Андрей Тарковский 断章 死に至る病、ノスタルギア……
■イコンの夢――「ローラーとヴァイオリン」(copyright 2005 Yabtyan)
私の場合、象徴と分析という止み難い誘惑の水際で、アンドレイの作品に触れることが肝要であると思いつつも、そこに紡ぎ出された彼の心象を、垣間見る至上のエクスタシーに身をまかせたくなってしまうのが本音だ。
そこにはアンドレイのほとんどすべてのエレメントがある。少年・鏡・リンゴ・イヴ・少女・音楽・禊・試練・聖痕・水・母・幽閉・飛翔……。処女作にして、これほどの黙示を現わし得たということがすでに驚嘆に値しよう。彼は、セルゲイの煙草の咳き込みに、自らの宿阿となる病さえ予兆しているかのようではないか。
おけいこに通うサーシャ。街角の情景がミラージュ・レンズで流れる。凡庸な日常性を一枚の鏡面で容易に超越し得る「少年」というものの存在。それはアンドレイが終生追い求めたイコンではなかったか。イコン(ギリシャ語源)という言葉はイメージ(ラテン語源)という言葉と意味上、同源であり、単に聖画像だけでなく、『神との交わりのための案内役を果たすものならばすべてイコンと呼ばれうる』のであり、それが示すこの世の内奥の意義は、『極端に映像といってもかまわない』という[1]。イコンとしての、少年の見る夢。少年はもちろんアンドレイ自身でもあり、イコン--夢の「鏡」像は、虚像どころではなく、真理を知る鍵としての役割を担っている。『ノスタルギア』のゴルチャコフとドメニコの姿見のシーンを持ち出すまでもなく、『鏡』という作品自体が、そのようなものとして在る。さて、サーシャは、はにかみつつ、少女に「リンゴ」を贈る。レッスンは惨憺たるものに終わる。それはサーシャの拙劣さ故ではない。教師の威圧故に彼は飛べないのだ。拘束された日常にあっては、真の楽は奏でられぬ。可憐な少女は、しかし、意気消沈して去ってゆくサーシャの心情を理解し得ただろうか。原罪・知恵の象徴たるそれは無惨にかじられ、ダリの作品の如く、慄っとする均衡をもって椅上に屹立している。「イヴ」を内包する「少女」--その無意識の残酷さゆえに、少女は美しいのだ。また、あれほど無頼な「少年」達がサーシャのヴァイオリンに、後じさりをするほかないというシークエンスにも着目しておこう。それはアンドレイが『ストーカー』『ノスタルギア』で人間が共有し得る唯一のものとして示した「音楽」のオーラの力を彼らも感じ得たからにほかならない。
ローラーの運転を許されたサーシャはセルゲイと同じように油まみれの手をしている。二人はすがすがしい顔で、一緒に手を洗うが、これはアンドレイにとって、「禊」としての通過儀礼以外のなにものでもない。これなしには続く二人の関係は生起し得ないのだ(もちろん、ここで私の言う「禊」とは、狭義の日本的フォークロアとしての意味ではなく、心理学上のカタルシスの近い。ちなみに、私には、アンドレイの作品の表象を、演繹的に東洋に結び付けることは、彼の嗜好を考慮に入れても、かなりの慎重さが必要であると思われる。加えて、この 「ローラーとヴァイオリン」を、労働と芸術の調和という紋切り型に読み取る誤りについては、岡島尚志氏の詳細な論[2]を参照されたい)。
さらに、続くシークエンスで、サーシャは、いじめっ子に意見して、突き倒されるという「試練」を経るが、そこで受けた打撲こそ、アンドレイの以後の作品に狂人・傷痕・奇形・白髪といった形で現われる、聖性の証左、選ばれたものたる「聖痕(スティグマ)」である。他作品の主要な登場人物のスティグマは、すべて先に示したような顕在性が認められるが、ことセルゲイにはそれがないように見える。しかし、子細に見ると、昼食後のサーシャとの会話の中で、セルゲイが戦争の話に対して微妙な心因反応を示す部分が目にとまるであろう。ここに彼の戦時体験(「試練」)による心傷(外部に現われない「スティグマ」)が示されており、まさしくセルゲイは『僕の村は戦場だった』のラスト・シーンの頬に傷を持ったガリツェフ中尉、いや、原作では生き残るイワンであると言ってもよいのではないか。そして、丸天井の下で、水を得た魚のように、至福の内に奏でられたサーシャの曲の主旋律冒頭が、セルゲイの心の中で、静かにリフレインした時、スティグマを共有したものとしての二人は、全的な絆で結ばれたのだ。だからこそ、ここで同時に、アンドレイにとって最も根源的な「水」の反射が、鮮やかにセルゲイの横顔に映えるのだ。
