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紀伊國道成寺僧寫法花救蛇語第三 (「今昔物語集 第卷十四」より)
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[やぶちゃん注:私は都合、「今昔物語集」を五種所持しているが、今回は読み易さを考え、その内の原文のカタカナを平仮名に直した、岩波書店二〇〇一年刊の池上洵一編「今昔物語集 本朝部(上)」の当該箇所を底本とした。但し、私のポリシーに則り、新字を正字に変え、ルビは底本は新仮名遣であるので、底本に拠らず、諸本を閲し勘案した上で私が必要と考えた箇所にのみ歴史的仮名遣で附した。特に一部の読みは、やはりは読み易さを考えて現在の送り仮名に合わせて本文に出す(その結果としてルビを振らなかった箇所もある)という方法を採った(但し、漢文脈の部分はその限りではない)。他にも一部に独自の句読点を追加・変更、記号の一部にも変更を施してある。本文は「大日本國法華經驗記」を典拠としており、使用語句や表現も非常によく似ているので、難語に関しては私の『紀伊國牟婁郡の惡しき女(「大日本國法華經驗記」より)』の注を参照されたい。それ以外の注を簡単に各段落の後に附し、後を一行空けとした。]

  
紀伊の國の道成寺の僧、法花を寫して蛇を救へる語第三

 今は昔、熊野に參る二人の僧有けり。一人は年老いたり。一人は年若くして形㒵ぎやうめう美麗也。牟婁むろの郡に至りて、人の屋を借りて、二人共に宿りぬ。其の家のあるじやもめにして若き女也。女の從者じゆしや、二三人許り有り。
[やぶちゃん注:「形㒵」「㒵」は顔。顔貌。]

 此の家主いへあるじの女、宿りたる若き僧の美麗なるを見て、深く愛欲の心をおこして、ねんごろにいたはり養ふ。而るに、よるに入りて、僧共既にぬる時に、夜半許りに家主の女、ひそかに此の若き僧の寢たる所に這ひ至りて、ころもを打ち覆ひて幷び寢て、僧を驚かす。僧、驚きめて恐れ迷ふ。女の云はく、「我が家には更に人を不宿やどさず。而るに、今夜君を宿す事は、晝、君を見始めつる時より、をうとにせむと思ふ心深し。然れば、『君を宿して本意ほんいを遂げむ』と思ふに依りて、近づき來たれる也。我れ、夫無くして寡也。君、哀れと可思おもふべき也。」と。僧、此れを聞きて、おほきに驚き恐れて、起居おきゐて女に答えて云はく、「我れ宿願有るに依りて、日來ひごろ身心精進にして、遙かの道を出で立ちて權現の寶前に參るに、忽ちに此にして願を破らむ、互ひに恐れ可有あるべし。然れば、速やかに君、此の心を可止とどむべし。」と云ひて、あながちにいなぶ。女、大きに恨み、終夜よもすがら僧をいだきて擾亂ねうらんたはぶると云へども、僧樣々のことを以て女をこしらへて云はく、「我、君ののたまふ事、辭ぶるには非ず。れば、今、熊野に參りて、兩三日に御明みあかし御幣みてぐらを奉て、還向ぐゑんかうついでに君の宣はむ事に隨はむ。」と約束を成しつ。女約束をたのみて本の所に返りぬ。夜けぬれば、僧、其の家を立ちて熊野に參りぬ。
[やぶちゃん注:「宿りたる若き僧の美麗なるを見て、深く愛欲の心を發して、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
「僧共既に寢ぬる時に、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
「僧を驚かす。僧、驚き覺めて恐れ迷ふ。」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。本作は僧の就寝を強く印象づけて、その寝床に侵入され、「驚か」され=目を醒させられて、更に「驚愕する」僧を極めて艶にクロース・アップする。
「我れ、夫無くして寡也。君、哀れと可思き也。」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。女は言葉に於いても原典よりもストーカー的な積極性を示している。
「我れ宿願有るに依りて、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
「願を破らむ」「破らむに」と同じで、宿願を破っるようなことがあったとしたら、という条件句。
「互ひに恐れ可有し」あなたも私もともに神罰を受けるに違いありません、の意。
いなぶ」拒絶する。]

