱいことに由来する(蓚酸 HOOC−COOH は英語で“oxalic acid”というが、これはカタバミ属 Oxalis の葉から単離されたことに由来する。消炎・解毒・止瀉作用があるとされる生薬名の場合は酢漿草サクショウソウと読む(以上は主にウィキの「カタバミ」に拠った)。]
大葉子   大葉子の廣葉食ひ裂く雀かな
[やぶちゃん注:「大葉子」シソ目オオバコ科オオバコ
Plantago asiatica。和名は葉が広く大きいことに因む。他に漢名で車前草ともいうが、これは牛車・馬車が通る道の端に多く生えることから。私は今日までこう漢字表記することを知らなかった。小さな頃からオオバコ相撲をしていたのになあ……]
靑桐の花  靑桐の落下に乾すや寺の傘
鬼灯の花  鬼灯の垣根くゞりて咲きにけり
[やぶちゃん注:「くゞりて」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。]
薔薇    くたくたと散つてしまひぬ薔薇の花
[やぶちゃん注:「くたくた」の後半は底本では踊り字「〱」。また「しまひぬ」の「し」の字は底本では「志」の草書体。]
さつきの花 石に植ゑてさつきの花のさきにけり
十藥    十藥や石垣つづく寺二軒
[やぶちゃん注:「つづく」の「ゞ」は底本では「〵」に濁点の踊り字。「十藥」は「どくだみ」と読む。コショウ目ドクダミ科ドクダミ
Houttuynia cordata のこと。但し、厳密にはこの表記はドクダミ全草を乾した漢方生薬の名称「ジュウヤク」を指す(主に利尿・抗菌)。この名称は馬の薬として十種の効果があるという伝承に由来する。因みに和名ドクダミは「毒矯どくだみ」で「毒を抑える」の意に基づく。]
宵待草の花 宵待草河原の巣に落ちこむ日
[やぶちゃん注:「宵待草」「よひまちぐさ(よいまちぐさ)」は私には拘りのある花である。問題はここで鬼城の見ているそれが何色であるかということが問題になる。結論から言おう。これは九分九厘、太宰の「富嶽百景」の「富士には月見草がよく似合ふ」でも有力な同定候補であるオオマツヨイグサ
Oenothera erythrosepala の類であって、花の色は黄色である。宵待草よいまちぐさ待宵草まつよいぐさ月見草つきみそう夕化粧ゆうげしょうなどと呼ばれるが、双子葉植物綱フトモモ目アカバナ科 Onagroideae 亜科 Onagreae 連マツヨイグサ属 Oenothera に含まれる一群を特定せずに(狭義の使用区分は後述するように実際にはある)総称する通称である。この「宵待草」と同義である標準和名のマツヨイグサ(待宵草)の方はマツヨイグサ属マツヨイグサ Oenothera odorata というれっきとした一種のみを指すが、実際に「宵待草」や「待宵草」がこの種を限定的に指すものとして使用されることは、植物学や園芸家以外では、まずないと考えてよい。生態から見ても同属に属するものは花が多くの種で黄色い四弁花であり、どの種も雌しべの先端が四裂するのを特徴とする。一日花であり、多くの種で夕刻に開花して夜間咲き続け、翌朝には萎んでしまい(園芸種としてしばしば見かけ、それが野生化もしているヒルザキツキミソウ Oenothera speciosa は昼間にも白または薄いピンク色の花を開いている)、これが複数の和名異名の由来となっているが、参照したウィキの「マツヨイグサ」によれば、実は『マツヨイグサ属には黄色以外の白、紫、ピンク、赤といった花を咲かせる種もある。標準和名では、黄花を咲かせる系統は「マツヨイグサ」(待宵草)、白花を咲かせる系統は「ツキミソウ」(月見草)と呼び、赤花を咲かせる系統は「ユウゲショウ」(夕化粧)などと呼んで区別しているが、一般にはあまり浸透しておらず、黄花系統種もよくツキミソウと呼ばれる。しかし黄花以外の系統がマツヨイグサの名で呼ばれることはまずない。なお黄花以外の種は園芸植物として栽培されているものが多い』(下線やぶちゃん)とある。鬼城の見ているのは河原に自生するそれであり、句の構図は広角で遠景、そこでは背の低い白色系の「月見草」などは映らないから、その点からも背の高い直径約七センチメートルに及ぶの大輪の花を咲かせるオオマツヨイグサ Oenothera erythrosepala か、それより低く、葉の細いマツヨイグサ Oenothera stricta の黄色い花になるのである(オオマツヨイグサは原産地は不明ながらヨーロッパで品種改良された園芸種と考えられており、日本には明治初期の一八七〇年代に渡来して野外に播種、帰化植物化したと思われる)。因みに私は黄色いオオマツヨイグサ・やマツヨイグサがあまり好きではない(従って太宰のキャッチ・コピーも好かぬ。但し、砂浜海岸に見られるコマツヨイグサ Oenothera laciniata やハマベマツヨイグサ Oenothera humifusa (コマツヨイグサに似るが茎が直立する)はいい。しかし前者は鳥取砂丘で砂丘を緑化する「害草」として駆除されているらしい)。ユウゲショウ Oenothera rosea に至ってはこれ見よがしな紅がはっきり言って嫌いである。……私が好きなのは……もうお分かりと思うが、白色可憐なツキミソウ(月見草)Oenothera tetraptera なのである(グーグル画像検索「Oenothera tetraptera――白い花だけをご覧下さい)。……三十年前、私の家の地所内の玄関脇に、野生のこの白いツキミソウ Oenothera tetraptera の群落があった。毎日のように泥酔して帰ると、この時期、夢幻ゆめまぼろしのように闇の中に十数輪の月見草がぼうっと輝いていたものだった。……ある夜、それを楽しみに千鳥足で帰ってみると……門扉の中でありながら……一株残らず……綺麗にシャベルでこそがれて持って行かれていた……私はユリィデイスを失ったオルフェのように地べたに膝をついて号泣した――]
櫻の實   道端の義家櫻實となりぬ
[やぶちゃん注:「義家櫻」栃木県那須烏山市八ヶ代にある八ヶ代西山辰やかしろにしやまたつ街道の大桜のことであろう。「那須烏山市」公式サイトの「西山辰街道の大桜」に、この桜は辰街道(将軍道)脇に両腕を広げたように立っており、地元では「義家桜」とも呼ばれている。平安時代、八幡太郎義家が奥州征伐のためこの道を通った折り、持っていた桜の鞭を挿したのが根づいたものと伝えられている。また、この木の根元には、馬頭観音が安置され「桜観音」と呼ばれている、とある。]
あやめの花 板橋や踏めば沈みてあやめ咲く
牡丹    玄關に大きな鉢の牡丹かな
       祝産育
      ぼうたんの蕾に水をかくるなよ
柿の花   澁柿の落花する井を汲みにけり
栗の花   蠶飼して夜明くる家屋栗の花
[やぶちゃん注:「蠶飼」は蚕飼と同じで「こがひ(こがい)」と読む。単独では春の季語。]
      ふきかへて栗の花散る藁家かな
菖蒲    菖蒲かけて雀の這入る庇かな
[やぶちゃん注:「菖蒲かけて」の「菖蒲」は「あやめ」と訓ずる。「のき菖蒲あやめ」、端午の節句に軒に菖蒲飾りを施す景を言う。疫病除けのまじないとして軒先に刺し垂らす。滅多に見ることがなくなった。京男氏のブログ「京男雑記帳」の写真で京のその風情を味わえる。]
虎耳草    高崎郊外
      虎耳草うゑる穴あり聖石
[やぶちゃん注:「虎耳草」「こじさう(こじそう)」と読むが、ここは「ゆきのした」と訓じていよう。ユキノシタ目ユキノシタ科ユキノシタ
Saxifraga stolonifera の民間薬としての呼称である。葉を炙って腫れ物・凍傷・火傷などの消炎に用い、葉の搾り汁は中耳炎や漆等によるかぶれ・虫刺され・小児のひきつけ・風邪に効果があるとし、乾燥させた茎や葉は煎じて解熱・解毒に利用するともある(以上はウィキの「ユキノシタ」に拠る)。「聖石」は群馬県高崎市聖石町にある地名と古跡。弘法大師が腰かけたと伝承される石が残る。迷道院高崎氏のブログ「隠居の思ひつ記」の「鎌倉街道探訪記(21)」で古写真や現況を見ることが出来る(そのコメント欄を見るとこの石は回転しながら上流に移動するという言い伝えがあるらしい)。この句はまさに、この古写真にある聖石の窪みにユキノシタが可憐に植わっているさまを詠んだもののように私には思われる。]
芥子の花  芥子の花がくりと散りぬ眼前まのあたり
靑葉    樟欅御門賴母しき靑葉かな
      靑葉して錠のさびつく御廟かな
      御造營や靑葉が下の杢の頭
[やぶちゃん注:「御造營」は「みつくり」と訓じているか。「杢の頭」の方は「もくのかみ」と読んでいるか。大工の棟梁の意。前の句とともに日光東照宮の嘱目吟かと私には思われる。]
      靑葉して淺間ヶ嶽のくもりかな



秋之部



 
秋之部

  
時候
今朝の秋  今朝秋や見入る鏡に親の顏
      親よりも白き羊や今朝の秋
      淺間山煙出て見よ今朝の秋
      今朝秋や高々出たる鱗雲
[やぶちゃん注:「鱗雲」巻積雲。白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れを成し、集まって魚の鱗や水面の波のような形状をした上層雲。絹積雲とも書き、鱗雲の他、鰯雲・鯖雲などとも呼称される。高度五~十五キロメートル程の高層に浮かぶ氷の結晶から成る。見た目は美しいが、これより先に巻雲(絹雲。「きぬぐも」とも読む。刷毛で白いペンキを伸ばしたように又は櫛で髪の毛を梳いたように或いは繊維状の細い雲が集まった形態の雲。細い雲片一つ一つがぼやけず明瞭な輪郭を持っていて絹様の光沢があって陰影がないのを特徴とする)が出現し、次いでこの雲が現れる場合は、温暖前線や熱帯低気圧の接近が考えられ天気の悪化が近づいていると言える。参照したウィキの「巻雲」には、『俗称であるうろこ雲・いわし雲・さば雲はどれも秋の季語である。低緯度から高緯度まで広い地域でほぼ年中見られるが、日本では、秋は台風や移動性低気圧が多く近づくため特に多く見られ、秋の象徴的な雲だとされている』とある。]
夜長    弟子達の一つ灯に寄る夜長かな
殘暑    秋暑し芋の廣葉に馬糞飛ぶ
      秋暑く水こし桶のかな氣かな
      玄關の下駄に日の照る殘暑かな
[やぶちゃん注:個人的に、この三句孰れも、すこぶる附きで好きである。]
朝寒    朝寒や白き頭の御堂守
      朝寒や馬のいやがる渡舟
秋の暮   秋の暮水のやうなる酒二合
      門口に油掃除や秋の暮
[やぶちゃん注:この「油掃除」とは油漉しのことではあるまいか。近年は健康を考えて、数回で油を捨てる家庭が多いが、かつて私が通っていた親の代から二代続いた天婦羅屋の主人は、減れば注ぎ足しをするが一度として捨てたことはないと言っていた。]
      鼬ゐて人を化すや秋の暮
      さみしさに早飯食ふや秋の暮
暮の秋   女房をたよりに老ゆや暮の秋
      蜜蜂のうちかたまりて暮の秋
      暮秋や嚙みつぶしたる長煙管
秋の夜   秋の夜や帙を脱する二三卷
      秋の夜を藥師如來にともしけり
[やぶちゃん注:俳句は「てにをは」が命というが、ここでの格助詞「に」「を」の用い方はまさにそれと言える。]
秋の日   砂原を蛇のすり行く秋日かな
      本堂に秋の夕日のあたりけり
      秋の日に泰山木の照葉かな
[やぶちゃん注:「泰山木」モクレン目モクレン科モクレン属タイサンボク
Magnolia grandiflora。「照葉」は一般には「てりは」と読み、草木の葉が紅葉して美しく照り輝くこと。また、その葉を指す。照り紅葉とも言うが、ここはその意ではないと思われる。何故なら泰山木は常緑樹で目立った黄葉を示さないからである。では何故「照葉」なのかと言えば、これは文字通りの秋の陽に照る葉の謂いであろうと推測するからである。泰山木の葉は葉の表面にかなり強い光沢がある(裏面には毛が密生して錆色に見えるがこれは周年であるから泰山木を親しく詠む人がこれを黄葉と誤認することはあり得ないと考える)。その葉の表面に映え照る秋の陽の謂いであろう。大方の御批判を俟つ。]
夜寒    壁土を鼠食みこぼす夜寒かな
      提灯で泥足洗ふ夜寒かな
      軒下に犬の寐返る夜寒かな
うそ寒   うそ寒く嫁菜の花に日のあたる
冷     葬送や跣足冷たき家來達
[やぶちゃん注:こうして見ると、鬼城はこうした遠い過去の、江戸時代辺りに巻き戻った空想の吟詠(こういうのを一般には何というのだろう? 私は仮想詠とか時代詠とか表現するのだが、ネット上には「創作」「空想」「古風」「詠史」「虚構」などとあるが、創作吟や虚構吟などと口にすると、これは何だか生理的に厭な感じがする。識者の御教授を乞う)が意外に多いことに気づく(水原秋桜子なんどは「俳句の作り方」で「空想句を詠まぬこと」などとのたもうているが、そもそもこういう禁止拘束を創作に持ち込んだ瞬間に芸術は鮮やかに芸術でなくなると私は考えている。糞喰らえ)。因みに私は最も時代を溯ったよく出来た仮想吟は服部嵐雪の「其浜ゆふ」に載る「蛇いちご半弓提げて夫婦づれ」であると勝手に思っている。]
      冷やかに住みぬ木の影石の影
新凉    新凉や花びら裂けて南瓜咲く
      新凉や二つ小さき南瓜の實
秋の聲   灯を消して夜を深うしぬ秋の聲
      秋聲や石ころ二つ寄るところ
[やぶちゃん注:「秋の聲」は、もの寂しい秋を感じさせる風雨や木の葉、きぬたなどの音を指す。]
二百十日  小百姓のあはれ灯して厄日かな
      二百十日の月に揚げたる花火かな
[やぶちゃん注:「二百十日」立春から数えて二百十日目で旧暦八月一日頃(新暦九月一日頃)。二百二十日とともに台風の襲来する厄日とされ、稲の穂ばらみの時期に当り、この日の前後に風害を防ぐ風祭かざまつりを行う風習があった。風祭の花火の風習は現在でも、知られた愛知県豊川市にある菟足うたり神社の手筒花火を始めとして各所に残る。]
身に入む  身に入むや白髮かけたる杉の風
[やぶちゃん注:「身に入む」言わずもがなであるが、「みにしむ」と読み、「身に沁む」である。歌語から援用された季語。]
行秋    行秋や蠅に嚙み付く蟻の牙
      行秋や糸に吊して唐辛子
      行秋や沼の日向に浮く蛙
秋雜    瘦馬のあはれ機嫌や秋高し
      嬉しさや大豆小豆の庭の秋