だが、「母」がその絆に介入する。家に「幽閉」されたサーシャが飛ばすセルゲイへの紙飛行機の手紙。「飛翔」は、アンドレイにとって、人間存在そのものの開放を現わすエレメントであろう。しかし、サーシャを待つセルゲイを誘惑し連れ去るのはまたしても「イヴ」--。にもかかわらず、サーシャとセルゲイはともに在る。扉を透過し、階段を飛ぶようにすべってゆくサーシャの心。セルゲイとローラーと水たまりと鳩とサーシャ。「水」と「飛翔」に縁どられたイコンの夢--。
[1]高橋保行「イコンのこころ」(春秋社 一九八一年)一〇~一一ページ
[2]岡島尚志「世界の全ての記憶」 (「イメージ・フォーラム」一九八四年五月号)
■アンドレイの治癒――「僕の村は戦場だった」(copyright 2005 Yabtyan)
近年の幼少年時の神経症治療に盛んに用いられるものに、箱庭療法が上げられるが、アンドレイの作品に散見される事物のミクロからマクロへの錯視的ショットは彼にとって一種の箱庭であり、映画創造の過程が、アンドレイにとって精神上の治療的意味合いを持っていることは否めない事実であると思われる。彼の先のショットへのこだわりは、不自然な解説を拒否しており、自己完結的、偏愛的でさえある。
また、アンドレイが、映像の中で描いた夢について、分析されることを嫌ったことは、夢を綴ることを、自己の内在の崩壊を理由に拒んだ澁澤龍彦のそれと共通するように思われる。アンドレイは、いかなる学派の精神分析をも信じてはいないであろう。結果する解釈の如何にかかわらず。否、アンドレイを偏愛する私達自身が、あれだけ分析的誘惑を持った映像群を前に、なぜこれほどまでに病跡学的な解釈に禁欲的であるのかということを自問することの方が先かもしれぬ(余談であるが、近年の目覚ましいパトグラフィの隆盛の中にあって、映像部門への本格的なアプローチを示したものは邦文の専門論文では、めぼしいものがない)。それは、私達が分析を拒否するアンドレイとの自己同一化を希求している表われでないとは言い切れまい。アンドレイが夢の分析を嫌ったことは、精神分析を受ける患者が、夢分析の内容を容易には受け入れないことと表面上は似ていると言っておこう。しかし、厳として「ある」解釈は存在し、それに目をつぶることは、「ある可能性」を全否定する閉塞した批評状況であると思われる。
飛翔するイワンのショットに続く崖の錯視的ショットをまず問題にしよう(もちろんこのショットは、冒頭から機銃音によって断たれるイワンの夢のシークエンスの一部を成している。その連関については後に触れる)。ここでアンドレイは明らかに、通常の視覚的亨受限度を越えたスピードでカメラをパンさせている。そこには、むき出しの土の起伏や、はみだした木の根っこが映るが、それは右手からイワンの姿が映し出されてくる少し前に、パンのスピードが落ちて初めて関知されるようになっている。すなわち、このショットの直前の飛翔-下降場面の感覚的推移から、私達は空中から俯瞰したマクロ的大地としてこれを捉えざるを得ない。イワンの登場後も実は、私達の中での(ちっぽけな崖=大地)の感覚は不思議に保持され続ける。それが、カメラが止まった時の、イワンの視線の効果なのだ。私達は、イワンとともに大地=母なるもの=立ち帰るべき原初のガイアを見つめている。それは少年にとって不可解でありながら、限りない郷愁の場としてあるのであり、「ありとあらゆるもの」が完全に調和された世界なのだ。事物としての個別性を越え、自然が総体として全的に表現された場なのである。アンドレイにとっての箱庭的景観とは、すべてを包括する帰すべき調和した宇宙という逆説であり、胎児の夢とも言うべきものである。胎児の夢-それは、おそらく私達が最初に捉えた全宇宙像ではなかろうか。この直後に、イワンの母が登場することは、そうした文脈の中で考えた時に、必然性がある。アンドレイは、『ノスタルギア』でドメニコに語らせたように、解体して行く現実世界を原初的なものに、帰一させたいという願いを持っていた。『イワンの少年時代』のラストシーンにおいても、川を走るイワンの方向は、明らかにフレームの外の一点に収束している。あらゆる可能性の未来へではなく、当然帰結すべきである、彼岸へ向かって。
