旅芸人のスケッチ――29年前:舞踊家ギリヤーク尼ヶ崎
やぶちゃん作(copyright 2005 Yabtyan)(以下は私の1976年10月23日執筆になる旧稿である。)
旅芸人のスケッチ
死んだ絵ばかりだ――むかむかする胸を意識しながら、T美術館を出た。
秋も深いのに、いやに蒸し暑く、どんよりとした都会の空が、まだ見てきた絵画の虚妄よりいいと思う。しかし、これも本当の空じゃない、人人人の群れの吐息で創られた不安な空。
朝からの空腹に気づいて、露店のおでんでも突こうと、通用門に向かうと、何やら人だかりが出来ている。石畳が終わって、煤けたアスファルトに接する辺りから、その少し向こうにある木を中心にアーチの様に人々が何かに見入っている。
人垣越しに覗くと、サーカスのピエロの服を着た――赤の下地にカイゼル髭のような唐草金模様を入れた奴を着た男が、演目を書きなぐった題箋を持って、くるくると小器用に足をずらしながら観客に見せている。それには「旅芸人」と記されてあった。彼の横には立て札があって、「大道芸人―青空舞踊公演、上演時間十五分」とある。
空きっ腹のその中で、フフンとせせら笑った。
……「青空」の下の芸術した舞踏やらを拝見させて頂こうか……
実際僕は、高校時代の演劇部の経験から、こうしたものを素直に見ることの誠実さを全くもって失っていたのだ。
大学入学後、一度は芝居を志したものの、チンケな前衛演劇が性に合わず、演じない演者を気取っていたとも言える。演ずることへの情熱を失いながら、同時に演ずることは、孤独な僕の唯一の支えでもあったのだ。役者に生活を賭けてみようかと思ったことも、なくはなかった。いや、それは今もある、と僕は一人ごちた。
「旅芸人」
演技が始まる。傍らのテープレコーダーから、ノイズだらけの賑やかな音楽とナレーションが流れ出す。
……いやはや、そのノイズこそ絶妙の対位法だよ……
――一人の旅芸人が芸をやめて、一人公園のベンチに坐っていた――だが、その姿は何故か淋しい――
男は肩から斜めにボール紙のギターをぶら提げて、ゆっくりと淋しげな顔で前へ歩み始める。僕は、そのまん前に居た。
……さて、あはれ、旅芸人、その影、その苦、か……
……何という異形、何という剥き出しだ……おや、でも彼の顔は……僕の顔だ……
曲は一転烈しくなった。観客にぶつかりそうになりながら、十分、ぶつかりながら、独楽のように回る、踊る、回る、踊る、回る、踊る……。
旅芸人は過ぎ去りし華やかな過去を思う。
……あの顔、あれは確かに、僕が遂に逢うことのなかった、それでいて誰よりよく知っている、あの旅芸人、あれは僕だ……
舞踏は自己流だろう。ぎこちなく、バランスも崩れて滞り、破綻も随所に露呈する。
だが、僕は頬を引き攣らせて嫉妬した。
……彼は、「僕」を、美事に演じている……そうして、僕には、その「僕」を、彼のように演じることは、到底、不可能なのだ……
五分もしないうちに、「旅芸人」は終わり、男は薄汚れた布を頭から引っ被り、着替えを始める。痩せて筋張った足、それでいて精力を感じさせる黒々とした体毛、見え隠れする性器が、ちらちら布から覗く。それと前後して、ぽろぽろと人も散った。
その間中僕は、最前列にしゃがみ込み、僕を完全に打ちのめしたこの男を、ただ凝っと見ていた。
「白鳥の湖」
彼が示すその演題とその姿に、失笑の漣が広がった。
僕はまんじりともせず見つめていた。アスファルトに埋め込まれた捨て墓の石のように。
曲も衣装もバレエそのもの、その舞踊も至極まじめな、そのものなのだ。
人々は大いに笑う。僕は哀しむ。そして彼は、この舞いにひどく体力を消耗したのを、僕は見て取った。
……彼には、お笑いなどでないのだ……彼は真剣に「白鳥の湖」を踊ったのだ……それが、彼の白鳥なのだ……
「津軽じょんがら節」
破れ笠、赤襦袢、桃色の腰紐、捩れた木に箱が打ちつけられたは三味線、撥――小道具は絶妙だ。茣蓙に座す。徐に礼をする。それは始まった。
驚喜と狂気、猥褻と哀切、凄絶と清冽、目くるめく病んだ幻暈――。
前が肌けてくる。肋だらけの胸、ちらつく赤褌――。
……演ずる者は死を賭して演じてこそ演者である……この男は褌が解けても、踊り続ける……いや、己が性器に噛み付く……
観客の侮りが萎んでゆくのがよく分かる。
……赤裸々! 赤が地を這う、空(くう)を翔ぶ……麗しきかな、猥褻の洪水!……
僕は今し方、僕を悩ませていた何百というダルな絵の残滓を、すっかり、洗い流していた――。
芸は、終わった。
男は僕の丁度斜め右前に、投げ銭の筒を置いた。
人々が、投げ入れる都度、真正面に蹲る僕の目の前で、男は、僕に向かってするように、アスファルトに額を擦り付けて、
――アリガトウゴザイマス、アリガトウゴザイマス――
と繰り返す。それでも僕はそこから立ち上がれずにいた。
誰も居なくなった。彼は土下座している。僕は最後に、懐の僅かなザラ銭を摑むと、筒に落とした。
彼が最後に言った。やっぱり、額を突いて。
アリガトウゴザイマス
彼の目が僕を貫く。強烈な汗の臭いが鼻を打った。
彼と話したい欲求を懸命に抑えながら、薄暗い公園の木下闇を縫うて行く。
「ちょっとオカシイんだよ、きっと」
と言う声が、笑いとともに聞こえた。
修学旅行の生徒の群れた木の下で、煙草を燻らせてみる。
もう六時半を回って、ネオンが五月蠅く、闇の領域を犯している。
足元に、銀杏の葉が散っている。その形は人の笑った形だ。
ガアと電車が走った。
僕は、ただ虚ろに漆黒の闇を求め、公園の外れの池へと向かっていた――。