  
天文
名月    今日の月馬も夜道を好みけり
      十五夜やすゝきかざして童達
      小百姓の屛風持ちけり今日の月
      十五夜や障子にうつる團子突
[やぶちゃん注:「團子突」団子突きは団子刺しともいい、これ自体が十五夜、秋の季語となるもので、十五夜に供えられた月見団子を村落の子供たちが盗んで回る風習を指す。全国的に見られるもので、参照した「お話歳時記」の「九月ー重陽の節句とお月見」によれば、『盗んで食べた子どもは長者になるとか、七軒盗んで食べたら縁が早いとか、子のない人が食べると子ができる、などと言われ』、『盗まれた家でも「十五夜団子は盗まれるほどいい」と言ってかえって歓迎し』た。『このことは、供えたものがなくなったのは神がそれを食べたことを意味し、願い事がかなったのだとする一方、神に供えたものをたくさんの人で分け合って食べれば、神様も喜んでくれると解釈したからで』ある、とある(これは一種の神人共食や童子神(童形神性)であろう)。『また、十五夜の夜だけは他人の畑の果物や作物などを盗んでもかまわないという風習』も各地にあって、『秋田県仙北郡に伝わる「片足御免」他人の畑でも片足だけ入れて取るのは許される)、「襷(タスキ)一ばい」(襷で結わえられるだけは許される)』とった例が挙げられている。最後に『しかし、学校教育が普及するにつれて盗むという行為はよくないとされ、現在ではほとんど行われなくなりました』という記載が運命共同体としてのムラの崩壊や近代化が簒奪してゆく民俗社会を語って何やらん、淋しい思いがする。]
      十五夜の月にみのるや晩林檎
[やぶちゃん注:「晩林檎」「おそりんご」と読むか。]
      十五夜の月に打ちけり鱸網
[やぶちゃん注:「鱸網」は「すずきあみ」。河川の景と私は見る。条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ
Lateolabrax japonicas 及びその近縁種は河川のかなり塩分の低い水域にも進入する(私は柏尾川を戸塚駅付近まで遡上している有意に大きな個体群を見たことがある)。これ自体が秋の季語。]
無月    娼家の灯うつりて海の無月かな
      藻を刈つて淋しき沼の無月かな
      瘦馬の無月に早き足搔かな
      牛追ふや無月を好む牛の性
      川上は無月の水の高さかな
      五六疋牛牽きつるゝ無月かな
      臆病な馬を渡船して無月かな
[やぶちゃん注:「渡船して」はこれで「わたして」と訓じているか。]
月     とく見よや門前月の出るところ
      庵の窓にまだ月のある二十日かな
      小百姓の醉うってねむるや月の秋
      月出でゝつんぼう草も眺めかな
[やぶちゃん注:「つんぼう草」キク目キク科タンポポ亜科タンポポ連アキノノゲシ
Lactuca indica の異名で聾草つんぼぐさのこと。タンポポの綿毛を小さくしたような種子がタンポポ同様、耳に入ると聾になるという迷信による。]
      名月や海につき出る利根の水
      月の戸やありあり見ゆる白馬經
[やぶちゃん注:「ありあり」の後半は底本では踊り字「〱」。「白馬經」享保一一(一七二六)年刊の俳諧作法書「芭蕉翁廿五箇条」。芭蕉撰とされるが各務支考の偽作疑惑が濃厚。蕉風俳諧の付合つけあい作法を説いたもの。「貞享式」とも呼ぶ。]
      飼猿や巣箱を出でゝ月に居る
      二三尺月に吹きあげる吹井かな
      山月や影法師飛んで谷の底
十六夜   甥の僧とさみしう酌みぬ十六夜
      十六夜ひとりで飮んで醉ひにけり
[やぶちゃん注:この句、前句と組句になってこそ面白い句である。]
      月さして古蚊帳さむし十六夜
後の月   後の月唐箕の市に二三人
[やぶちゃん注:「唐箕」は「たうみ(とうみ)」と読み、穀粒を選別する農機具のこと。箱形の胴につけた羽根車で風を起こし、その力を利用してしいな(殻ばかりで中身のない籾)や籾殻・ごみなどを吹き飛ばして穀粒を下に残す装置。]
      後の月に破れて芋の廣葉かな
      橋の上に猫がゐて淋し後の月
      後の月を寒がる馬に戸ざしけり
[やぶちゃん注:「後の月」十三夜・栗名月・豆名月とも言い、旧暦八月十五日の月見をした後に旧暦九月十三日にも望月から少し欠けたものを月見をする習慣をいう。十五夜では月見団子(十五夜は十五個で餡で、十三夜は十三個で黄粉で食す区別があったともいう)の他に里芋を神棚に供える(芋名月の由来)のに対し、十三夜では栗や枝豆を供える。一般に十五夜の月見と十三夜のそれは組となっており、十五夜だけで十三夜の月見をしないと「片月見」といって忌まれたという。月見自体は中国伝来であるが、十三夜は日本独自の風習で、一説に宇多法皇が九月十三夜の月を愛でて「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の延喜十九(九一九)年に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われているが、以上の記載の参考の一つにしたあい氏の「いろはにお江戸」の「江戸の四季」にある「後の月」によると、江戸吉原では八月十五日に登楼した客は片月見を言い立てられて九月十三日にも必ず登楼することを約束させられたとあり、しかも『片月見の習俗は、ほぼ江戸に限られており、地方にはあまり浸透していないことから、案外吉原の方が勝手に都合のいいことを言い出したのが、江戸に広まったのではないかという説もある』とも記されてある(雲上から亡八までというのが如何にも面白い)。因みに、今年二〇一三年の旧暦の十五夜は今日から四日後の九月十九日、十三夜は十月十七日である(大阪市立科学館のデータに拠る。そこで二〇二〇年までの両夜が確認出来るので来年以降も参照されたい)。]
秋空    秋空や日落ちて高き山二つ
      秋空や逆立ちしたるはね釣瓶
秋雨    秋雨やよごれて歩く盲犬
[やぶちゃん注:大野林火「近代俳句の鑑賞と批評」(明治書院昭和四二(一九六七)年刊)で大野は「定本鬼城句集」(昭和一五(一九四〇)年三省堂刊)に載る、
春寒やぶつかり歩く盲犬
を評釈しているが、その中で、『この犬は虚構でなく、事実、上州高崎の鬼城居の附近に』実際にいた犬だそうである、と述べている。]
      御佛のお顏のしみや秋の雨
      秋雨や柄杓沈んで草淸水
      秋雨や鷄舍に押合ふ鷄百羽
      秋雨や眞顏さみしき狐凴
[やぶちゃん注:「狐凴」は「きつねつき」である。「凴」は「凭」と同字で、狐の霊がよる・よりかかる・もたれるの意で、「憑」の誤字ではないと私は考える。大方の御批判を俟つ。]
      秋雨や賃機織りてことりことり
[やぶちゃん注:「ことりことり」の後半は底本では踊り字「〱」。「賃機」は「ちんばた」或いは「ちんはた」で機(はた)屋から糸などの原料を受け取って賃金を貰って機を織ること。]
      秋の雨一人で這入る風呂たてぬ
[やぶちゃん注:鬼城先生に不遜だが、私なら「たてね」とするであろう。]
      秋雨に聖賢障子灯りけり
[やぶちゃん注:「聖賢障子」は「せいけんしやうじ(せいけんしょうじ)」と読む。賢聖障子げんじょうのしょうじ。内裏の紫宸殿の母屋と北廂を隔てるために立てられていた障子(襖)。九枚あり、中央には獅子・狛犬と文書を負った亀を、左右各四枚には中国唐代までの聖賢名臣を一枚に四人ずつ計三十二人の肖像を描いたもの。ウィキの「賢聖障子」によれば、現存最古の賢聖障子は狩野派の絵師狩野孝信が慶長一九(一六一四)年『に描いたもので、現在仁和寺が所蔵し重要文化財に指定されている』とある。]
      秋雨や石にはえたる錨草
[やぶちゃん注:「錨草」モクレン亜綱キンポウゲ目メギ科イカリソウ
Epimedium grandiflorumウィキの「イカリソウ」によれば、花は赤紫色で春に咲き(従って本句の映像にはない)、四枚の花弁が距(きょ:植物の花びらや萼の付け根にある突起部分で内部に蜜腺をもつ。)を突出して錨のような特異な形状を成しているため、『この名がある。葉は複葉で、1本の茎に普通1つ出るが、3枚の小葉が2回、計9枚つく2回3出複葉であることが多い。東北地方南部以南の森林に自生し、園芸用や薬用に栽培されることもある』とある。]
秋風    秋風や子を持ちて住む牛殺し
      山畑や茄子笑み割るゝ秋の風
      秋風に忘勿草の枯れにけり
      街道やはてなく見えて秋の風
      秋風や犬ころ草の五六本
      秋風に大きな花の南瓜かな
露     土くれにはえて露おく小草かな
      露草弓弦はずれてむぐら罠
[やぶちゃん注:「むぐら罠」不詳であるが、中句から考えると熊などを捕獲することを目的としてアイヌの人々やマタギが山林に仕掛けた罠の一種である、仕掛け弓を言ったものか。アイヌの仕掛け弓クワリ(アイヌ語で「ク」は「弓」、「アリ」は「置く」)については、簡便に知るならば、北海道沙流さる平取町二風谷びらとりちょうにぶたににある平取町立二風谷アイヌ文化博物館の公式サイト内のクワリのページを、詳細を知りたい向きは宇田川洋氏の学術論文「アイヌ自製品――仕掛け弓・罠」(PDFファイル)がよい。]
野分    せきれいの波かむりたる野分かな
      野分すや吹き出されて龜一つ
      山川の水裂けて飛ぶ野分かな
      野分して蜂吹き落す五六疋
      野分して早や枯色や草の原
      山川に高浪たつる野分かな
立待月   立待月かはほり飛ばずなりにけり
[やぶちゃん注:この「かはほり」、蝙蝠は昔は「あぶらむし」と呼ばれた、本邦では最も一般的なコウモリである哺乳綱獣亜綱真獣下綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目小翼手(コウモリ)亜目ヒナコウモリ上科ヒナコウモリ科
Vespertilioninae 亜科 Pipistrellini 族アブラコウモリ属アブラコウモリ亜属アブラコウモリ Pipistrellus abramus であろう。彼等コウモリ類は無論、夜行性ではあるが、必ずしも一晩中活動し続ける訳ではなく、実際に観察してみると分るが、だいたい日没後の二時間ぐらいに最も活発に飛翔する。「立待月」は旧暦十七日の月、狭義には陰暦八月十七日の月及び月の出を指すので、試みに今年二〇一三年の陰暦八月十七日相当を調べると新暦二〇一三年ではブログでのこの項の公開である今朝九月十八日から四日後の九月二十一日で、月の出は神奈川県横浜で18:35である(私の御用達サイト「こよみのページ」による)。]
待宵    待宵やすゝきかざして友來る
      待宵や土間に見えたる芋の莖
      待宵としもなく瓦燒くけむり
[やぶちゃん注:「待宵」は「まつよひ(まつよい)」で、翌日の十五夜の月を待つ宵の意から陰暦八月十四日の夜の月、月の出、小望月(こもちづき)のことで、前と同様に「こよみのページ」で計算してみると、偶然であるがこの項の公開である今日九月十八日が陰暦八月十四日に相当し、月の出は16:45である。]
天の川   小舟して湖心に出でぬ天の川
稻光    稻光しつゝ晴れたる三十日かな
      草庵や隈なく見えて稻光
      稻光芋泥坊の二人ゐぬ
      稻光低くさがりてふけにけり
      稻光雲の中なる淸水寺
稻妻    稻妻の射こんで消えぬ草の中
秋の雲   秋雲や見上げて晴るゝ棚畑
霧     霧晴れてはてなく見ゆる泥田かな
      川霧や鐘打ちならす下り舟
秋霞    秋霞芋に耕す山畑



  
地理
秋の山   秋山に僧と携ふ詩盟かな
[やぶちゃん注:「詩盟」詩友。鬼城自身であろう。]
      谷の日のどこからさすや秋の山
      秋山や影して飛べる山鴉
秋の川   夕燒のはたと消えけり秋の川
      秋川に釣して龜を獲たりけり
出水    出水や牛引き出づる眞暗闇
      出水して雲の流るゝ大河かな
      出水や鷄流したる小百姓
      泥水をかむりて枯れぬ芋畑
秋の水   秋水に孕みてすむや源五郎虫
[やぶちゃん注:「源五郎虫」は「げんごらう(げんごろう)」と訓じていよう。]
      秋水に根をひたしつも疊草
[やぶちゃん注:「疊草」は「たたみぐさ」で単子葉植物綱イグサ目イグサ科イグサ(藺草)
Juncus effusus var. decipens のこと。]
      秋水や生えかはりたる眞菰草
[やぶちゃん注:「眞菰草」は「まこもぐさ」で単子葉植物綱イネ目イネ科マコモ(真菰)
Zizania latifolia。河川や湖沼の水辺に生育し、成長すると人の背丈ほどにもなる。葉脈は平行。花期は夏から秋で雌花は黄緑色、雄花は紫色を呈する。参照したウィキの「マコモ」によれば、肥厚した新芽の根元部分をマコモダケとして食用とする。また近年、スロー・フードとして見かけるようになった褐色を帯びたワイルド・ライス(カナディアン・ライス、インディアン・ライスとも呼称する)も本種の近縁種アメリカマコモ Zizania aquatica の種子である。その他『日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、お歯黒、眉墨、漆器の顔料などに用い』てきた、とある。]
刈田    藪寺の大門晴るゝ刈田かな
初汐    初汐や磯野すゝきの宵月夜
[やぶちゃん注:「初汐」「はつしほ(はつしお)」は陰暦八月十五日の大潮のこと。陰暦二月の春潮しゅんちょうとともに干満の差が最も激しい。葉月潮。今年は過ぎし三日前の九月十九日、来年(二〇一四)年はずっとずれ上って九月八日に当たる。既にニュース等で報じられているように、「十五夜」とグレゴリオ暦の激しいずれはこれからずっと続き、二〇一二年になるまで(同年九月二十一日が陰暦八月十五日となる)文字通りの仲秋の名月は八年の間、見られない。それまで、随分、御機嫌よう。]
花野    鞍壺にきちかう挿して花野かな
[やぶちゃん注:「きちかう」は「桔梗」で古語「桔梗きけう」の別音、キキョウの別名。]