■ソラリス-太母-神――「惑星ソラリス」(copyright 2005 Yabtyan)
アンドレイが「ソラリス」を制作するに当たって、すべてを地球上での出来事にしようとしたことは周知の事実であるが、その原ストーリーが如何なるものであったか、そこで彼が意図したものは何であったかは、現在の情報ではほとんど謎に近い。また、彼が自作中、最も不満であったであろう「ソラリス」の中に、それを見出すことも容易ではない。レムとの論争こそ、その疑問を解く最良の鍵であろうが、両者とも感情的理由からか(少なくともレムはそうである)、多くを語っていない。アンドレイの原「ソラリス」がレムのそれと全く異質なものであることは明白である。しかし通常の意志疎通を欠く異生体との接触というレムお得意のストーリーの中でも、その対象が、巨大な惑星であり、海であるという点に着目するならば、本来のアンドレイの意図は、自ずと見えてくるような気がする。そしてそれは、紛れもない「地上」での「人間」の物語としての構造を目指しているのである。
言うまでもなく、海は太母であり、原初の創造体である。ソラリスの海はまさしく比喩としてではなく、そういうものとして『ある』のである。なおかつ、ソラリスは人間の意識下のコンプレクスを実体化するという点において、すなわち人間に対して解くことの出来ぬ根源的な良心の問題(台詞にも現われている如く……そしてアンドレイはおそらくこの台詞を言わせずに済ませたいと思っていたに違いないのだが)を突きつけるという点において、絶対者としての神そのものなのである。それに対して、サルトリウスもスナウトも、風車に挑むドン・キ・ホーテなのである。サルトリウスは度し難い唯物論的無神論者であり、スナウトはショウペンハウエルばりの厭世主義者の一面を持つ。もはや彼等は「教え」を受け入れるべき余地がないのだ。
それに対して、クリスは、過去においてハリーを自殺に追いやったという罪障感を持ち、現在の家庭や社会生活での人間関係も余りうまくいっていない人物としてまず描かれる。彼はまた、ソラリスには水爆を打ち込めばそれでかたがつくとさえ言い放つほどに投げやりな心理状態にさえある。つまり彼には「教え」が、そして「癒し」が必要なのである。ソラリス到着後の彼の変容過程は重要である。お客としてのハリーを殺害することで、自分の原体験を極めて稀な形で追体験する。そこで彼は、お客を実際のハリーとして認めることで、自己の倫理観を最も原初的な形で蘇らせることに成功したのである。原罪への回帰である。
さらにハリーと認められたお客は、自分自身ハリーのアイデンティティを確立する(以下ハリーと表記)。しかし、ここでのハリーの自己同一性の獲得は、とりもなおさず、クリス自身の内的変容の外化されたものであることに気付く必要がある。その辺りに、クリスとハリーが、アダムでありイヴであるという図式がかなり明白に打ち出されているように思われる。クリスの中の心傷=肋骨がハリーを産むのである。
ハリーはその時点で、女性の原型である。それは、クリスの夢--これは論理的にはソラリスがクリスに感応して創出したクリスの『心的事実』である--の中でハリーと母が、分明でなくなっていることからも分かる。
ハリーは獲得した自らの意志で消えて行く。まさしくそれは救われたことにほかならぬ。それも無原罪のものとして。そして、ステーションの窓辺に置かれた草の芽生えのクロースアップ。生の創造。本来の生への回帰。放浪の試練の終わり。エデンとしての故郷の家、木々、水。ハリーは父=神に出会い、癒されるのだ……。
■カタストロフへの投企――「サクリファイス」(copyright 2005 Yabtyan)
現在、我々が自分の死に場所について考えることは厳密な意味において全くないと言っていい。回避できぬカタストロフを「世紀末」として歴史的浪漫性に沈澱させること以外、私達はいかなる死に場所をも考えはしない。しかして、アレクサンデルの行為の意味は超人格的行為として我々の醒めた思想全体を危うくする。我々の去勢された人間の存在学は、実体を持たぬ不明者が不毛の原野を彷徨することを望んでいるかのようだ。
黙示はすでに示されており、それはもはや終局に近づきつつあるということを忘れたがっている我々は、アレクサンデルを一笑に付すことで一時の安穏を保とうとする。これもまた我々の原罪であろうか?
