恐ろしい電話 畑耕一

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鬼火へ

  恐ろしい電話   畑耕一

[やぶちゃん注:本作雑誌大阪毎日新聞社発行の週刊誌『サンデー毎日』大正一三(一九二四)年一〇月二六日号に掲載され、翌大正一四(一九二五)年大阪屋号書店刊の畑耕一作品集「怪異草紙」に所収された。底本は国立国会図書館蔵の同作品集の近代デジタルライブラリー版(画像番号148から152)に拠った。踊り字「く」は正字に代えた。一部の会話記号に明らかな誤植が複数箇所あったので訂したが、特にそれを断っていない。形式段落第二段落目の『見物が、見物が、』のダブり、第三段落目冒頭の『もつてゐたところが』はママ。その他にも句点・読点の誤植と思われる箇所が複数存在するが、そのまま活字化してある。なお、会話記号は表記通り、総て『 』が用いられている。最後に簡単な語注を附した。【二〇一二年八月一七日】]

  
恐ろしい電話

 私はかうして、毎日多くの鳥獸と一箱に暮してゐる身の上だから、彼等の生活は勿論のこと、彼等が持つ運命といふやうなものにまで、深い興味を感じて見てゐる次第だが、ぢつと檻の前に立つて、生物學的に、或は動物學的に氣むづかしがつた研究的態度を取るよりも、ただかうして鳥獸に絶えず接觸してゐるといふ氣分だけで、自然に彼等の驚くべき「生命の本質ライフ・プリンシプル」や「生活力ヴアイタル・フオース」を、恐ろしいほど的確に摑むことができると思ふのだ――(と、××動物園長の老理學士K氏は靜かに葉卷シガーの灰を指さきで彈いた)――で、この怪談だが……
 私の動物園に「三太」と呼ばれるボルネオ産の猩猩がゐる。園中一二の愛矯者人気者で、日曜日などは、大人も子供も、あいつの檻の前に、わいわい集まつてゐる。彼は見物が自分の前に集まるほど大得意で、頭を敲いたり尻を敲いたり、妙な恰好に四肢を動かして、檻の中を飛びまはる。それがまた南洋の、ふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスに似てゐるとかで、あの猩猩は藝ができると大評判。みんなが喝采して餌を投けてやれば、いよいよ圖に乘つて跳ねまはる。が、もし見物が、他の象や駱駝やペリカン鳥の前などに、澤山集まつてゐやうものなら、彼はいかにも不平らしく、鼻の奥をぐうぐう鳴らす。それでも寄つて來ないと、突然『うつ! うーつ!』と唸る。見物が、見物が、なに事が起つたのだらうと、彼の檻の前に集まるまで、唸りつゞける。まるで木戸番が「さあ、入らつしやい入らつしやい!』を繰返す形である。そして見物を自分の前に集めると彼一流の舞踏をはじめて、盛んに愛矯を振まき喝采を買はうとする。――とにかく面白いやつである。
 彼が、二年前ボルネオから渡つて來た時には、ちやんと細君をもつてゐたところが昨年の夏、ふとした病氣から彼の細君たる雌猩猩が死んだ。彼は一時、淋しげに、悲しげに、檻の隅にうづくまつたまま、悄氣せうげ返つてゐた。しかし、ひと月も經つと、彼はすつかり元氣を恢復した。いや、元氣も元氣、この時から彼は、獨特のふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスを、やり出したのだつた。これは細君を失つた淋しさをまぎらす手段のやうにも見えたし、また一方、横暴な細君の前では憚つてゐた隱し藝を心置きなく發揮してゐるのだと、いふやうにも見えた。
 まづごんな風で、彼はわが動物園の人氣を一身に背負ひながら、いかにも得意らしく元氣に暮してゐた。が……
 どうしたものか、今月に入つて、彼は急に氣むづかし屋になつた。ふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスもぷつつりやめてしまつた、見物が檻の前に集まつても、彼は不愉快さうに、膝に手をあてたまゝ、知らぬ顏でしやがんでゐる日が續いた。誰か舞踏をさせやうと思つて餌を投げてやると、突然『うーつ』と恐ろしい唸り聲をあげて、びかかるやうな恰好をした。怒りつぽい、無愛想な彼の態度は、次第に彼の人氣を失つてしまつた。
『三太の奴、この頃飛んでもない戀煩ひをやつてるんでさあ。それで、あんな風に妙にいらいらしてやがるんでさあ』
 或る日、私が園内を見𢌞つてゐると谷口といふ餌料係が笑ひながら言つた。
『さうかね。女房を亡してから急に舞踏なんかやり出して元氣だつたが、やつぱり眞實ほんとうは淋しいんだな。」と、私は笑つた。『……だが戀煩ひの相手は何者だね? お向ふの白熊かね。あいつは園内第一の縹緻きりやう好しだから……』
 私は、彼方の檻の中を首を振り振り行きつ戻りつしてゐる白熊を見ながら再び笑つた。――が谷口は眞面目であつた。
『いーえ、そんな相手なら至極無事なんですが、こいつは、飛んだ量見ちがひをしやがつて、相手に事をかいて、人間の娘に戀煩ひしてやがるんです。』
『人間の娘……?』
『山根君の娘の、お千代坊にでさあ。』
 私は驚いて谷口の顏を見た。――山根といふのは、この動物園の事務所に二十年も勤續してゐる實直な老小便で七八年前に妻を亡つてから、お千代といふ娘と二人で、事務所の隅の一室に寢起してゐろのだつた。お千代といふ娘は、今年十七歳になる。顏色白の、目鼻立のぱちりとした上に、大柄なはうだつたから、別に美人ではないが、ちよつと人眼につく娘だつた。小學校を卒業すると間もなく或る印刷工場の解版工になつたが、活字で手が汚くなるから嫌だといつてやめ、それから製藥會社や燐寸マツチ工場などに通つてゐたが、二年ほど前から電話交換手となつて、A局に勤めてるるのだつた。父の實直に似ずがらがらしたお轉婆はねで、ほつて置くと不良少女の仲間にはたしかに入りさうな、いや、或はもう入つてゐないとも違ひないとも思はれやうな娘だつた。それだけに、ひどく早熟ませてゐて、局の休みの日などは、ひとりで事務室の窓から見物に來た學生の品定めをやつたり、また若い事務員に自分からからかつたりして、時には眼にあまる行動さへあつたから、私は父の山根を呼んで、ひそかに注意を與へた事もあつた。