  
人事
秋耕    秋耕や馬いばり立つ峰の雲
      秋耕や四山雲なく大平

燈籠    燈籠提げて木の間の道の七曲り
      草庵や繩引張つて高燈籠
[やぶちゃん注:「燈籠」は「とうろ」と訓じているか。]
相撲    相撲取のおとがひ長く老いにけり
[やぶちゃん注:「相撲」が秋(初秋)の季語とされるのは、奈良・平安時代、宮中で行われた相撲の起源である相撲節会すまいのせちえが毎年陰暦七月に行われていたことに拠る。]
糸瓜忌   糸瓜忌や俳諧歸するところあり
      糸瓜忌や秋はいろいろの草の花
[やぶちゃん注:「いといろ」の後半は底本では踊り字「〱」。正岡子規の忌日糸瓜忌は九月十九日。]
送火    送火や僧もまゐらず草の宿
      送火や迎火たきし石の上
踊     學問を憎んで踊る老子の徒
[やぶちゃん注:老子は「老子」の二十章で「絶學無憂」(学學を絶てば憂ひなし)と断じている。]
      草相撲の相撲に負けて踊かな
崩簗    赤犬のひたひたと飮むや崩簗
[やぶちゃん注:「崩簗」晩秋の季語。簗は河川の両岸又は片岸から列状に杭や石などを敷設して水流を堰き止めて流水に導かれてきた魚類を最後の流路で塞いで捕獲する漁具や仕掛けで、この場合、秋も深まって使われなくなった、落ち鮎を捕らえるのに設けられてあったくだやなが、風雨にさらされ、押し流されたりして崩れてしまった状態をいう語。ものさびた侘びしさを既にして顕現する優れた季語と言えよう。]
放生會   放生會二羽の雀にお經かな
[やぶちゃん注:「放生會」「はうじやうゑ(ほうじょうえ)」は供養のために事前に捕らえてある魚や鳥獣を池や野に放してやる法会。殺生戒に基づくもので奈良時代より行われ、神仏習合によって神道にも取り入れられている。収穫祭・感謝祭の意味も含め、春又は秋に全国の寺院や宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡社で催される。正確には八幡社では陰暦八月十五日の祭祀とされ、特に京都の石清水八幡宮や福岡の筥崎宮(ここでは「ほうじょうや」と呼ぶ)が有名。典拠としては「金光明最勝王経」の「長者子流水品」に釈迦仏の前世であった流水るすい長者が大きな池で水が涸渇して死にかけた無数の魚たちを助けて説法をして放生したところ、魚たちが三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したという本生譚が載り、「梵網経」にも同種の趣意因縁が説かれている。かつては寺社の近隣の河川で橋番などが副業として日常的に行われていた商売で、亀屋から客が買って川に放した亀をその亀屋が再び捕獲してまた新たな客に売るという商売としても行われていた。現在でも台湾・タイ・インドでは放ち亀屋や放ち鳥屋といった商売が寺院の参道で盛んに店を開いている(ここまでは主にウィキの「放生会」を参考にした。昔、タイの寺院の参道で雀や鳩のそれを実見したが、当時のガイドによれば鳩はそのまま売り手の主人の鳩小屋に戻って呉れるので一番手間いらずとのことであったが、雀も飼い馴らしてあってやはり餌を播くと戻ってくるのだと言っていた)。これは放ち雀であるが、江戸の風物では放ち亀・放ち泥鰌・放ち鰻(屋台で糸で亀を吊るして売ったり、桶の中に亀や泥鰌やめそ鰻(鰻の幼魚)を桶に入れて売った)・放ち鳥(本邦では専ら句にある雀を複数の鳥籠に入れたものを天秤棒で前後に担いで売り歩いた)。]
七夕    七夕や笹の葉かげの隱れ里
[やぶちゃん注:山深い地の農家に七夕飾りを見出した景であろう。しみじみとしていい句だと思う。以下の句も同じくすこぶる映像的である。]
      雨降りて願の糸のあはれなり
籾磨    籾磨つて臼引き合へる妹背かな
[やぶちゃん注:「籾磨」は「もみすり」で籾を磨り臼にかけて玄米にすること。]
花火    水の上火龍走る花火かな
      飄々と西へ吹かるゝ花火かな
[やぶちゃん注:「花火」は古くは盆行事の一環として行われたため、秋の季語である。但し、私は自身の句は無季俳句と認識しているので関係ないが、現在の有季定形では夏の季語として使って差し支えあるまいと思う。]
走馬燈   走馬燈消えてしばらく廻りけり

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]
迎火    迎火や年々焚いて石割るゝ
      迎火や戀しき親の顏知らず
[やぶちゃん注:この句の映像の中の人物は恐らく明治二五(一八九二)年に母スミを亡くした鬼城の娘二人と思われる。婚姻はスミとの結婚はスミ二十四の時、逝去の時は未だ二十七であった。]
魂棚    魂棚の見えて淋しき寐覺かな
[やぶちゃん注:「魂棚」「たまだな」は精霊棚しょうりょうだなのこと。盂蘭盆に先祖の精霊を迎えるために用意する棚。位牌を安置し、季節の野菜・果物などを供える。]
案山子   谷底へ案山子を飛ばす嵐かな
      山かげの田に弓
勢の案山子かな
[やぶちゃん注:「弓
勢の」弓勢ゆんぜいは「ゆみせい」の音変化で、元来は弓を引っ張る力量、弓を射る力の強さを指すあ、ここは弓を目いっぱい引いたなりの(案山子)の謂い。]
鳴子    里犬を追出してゐる鳴子かな
牡丹根分  牡丹根分して淋しうなりし二本かな
澁搗    澁滓に蜻蛉の飛ぶ濱路かな
      新澁の鼻もすさめぬ匂かな
[やぶちゃん注:「澁搗」とは青渋柿を臼で突き砕いて渋汁を醗酵させ、柿渋を抽出することを言う。渋取り。半透明で赤褐色を帯びた液体で柿タンニンを多量に含有する。防腐・防水・木質強化作用があり、魚網・釣糸・木工細工(下塗)・外壁塗装に用いられ、かつては特に団扇や番傘、紙衣に塗付された。発酵によって生じた酢酸や酪酸等を主因とする悪臭を有する(以上は一部でウィキの「柿渋」を参考にした)。]
藻刈    藻を刈るや西日に沈む影法師
      藻を刈りてさみしう浮ける蛙かな
[やぶちゃん注:「藻刈」は沼・池・川・海などに茂った藻を刈り取ることであるが、季題としては夏であるから不審である(因みに二句目の「蛙」は単独では春の季語である)。]
天長節   天長節小菊結びて轅かな
[やぶちゃん注:「天長節」言わずもがなであるが、現在の文化の日、明治天皇の誕生日を指す。「轅」は「ながえ」(原義は「長柄」の意)馬車・牛車などの前方に長く突き出ている先端に附したくびきに牛や馬を配して曳かせる二本の棒の部分。]
新獵    獵犬の狩入る草の嵐かな
[やぶちゃん注:「獵」も「獵犬」も本来は冬の季語である。「鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律」(略称、鳥獣保護法/狩猟法)等によって十一月や十月に初猟が規定されている現在では、「新」を冠したとしても秋の季語たり得ない。こんなところも限定された概念を強制的に強いる季語そのものが最早機能しなくなっている証拠である。]
落水    落水浮草咲いて流れけり
[やぶちゃん注:「落水」は「落とし水」で、稲の花が終わりを迎え、稲穂が垂れ始める時期には(ほぼ稲刈の一ヶ月前)最早、稲には水が不要となるため、田の堰を外して水を流し落すことをいう。季語には他に「水落す」「堰外す」などがある。]



  
動物
蟷螂    蟷螂に負けて吼立つ子犬かな
      蟷螂のばさりと落ちぬ枕上

鶺鴒    せきれいや水裂けて飛ぶ石の上
稻雀    稻雀降りんとするや大うねり
[やぶちゃん注:「稻雀」は「いなすずめ」と読む。稲の実る頃に田に群れる雀。]
蜻蛉    大空を乘つて大山蜻蛉かな
      大風や石をかゝへる赤蜻蛉
      芋の葉や赤く眼にしむ赤蜻蛉
[やぶちゃん注:「しむ」の「し」は底本では「志」の崩し字。]
      蜻蛉や居向をかへる瀧しぶき
[やぶちゃん注:「しぶき」の「し」は底本では「志」の崩し字。]
      谷風に吹きそらさるゝ蜻蛉かな
秋の蜂   萩にゐて巣にも歸らず秋の蜂
虫     さみしさに窓あけて見ぬ虫の聲
      虫賣の虫のかずかず申しけり
      虫鳴いてはらはら落る櫻かな
[やぶちゃん注:「かずかず」「はらはら」の後半は底本ではともに踊り字「〱」。]
蛇穴に入る 蛇穴や西日さしこむ二三寸
[やぶちゃん注:私は好きな句である。]
蓑虫    みの虫やはらはら散つて李の木
[やぶちゃん注:「はらはら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
秋燕    秋燕に川浪低うなりにけり
鴫     鴫立つて來しはうへ飛びにけり
鶉     鶉鳴く葎の宿のしるべかな
[やぶちゃん注:「しるべ」の「し」は底本では「志」の崩し字。]
      鶉鳴き鳩鳴き雨となりにけり
雀化蛤   蛤に雀の斑あり哀れかな
[やぶちゃん注:「雀化蛤」は「雀はまぐりと化す」と訓読し、「雀、大水に入りて蛤となる」「雀化して蛤となる」などとも言う。中国古代の天文学では一年を七十二候に区分したが、その九月の第二候目に「雀蛤と化す」と考えられていた。理由は単に雀の羽根の模様や色が蛤の殻の模様に似ていることからの化生説である。それが俳句の季語となったものではあるが、字数を食い、しかも短く用いようとすると分離させるしかなく、するとまたオリジナリティを出し難くなる、面白いが厄介な季語とは言えよう。「斑」は「ふ」と読む。]
螽     稻刈りて草の螽となりにけり
      美しき馬鹿女房や螽取
      よろよろと螽吹かれぬ實なし草
[やぶちゃん注:「螽」は「いなご」。「よろよろ」の後半は底本では踊り字「〱」。「實なし草」は一般名詞ではなく、双子葉植物綱タデ目タデ属(
Polygonum :これをミチヤナギ属として狭義のタデ属とし、本種をイヌタデ(サナエタデ)属 Persicaria に分類する考え方もあって、そのためにタデ類にはシノニムが多い)ハルノトラノオ(春の虎の尾)Polygonum tenuicaule の異名であろうか。イロハソウという別名も持つ多年草で花は四~五月に咲く。茎は少し赤みがかり、湿気の多い山林渓谷などに植生する。グーグル画像検索「Polygonum tenuicaule」はこちら。]
屁放虫   屁放虫を掻き出したる子犬かな
[やぶちゃん注:「屁放虫」は「へひりむし」と訓じていよう。コウチュウ目オサムシ上科ホソクビゴミムシ科ミイデラゴミムシ
Pheropsophus jessoensis 及び同種のガス噴出を行うホソクビゴミムシ科 Brachinidae のゴミムシ類を指す。参照したウィキの「ミイデラゴミムシ」によれば、同科のゴミムシ類は外敵からの攻撃を受けると、過酸化水素とヒドロキノンの反応によって生成した主として水蒸気とベンゾキノンから成る一〇〇℃以上の気体を爆発的に噴射する。この高温の気体は尾端の方向を変えることで様々な方向に噴射が可能である。このガスは高温で外敵の体部(例えばカエルの口の内部など)に火傷を負わせるのみならず、キノン類はタンパク質と化学反応を起こしてこれと結合する性質があるため、外敵の粘膜や皮膚の組織を化学的にも侵す。人間が指で摘まんでこの高温のガスを皮膚に浴びせられると火傷にまでは至らないまでも、皮膚の角質のタンパク質とベンゾキノンが反応して褐色の染みができ、悪臭が染み付く。かく敵に対して悪臭のあるガスなどを吹きつけること、ガスの噴出の際に鳴る「ぷっ」という音とから「ヘッピリムシ」(屁放り虫)と呼ばれる。他のゴミムシ類・オサムシ類も多くのものが悪臭物質を尾端から出して外敵を撃退しているのでヘッピリムシ的なものは多く存在するが、ミイデラゴミムシのようなホソクビゴミムシ科のそれは、音を発し、激しく吹き出すことで特に目を引く、とある。]
落鮎    川澄んで後さがりに鮎落つる
      落鮎に水つて行く投網かな
鱸     打網の龍頭に跳る鱸かな
[やぶちゃん注:ここにも描かれるように九月終わり頃、遡上していた川を下り始める鱸を川や河口・湾奥で獲ることから鱸は秋の季語とする。鱸は一部が純淡水域へ積極的に遡上する海水魚として知られ、琵琶湖にまで遡上した個体例や利根川で河口から百キロメートル上流まで遡上する例が確認されている(この例はウィキの「スズキ」に拠る)。なお、スズキは分類学上、動物界脊索動物門脊椎動物亜門条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ
Lateolabrax japonicas であるが、食用の海水魚の殆んどがこのスズキ目 Perciformes に属することはあまり知られているとは思われない。スズキ目は二十亜目百六十科の下におよそ千五百三十九属一万三十三種が含まれ、魚類のみならず、脊椎動物全体の中で最大の目でもある(この数字はウィキの「スズキ目」に拠る)。「龍頭」は投網に於いて網全体を一点に絞っている投げ繩の頂点の部分の名称。ここに打った投網を手繰り戻すための手繩が結ばれている。中本賢氏のサイト「多摩川クラブ」の「投網の打ち方」にある美事な図を参照させて戴いた。]
蜩     蜩に黄葉村舍となりにけり
[やぶちゃん注:福山藩儒官で漢詩人であった菅茶山(寛延元(一七四八)年~文政一〇(一八二七)年)の私塾及び彼の漢詩集の題ともなっている「黄葉夕陽村舎」に掛けていよう。]
      蜩に關屋嚴しく閉ぢにけり
秋の蝶   道の邊や馬糞に飛べる秋の蝶
      蕎麦の花に飛んでまぎるゝ蝶々かな
小鳥來   小鳥この頃音もさせずに來て居りぬ
[やぶちゃん注:「小鳥來」他に「小鳥渡る」、さらに実は「小鳥」も秋の季語である。この場合、所謂、秋にやって来る渡り鳥や漂鳥、さらには広く山地から人里に降りてくる小鳥などを指す語である。具体的に羽鶸・鶫・連雀・尉鶲(ジョウビタキ)・花鶏(アトリ)などを指すようである。「村上鬼城記念館」公式サイト「鬼城草庵」のトップ・ページで柿実の絵を添えた色紙が見られる。本「鬼城句集」の「序」で、高浜虚子の「序」とともに「境涯俳人」というレッテルを鬼城に貼った共犯者大須賀乙字は『この小鳥こそ氏の獨坐愁を抱く懷情そのまゝの姿ではないか』と絶賛した。この句、鬼城を境涯俳人とする評釈では決まって耳を患って小鳥の飛来を聴くことが出来ないのだと前置きするが、聾という事実を知として知っていることを『鬼』の首を獲ったように言い出すこと、これを言わずもがな、というのである。寧ろ、この小鳥は我々もしばしば経験する事実として、「音もさせずに來て居りぬ」、なのである。その自然への敬虔にして優しい視線こそが本句の眼目であり、そうした詩心を見ない評釈は、糞喰らえったら死んじまえなの、である(私が「境涯俳人」という語を生理的に激しく嫌悪することについては私の「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」をお読み戴けると幸いである。]
椋鳥    椋鳥や草の戸を越す朝嵐
鵙     鵙鳴くや大百姓の門構
秋の蟬   海士が子の裸乾しけり秋の蟬