「また、いつか、アレクサンデル!」と言ったオットーとは誰か? ニィチェを語るオットーは、神秘主義者として霊魂に興味を持つ。オットーを通じて、その名から実は聖女であるところの魔女マリアを知る。あたかもヴェルギリウスの如く魔界と聖界の転回点にオットーはいるのだ。オットーは、アレクサンデルが人間の原型に回帰するために無くてはならぬ存在であり、黙示に現われた警告の鷲でもあった。
また、アレクサンデルの妻も娘も、共にその極めて利己的な愛憎に無自覚であるが、それを我が身に受けるアレクサンデルはまさしく神に試されているヨブである。唯一人、ルブリョフのように沈黙の行を強いられるフォイケミン(子供……この子に名が無いことは極めて重要である)だけがアレクサンデルの伝導者として預言されている。
辛抱強く同じことを繰り返すこととは実は神自身の行為ではなかったか。創造と破壊を繰り返し行い、しかして自己を明らかにできぬ存在とは、ユングが解析した如く、自己を客体化できぬ、神自身のものではなかったか。人類のカタストロフに対し、自己を、時空を超えて投企(アンガジュマン)する行為は、ヨブの在り方を人間の原型としてのアレクサンデルに照射して初めて理解される。そうした時にのみ、神は在ると言ってよい。俳優である彼が、自己同一性を失ったことが、神を追体験することであったとすれば、ここに至ってアレクサンデルは神にして神にあらざる存在、西田が即非の論理と呼んだ如き『神は神ではない。ゆえに神と呼ばれる』の極点に達し得た。そうしてその先にフォイケミンの「初めに言葉ありき」に始まる次代のバイブルが続くのである。後は、その神の「愛」に「希望と信仰」を据えるほか、何が必要であっただろう、繰り返されることが自明であるこの世界に。
■幾つかのメモランダ(copyright 2005 Yabtyan 但し、冒頭の三つの引用を除く)
つまり人は詩について思うとき、詩とつれだってこのような道をゆくものなのでしょうか? この道は単にまわり道、「あなた」から「あなた」へのまわりみちにすぎないのでしょうか? しかしどれほど多くのこのようなまわり道のなかにも、ことばが声あるものとなる道もあるのです。それは出会い、じっとみまもってくれるひとりの「あなた」へのひとつ声の道、みじめな生きものの道です。それはおそらく存在への投企、みずからを先だててみずからへおもむくこと、おのれみずからをもとめに行くこと……一種の帰郷です。
Paul Celan (飯吉光夫訳)
詩とはなんでしょうか? それは世界について思考し、説明しようとする深く独特の方法です。ある人間が他の人間の近くを通りすぎる。他人をながめながら、実は見ていない人がいるが、反対に、ながめて、通りすぎて、そして突然微笑む人もいる。他人が自分なかにある共通する強い感覚をもたらしたからです。
今日、詩で生きることはできません。詩集が出版されるまで数ヶ月も数年もかかるのに、社会は詩人の必要性を感じなくなった。芸術とて同様です。こうした「狂人」がいなくなれば、次は自分が消失する番だということを忘れたがっているようです。
ノスタルギアはロシア語では、死に至る病の感覚を含んでいます。別な人間が抱く苦悩に強烈に自己同一する感覚です。
Андрей Тарковский (配給元フランス映画社チラシ解説より引用 訳者不詳 )
いかなる祖先の声か? この私の声は同じ時には生きられない、頭と肉体の声だ。私はもはやひとりの人間ではない。自分がいくつもの無限定の事物として感じられる。我々の時代の不幸は大いなる人間が存在しないことだ。我々の心の道は影に覆われている。声は聞くべきではないか。無用と思われる声でも。脳がいかに下水道や壁やアスファルトや福祉事業で詰まっていようと、虫の羽音も入れるべきではないか。我々の目に耳におおらかな夢の一端が見えて聞こえてよいではないか。ピラミッドを造ると誰かが叫ぶべきなのだ。実現するしないは大事ではない。大事なのは夢を育み、我々の魂をあらゆる所で果てしなく広がるシーツのようにのばしてやる事だ。世界が――前を向く事を望むなら手に手をとって一つになろう。いわゆる健全な人も、病める人も。健全な人よ、何があなたの健全さなのだ? 人類は今、崖っぷちを見つめている。転落寸前の崖っぷちを。自由に何の意味があろう。あなた方が我々を正視する心を持たず、我々と共に食べ、共に飲み、共に眠る心を持たないなら。健全な人々がこの世を動かし、そして今、破局の淵に来たのだ。人よ! 聞いてくれ。君の中の水よ! 火よ! 灰よ! 灰の中の骨よ! 骨よ! 灰よ! どこに生きる? 現実にも生きず、想像にも生きぬのなら。天地と新しい契約を結び、太陽が夜かがやき、八月に雪を降らせるか? 大は滅び去り、小が存続する。世界は再び一体となるべきだ。ばらばらになりすぎた。自然を見れば分る事だ。生命は単純なのだ。原初に戻ろう。道をまちがえた所に戻ろう。生命のはじまりに! 水を汚さぬ所にまで! 何という世界なんだ。狂人が恥を知れと叫ばねばならぬとは!!