 ――そのお千代に、三太が戀煩ひしてゐるといふのだ。
 私は笑はうとした。が、妙に笑へなかつた。
『ふ。それは一體、どうしたつていふのだ?』
 私は谷口の傍に歩み寄つた。
『なんでも十日ばかり前のことです。閉場の時間が來たので、私が三太の檻を掃除してゐると、お千代がなにかオペラの唄をうたひながらそこへやつて來たんです。そしていきなり三太にからかつたんです。――三太、お前、私の唄でふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスをやつて御覧、お前の舞踏がうまかつたら、私はお前に惚れてやろよ。お嫁さんになつてやるよ――つて、かう言ひながら、お千代はまた高聲で、唄をうたつたのです。すると、どうでせう。三太の奴、急に踊り出しやがつた。見てゐると三太の手足の動かしかたが、ぴつたりお千代の唄の調子に合つてるんです。私もはじめのうちは面白がつて見てゐましたが、三太の踊りやうが、今までにないほど巧くつて、そして今までにないほど、一生懸命なので、なんだか恐ろしくなつて來ました。で、おい、お千代坊いゝ加減にやめないか、馬鹿つ! て言つてやると、お千代はいよいよ圖に乘つて唄ふのです。三太はしまひには、はつはつと鼻を鳴らし出しましたが、そわがまるで人間の懸聲のやうに聞えるので、まつたくぞつとなつて、私はいきなり箒でお千代を追ん除けました。そして早く彼方へゆけと叱りつけるとお千代は膨れ面で事務所のはうへ歸りました。その後姿を、三太は檻の鐡の捧につかまつて、うーうーと低く唸りながら、かう伸び上るやうに見送つてゐましたが……』
『おい。そんな變な話はよせ。』と、私は矢庭に谷口を制した。『誰にも、そんな話はしちやいけないぞ。……お千代にはもうこのの傍へ近寄つちやならないと、わしが言つたと言つて呉れ。』
『へい……』
 それから私は、場内を見𢌞る毎に三太に或る特別の意味の注意を怠らなかつたが、三太はいつも檻の隅にぢつとしやがんだまゝ、不機嫌らしく眼を光らせてゐた。
『おい、三太、どうしたな?』
 私は、ことさら彼に親むやうに聲をかけたが、彼はたゞ眼をぎろぎろさせてゐるばかりだつた。――その眼の光に、私はなんとも知れぬ凄い氣合きあひの籠つてゐるのを感じずには居られなかつた。
 ――それから二週間も經つたか……私は、いつものとほり朝九時に事務所へ出勤すると、小使の山根が、心配げな顏をして私の机の上を拭いてゐた。
『お前どうかしたのかね?』
 私は聲をかけた。
『へい。昨夜、まるつきり眠られなかつたので……』
『それは、どうしてだ?』
『昨夜遲く――さうです、もう十二時に近い頃、A局から電話で、お千代が變だから來て呉れといふのです。昨夜お千代は殘り番だつたのです。で……』
『ふむ。それからどうした?』
 私は急き込んだ。
『……で、驚いてA局まで駈けつけて見ると、お千代が眼を上づらせて、痙攣ひきつけたやうに倒れてゐるのです額に手をやつて見ると大變な熱で、ああ恐ろしい恐ろしい……と、囈語うはごとをいひながら、手足をばたばたさせて悶いてゐる始末です……』
『ふむ。それから?』
『それから、今朝やつと俥を雇つて、ここへ連れて歸りました。お醫者樣も呼んだのですが、多分過度の勞働から來た神經衰弱だらうといふのですが……どうも不思議なことがあるので……』
『なにが不思議なんだ?』
「ええ、四五日前から、お千代は變なことを私に言ひました。それは、お千代が事務を執つてゐる耳へ、時時うーうーうーといふ、變な唸り聲が聞えるのださうで……それが、どうやらこの動物園の三太の唸り聲そつくりだといふのです。しかし、氣にも留めないでゐると毎日、次第に聞える囘數が多くなつて來て、昨夜は、十時の交代時間から、ほとんどのべつヽヽヽに聞えるので、まるで事務も執れず、しまひには、お千代が氣違ひのやうになつて、頭と胸につけた電話器械を引むしつて投げつけると、あゝ恐ろしい! と叫んだまゝぶつ倒れてしまつたのださうで……』
『ふうむ!』
『……しかし三太の唸り聲が勿論どうしてお千代の電話に聞える譯はない。そして、昨夜は、園内はほんとうに靜かで、鳥一羽、羽ばたきさへしないほど、ひつそりしてるたのですから……現にこの事務所に當直してゐた谷口さんも、猿一疋啼かなかつたと言つてゐます。だから、どうして三太の唸り聲つて譯はありません……』
『で、三太はとうしてゐるかね! 今朝、誰か行つて見たか?』
 私は、いよいよせき込んだ。そして立ちあがつて、窓から園内を見た。
 ちやうどそこへ谷口がやつて來た。
『三太はどうしてゐるね!』
『へい。もう起きて、檻の中でぢつとしてゐます。食料の果物をやつたのですが、をかしいことに、まろで手も出さないで、ぢつとしてるます。』
 私は、早速、山根と小便室へ行つてみた。脂染あぶらじんだ布團の中に、額に氷嚢をあてたまゝ、お千代がすこし落着いたらしく、うとうとと眠つてゐた。
 私は默つて小使室を出ると、すぐ事務所を出て、三太の檻の前へ行つた。三太は眼をぎろぎろさせて私を見た。
『馬鹿! ……とうとうお千代は死んぢまつたぞ!』
 私は、滿身の勇を鼓して怒鳴りつけた。
 三太は、檻の隅で、『うーつ』と一つ低く唸つた。
 ――その日からである。また三太は快活に、機嫌よく、ふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスはじめて、一旦失つた人氣を恢復しはじめたのは――