  
植物
樫の實   樫の實の落ちて駈け寄る鷄三羽
菊     白菊をこゝと定めて移しけり
       憶左千夫
      野菊咲いて新愁をひく何の意ぞ
[やぶちゃん注:「左千夫」は無論、「野菊の墓」の伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年)である。鬼城鬼城(慶応元(一八六五)年~昭和一三(一九三八)年)は俳友で歌人でもあった高崎中学校国語教師村上成之しげゆき(慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年:号は蛃魚へいぎょ。)は伊藤左千夫の弟子であった。因みに左千夫の弟子である土屋文明は村上の教え子であり、そもそも文明に左千夫を紹介したのも村上であったから、鬼城と左千夫に親交があったことが窺われる。
「新愁」近年亡くなった知人に対する傷心の思い。「鬼城句集」の出版は左千夫の死後の大正六(一九一七)年である。]
      白菊に紅さしそむる日數かな
      一
間一間白菊いけて草の宿
[やぶちゃん注:「一
間一間」の後半は底本では踊り字「〱」。]
      老が身の皺手に手折る黄菊かな
      幕張つて菊千輪の玄關かな
      夜の菊手槍の如くうつりけり
       傘の繪に題す
      月蝕をおそれて菊に傘しけり
[やぶちゃん注:月食は民俗社会では月の病いと考えられていた。その妖しい光を受けるとそれが菊花を枯らすという感染呪術的認識があったものか? 識者の御教授を乞うものである。]
      菊の氣の騰りて庭の靜かな
[やぶちゃん注:「騰りて」は「あがりて」。「靜かな」は「しづけかな」とでも訓じているか。]
      市中や穢多まぎれ住む菊の花
[やぶちゃん注:大正半ばにあっても、また聴覚障碍を持っていた鬼城にして、かくなる差別意識が厳然として存在していたことを認識する批判的視点を忘れずに詠まれたい。]
水引の花  水引の花が暮るれば灯す庵
      水引の花奉れ命婦達
草紅葉   土くれに二葉ながらの紅葉かな
      砂濱や草紅葉してところところ
[やぶちゃん注:「ところところ」の後半は底本では踊り字「〱」。「〲」ではない。]
      稻の中に夕日さしこむ紅葉草
[やぶちゃん注:「草紅葉」は多様な丈の低い草本類が秋に色づくことで、「草の錦」などとも言うが、最終句の「紅葉草」と言った場合は限定された種である双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科ヒユ属ハゲイトウ
Amaranthus tricolor の別称で、最終句もそれを詠んでいると考えられる。以下、ウィキの「ハゲイトウ」によれば、ハゲイトウ(葉鶏頭・雁来紅)は一年草で日本には明治後期に渡来し、花壇の背景や農家の庭先を飾る植物として広く栽培され、『アマランサス(ヒユ属)の1種である。主に食用品種をヒユ(莧)とも呼ぶが、アマランサスの食用品種の総称的に呼ぶこともある』(本邦でもかつて東北地方で小規模ながら「アカアワ」などという呼称で食用に栽培されていたとウィキの「アマランサス」にある)。『属名の Amaranthus は、「色が褪せない」の意味。そのために「不老・不死」の花言葉があるが、これは以前この属に属していたセンニチコウによるものである。種小名の tricolor は「三色の」の意』。英名の Joseph's coat は、『旧約聖書に登場するヨセフにヤコブが与えた多色の上着のことで、鮮やかな葉色をこの上着にたとえている』。熱帯アジア原産の春蒔きの草花で、根は牛蒡状の直根、茎は堅く直立して草丈は〇・八~一・五メートルほどまで伸びる。『葉は被針形で、初めは緑色だが、夏の終わり頃から色づきはじめ、上部から見ると中心より赤・黄色・緑になり、寒さが加わってくるといっそう色鮮やかになる。全体が紅色になる品種や、プランターなどで栽培できる矮性種もある』とある。グーグル画像検索「Amaranthus tricolor」はこちら。]
蕎麥の花  山の上の月に咲きけり蕎麥の花
蔦     大木の枯るゝに逢へり蔦蘿
[やぶちゃん注:「蔦蘿」は音は「てうら(ちょうら)」であるが、無論、ここでは「つたかづら(つたかずら)」と訓じている。蔦、蔦葛に同じい。]
柿     柿賣つて何買ふ尼の身そらかな
      柿秋や交易の市も昨日今日
      柿秋や追へどもすぐ來る寺烏
      柿の木に小弓をかけて晴れにけり
[やぶちゃん注:「小弓」は「こゆみ/おゆみ」で遊戯用の小さな弓、ここは下弦の月以降有明月までのそれを柿の木に懸けたそれに見立てたものか。ただ案山子のように鳥除けに実際に小弓を懸けるまじないとしての風習が地方にないとは断言出来ない。識者の御教授を乞う。]
芋     石芋としもなく芋の廣葉かな
[やぶちゃん注:「石芋」は後に続くジャガイモやサツマイモと読める「芋」とは異なるものとして私は詠んだ。それらでは「廣葉」が生きないと感じたからである。その限定される「石芋」について以下、三様の同定候補を考えた。迂遠な注に一つお付き合い願おう。
●第①候補:単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科サトイモ
Colocasia esculenta の品種の中で半野生化し、先祖帰りして苦味やえぐ味(ある種のタンパク質が付着したシュウ酸カルシウムが針状結晶や細かい結晶砂として細胞内に集合した、大きく脆いその結晶体が原因とされている。但し、その味覚感はこのシュウ酸カルシウムの結晶が直接舌に刺さることによって生じるとも、その化学的刺激の結果であるともされ、またシュウ酸カルシウムとは異なる別個なタンパク質分解酵素による現象とする説があって明確ではない)が強くなって食用に適さなくなった個体群を指す。
 これは南北を問わず広く本邦の全域に伝えられている「弘法と石芋」という食べられない芋に纏わる伝承に登場する「石芋」とも考えられるものがあり、そのコンセプトは「遍歴行脚の弘法大師が、とある村でサトイモを見かけ、食を乞うも、村人はそれを惜しんで『これは食えない芋だ』と偽って断ってしまう(単に宿を乞われたのを断わるというタイプもある)。大師が去った後、村人が後にそれを食べようとすると石のように硬く変じてしまって、以後、その村には硬くて食えぬサトイモしか生えない。」という話柄である。南方熊楠の「紀州俗伝」の「六」にある「石芋」の冒頭に、
   *
寛延二年、青山某の『葛飾記』下に西海神村の内、阿取坊あすわ明神社の入り口に石芋あり。弘法大師ある家に宿を求めしに、ばばは貸さず、大師怒って、かたわらに植え設けたる芋を石に加持し、以後食うことあたわず、みなこの所へ捨てしより、今に四時ともに腐らず、年々葉を生ず。同社のかたわらの田中に、片葉の蘆あり。同じく大師の加持という、と載せておる。何故加持して片葉としたのか、書いてはないが、まずは怒らずに気慰めにったものと見える。
   *
とある、ありがちで如何にもな弘法伝承である。また、一部参考にしたウィキの「サトイモ」には、『この伝説における「石芋」の多くは、半野生化したえぐ味の強いサトイモの品種と見るのが妥当であると考えられている』ともあり、地域限定性の低い最も汎用性の高い同定候補と言える。
●第②候補:根茎のシュウ酸カルシウム含有量が高く、食用に適さないサトイモ科のある種を指す。例えばサトイモ科ヒメカイウ(姫海芋)
Calla palustris など。ヒメカイウはミズザゼン・ミズイモとも呼称し、本邦では北海道や本州の中北部の低地から山地の湿地に自生する。小型のミズバショウといった形態を成しており、葉は卵心形・円心形で大きさ五~十五センチメートル、十~二十センチメートルの葉柄を持つ。白色の長さ四~六センチメートルの仏炎苞ぶつえんほうを持つ花を初夏に開く。果実は赤色のベリー状で、その中に数個の種子を産する(ウィキの「ヒメカイウ」に拠る)。植生からは鬼城の居住地であった高崎でも同定に無理がないが、例えばヒメカイウはサトイモの葉には似ておらず、「廣葉」という表現も私にはしっくりこない。
●第③候補:サトイモ科オランダカイウ(サンテデスキア)属
Zantedeschia のオランダカイウ類で、現在、園芸で英名から「カラー」(calla)又は「カラー・リリー」(calla lily)と名づける観葉植物。南アフリカ原産であるが、本邦には江戸時代に既に渡来してオランダ海芋かいうと呼称された。この属には仏炎苞や葉が美しい種や品種が多く含まれており、観賞用として盛んに栽培されている。高さ約一メートル。葉は倒心臓形で初夏に漏斗状の白い仏炎苞を持つ黄色い花をつける。花屋ではお馴染みであるが、グーグル画像検索「Zantedeschiaを見ても分かる通り、花に特化していて「石芋」とは程遠く、「廣葉」ではない。
●第④候補:サトイモ科クワズイモ
Alocasia odora。大きな個体では傘にして人間も入れるほどの葉を持つ。素朴な味わいのある大きな葉を持つ観葉植物としても親しまれ、園芸ではアローカシアとも呼称する。以下、ウィキの「クワズイモ」によれば、『サトイモのような塊状ではなく、棒状に伸びる根茎があり、時に分枝しながら地表を少し這い、先端はやや立ち上がる。先端部から数枚の葉をつける。大きさにはかなりの個体差があって、草丈が人のひざほどのものから、背丈を越えるものまでいろいろ』で、葉はの長さは六十センチメートルにも達し、『全体に楕円形で、波状の鋸歯がある。基部は心形に深く切れ込むが、葉柄はわずかに盾状に着く』。葉柄も六十センチメートル~一メートルを越え、『緑色で、先端へ』ゆくほど細くなる。『花は葉の陰に初夏から夏にでる。仏炎苞は基部は筒状で緑、先端は楕円形でそれよりやや大きく、楕円形でやや内に抱える形で立ち、緑から白を帯びる。花穂は筒部からでて黄色味を帯びた白。果実が熟すと仏炎苞は脱落し、果実が目立つようになる』。『中国南部、台湾からインドシナ、インドなどの熱帯・亜熱帯地域に、日本では四国南部から九州南部を経て琉球列島に、分布する。長崎県五島市の八幡神社のクワズイモは指定天然記念物にもなっている。一方、沖縄県では道路の側、家の庭先、生垣など、あちこちで普通に自生しているのが見られる。低地の森林では林床を埋めることもある』。『日本では、やや小型のシマクワズイモ(A. cucullata (Lour.) G.Don)が琉球列島と小笠原諸島に、より大型のヤエヤマクワズイモ (A. atropurpurea Engler)が西表島に産する』が、『よく見かけるのはむしろ観葉植物として栽培される国外産の種であろう。それらは往々にしてアローカシアと呼ばれる。インドが原産地のインドクワズイモ(A. macrorrhiza)、緑の葉と白い葉脈のコントラストが美しいアロカシア・アマゾニカ、ビロードの光沢を持つアロカシア・グリーンベルベットなどがよく知られる』。『クワズイモの名は「食わず芋」で、見た目はサトイモに似ているが、食べられないのでそう呼ばれている。シュウ酸カルシウムは皮膚の粘膜に対して刺激があり、食べるのはもちろん、切り口から出る汁にも手で触れないようにした方がいい。日本では、外見が似ているサトイモやハスイモの茎(芋茎)と間違えてクワズイモの茎を誤食し中毒する事故がしばしば発生している』とある。南方熊楠の「紀州俗伝」では先に引いた部分に続いて、
   *
大師はよほど腹黒い、癇癪の強い芋好きだったと見えて、越後下総の外土佐の幡多郡はたごおりにも食わず芋というのがある。野生した根を村人が抜き来たり、横切にして、四国巡拝の輩に安値で売る。その影を茶碗の水に映し、大師の名号を唱えて用うれば、種々の病を治すと言う。植物書を見ると、食用の芋と別物で、本来食えぬ物だ。
   *
という私の大好きな下りがあるが(私は遍在する弘法呪言伝承が大嫌いで「大師はよほど腹黒い、癇癪の強い芋好きだった」には頗る共感するタイプの人間なのである)、ここで熊楠の「食用の芋と別物で、本来食えぬ物」とは、このクワズイモ
Alocasia odora のことを指していると見て間違いない。本種は「廣葉」で食えないという点ではぴったりであるが、如何せん、分布域が鬼城のテリトリーではない。
 但し、実はこの句、「石芋としもなく」で「としもなく」は直訳すれば「というわけでもなく」の謂いであるから、これは石芋というわけではない食べられる里芋なのであるが、如何にものびのびと葉を広げていることだ、と読むことも出来、いや、そもそもこれは里芋ではなく、じゃが芋か薩摩芋であると言われるのであれば私の注は全くのド阿呆ということになるである。ここまで私の注を読んで時間の無駄とお感じになったか、面白いとお感じになったか、それは私の関知するところではないが、少なくとも秋の冷え込む書斎で曉から曙にかけて延々と「石芋」を考え続けてきた今朝の私にとっては相応に結果して面白かった。悪しからず。]
      芋食うてよく孕むなり宿の妻
      泥芋を洗うて月に白さかな
      芋洗ふ池にあやめや忘咲
[やぶちゃん注:「忘咲」「わすれざき」は晩秋から初冬の小春日和の頃に時節外れに花が咲くこと、また、その花を指し、返り咲き・狂い咲きと同じ。ここは狂い咲き一本の点景であろうが、アヤメ類には秋咲き品種も実際にはある。]
      芋掘りの拾ひのこしゝ子芋かな
紅葉    紅葉すれば西日の家も好もしき
      紅葉してしばし日の照る谷間かな
[やぶちゃん注:「しばし」の最初の「し」は「志」の崩し字。]
南瓜    南瓜大きく畑に塞る二つかな
      大南瓜これを敲いて遊ばんか
       畫賛
      これを敲けばホ句ホ句といふ南瓜かな
[やぶちゃん注:「ホ句ホ句」の後半は踊り字「〱」。]
       ホトヽギスの舊本を見けるに蛃魚先生の
       名あり知らぬ人なりしに今は明暮交じら
       ひて骨肉も啻ならずたまたま姓氏を同う
       するも宿緣淺からず
      似たものゝ二人相逢ふ南瓜かな
[やぶちゃん注:「蛃魚」は「へいぎよ(へいぎょ)」と読み、鬼城鬼城の俳友で、歌人で伊藤左千夫の弟子でもあった高崎中学校国語教師村上成之しげゆき(慶応三(一八六七)年~大正一三(一九二四)年)の号。尾張生。国語伝習所卒。因みに左千夫の弟子である土屋文明は村上の教え子であり、そもそも文明に左千夫を紹介したのも村上であった。歌集「翠微」が没後に纏められている。]
      南瓜食うて駑馬の如くに老いにけり
[やぶちゃん注:「駑馬」脚ののろい馬。転じて才能の劣る人の譬えとしても使うのでその意も利かせている。]
      うら畑や南瓜にさせる藁枕
零餘子   草庵に二人法師やむかご飯
      零餘子こぼれて鷄肥えぬ草の宿
      まらうどにさめてわりなきむかご飯
[やぶちゃん注:「零餘子」は「むかご」と読む。植物の栄養繁殖器官の一つで、主として地上部に生じるものをいい、葉腋や花序に形成される小さな根茎に似た塊。離脱後は新たな植物体を形成出来る。単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科
Dioscoreaceae では茎が肥大化した肉芽が小さな芋状になって形成され、栽培にも利用されている(他にユリ目ユリ科ユリ属オニユリ Lilium lancifolium などでは葉が肉質化して小さな球根のような形になった鱗芽として形成される)。ここでの「零餘子」は食材としての「むかご」に限定された謂いで、その場合は通常、ヤマノイモ Dioscorea japonica・ナガイモ Dioscorea batatas などヤマイモ類のそれを指す。灰色で球形から楕円形を成し、表面に少数の突起があって、葉腋につく。塩茹で・煎りの他、炊き込みご飯などにする(以上はウィキの「むかご」及びそのリンク先を参考にした)。]
一葉    大空をあふちて桐の一葉かな
      桐の葉のうら返りして落ちにけり
[やぶちゃん注:「一葉」は「ひとは」で「桐一葉」とも言い、桐の葉に限定された初秋の季語。秋に桐の葉が落ちること。シソ目キリ科キリ
Paulownia tomentosa アオギリ科の悟桐を指す。科はゴマノハグサ科或いはノウゼンカズラ科とする意見もあるが近年のDNA分析研究によってキリ科として独立させる方向に動いているようである。因みに、属名“Paulownia”(パウローウニア)は、シーボルトがロシア皇帝パーヴェル一世の娘でオランダ王ウィレム二世の王妃となったアンナ・パヴロヴナ(Anna Paulowna Romanowa / анна павловна романова 一七九五年~一八六五年)に捧げたものである(以上は主にウィキの「キリ」に拠った)。]
掛煙草   荒壁の西日に掛けて煙草かな
      煙草かけて猫歸り來る夕陽かな
[やぶちゃん注:「掛煙草」「懸煙草」とも表記する。秋、収穫したタバコ(ナス目ナス科タバコ
Nicotiana tabacum)の葉を、繩に挟んで屋内や軒先に吊るして乾燥させる作業若しくはその葉をいう。]
芭蕉    玉階の夜色さみしき芭蕉かな
[やぶちゃん注:「玉階」は「ぎよくかい(ぎょっかい)」で、宮殿などの立派な階段をいうが、私は一詠、このバショウ(単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ
Musa basjoo は結実していると直感する。夏から秋にかけて芭蕉は実を附けるが、これを「『玉』を巻く」と表現するからである。]
稻     稻掛けて菊隱れたる垣根かな
      稻積んで馬くゞらせつ長家門
      稻積んで木賃宿ともなかりけり
新米    新米を食うて養ふ和魂かな
[やぶちゃん注:「和魂」は「わこん」と読んでいるか。大和魂。和魂にぎみたま。]
       小兒食初
      たんと食うて大きうなれや今年米
[やぶちゃん注:「食初」「くひぞめ(くいぞめ)」で、出生後初めて食事をさせる祝いの儀式。新調の膳を用いて食べさせる真似をさせる。生後百ヶ日にする所が多い。御食い初め。箸立て・箸揃え・百日ももかなどともいう。]
蘭の花   ひとりゐて靜に蘭の花影かな
      花見えて四五枚蘭の長葉かな
棗     鼠ゐて棗を落す草の宿
      新しき箕して乾したる棗かな
鷄頭    二三本鷄頭植ゑて宿屋かな
萩     軍鷄の胸のほむらや萩が下
菱の實   菱の實と小海老と乾して海士が家
[やぶちゃん注:一年草の水草で池沼に生える双子葉植物綱フトモモ目ヒシ科ヒシ
Trapa japonica の実は澱粉が凡そ五十二%含まれており、茹でたり蒸したりして食すると栗のような味がする(以上はウィキの「ヒシ」に拠る)。私は私の年代では珍しいヒシに親しんだ経験のある人間である。鹿児島出身の母の実家は大隅半島中央の岩川というところにあったが、小学校二年生の時に初めて訪ねた折り、近くの山陰の池に平舟を浮かべて、鮮やかな緑色のヒシの実をいっぱい採って、茹でて食べた思い出がある。それから三十年の後、妻や友人とタイに旅行し、スコータイの王朝遺跡を訪れた際、路辺で婦人が黒焼きにしたヒシの実を小さな竹籠に入れて売っていた。それは棘が左右水平方向にほぼ完全に開いたもので実の湾曲が殆んどない如何にも美しいのフォルムであった(グーグル画像検索「ヒシの実」はこちら)。まだ二十歳の美しいガイドのチップチャン(タイ語で「蝶」の意)に「これは日本語ではヒシと言います」と教えると、「ヒシ」という名をノートに記し、何を思ったものか、そのヒシの実一籠を自分のお金で買い求め、私にプレゼントしてくれた。それからまた三十年近くが経つ。そろそろヒシに出逢えそうな予感がする。……]
唐黍     小吏
      唐黍を四五本植ゑて宿直かな
[やぶちゃん注:「小吏」は高崎裁判所司法代書人であった村上鬼城自身を指す。いわずもがなであるが「宿直」は「とのゐ」と読む。]
      もろこしや節々折れて道の端
朝顏    朝顏のつる吹く風もなくて晴れ
      朔日や朝顏さいて朝灯
[やぶちゃん注:私の母の実家は笠井という。母の父は、父の母の実の兄であるから私の父母は従妹同士なのであり、私には色濃く笠井の血が流れている。笠井家は加賀藩の家老だったらしいが、その先祖の一人は、主命であったのか自由意志であったか、はたまた乱心であったのかは知らぬが、何でも朝顔の植わった中で切腹して果てたのだと伝えられており、笠井の家では代々邸内に朝顔を植えてはならぬという家訓がある。考えて見れば、私も小学校の時、理科の宿題でシャーレで朝顔の発芽をさせた経験以外には朝顔の花を見たことがなかった。これは面白い禁忌の民俗伝承の一つとしてここに場違いに注しておくだけの価値はあろう。]
うら枯   うら枯や鼠の渡る李の木
[やぶちゃん注:「うら枯」は「末枯」と書き、草木の先の方が色づいて枯れることを指す。]
破芭蕉   眼前に芭蕉破るゝ風の秋
唐辛子   きびきびと爪折り曲げて鷹の爪
      大男のあつき涙や唐辛子
柿紅葉   目ざましき柿の紅葉の草家かな
[やぶちゃん注:「草家」は「くさや」で、草屋、草葺の家。]
草の實   草の實をふりかむりたる小犬かな
梨     梨畑や二つかけたる虎鋏
栗     小さなる栗乾しにけり山の宿
胡麻の花  嵐して起きも直らず胡麻の花
尾花    頂上の風に吹かるゝ尾花かな
烏瓜    夕日して垣に照合ふ烏瓜
漆紅葉   石山に四五本漆紅葉かな
秋海棠    大掃除
      石灰を秋海棠にかくるなよ
      秋海棠の廣葉に墨を捨てにけり
木犀    木犀や月の宴の西の對
      木犀やあはれ目しひて能役者
[やぶちゃん注:「しひて」の最初の「し」は「志」の崩し字。]
畦豆    畦豆に鼬の遊ぶ夕かな
[やぶちゃん注:「畦豆」は田の畦に植えた枝豆。一般には歳時記でも「あぜまめ」と読むようだが、畦は「くろ」とも読むことから、植えたものが黒豆でなくても「くろまめ」とも読み、私は語幹からはここは「くろまめ」と読みたい。四月から六月に植付時期が広がり、畦は水気があるので肥料をやらなくても大きく育ち、六月中旬から九月が収穫期となる。田の畦に豆を植えた理由は一つには、かつて畦に植えたものには年貢がかからなかったことによるらしい(一部を個人ブログ「大人の田んぼ塾」の「田の畔豆」を参照した)。]
畦豆    畦豆に鼬の遊ぶ夕かな
秋大根   ひげなくて色の白さや秋大根
[やぶちゃん注:「秋大根」晩夏から初秋に種を播き、晩秋から初冬にかけて収穫する大根で、品質・収量ともによい。本邦産のダイコン(双子葉植物綱ビワモドキ亜綱フウチョウソウ目アブラナ科ダイコン
Raphanus sativus var. longipinnatus)の品種には春大根・夏大根・秋大根・冬大根と季節に合わせた品種があり、前二者は辛みが強く、後二者は甘みが増す。それぞれの品種には以下のような系統がある。
・春大根~亀戸系・二年子系(二年子・時無し・若春)
・夏大根~美濃早生系
・秋大根~宮重系(宮重総太・丸尻)・練馬丸尻(秋づまり・大倉・高倉)
・冬大根~練馬中太系(都・三浦・新三浦)
 参考にした「金沢市中央卸売市場」公式サイトの「青果雑学」及びウィキの「ダイコン」に拠れば、原産地は地中海地方や中東と考えられ、古代エジプト(紀元前二二〇〇年)で今のハツカダイコン(
Raphanus sativus)に近いものがピラミッド建設の労働者の食料とされていたのが最古の栽培記録とされ、その後、ユーラシアの各地へ伝わった。日本には中国から弥生時代には伝わっており、「古事記」『古事記』の仁徳天皇の歌垣に(歌謡番号五二。引用は角川文庫武田祐吉訳注版を用いた)、
 つぎねふ 山背女やましろめ
 木鍬こくは持ち 打ちし大根おほね
 根白ねじろ白腕しろただむき
 かずけばこそ 知らずとも言はめ
と既に女性の美しい白い腕に譬えられている(大根を「だいこん」と発音するようになったのは室町中期でそれまではこの「おほね」が呼称であった)。平安時代中期の「和名類聚抄」巻十七菜蔬部には、園菜類として「於保禰おほね」があげられている。ちなみにハマダイコン(
Raphanus sativus var. longipinnatus)またはノダイコン(ダイコンの野生種とされるが前者ハマダイコンと同種ともする)と見られる古保禰こほねも栽培され、現在のカイワレダイコン(穎割れ大根・貝割れ大根:ダイコンの発芽直後の胚軸と子葉を食用とするもの)として用いられていた。江戸時代には関東の江戸近郊である板橋・練馬・浦和・三浦半島辺りが特産地となり、その中で練馬大根は特に有名であった。本邦では古来から、貴重な米を補うために主食の分野にまで大根が進出しており、明治後期の日本人は現在の三倍の量の大根を摂取していたとされる。当時は「食べる薬」として重視した野菜でもあり、現在でも作付面積・収穫量・消費量ともに世界第一位である。鬼城の句は言わば、「古事記」を濫觴とする女性性のシンボルとしてうまく諧謔化していると言える。]
コスモス  コスモスの花に蚊帳乾す田家かな
[やぶちゃん注:「田家」「でんか」と読む。田舎の家。いなかや。
  (花幻秋櫻混沌はなまぼろしコスモスカオス母逝けり  唯至
 拙句である。]
ずゝ玉   ずゝ玉を植えて門前百姓かな
[やぶちゃん注:「ずゝ玉」私の好きな懐かしいイネ目イネ科ジュズダマ
Coix lacryma-jobi。水辺に生育する大型のイネ科植物の一種で熱帯アジア原産。一年草で、背丈は一メートルほどになる。根元で枝分かれした多数の茎が束になり、茎の先の方まで葉をつける。葉は幅が広い線形でトウモロコシなどに似ている。花は茎の先の方の葉の付け根にそれぞれ多数つき、葉鞘から顔を出した花茎の先端に丸い雌花が、その先から雄花の束が伸びる。雌花は熟すると、表面が非常に固くなり、黒くなって表面に光沢がある。熟した実は根元から外れてそのまま落ちる(これは正しくは「実」ではない。この表面は実は苞葉の鞘が変化したもの、花序の基部についた雌花(雌小穂)をその基部にある苞葉の鞘が包み、それが硬化したものである)。脱落した実は乾燥させれば長くその色と形を保つので、古くは数珠を作るのに使われた。中心に花軸が通る穴が空いているため糸を通すのも容易である。古来より「じゅずだま」のほか「つしだま」とも呼ばれ、花環同様にネックレスや腕輪など、秋から冬の女子の野遊びとして作られた。なお、健康茶などで知られるハトムギ(Coix lacryma-jobi var. ma-yuen)はジュズダマの栽培種で、全体がやや大柄であること、花序が垂れ下がること、実がそれほど固くならないことが原種との相違点である(以上はウィキの「ジュズダマ」に拠る)。
「門前百姓」江戸時代、祭儀や戦乱等の際に寺院に協力する義務を負う一方で、通常の年貢が免除された大寺院の門前に住した百姓。「お布施以外門前百姓採り放題」などと呼ばれた。本句もちゃっかり、ジュズダマを数珠の代わりに、というニュアンスをもたせた俳味を利かせているように思われる。]
葉鷄頭   虫ばんで古き錦や葉鷄頭
蓼     犬蓼の花にてらつく石二つ
蓮の實飛ぶ 蓮の實のたがひ違ひに飛びにけり
[やぶちゃん注:「蓮の實飛ぶ」蓮の実が硬くなり、花托から水に零れ落ちること。蓮には花が咲くときにポンと音がするという流言同様、実が飛び出すと信じている向きも多いようだが、弾け飛ばすような機能は蓮の実や花托の辺縁器官には存在しない。単に風などによって花托が揺れ、実が本来の位置から抜け落ちて「空間を移動して落下する」ことを「飛ぶ」と言っているに過ぎない。]
柳散    柳ちるや板塀かけて角屋敷
杉の實   杉の實や鎖にすがるお石段