母よ。母よ! 空気はこんなにも軽く顔にそよいでいる。微笑めばいっそう澄んでいる
『ノスタルジア』ドメニコ末期の台詞
(「シネ・ヴィヴァン 4 ノスタルジア」パンフレットから引用 シナリオ採録者・田中千世子 字幕監修・吉岡芳子/柴田駿)
R. НОСТАЛЬГЙЯ
E. NOSTALGIA
I. NOSTALGHIA
F. NOSTALGIE
Gk.nostos(return home)+algos(pain)
J. 死に至る郷愁,懐郷病
Andrei Tarkovsky Андрей Тарковский АНДРЕЙ ТАРКОВСКИЙ
1.「ローラーとヴァイオリン」 “КАТОК И СКРИПКА”
2.「僕の村は戦場だった」 “ИВАНОВО ДЕТСТВО”
3.「アンドレイ・ルブリョフ」 “АНДРЕЙ РУБЛЕВ”
4.「惑星ソラリス」 “СОЛЯРИС”
5.「鏡」 “ЭЕРКАЛО”
6.「ストーカー」 “СТАЛКЕР”
7.「ノスタルギア」 “NOSTALGHIA”
8.「サクリファイス」 “Sacrificatio”“Offret”
◎全作品に通底する少年・水・鏡
●狂気
「僕の村は戦場だった」鶏の老人のドアへの偏執=ドメニコと一致
「アンドレイ・ルブリョフ」白痴の女
「ノスタルギア」のドメニコ=「サクリファイス」のアレクサンデル
●全作品に通底する飛翔の比喩→鳥の羽
「ローラーとバイオリン」の紙飛行機
「ストーカー」のリボン
「ノスタルギア」冒頭の羽(出産の聖母,それに続くアンドレイのシーン)及び廃堂の羽→タルコフスキーのイメージ・シナリオ
●飛翔→鳥・子鳥
「ローラーとバイオリン」の鳩
「僕の村は戦場だった」冒頭のイワンの飛翔
「アンドレイ・ルブリョフ」の気球・タタール襲撃シーンの家鴨
「ソラリス」のクリスの家の気球の絵・無重力時の空中浮揚
「鏡」ニュース映画の気球・ベッド上の空中浮揚・子鳥(少年の頭,主人公の病床〈飛べない→飛べる〉)
「ストーカー」の倉庫の猛禽の飛翔
「ノスタルギア」出産の聖母の子鳥・ベッド上の空中浮揚・窓辺の白い鳩(飛べない)
「サクリファイス」マリアとの空中浮揚
●ミクロからマクロへ→ノスタルギアとしての山水・大地→タルコフスキーのイメージ・シナリオ
「僕の村は戦場だった」冒頭の崖のショット
「アンドレイ・ルブリョフ」冒頭の気球からの眺めと落下→ストップ・モーション
「アンドレイ・ルブリョフ」ラストのイコンのカメラ・ワーク
「ソラリス」の再生機能(巨大な赤ん坊)・ソラリスに浮かぶ箱庭のようなクリスの家
「ストーカー」の湿地・水面下のクローズ・アップ
「ノスタルギア」ドメニコの家の土砂
「サクリファイス」“子供”とオットーの作った家のミニチェール
●円形
「ローラーとバイオリン」丸天井
「僕の村は戦場だった」井戸・鏡
「ソラリス」ステーション・窓
「ストーカー」井戸
「ノスタルギア」ホテルの鏡・聖堂の窓
●鐘・音
「ローラーとバイオリン」ローラーとバイオリンの音の重層・鉄球→振り子→鐘
○「僕の村は戦場だった」→イワンのアイデンティティ
○「アンドレイ・ルブリョフ」→ボリースカの自立の象徴
「ソラリス」ギバリャンの“お客”の持つ鈴・無重力時のシャンデリアの音
「ストーカー」の子供のサイコキネシスによって移動するコップの音
「サクリファイス」振動に震えるワイングラスの音
○「サクリファイス」マリアの家の時計の時鐘
●母→少女→イコン→聖母→マリア=アニマ**
●リンゴ
「ローラーとバイオリン」のリンゴと少女→「僕の村は戦場だった」の同義性