 其ののち、女は約束の日をかぞへて、更にほかの心無くして僧を戀て、もろもろの備へをまうけて待つに、僧、還向の次でに、彼の女を恐れて、不寄よらずして、思ほかの道より逃げて過ぎぬ。女、僧の遲く來たるを待ち煩ひて、道のほとりに出でゝ往還の人に尋ね問ふに、熊野より出づる僧有り。女、其の僧に問ひて云はく、「それの色の衣着たる、若く老いたる二人の僧と還向しつる。」と。僧の云はく、「の二人の僧は早く還向して兩三日に成ぬ」と。女、此の事を聞きて、手を打ちて、『既にほかの道より逃げて過ぎにけり。』と思ふに、大にいかりて、家に返りて寢屋に籠り居ぬ。音せずして暫く有りて、即ち死にぬ。家の從女等とものをむなら此れを見て泣き悲しむ程に、五尋いつひろ許りの毒蛇、忽ちに寢屋より出でぬ。家を出でゝ道におもむく。熊野より還向の道の如く走り行く。人此れを見て大きに恐れを成す。
[やぶちゃん注:「還向の次でに、彼の女を恐れて、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
「思ほかの道より逃げて過ぎぬ」の「思」は、「思ひの他のより逃げて過ぎぬ」と読むことも可能であるが、諸注は殆んど「たちまち」の誤写の可能性を指摘する。
「遲く來たるを待ち煩ひて」は「遲くして來たらざるを待ち煩ひて」の意。
それの色の」かくかくしかじかの色の、の意。
「若く老いたる二人の僧」は「若き僧と老いたる僧の二人」の意。
「『既にほかの道より逃げて過ぎにけり。』と思ふに、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。明らかにこの「今昔物語集」の筆者は女の妬心を女の内面に即して記述しようとしている。
「即ち死にぬ。家の從女等とものをむなら此れを見て泣き悲しむ程に、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。これは民俗学的には大きな相違点で、「大日本國法華經驗記」では、現在の一般に知られる道成寺縁起のように読者は生きながらにして女が蛇と化したとするのに対し、「今昔物語集」の筆者は嫉妬に来るって一度、悶死した女が、蘇生して蛇体と化すというシチュエーションを意識的配している。それが確信犯的なプロット変更であることは、わざわざ侍女らの悲嘆シーンを持ち込むことで、読者に女の死を、言葉だけではなく実景として確認させていることからも分かる。]

 彼の二人の僧、前立さきだちて行くと云へども、自然おのづから人有りて告げて云はく、「此の後ろに奇異の事有り。五尋許りの大蛇出で來て、野山を過ぎ、疾く走り來たる。」と。二人の僧、此れを聞きて思はく、「定めて此の家主いへあるじの女の、約束を違ひぬるに依りて、惡心を發して毒蛇と成りて追ひて來たるならむ。」と思ひて、疾く走り逃げて、道成寺と云ふ寺に逃げ入りぬ。寺の僧共、此の僧共を見て云はく、「何に事に依て走り來れるぞ。」と。僧、此の由を具さに語りて、可助つくべき由を云ふ。寺の僧共、集まりて此の事を議して、かねを取り下ろして、此の若き僧を鐘の中に籠めへて、寺の門を閉ぢつ。老たる僧は寺の僧に具して隱れぬ。
[やぶちゃん注:「自然から人有りて告げて云はく」とは、彼等の方から訊ねたのではなく、後からやって来る旅人らの噂話が耳に入った、ということを意味する。
・「約束を違ひぬるに依りて、惡心を發して」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。「惡心」は煩悩に狂った怒りの意。
・「寺の僧共、此の僧共を見て云はく、「何に事に依て走り來れるぞ。」と。僧、此の由を具さに語りて、可助き由を云ふ。」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
「老たる僧は寺の僧に具して隱れぬ。」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。私は本作がこの老僧を常に描写しているのが気になる。]

 暫く有りて、大蛇此の寺に追ひ來たりて、門を閉ぢたりと云へども超えて入りて、堂を廻る事一兩度して、此の僧を籠めたる鍾の戸の許りに至りて、尾を以つて扉を叩く事、百度許り也。遂に扉を叩き破りて、じや入りぬ。鍾を卷きて尾を以つて龍頭りうづを叩く事、二時三時許り也。寺の僧共、此を恐ると云へども、怪しむで、四面の戸を開きて、集まりて此れを見るに、毒蛇ふたつのまなこより血の涙を流して、頸を持ち上げて舌嘗づりをしてもとの方に走り去りぬ。寺の僧共、此れを見るに、大きなる鍾、蛇の毒熱の被燒やかれほのほ盛ん也。敢へて不可近付ちかづくべからず。しかれば、水を懸けて鍾を冷して、鍾を取り去りて、僧を見れば、僧、皆、燒け失せて、骸骨、なほ不殘のこらず、纔かに灰許り有り。老僧此れを見て、泣き悲しむで返りぬ。
[やぶちゃん注:「門を閉ぢたりと云へども超えて入りて、」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。
なほ不殘のこらず」の「し」は文節強調の副助詞。こそ。さえ。
「老僧此れを見て、泣き悲しむで返りぬ。」相当句は「大日本國法華經驗記」にない。というより、先に見たように、原典は老僧の描写を行わないのである。この老僧は無論、同行していた年老いた僧である。私は少なくとも「今昔物語集」の筆者は、この老僧と主人公の若い層の間に同性愛関係を嗅ぎつけているように思われるのであるが、如何であろう。]