冬之部



 
冬之部

  
時候
祝月    祝月緋綿も見えて綿屋かな
[やぶちゃん注:「祝月」は斎月とも書き、「いはひづき(いわいづき)」と読む。特にみ慎む月と考えられた一月・五月・九月の異称でその月の一日には身なりを整えて祝ったり、社寺へ参ったりした。後には目出度過ぎる月の意に転じて婚礼等を控える月とした。ただ、この場合、一月では「新年之部」となり、実際に歳時記は皆、「祝月」を新年の部に入れる。冬の冒頭にこれを配した意図はやや不審である。新暦の一月を現代俳句の「冬」の季節と捉えようとする鬼城の現実に即した主張にしては「鬼城句集」には「新年之部」があるからおかしい。ということは、この「祝月」は旧暦の九月一日で新暦では冬であった年の叙景か? 試みに「鬼城句集」(大正六(一九一七)年刊)の直近で調べて見ると、二年前の大正四(一九一五年)が旧暦九月一日が新暦十月九日、大正三年が旧暦九月一日が新暦十月十九日に相当する。句は満を持して目出度い緋綿を用意して「祝月」の過ぎるのを待つ綿屋の景か? 識者の御教授を乞うものである。]
冬の日   冬の日や前に塞る己が影
      冬の日や軒にからびる唐辛子
      二三足下駄並べ賣る冬日かな
      冬の日のかつと明るき一
間かな
小春    小春日や石を嚙み居る赤蜻蛉
      瘦馬にあはれ灸や小六月
      小春日や鳥つないで飼へる家
      小春日に七面鳥の濶歩かな
      紅葉して苺畑の小春かな
      唐茄子の小さき花に小春の日
      小春日や龍膽咲いてお頂上
      大釜に楮煮る宿の小春かな
      草の戸や糀筵に小春の日
寒さ    庵主や寒き夜を寐る頰冠
      死を思へば死も面白し寒夜の灯
      影法師の壁にしみ入れ寒夜の灯
[やぶちゃん注:「しみ入れ」の「し」は底本では「志」を崩した草書体表記。]
      活計に疎き書どもや寒夜の灯
[やぶちゃん注:「活計」は「たつき」と読みたくなるが、音数律から「くわつけい(かっけい)」であろう。]
      一つづゝ寒き影あり佛達
      眞木割つて寒さに堪ふや瘦法師
       市日
      寒き日や小便桶のあふれ居る
年の暮   いさゝかの金ほしがりぬ年の暮
      腹の底に何やらたのし年の暮
      年の暮女房できたる小商人
[やぶちゃん注:「小商人」は「こあきんど」。]
大三十日  寺灯りて死ぬる人あり大三十日
      いさゝかの借もをかしや大三十日
[やぶちゃん注:「大三十日」は「おおみそか」。大晦日。]
春待    春待や草の垣結ふ繩二束
      春待や峯の御坊の疊替
冬ざれ   大石や二つに割れて冬ざるゝ
      冬ざれや二三荷捨てゝ牛の糞
除夜    俳諧の帳面閉ぢよ除夜の鐘
      除夜の鐘撞き出づる東寺西寺かな
師走    門を出て師走の人に交りけり
初冬    初冬の日向に生ふる鷄頭かな
      蜂の巣のこはれて落ちぬ今朝の冬
      猫の眼の螽に早しけさの冬
[やぶちゃん注:「螽」は「いなご」と読む。]
      初冬や緋染紺屋の朝砧
大寒    大寒や下仁田の里の根深汁
      大寒やあぶりて食ふ酒の粕
年守    年守りて默然とゐぬ榾盛

[やぶちゃん注:「年守」は「としもる」「としまもる」と読み、大晦日の夜に家中の者が集まり、夜明かしをして新年を迎えることをいう。]
冴     棚畑のすみずみ冴えて見えにけり
[やぶちゃん注:「すみずみ」の後半は底本では踊り字「〲」。]
短日    短日や樫木原の葱畑
冬夜    提灯で戸棚をさがす冬夜かな
      若うどや大鮫屠る宵の冬
凍〻    凍道を戞々と來る人馬かな
[やぶちゃん注:季題「凍〻」は「いてこほる(いてこおる)」と読む。
「戞々」か「かつかつ」と読み。二つの堅い物体が触れ合う音、また、その音を立てるさま。]
霜月    霜月やかたばみ咲いて垣の下
[やぶちゃん注:「かたばみ」カタバミ目カタバミ科カタバミ属
Oxalis には南アメリカ原産で江戸時代末期に観賞用として導入されて以降、日本に広く帰化しているムラサキカタバミ Oxalis corymbosa のように半耐寒性・耐寒性の品種があり、冬花を咲かせるものがある。但し、ムラサキカタバミは環境省により要注意外来生物に指定されている(以上はウィキの「ムラサキカタバミ」他を参照した)。]