「僕の村は戦場だった」リンゴと妹のシーン
・カメラ・ワーク(背景のソラリゼーションを含む)
・妹の変貌の意味(作者:未来の不吉さの予兆)→アニマとしての少女**
「サクリファイス」では家に火をつける直前にアレクサンデルは青リンゴをかじる
●スティグマ(聖痕)の隠喩
「僕の村は戦場だった」イワンの頭髪の乱れ→「ストーカー」部分的な白髪→「ノスタルギア」アンドレイの部分的な白髪
「僕の村は戦場だった」イワンの背中の傷・ラストのガリツェフ中尉の頬の傷
「アンドレイ・ルブリョフ」小人・ルブリョフの沈黙の行・白痴の女
「ソラリス」“お客”の奇形・ハリーの注射針の跡
「鏡」の吃音の少年・少女の唇にある傷・教官の頭部の手術痕
「ストーカー」子の奇形
「ノスタルギア」アンドレイの鼻血・ドメニコの子の唇の傷
「サクリファイス」の“フォイケミン”の声帯・鼻血
●十字架・キリストの隠喩
「僕の村は戦場だった」の戦闘機の残骸
「アンドレイ・ルブリョフ」雪中のゴルゴダ
「ストーカー」の“作家”の茨冠
「サクリファイス」アレクサンデルの“犠牲”
●禊(特に「ソラリス」と「サクリファイス」の類似性について)
「ソラリス」クリスの汚れた手を洗う母→その水差しが目覚めた部屋にある 母=ハリーの同義性
「サクリファイス」アレクサンデルの汚れた手を洗うマリア マリア=母
●樹
「僕の村は戦場だった」冒頭の樹のカメラ・ワーク=「サクリファイス」『三王礼拝』の樹木のカメラ・ワーク
「僕の村は戦場だった」ラストの樹=「サクリファイス」生命の樹
「鏡」少年・樹・子鳥・雪=「ソラリス」回想ビデオの少年・樹・雪
●少年と少女
「ローラーとバイオリン」の少女とラストの走る少年-「僕の村は戦場だった」エンディングの走る少年と少女との連関
●人物像の問題性
「僕の村は戦場だった」ホーリン大尉は何故イワンを育てる資格がないのか?→カタソーノフの死の直後、大尉を見下ろすイコン
「サクリファイス」オットーはヴェルギリウスか?『又、いつか、アレクサンデル!』
*「僕の村は戦場だった」の井戸の星を掬うシーンに挿入されている詩(祈祷文?)は何か?
*「アンドレイ・ルブリョフ」の眠るボリースカと驟雨の回想シーンに用いられたメロディは「僕の村は戦場だった」メイン・テーマの主旋律の一部(オフチンニコフ作曲)。
*「アンドレイ・ルブリョフ」終曲の一部が「ソラリス」でも用いられている点
*オフチンニコフの音楽は、どの作品に於いても情緒に流れる嫌いがある
*「アンドレイ・ルブリョフ」ボリースカ役ルブリャーエフの演技の問題性
*「アンドレイ・ルブリョフ」キリール役の演技(特に沈黙の行を破らせようと密告の告白するシーンのラスト)の問題性
*「アンドレイ・ルブリョフ」鐘の完成の際に横切る白衣の女性はルブリョフの絵の中に認められる
*「鏡」主人公の部屋にルブリョフのポスター
*「鏡」少年の焚き火→タルコフスキーのイメージ・シナリオとの共通性
*「鏡」ラスト→タルコフスキーのイメージ・シナリオとの共通性
*「鏡」ラスト→ヨハネ受難曲冒頭
*「ストーカー」のミイラ(予告編では明白な男女のミイラ)
*「ノスタルギア」冒頭、教会番人の言葉の中の『サクリフィシオ』(字幕「苦労に耐えて」)
*「ノスタルギア」冒頭、ロシアの家の天使(「タルコフスキイ・ファイル」ではエウジニアが演じる)→タルコフスキーのイメージ・シナリオとの共通性
*絵画の問題(デューラー ルブリョフ ブリューゲル ダ・ヴィンチ)
*「ハムレット」「ボリス・ゴドノフ」「聖アントニウスの誘惑」「ホフマニアーナ」