■やぶちゃん注
・園長の台詞に現れる『縹緻』は「器量」の当て字(語源不詳。「縹」は「はなだ」色で薄い青のこと、「緻」は肌理きめが細かいの意であるから、青磁ような肌の美人が語源か? 少なくとも白熊のメスにはぴったりの表現ではある。
・「解版工」活版印刷業に於いて印刷終了後、組んだ活字やクワタ(スペース)やインテル(行間スペース)などを再利用するために解体する作業職。インク真っ黒になり、石鹸などでは全く落ちない真っ黒な手になり、非常に嫌がられる職種であった。
・「――それから二週間も經つたか……私は、いつものとほり朝九時に事務所へ出勤すると、小使の山根が、心配げな顏をして私の机の上を拭いてゐた。」の「山根」は底本では「谷口」であるが独断で訂した。お千代を迎えに行く以上、これはお千代の父であり、当園の「小使」である「山根」でなくてはおかしい。そもそも同シークエンスの後半ではこの人物自身が『現にこの事務所に當直してゐた谷口さんも』と喋っており、その後には『ちやうどそこへ』当園の「餌料係」の『谷口がやつて來た。』とあるからである。
・掉尾の一文「――その日からである。また三太は快活に、機嫌よく、ふらふらヽヽヽヽ舞踏ダンスはじめて、一旦失つた人氣を恢復しはじめたのは――」の「また三太は」の部分は、本来なら表現上「また三太が」としないと呼応が悪い。
●附記:私が、正直な猿が臼の下敷きにされて殺される残酷で大嫌いな民話の『猿の婿入り』に比して、本話は、遙かに、ずーうっと心地よい怪談であると言える。