  
天文
雪     遠山の雪に飛びけり烏二羽
      屋根の雪雀が食うて居りにけり
      大雪や納屋に寐に來る盲犬
      棺桶を雪におろせば雀飛ぶ
      雪松ののどかな影や雪の上
      道あるに雪の中行く童かな
      棺桶に合羽かけたる吹雪かな
      ぼろ市のはつる安火に吹雪かな
[やぶちゃん注:「はつる」は「はつる」で、「ぼろ市」のシークエンスにふさわしいこれまた「安火」、しょぼくれた焚き火の、そのともすればほつれがちな炎に、「吹雪」が吹きつけているというのであろう、と私は読む。また、「はつる」は「ぼろ市の果つ」、「ぼろ市」も最終日となって、売れないまことの襤褸ばかりが残っている景観も連想させて、より寂寥感を増しているとも言えるように思われる。大方の御批判を俟つ。]
雹     雹晴れて豁然とある山河かな
[やぶちゃん注:「雹」は「ひよう(ひょう)」、積乱雲から降る直径五ミリメートル以上の氷の粒を指し、五ミリ未満のものはあられである。多くは雷を伴い、この句にも雷鳴を響かせてこそ「豁然」が生きる。しかし歳時記では、これら雹や霰は孰れも夏の季語である。確かに雹は積乱雲の発生が多い夏季に多い(地表付近の気温が高いと完全に融解してしまい大粒の雨になるため、盛夏の八月前後よりも初夏の五、六月に発生し易い)ものの、気象学的には夏特有の現象では決してない。参照したウィキの「雹」にも『日本海側では冬季にも季節風の吹き出しに伴って積乱雲が発生するので降雹がある』とある。いくらなんでも鬼城が「夏」に配するところを誤ってここに置いた可能性はありえないと私は思うから(これは実景であり、それが印象深く作者の脳裏焼きついている以上、それは確信犯としての冬の景であったのであり、鬼城にとって「雹」は冬の季語であったのだと私は思うのである)、これは頗る附きで非歳時記部立であることになる。さて、「雹」の字音は「ハク・ホク」で一部には「ヒヨウ(ヒョウ)」はこの「ホク」が「ハウ」と音変化し、それが更に「ヘウ」→「ヒヤウ」→「ヒヨウ」となったという私にはやや信じ難い転訛説が唱えられているようだが、そのとは別に、実物の「氷の塊」、その「氷」の字音「ヒヨウ(ヒョウ)」或いは「氷雨」則ち「ひさめ」の音読みである「ヒヨウウ(ヒョウウ)」の音変化とも言われる(私はこれなら信じられる)。さてもそこで、「氷雨」を辞書で引けば、第一義に雹や霰のこととして季語を夏とするが、第二義としては、冷たい雨やみぞれで、雪が空中で解けかけて雨まじりとなって降るものを指すとし、冬の初めや終わりに多い(晩秋・初冬とするものもある)として、季語を冬と断じている。そもそも季語に冷淡な私にはどうでもいいことであるが、旧守派の梗塞した脳が青筋を立てるかも知れないので敢えて無粋な注をしておく気になった。拘りのある向き(私には全くない)には「現代俳句協会ブログ」に、私のラフな物言いより遙かに緻密にして驚異的な濫觴解析をなさっておられる小林夏冬氏の「季語の背景(11・氷雨)-超弩級季語探究」があるのでお読みなられるがよかろう。氏は演歌「氷雨ひさめ」(歌手佳山明生の昭和五二(一九七七)年のデビュー作であったが全くヒットせず、昭和五八(一九八三)年に日野美歌との競作で大ヒットとなった曲。作詞は「とまりれん」)『で歌われたというムードに流され、恣意的に冬の雨を氷雨と使うのは、俳句実作者としていささか主体性に欠けるのではないか、というのが私の自戒を籠めた思いであるし、本意からいえば誤りであることを承知した上で、なおかつ冬の雨を氷雨と使いたい、というはみ出し志向を是とするか、非とするか、悩ましい問題である』と書いて擱筆なさっておられるが――鬼城がこれを読んだらどう思うであろう。是非、鬼城に聴いてみたい気がする。]
霜     霜いたし日々の勤めの老仲間
凩     凩や水こし桶に吹きあつる
      凩や手して塗りたる窓の泥
      凩にあとさし合うて寐る夜かな
[やぶちゃん注:「後さし合うて」の「後」は背中・後方又は名残りの謂いで、「さし合う」は文句を言い合うの意でとる。言い争っていたそれぞれ(おそらくは作者と妻)が背を向けあって床に入ってから後も、未だにぶつぶつと言い争っている景と読む。ただの会話の名残というのでは「凩」と「後」が十全に生きない。]
冬の月   猫のゐて兩眼炬の如し冬の月
[やぶちゃん注:「兩眼炬の如し」は「りやうめこのごとし(りょうめこのごとし)」と読ませるか。「炬」は又は「きよ(きょ)」か。「炬」は篝火かがりび松明たいまつのこと。]
      鷄市や鷄くゝられて冬の月
      冬の月深うさしこむ山社
霙     樫の木に雀の這入る霙かな
[やぶちゃん注:「霙」は「みぞれ」。雨と雪が混ざって降る気象現象。以下、ウィキの「霙」によれば、地上の気温が摂氏零度以上であり、且つ、上空一五〇〇メートルがマイナス六度以上マイナス三度未満の時に降ってくることが多い。雨が雪に変わる時及びその逆の時によく見られる。なお、霙は気象観測の分類上は「雪」と同じ扱いとして記録される。例えば雪より先に霙が初めて降ったときは、それが「初雪」となる。但し、雨が凍ったり、雪が一部溶けて再び凍ったりするなどして生じたあられは、「雪」と異なるものとして扱われる。従って、霰が降っている際には雨と雪が降っていても天気記録は「霰」となる。昭和五二(一九七七)年二月十七日に久米島(気象庁沖縄気象台久米島測候所)で霙を観測しており、これは沖縄県で史上唯一となる公式の雪の記録である。私がウィキが大好きなのはこういう痒いところというより、気持ちいいところを撫ぜてくれるからである。]
冬の雲   冬雲を破りて峯にさす日かな
       過關原
      冬雲の降りてひろごる野づらかな
[やぶちゃん注:本「鬼城句集」の場合、前書を持つものは非常に少ない。それらは皆、鬼城が句理解のためにあるべきものと配慮して附されたものと見て間違いなく、この場合も、そうしたより効果的な映像効果を齎すためのものと考えられ、とすれば「過關原」は最も知られたかの岐阜県の「關ヶ原を過ぐ」以外には考えられず、「過」ぐとするところからは東海道本線の車窓詠としてよいであろう。殆んど高崎から出ることのなかった鬼城の句の中では珍しい羈旅吟である(但し、既に注した通り、高崎は彼の郷里ではない。再掲しておくと、鬼城は慶応元(一八六五)年に鳥取藩士小原平之進の長男として江戸に生まれたが、八歳(明治五(一八七二)年)の時に群馬県高崎市に移り住んだ(十一歳で母方の村上家の村上源兵衛の養子となって村上姓を名乗る)。後に高崎裁判所司法代書人となって以後は亡くなるまでの一生を殆んど高崎で過ごしている。ただ、この事蹟については未だ私には多くの不審がある。こちらの私の注をお読み戴きたい)。]
      冬雲の凝然として日暮るゝ
北風     詠馬
      北風に鼻づらこはき雄姿かな
      北風にうなじ伏せたる荷牛かな
時雨    振り立つる大萬燈に時雨かな
冬空    冬空を塞いで高し榛名山

冬の雨   大木の表ぬれけり冬の雨

      冬雨や蔓竿靑き竹の庵

[やぶちゃん注:これは群馬県高崎市鞘町さやちょうにあった鬼城庵の景か。同庵は昭和二(一九二七)年、鬼城六十四歳の時に全焼してしまい、翌年、師高浜虚子などの俳人たちの助力で高崎並榎町なみえまちに新居が完成、当時は裾野が広がる榛名山と向かい合った、遠く浅間や妙義の峰々も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになった。ここを「並榎村舎」と称して俳句活動の拠点とし、後進の指導に当たった(ここは現在、村上鬼城記念館(リンク先は同公式サイト)として公開されている。以上は前にも掲げた「高崎新聞」公式サイトの「近代高崎150年の精神 高崎人物風土記」にある「村上鬼城」に拠った)。]




  
地理
冬山    冬山の日當るところ人家かな
      冬山へ高く飛立つ雀かな
      冬山を伐つて日當墓二つ
      冬山に住んで葛の根搗きにけり
冬川    冬川に靑々見ゆる水藻かな
      舟道の深く澄みけり冬の川
氷     斧揮つて氷を碎く水車かな
      石段の氷を登るお山かな
枯野    烟るなり枯野のはての淺間山
      大鳥の空搏つて飛ぶ枯野かな
      一軒家天に烟らす枯野かな
冬野    積藁に朝日の出づる冬野かな
水涸    沼涸れて狼渡る月夜かな
山眠    石段に杉の實落ちて山眠る