 其の後、其の寺の上﨟たる老僧の夢に、前の蛇よりも大きにまされる大蛇、直ちに來たりて、此の老僧に向ひて申して云はく、「我は此れ、鍾の中に籠め置かれし僧也。惡女毒蛇と成りて、遂に其の毒蛇の爲に被領りやうぜられて、我れ、其のをうとと成れり。つたなきたなき身を受けて苦を受くる事量無はかりなし。今、此の苦を拔かむと思ふに、我が力、更に不及およばず。生きたりし時に法花經をたもちきと云へども、願はくは聖人の廣大の恩德おんどくかうぶりて、此の苦を離れむと思ふ。殊に無緣の大慈悲の心を發して、淸淨しやうじやうにして法花經の如來壽量品によらいじゆりやうぼむを書寫して、我等二つの蛇の爲に供養して、此の苦を拔き給へ。法花の力に非ずは、いかでかのがるゝ事を得む。」と云ふと返り去りぬ、と見て、夢、覺めぬ。
[やぶちゃん注:「生きたりし時に法花經を持ちきと云へども」以下の部分について、底本の池上氏の脚注に『底本は「云ヘドモ」の下に約二字分の空白があり、接続線(―)で下文とつないであるが、脱文があるか。』と記されている。「大日本國法華經驗記」の相当箇所、
存生ぞんしやうの時、妙法を持せしといへども、薫修くんじゆ年淺くして、いまだ勝利に及ばざりき。決定業けつぢやうごふくところ、この惡緣に遇へり。今聖人の恩をかうぶりて、この苦びを離れむと欲す。
では「薫修年淺くして、いまだ勝利に及ばざりき。決定業の牽くところ、この惡緣に遇へり。」の具体的な男の自己認識パートがごっそり欠落していて、「大日本國法華經驗記」の方が遙かに分かり易い記述になっている。これが何らかの意識的なものであったとすると、そこいは「大日本國法華經驗記」の辛気臭い雰囲気にある種の抵抗感を持った「今昔物語集」の筆者の面影を垣間見るような気もする。]

 其の後、老僧、此の事を思ふに、忽ちに道心をおこして、みづから如來壽量品を書寫して、衣鉢えはつを投げてもろもろの僧を請じて、一日いちにち法會ほふゑしゆして、二つの蛇の苦を拔かむが爲に供養し奉りつ。其ののち、老僧の夢に、ひとりの僧・ひとりの女有り。皆、みを含みて喜びたる氣色けしきにて、道成寺に來たりて、老僧を禮拜して云く、「君の清淨の善根ぜんごんを修し給へるに依りて、我等二人、忽ちに蛇身を棄てゝ善所ぜんじよおもむき、女は忉利天たうりてんに生れ、僧は都率天とそつてんに昇りぬ。」と。如此かくのごとく告げをはりて、おのおの別れ、空に昇りぬ、と見て、夢、覺めぬ。
[やぶちゃん注:「大日本國法華經驗記」を典拠とするのはここまで。以下、最後まで「大日本國法華經驗記」に一切なく、「今昔物語集」の筆者によるオリジナルな附帯部分である。]  其ののち、老僧喜び悲しむで、法花の威力をいよいよ貴ぶ事、無限かぎりなし。まことに法花經の靈驗掲焉れいげむけちえんなる事不可思議也。新たに蛇身を棄てゝ天上にむまるゝ事、偏へに法花ほふくゑの力也。此を見聞く人、皆、法花經を仰ぎ信じて、書寫し、讀誦どくじゆしけり。亦、老僧の心、難有ありがたし。其れも前生ぜんしやうの善知識の至す所にこそ有らめ。此れを思ふに、彼の惡しきをむなの、僧に愛欲をおこせるも、皆、前生の契りにこそは有らめ。
[やぶちゃん注:「掲焉」著しいさま。目立つさま。「けつえん」とも読む。
「法花」法華経に同じい。
「其れも前生の善知識の至す所にこそ有らめ」とは、この老僧がその無縁の大慈悲によって蛇体と化したこの男女を浄土へ生まれ変わらせることが出来たのも、総てはこの老僧が善知識(仏法の真理を教え、利益を与え導く高徳の人)となるべく、前世に於いて決定けつじょうしていた、まさに因縁によるものに違いない、の意。次の女の悪因縁とともに、因果応報論を駄目押しする。]

 しかれば、女人の惡しき心の猛き事、既に如此かくのごとし。此れに依りて、女に近付く事を、ほとけあながちにいましめ給ふ。此れを知りて可止とどむべき也となむ語り傳へたるとや。
[やぶちゃん注:本来の法華霊験譚の目的から逸脱して、今ならトンデモ女性差別と批難される、プラグマティックな偏見で閉じる。]