  
人事
お命講   お命講や立ち居つ拜む二法師
[やぶちゃん注:「お命講」は「御命講」で「おめいこう」と読み、御会式おえしきのこと(会式は法会の式の略)。日蓮宗及び同系統の寺院及び信徒によって宗祖日蓮の通夜に当たる十月十二日と忌日である十三日の両日に営まれる祖師報恩の法会を指す。十二日には信者は万灯をかざして太鼓を敲き、題目を唱えて参拝する。御影供おめいく。御命講は御影供みえいくを拝むという意の御影講おえいこうから転訛したものらしい。浄土真宗他の他宗での御会式はあるが、それを「お命講」とは普通は言わないと思われ、この句は鬼城が日蓮宗徒であったかのようにも思わせるのだが、少なくとも鬼城の墓は高崎市若松町の龍廣寺にあって同寺は曹洞宗である。しかも季語としては現在、歳時記や辞書には日蓮宗のそれに合わせて秋とするから、この部立はおかしい。師の虚子の墓は鎌倉の寿福寺にあって同寺は臨済宗であるから、宗教絡みの季語にはいい加減だったものか? 識者の御教授を乞う。]
報恩講   道端の小便桶や報恩講
[やぶちゃん注:「報恩講」は浄土真宗の宗祖とされる親鸞の祥月命日の前後に宗祖に対する報恩謝徳のために営まれる法会。本願寺三世覚如が親鸞の三十三回忌に「報恩講私記(式)」を撰述したことを起源とするとされる。浄土真宗の僧侶門徒にとっては年中行事の中でも最も重要な法要で荘厳しょうごんも最も重い。各本山で営まれる法要は「御正忌報恩講」と呼ばれ、祥月命日を結願(最終日)として一週間に渡って営まれる。別院・各末寺・各一般寺院に於いては「お取越」若しくは「お引上」と呼ばれて「御正忌報恩講」とは日程を前後にずらして一~三、五日間で営まれ、門徒のお内仏(仏壇)でも所属寺院(お手次寺)の住職を招いて「お取越」「お引上」として営まれ、これは「門徒報恩講」とも呼ぶ。このように日付をずらすのは、総ての僧侶門徒は御正忌報恩講期間中に上山(本山参拝)するのが慣わしとされるためである。浄土真宗の宗派別の御正忌報恩講の日程は以下の通りである。
・浄土真宗本願寺派(お西)/真宗高田派   一月  九日より十六日まで
・真宗浄興寺派   十月二十五日より二十八日まで
・真宗大谷派(お東)/真宗佛光寺派/真宗興正派/真宗木辺派/真宗誠照寺派/真宗三門徒派/真宗山元派  十一月二十一日より二十八日まで
・浄土真宗東本願寺派  十一月二十三日より二十八日まで
・真宗出雲路派  十二月二十一日より二十八日まで
このように各派によって日程が異なるのは、親鸞が入滅した弘長二年十一月二十八日(グレゴリオ暦では一二六三年一月十六日)を旧暦の日付のままに新暦の十一月二十八日の日付で行われる場合と、新暦に換算した一月十六日に営まれる場合とがあることによる(真宗出雲路派は月遅れの形を採っている。以上はウィキの「報恩講」に拠った)。これらの日付を見ると、真宗浄興寺派以外は冬の季語として問題ないことが分かる。言っておくが、自由律俳句から始めた私は季語などどうでもいい人間であり、季語の不審を云々しているのは季語存在そのものへの根源的な不信感が存在するためである(私は親鸞への強いシンパシーを持つが、かく分派した教派集団(そもそも彼は教団を否定している)へは頗る附きで嫌悪を感じている人間である)。本句の眼目は報恩講のために特に置かれたに違いない道端の小便桶の情景そのものにあるのであって、報恩講はホリゾントに過ぎぬ(前の注で示した通り、鬼城の、少なくとも村上家の宗旨は曹洞宗であって真宗ではない)。それを信仰の優しさと見るか――その場限りの仕儀に対する馬鹿げた滑稽と見るか――それとも、宗教の儚さに対し、厳として存在するところの、なみなみと金色こんじき尿すばりを湛えた小便桶の実在の重量ととるか――それはひとそれぞれであってよい――。]
十夜    お机に金襴かけて十夜かな
      僧の子の僧を喜ぶ十夜かな
[やぶちゃん注:「十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえが正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺しんしょうごくらくじ。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸仏の國土において善をなすこと、千歳するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。既に見た通り、鬼城は曹洞宗を宗旨としており、この前が日蓮宗の「お命講」と浄土真宗の「報恩講」であるから、これ以上、鬼城の宗教意識を殊更にディグすることには価値がないと判断する。]
維摩會   維摩會にまゐりて俳諧尊者かな
      維摩會や默々としてはてしなき
[やぶちゃん注:「維摩會」は「ゆいまゑ(ゆいまえ)」と読み、維摩経を講ずる法会。十月十日から七日間、奈良の興福寺で行われる。維摩講。現在、この日程であるにも拘わらず(伝統的保守的な歳時記観では十月は三秋(晩秋)である)、歳時記では冬とし、「大辞泉」では本句を例文として掲げてある。興福寺は法相宗ほっそうしゅうの大本山である。法相宗は唯識宗・慈恩宗とも言い、中国十三宗及び日本南都六宗の一つ。「瑜伽師地論ゆがしじろん」や「成唯識論じょうゆいしきろん」等を根本典籍とし、万有は識、即ち心の働きに拠るものとして、存在の「相」を究明することを目的とする。玄奘三蔵の弟子であったを初祖として本邦には白雉四(六五三)年に道昭が伝えた。平安時代までは貴族の強い支持を受けた宗派で、現在はこの奈良の興福寺と薬師寺を大本山としている。この「人事」の最初の部立、作者鬼城(曹洞宗)が「お命講」(日蓮宗)・「報恩講」(浄土真宗)・「十夜」(浄土宗)・維摩會」(法相宗)と四連発させて、さながら仏教博物誌の様相を呈しているは面白い。一句目の「俳諧尊者」の自身への皮肉もまた面白い。]
芭蕉忌   芭蕉忌や弟子のはしなる二聾者
[やぶちゃん注:「二聾者」本句集のおぞましい虚子の後に続く、心地良い鋭いエッジの大須賀乙字の「序」の中で、乙字はまことに卓抜な説得力を以ってこの二人の聴覚障碍者をかの蕉門十哲の一人で鬼城が愛した杉山杉風と、何を隠そう、鬼城その人の二人であると解き明かして呉れている。]
      芭蕉忌やとはに淋しき古俳諧
[やぶちゃん注:芭蕉忌は元禄七年十月十二日で、グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日。享年五十一。因みに鬼城は昭和一三(一九三八)年九月十七日没で享年七十四であった。]
蕪村忌   蕪村忌やさみしう挿して正木の實
[やぶちゃん注:蕪村忌は天明三年十二月二十五日で、グレゴリオ暦一七八四年一月十七日。享年六十九。「正木」はニシキギ目ニシキギ科ニシキギ属マサキ
Euonymus japonicus。秋に果実が熟すと裂開して橙赤色の仮種皮に被われた種子があらわれる(ウィキの「マサキ」の「果実と種子(一月)」の画像)。]
來山忌   殘菊や今宮草の古表紙
[やぶちゃん注:「來山忌」江戸時代の俳諧師小西来山こにしらいざん(承応三(一六五四)年~享保元(一七一六)年)の忌日で陰暦は享保元年十月三日(グレゴリオ暦一七一六年十一月十六日。通称は伊右衛門。満平・湛翁・湛々翁・十萬堂等の号を持つ。現在の大阪淡路町に薬種商の家に生まれ、父と親しかった西山宗因門の前川由平に学び、後に宗因門となった。延宝三(一六七五)年頃には宗匠として門弟をとっていたとされ、延宝六(一六七八)年に満平の号で井原西鶴編の俳諧撰集「物種集ものだねしゅう」に入集した。延宝八(一六八〇)年頃には来山に号を改めている。天和元・延宝九(一六八一)年に最初の撰集「大阪八五十韻」を刊行した。活動のピークであった元禄三(一六九〇)年頃は当時の大阪の宗匠の中でも代表的な俳人として活躍した。元禄五年には自身の独吟表六句を巻頭に配して知友門弟の句を所収した「俳諧三物はいかいさんぶつ」を刊行したが以後に自ら撰した集はない。この頃より雑俳点者となり元禄十年以降は彼の加点が加えられたもおが著しく増加しており、生前に刊行された雑俳書は約百三十部確認されているが、その内、来山点の載るものは五十部に及んでいる。俳諧から雑俳の流行へと移行する元禄前後の俳壇変動をそのままに体現した俳人と言える。「近世畸人伝」巻之三にその名が見え、浪華の南今宮村に住し、酒を好み、洒脱磊落な人柄であったとする。大晦日、門人より雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴にしてしまった折りの句、
 我が春は宵にしまふてのけにけり
が載る(以上はウィキの「小西来山」及び「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。晩年は、一説に「お奉行の名さへ覺えず年暮れぬ」の句で奉行を愚弄したとして大阪から追放され、今宮村(現在の大阪府大阪市浪速区恵美須附近か)に十萬堂という庵を建てて移り住んだという。本句の「今宮草」は正続二冊の彼の句集である。代表句は「俳句案内」の「小西来山」で小西来山の句が纏まって読める。「近世畸人伝」によれば、
 來山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし
を辞世とするとある。]
袴着    袴着や老の一子の杖柱
[やぶちゃん注:「袴着」幼児が初めて袴を著ける儀式。古くは数え三歳、後世では五歳または七歳に行い、次第に十一月十五日の七五三の祝いとして定着した。着袴ちゃっことも呼ぶ。]
帶解    帶解や立ち居つさする母の親
[やぶちゃん注:「帶解」は「おびとき」で、着物の附け紐を取って、初めて普通の帯を締める祝い。中世末頃から男女とも数えの五歳、のちに女児七歳の十一月吉日に行った。江戸中期頃からは十一月十五日の七五三に移行した。紐解き・帯直しとも呼ぶ。]
綿入    綿入や妬心もなくて妻哀れ
蒲團    蒲團かけていだき寄せたる愛子かな
      つめたかりし蒲團に死にもせざりけり
      殺さるゝ夢でも見むや石蒲團
      瘦馬につけて蒲團の重荷かな
炬燵    老ぼれて眉目死したる炬燵かな
      老が身の何もいらざる炬燵かな
      猫老いて鼠も捕らず炬燵かな
炭     炭取の火にあぶりて熱き一壺かな
      榾の火に大きな猫のうづくまる
      天井に高く燃えあがる榾火かな
火鉢    仁術や小さき火鉢に焚落し
[やぶちゃん注:「焚落し」は「たきおとし」と読む名詞で、薪を焚いた後に残ったき火のこと。医者が病床の家人(視線の高さから本人ではない)のために往診に来、去った直後の病床の景か。何か、とても気になる寂寥感を湛えた句であるように私には思えるのだが。私の解は誤りであろうか? 大方の御批判を俟つ。]
煮凝    煮凝にうつりて鬢の霜も見ゆ
[やぶちゃん注:これは旨い、基、上手い。]
蕎麥湯   古を好む男の蕎麥湯かな
風呂吹   風呂吹や朱唇いつまでも衰へず
納豆    智月尼の納豆汁にまじりけり
[やぶちゃん注:河合智月(寛永一〇(一六三三)年頃~享保三(一七一八)年)は京に生まれ、近江国に住んだ蕉門きっての女流俳人。山城国宇佐に生まれ、大津の伝馬役兼問屋役河合佐右衛門に嫁いだ。貞享三(一六八六)年頃夫と死別して剃髪、後に自身の弟乙州おとくにを河合家の養嗣子とした。元禄二(一六八九)年十二月から芭蕉を自邸へ迎える機会が多くなり、元禄四(一六九一)年には東下する芭蕉から「幻住庵記」を形見に贈られている。智月は膳所滞在中の芭蕉の身辺の面倒をよく見、芭蕉がしばしば湖南へ出かけたのは、智月を始めとする暖かく芭蕉を迎える近江蕉門の存在があってのことであったとも言われる(ここまではウィキの「河合智月」に拠る)。芭蕉の葬儀に際しては智月と乙州の妻が芭蕉の好みに合わせて茶の浄着を縫っている(芭蕉は白衣を好まなかった)。因みに彼女は芭蕉より十ほど歳上である。幾つかの句を示しておく。
  麥藁の家してやらん雨蛙
  やまつゝじ海に見よとや夕日影
  稻の花これを佛の土産哉
  やまざくらちるや小川の水車
  ひるがほや雨降たらぬ花の貌
  年よれば聲はかるゝぞきりぎりす
  御火焼の盆物とるな村がらす
  待春や氷にまじるちりあくた
  鶯に手もと休めむながしもと
  わが年のよるともしらず花さかり
養子乙州も芭蕉に師事し、元禄三(一六九〇)年のこと、芭蕉は乙州邸で越年しており、その翌元禄四年に乙州が江戸へ下向するに際し、後に「猿蓑」に載った有名な、
  梅若菜丸子まりこの宿のとろろ汁 芭蕉
という餞別句を発句とする歌仙を巻いているが、その連衆には智月もいた。
 この鬼城の句、一読意を解しかねるが、さればこそ乙州や智月の家族的な温もりを伝えるかの「とろろ汁」の相伴の余香を受けた「納豆汁」の連衆と洒落たものであろうか。とんでもない誤釈かも知れぬ。大方の御批判を俟つものである。]
      納豆や僧俗の間に五十年
      納豆に冷たき飯や山の寺
莖漬    小さうもならでありけり莖の石
      老いが手に抱きあげにけり莖の石
淺漬    淺漬や糠手にあげる額髮
[やぶちゃん注:ああっ……なんと優しい鬼城の視線……]
煤掃    煤掃や馬おとなしく畑ヶ中
      煤掃いて蛇渡る梁をはらひけり
      煤掃の人代ひとだいを召す吉良家かな
[やぶちゃん注:「煤掃の人代」討ち入りを警戒して、わざわざ選りすぐって信頼出来る煤払いのためのみの雇い人(ひいてはその人の代(雇い賃)として支払われる金)を「召す」(呼ぶ・買うの尊敬語)ということか。「人代」はもしかすると「代官」「目代」などの職名を掛けた皮肉かも知れない。識者の御教授を乞う。]
      煤掃いて卑しからざる調度かな
[やぶちゃん注:こうした歳旦を迎える、素朴でしかも凛とした気分をとうの昔に忘れてしまったのではあるまいか?]
霜除    大寺霜除しつる芭蕉林
[やぶちゃん注:「霜除」は「しもよけ」と読む。冬、霜の害を防ぐために植木や栽培植物などに覆いを掛けること。除霜じょそう。]
火事    庵主のしはがれ聲に近火かな
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]
      あはれさや犬鳴き歩く火事の中
      上人や近火見舞うて御ねんごろ
[やぶちゃん注:「火事」は冬の季語(三冬)。歳末火災特別警戒など、冬は空気が乾燥して強風の日が多く、また暖房器具を用いるため火災が起きやすいことから人事の季語となった。]
風邪    風邪ひいて目も鼻もなきくさめかな
足袋    禰宜達の足袋だぶだぶとはきにけり
[やぶちゃん注:「だぶだぶ」の後半は底本では踊り字「〱」。]
麥蒔    麥蒔や土くれ燃してあたゝまる
      麥蒔くいて一草もなき野面かな
麥踏    麦踏の影いつしかや廻りけり
[やぶちゃん注:「廻」の用字はママ。]
      小男のこまごまと蹈むや麥畑
[やぶちゃん注:「こまごま」の後半は底本では踊り字「〲」。]
      麥踏んですごすごと行く男かな
[やぶちゃん注:「すごすご」の後半は底本では踊り字「〱」。]
餅搗    のし餅や狸ののばしゝもあらむ
      餅搗に祝儀とらする夜明かな
      雀來て歩いてゐけり餅筵
[やぶちゃん注:「餅」の用字はママ。]
酉の市   人の中を晏子が馭者の熊手かな
[やぶちゃん注:他人の権威に依存して得意になることを意味する「晏子あんしぎょ」を酉の市(十一月の酉の日に行われるおおとり社〔「おおとり」を社名とする神社で日本武尊の白鳥伝説と関わるとされる。大阪府堺市西区鳳北町おおとりきたまちにある大鳥大社を総本社とするという。〕を祀った神社の祭礼に立つ市で最初の酉の日を一の酉として以下、二の酉・三の酉〔三の酉まである年は火事が多いといわれる〕と呼ぶ。金銀を搔き集めるというところから熊手が縁起物として売られ、東京浅草の鷲神社のものが有名。とりのまち。お酉様。)の嘱目にカリカチャライズした。「晏子の御」は「史記」の管晏列伝による故事成句で、春秋時代のせいの名宰相晏嬰あんえい(?~前五〇〇])の御者(馭者)を務めていた男がそのことを得意としているのを知った彼の妻が恥じて離縁を求めた。御者は大いに恥じて精励し、晏嬰に認められて大夫にまで出世したという故事から。]
冬籠    緣側に俵二俵や冬籠
頭巾    親の年とやがて同じき頭巾かな
      深く着て耳いとほしむ頭巾かな
日向ぼこ  大木たいぼくに日向ぼつこや飯休み
      うとうとと生死の外や日向ぼこ
[やぶちゃん注:「うとうと」の後半は底本では踊り字「〱」。]
亥の子   草の戸や土間も灯りて亥の子の日
[やぶちゃん注:そうした習俗環境に育たなかったことから全く知らないので、以下、ウィキの「亥の子」(いのこ)から引用する。亥の子とは旧暦十月(亥の月)の上(上旬=最初)の亥の日に行われる年中行事。玄猪げんちょ・亥の子の祝い・亥の子祭りとも呼ぶ。『主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある』。歴史的には古代中国に於いて旧暦十月亥の日亥の刻に『穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習から、それが日本の宮中行事に取り入れられたという説』や、古代日本に於ける『朝廷での事件からという伝承もある。具体的には、景行天皇が九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、椿の槌で地面を打ったことに由来するという説である。つまりこの行事によって天皇家への反乱を未然に防止する目的で行われたという。この行事は次第に貴族や武士にも広がり、やがて民間の行事としても定着した。農村では丁度刈入れが終わった時期であり、収穫を祝う意味でも行われる。また、地面を搗くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝える地方もある。猪の多産にあやかるという面もあり、またこの日に炬燵等の準備をすると、火災を逃れるともされる』。『行事の実施形態はさまざまで、亥の子餅を食べるが石は搗かない、あるいはその逆の地方もある』亥の子餅は一般には旧暦十月亥の日亥の刻に食べるとする。『餅は普通のものや茹で小豆をまぶした物などが作られるが、猪肉を表した特別なものが用意されることもある』。また「亥の子石」と呼ばれる石が用いられる地方もある。これは旧暦十月の亥の日の『夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(男子のみの場合もある)が集まり一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗く。石の重さ』も一~一〇キログラムと『地方により異なる。地方によって歌の内容は異なるが、亥の子のための歌が使用される。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もある。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞う。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもある。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの)を使う地方もある。藁鉄砲を使う事例により、東日本における旧暦』十月十日『に行われる同様の行事、十日夜(とおかんや)との類似性が指摘できる』とある。以下、引用元には各地方のこの時に歌われる「亥の子の歌」なども採録されているので必見である。]
柴漬    柴漬やをねをね晴れて山遠し
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「柴漬」は「ふしづけ」「しのづけ」「しばづけ」で、一般に冬場、河川湖沼や河口内湾に於いて魚を獲るために柴を束ねて沈めておき、それに棲みついた魚を捕らえる漁法を指す語である。]
石藏    石藏をめぐりて水の流れけり
       註、石を積上げて柴漬をつゝみたらんが如く
         冬の山川に魚を誘ふ仕掛なり
[やぶちゃん注:「石藏」は「いしくら/いしぐら」または「いはくら(いわくら)」と読むものと思われる。三重大学図書館の「三重県漁業圖解」のデータベースの第五巻にある「鰻漁の圖」の中に『石藏或ハ漬石ト唱ヒカラ石トモ云/大河海ニ注入ナス近傍ニ設ケ置三月頃ヨリ十月頃迠此漁事』(事は旧字「古」+「又」表記)とある。これは図を見たところでは円形の網代を作りその中に石を多量に配しておき鰻を潜ませ易くした漁法である。非常に美しい図絵で必見。]
冬座敷   片隅に小さう寐たり冬座敷
北窓塞   北窓を根深畑に塞ぎけり
襟卷    襟卷や猪首うづめて大和尚
毛布    冬の野を行きて美々しや赤毛布
[やぶちゃん注:老婆心ながら、「赤毛布」は「あかげつと(あかゲット)」と読む。一般には田舎から都会見物に来た人、お上りさんのことを指すが(慣れない洋行者を指す場合もあった)、ここはあくまでフラットな意味。揶揄の意は明治初期に東京見物の旅行者の多くが赤い毛布を羽織っていたことに基づく東京人が評した蔑称であって、耳にする響きは私などには頗るよくない。「ゲット」は“
blanket”(ブランケット)の略である。]
冬構    あるたけの藁かゝへ出ぬ冬構
    はらはらと石吹き當てぬ冬構
[やぶちゃん注:「はらはら」の後半は底本では踊り字「〱」。]
乾鮭    乾鮭や天秤棒にはねかへる
爐開    四五人の土足で這入る圍爐裏かな
[やぶちゃん注:京都の和菓子店「甘春堂」公式サイトの「亥の子餅・玄猪餅」の商品解説に、先に上がった部立「亥の子」に絡んで、以下のような記載がある。『亥は陰陽五行説では水性に当たり、火災を逃れるという信仰があります。このため江戸時代の庶民の間では、亥の月の亥の日を選び、囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を開いて、火鉢を出し始めた風習ができあがりました。茶の湯の世界でも、この日を炉開きの日としており、茶席菓子 として「亥の子餅」を用います』とある。]
柚子湯   柚子湯や日がさしこんでだぶりだぶり
[やぶちゃん注:「だぶりだぶり」の後半は底本では踊り字「〱」。]
竹※    小舟して竹※沈める翁かな
[やぶちゃん注:「※」=「竹」(かんむり)+「瓦」であるが、「廣漢和辭典」にも載らない。国字に「笂」があり、これは矢を背負うための壺形の具である靱(うつぼ)の意で、これは川漁に用いる同形の漁具と似ているから、この字と同字ではないかと推測する。この漁具は「竹筒」「鰻筒」などと現在呼ぶが地方によってはウケ・モジリ・セン・ドウ・ツツ・カゴ・サガリ・モンドリ・モドリ・マンドウなどとも呼ぶ。ここで鬼城はルビを振っていないので確定は出来ないが、音数律と響きからは「もじり」「さがり」「もどり」であろうか。識者の御教授を乞うものである。]
柚味噌   柚味噌して膳賑はしや草の宿
      柚子味噌に一汁一菜の掟かな
埋火    埋火や思ひ出ること皆詩なり
燒芋    苦吟の僧燒芋をまゐられけり
寒行    寒行の提灯ゆゝし誕生寺
[やぶちゃん注:「誕生寺」誕生寺は千葉県鴨川市小湊にある日蓮宗大本山。建治二(一二七六)年に日蓮の弟子日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立したが、後に二度の大地震と大津波に遭い、現在地に移転された。現在、生家跡伝承地は沖合いの海中にある(以上はウィキの「誕生寺」に拠る)。但し、既に見てきた通り、村上家の宗旨は曹洞宗である。]
褌      演習
      雜兵や褌を吹く草の上
飾賣り   飾賣りて醉ひたくれ居る男かな
[やぶちゃん注:「飾賣り」は年末に出る正月用の注連飾り売りのこと。しめうり。ここも音数律から「しめうりて」と訓じているか。]
湯婆    兩親に一つづゝある湯婆かな
[やぶちゃん注:老「婆」心乍ら、「湯婆」は「たんぽ」と読む。湯たんぽのこと。「兩親」も言わずもがなであるが、「ふたおや」と訓ずる。]
      生涯の慌しかりし湯婆かな
[やぶちゃん注:私は『境涯俳句』という呼称や分類に頗る嫌悪を感ずる人間である(それについては私の「イコンとしての杖――富田木歩偶感――藪野直史」をお読み戴ければ幸いである)。この句、まさに鬼城自身がそうした『境涯』と呼ばれる他者の格附けを美事にカリカチャライズした句として好ましいと感じている。]



  
動物
冬蜂    冬蜂の死にどころなく歩きけり
[やぶちゃん注:鬼城の真骨頂であり、眼目であり、連続する生死の実相を漸近線で描いた名吟である。大正四(一九一五)年、鬼城満五十歳の折りの作。本書の「序」で鬼城を境涯俳人として名指した大須賀乙字とその共同正犯高浜虚子は(無論、「序」は虚子、乙字の順で、「境涯」という語を確信犯としてバリバリに用いたのは乙字であるからこれを主犯と言い、やはり確信犯で鬼城の疾患と貧困と数奇不遇な半生を余すところなく語り切った点で共同正犯と私は表現するものである)その「序」の中で、この句の冬蜂は『最う運命が決まつてゐて、だんだん押寄せて來る寒さに抵抗し得ないで遲かれ速かれ死ぬるのである。けれどもさて何所で死なうといふ所もなく、仕方がなしに地上なり緣ばななりをよろよろと只歩いてゐるといふのである。人間社會でもこれに似寄つたものは澤山ある。否人間其物が皆此冬蜂の如きものであるとも言ひ得るのである』などと、虚子らしい如何にもな、いやったらしさで評釈している。こういうのを、ない方がなんぼかマシな評言と云うのである。]
冬蠅    冬蠅をなぶりて飽ける小猫かな
      冬蠅のしきりに迷ひ飛ぶ夜かな
[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記。]
      人起てば冬蠅も起つ爐邊かな
木兎    木兎のほうと追はれて逃げにけり
笹啼    笹啼や蕗の薹はえて二つ三つ
[やぶちゃん注:「笹啼」「笹鳴き」は冬にウグイスが舌鼓を打つように「チチッ」と鳴くこと。]
河豚    河豚の友そむきそむきとなりにけり
      將門と純友と河豚の誓かな
[やぶちゃん注:前句「そむきそむき」の後半は底本では踊り字「〱」。次句は平将門と藤原純友が盟約を交わして共同謀議による天慶の乱をそれぞれに起こしたという、室町期の成立と思われる「将門純友東西軍記」辺りによる伝承に基づく歴史仮想吟。同書には偶然に京都で出会った将門と純友が、承平六(九三六)年八月十九日に比叡山に登って、平安城を見下ろしながら「將門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば關白にならん」と誓約、双方が国に帰って反乱を起こしたとするが、それに関わる「河豚」の故事は知らない。単に乱の顛末を射程にした、河豚を食らわば肝までもといった、死を賭した不惜身命の祈誓という諧謔的謂いと取り敢えずは採っておく。]
鮟鱇    鮟鱇の愚にして咎はなかりけり
海鼠    市の灯に寒き海鼠のぬめりかな
[やぶちゃん注:海鼠フリークの私からすると世にある海鼠の句の中では秀逸の一句と存ずる。]
寒雀    枯枝に足踏みかへぬ寒雀
鷹     鷹老いてあはれ烏と飼はれけり
      老鷹のむさぼり食へる生餌かな
      老鷹の芋で飼はれて死ゝけり
      椋鳥や大樹を落つる鷹の聲
寒鮒    寒鮒を突いてひねもす波の上
水鳥    水鳥の胸突く浪の白さかな
      水鳥に吼立つ舟の小犬かな
鴛鴦     予若かりし時妻を失ひ二兒を抱いて泣くこ
       と十年たまたま三木雄來る乃ち賦して示す
       これ予が句を作る初めなり今こゝに添削を
       加へず
      美しきほど哀れなりはなれ鴛
[やぶちゃん注:「鴛」は「をし(おし)」と読む(言わずもがなながら、カモ目カモ科オシドリ
Aix galericulata の雄を指す)。
 鬼城は満二十九の明治二二(一八八九)年にスミと結婚し二児をもうけたが、三年後の明治二五(一八九二)年、スミは二十七の若さで亡くなった(この年にはその前に実父も鬼籍に入っている)。なお、この「十年」とは「長い間」の意であるので注意。この句はスミの亡くなったその年の句である。「三木雄」は宗教家で俳諧宗匠三森幹雄みもりみきお(文政一二(一八三〇)年~明治四三(一九一〇)年)。陸奥石川郡中谷(現在の福島県石川町)生まれで、本名は寛、別号は春秋庵(十一代を継ぐ)・静波・樹下子・笈月山人・不去庵など多数。江戸で志倉西馬しくらさいばに師事し、後に神道系新宗教教団神道十三派の一つ、神道大成教しんとうたいせいきょう(幕末に外国奉行などを務めた平山省斎せいさいが組織し、明治一五(一八八二)年に一派として独立した教派神道。随神かんながらの道を目的としつつ、静座などの修行を重んじるとともに西洋の諸科学や実用主義を取り入れている)に属して俳諧に拠る教化運動を図って明倫講社を結成、明治一三(一八八〇)年には『俳諧明倫雑誌』を創刊している。著作に「俳諧名誉談」などがあり、門弟は三千人に及んだという。俳人林桂氏の公式サイト『風の冠文庫』の「書評」の「『俳秀加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』金子晋著」に、『村上鬼城が俳句を始めたのは弟平次郎の影響からである。旧派俳人として活躍していた弟に勧められて、明治二十五年東京の偉い宗匠春秋庵幹雄(鬼城は三木雄と表記)に俳句を見て貰ったのが最初である。鬼城の句に旧派の面持ちがあるとすればそのためである。春秋庵の号は幹雄が白雄の系譜に連なることを示している。明治期の群馬の旧派地図は白雄の系譜に連なっていたらしいのである』とある。]
蠣     蠣苞にうれしき冬のたよりかな
[やぶちゃん注:「蠣苞」は「かきづと」と読む。「苞」は「包む」と同語源で、藁などを束ねてその中に食品を包んだ藁苞わらづとの謂い。そこから転じて、それぞれの土地の産物、旅の土産の意となった。牡蠣を送ってくれた相手への挨拶句。]
狼     牛小屋に狼のつく鐡砲かな
[やぶちゃん注:「狼」食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ
Canis lupus hodophilax は明治三八(一九〇五)年一月に奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存)が確実な最後の生息情報とされ、絶滅種であるから、この「狼」はノイヌ(野犬)、野良犬の謂いである。但し、二〇一二年四月に明治四三(一九一〇)年に、鬼城の住む群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行の狩猟雑誌『猟友』)が発見された、とウィキの「ニホンオオカミ」にはあることを申し添えておこう。]



  
植物
茨の實   茨の實を食うて遊ぶ子あはれなり
[やぶちゃん注:「茨の實」バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ
Rosa multiflora の実。落葉性蔓性低木で日本のノバラの代表種でただ野薔薇というと本種を指す。花期は五~六月で枝の端に白色または淡紅色の花を散房状につける(種小名「花が多い」の由来)。個々の花は白く丸い花びらが五弁で雄蘂は黄色、径二センチメートルほどで香りがある。秋に果実(正確には偽果)が赤く熟すが(ここまではウィキの「ノイバラ」に拠る)、冬に近づくにつれて黒ずんでくる。晩秋の季語。その味は――私は食べたことがない――、こちらのまるで神農のように果敢に植物の実の試食を試みておられる、ジュラ2591 さん(女性の方のようにお見受けする)のブログ記事「また赤い実を食べてみた」によれば(改行を/に変えさせて戴いた)、『お口の中で噛んで見るとゴマ粒ほどの種がいっぱい出てきた/果肉はほとんど無い/食べられる部分は果皮と 種の周りに少しある果肉だけ/で 肝心のお味はと言うと/甘酸っぱいです 不味くは無いです/でも でも 食べられるところが少な過ぎ』とある。ジュラさんのこのご感想――実に「遊ぶ子」がそれを「食うて」いるのを見てはとてものことに「あはれなり」と感ずるに相応しいものだという気がするのである。]
落葉    落葉して心元なき接木かな
      二三疋落葉に遊ぶ雀かな
枯蓮    蓮の葉の完きも枯れてしまひけり
[やぶちゃん注:「しまひけり」の「し」は底本では「志」を崩した草書体表記。「完きも」は「またきも」と訓じているものと思われる。「またし」は今の形容詞「完(まった)し」で、完全だの意、「も」は係助詞で詠嘆であろう。]
枯草    枯草にふるひ落しぬ網の魚
      枯草にてらつく石の二つ見ゆ
      ほうほうと枯れてぬくしや茅の花
[やぶちゃん注:「ほうほう」の後半は底本では踊り字「〱」。]
      枯草にしみ入つて消ゆ白糸の瀧
[やぶちゃん注:「しみ入つて」の「し」は底本では「志」を崩した草書体表記。]
      うら門に蔓草枯れてかゝりけり
枇杷の花  枇杷咲いてこそりともせぬ一
日かな
[やぶちゃん注:グーグル画像検索「ビワの花」。]
冬木立   赤城山に眞向の門枯木かな
      小鳥ゐて朝日たのしむ冬木かな
      茶博士の冬木の時を好みけり
      道端に根を張出して冬木かな
枯藻    水底に沈ンで枯るゝあさゝかな
[やぶちゃん注:「あさゝ」双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ
Nymphoides peltata。浮葉性植物で地下茎を延ばして生長する。スイレンに似た切れ込みのある浮葉をつける。夏から秋にかけて黄色の花を咲かせ、五枚ある花弁の周辺には細かい裂け目を多数有する。水路や小河川・池に生育し、浮葉植物であることから波浪が高い湖沼には通常は生息しない。池や水路の護岸工事や暗渠化・水質汚濁などによって各地で個体群が消滅・縮小している。「浅沙」「阿佐佐」などと漢字表記するから清音でもおかしくない(以上は主にウィキの「アサザ」に拠る)。因みに学名の属名“Nymphoides”(ニンフォイデス)は、ラテン語の「少女」「ニンフ(妖精)」の由来ではなく、ギリシャ語の“Nymphaea”(双子葉植物綱スイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea のヒツジグサ Nymphaea tetragona)+“eidos”(外観)の合成語が語源で、本種がスイレン属のヒツジグサ(「ヒツジグサ」の由来は未の刻(午後二時)頃に花を咲かせることからとされるものの実際は朝から夕方まで花を咲かせている)に似ていることに因んだもので、種名の“peltata”は「楯状の」を意味している。別名、花蓴菜はなじゅんさいともいう(この部分は個人ブログ「花々のよもやま話」の「アサザ(浅沙)」及びウィキの「ヒツジグサ」に拠った)。]
      長々と根を引き這うて枯藻かな
歸花    藁積んで門の廣さや歸花
      歸花咲いて虫飛ぶ靜かな
[やぶちゃん注:「歸花」初冬の小春日和の頃、草木が時節外れに花を咲かせること。「帰咲き」「返咲き」「返花」に同じい。]
山茶花   山茶花や二枚ひろげて芋莚
[やぶちゃん注:山茶花の咲く日向に掘り出した芋を莚の上で乾かしている景。芋類は水分の含有量が多いとすぐに腐るので通常、一週間ほど乾燥させる。]
冬の蘭   水晶宮裏師走の蘭咲けり
[やぶちゃん注:「水晶宮」水晶宮(
The Crystal Palace)は一八五一年(嘉永四年相当)にロンドンのハイドパークで開かれた第一回万国博覧会の会場として建てられた建造物のことを指していよう。ジョセフ・パクストン(Johseph Paxton 一八〇三年~一八六五年)の設計になる鉄骨とガラスで作られた巨大な建物で、プレハブ建築物の先駆ともいわれる。パクストンの設計によれば長さ約五六三メートル、幅約一二四メートルの大きさであった(「水晶宮」という名はイギリスの雑誌『パンチ』のダグラス・ジェロルドによって名づけられたもの)。万博終了後は一度解体されたものの、一八五四年(嘉永七年相当)にはロンドン南郊シドナムにより大きなスケールで再建され、ウィンター・ガーデンやコンサート・ホール、植物園・博物館・美術館・催事場などが入居した複合施設として多くの来客を集めた。一八七〇年代(明治三年から明治十二年相当)代頃から人気に陰りが見え始め、一九〇九年(明治四十二年相当)に破産した。その後は政府に買い取られて第一次世界大戦中に軍隊の施設として利用された後、戦後に一般公開が再開されたが、一九三六(昭和十一年相当)年十一月三十日に火事で全焼、再建されなかった。現在ではロンドン南郊の地名、水晶宮がかつて存在した地にある公園とスポーツ・センターにその名が残る(以上はウィキの「水晶宮」に拠った)。鬼城が俳句を始めたのは代書人となった三十歳の頃で、これは明治二八(一八九五)年頃に当たるから、鬼城が本句を詠んだのは既に水晶宮は左前になりかけてから破産するまで、若しくは軍施設から再度一般公開されてからのこととなるが、それでも同パビリオン内の温室の植物園で美しい冬の蘭を咲かせている写真記事が新聞かグラフ誌に載っていたのを見た印象句であろう。「鬼城句集」の刊行は大正六(一九一七)年で水晶宮はその八年前に破産しているから水晶宮の閉鎖記事を鬼城が読んでいてかつて詠んだ本句を追想として自撰したものとも考えられようか。鬼城の句の中では非常に変わった句であることは間違いない。]
大根    大根に蓑着せて寐ぬ霜夜かな
[やぶちゃん注:「着せて」の擬人法が諧謔として利いており、大根の比喩的属性も相俟って巧まずして面白い句ともなっている。例えば次の句の景との与える印象の莫大な差と比較してみるとよい。]
      大根を隣りの壁にかけにけり
葱     石の上に洗うて白き根深かな



鬼城句集



大正六年四月拾參日印刷
              定價參拾五錢 
大正六年四月拾七日發行

 鬼       東京小石川區大塚坂下町六二
     編輯者  大 須 賀   績
 城       東京府下淀橋町柏木六九
     發行者  下 山 儀 三 郎
 句       東京市下谷區同朋町四
     印刷者  酒 井   惣 平
 集       東京市下谷匠同朋町四
奥 附  印刷所  博 文 堂 印 刷 所
    東京市麹町區麹町六ノ五
發行所   中 央 出 版 協 會
        振替東京二八三八一番

[やぶちゃん注:上記の最終頁(句はない)と次の左頁奥附を以下に画像で示す。奥附裏には広告があるが省略する。]