凶 芥川龍之介 ■附やぶちゃんマニアック注
やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ
凶 芥川龍之介 ■附やぶちゃんマニアック注
[やぶちゃん注:大正十五(一九二六)年四月の作(末尾のクレジットによる)。但し、生前には発表されておらず、死後の全集で公開された。底本は岩波版旧全集の「雜纂」所収のものを用いた。底本後記によれば、先行する普及版全集及び小型版全集では末尾に「遺稿」とある、とする。今回は底本旧全集の完全総ルビ(一字漏らさずルビが振られている。通常の芥川龍之介の「総ルビ」は年月日や数字にはルビを振らないから、これは異例な部類に入る)を再現した。但し、山梨県立文学館蔵の直筆原稿写真版に当たったと思われる新全集テクストの注記によれば、原稿に振られたルビは、実は以下の十一箇所だけである。
〔第一段落〕
眞暗
金色
唐艸
〔第二段落〕
山砂
僕等〔「僕」にはルビがない〕
〔第三段落〕
餉臺
目を開いてゐたのにも關かかはらず
幻の
〔最終段落〕
するとあの唐艸をつけた
後ろを現し出した。
冥々の裡に
この内、底本のルビ「ちやぶだい」についてのみ、新全集を採用してカタカナ表記に改めた。
また、新全集では〔第三段落〕の「替る替る」の箇所が、
替る々々
となっており、更にその直後の『見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つてゐた。』の箇所が、
見ては「うん、見えるね」などと言ひ合つてゐた。
と直接話法の前に読点が存在しない。
以下の、表題脇の芥川龍之介の署名は新全集の後記に基づいて附した(位置は恣意的なものである)。
さて、この底本の異様な総ルビは、では一体何に基づくものであるのか、という疑問が生じてくる。何故なら、本作に底本に先行する全集の編者が総ルビを振った理由が今一つ分からないからである(「雜纂」には本作以外にも数篇こうした総ルビのものがあるが、圧倒的多数のものはルビなしか、極めて禁欲的なパラルビである)。これは本作には、失われた総ルビの別原稿(新全集が底本としたと考えられる写真版とは異なった)がある可能性を排除は出来ない。そうでないとすれば、一つ考えられることは、底本に先行する全集編者はある一定量以上のルビが原稿に付されている場合は、総ルビにするというシステムを採っていた可能性である。これは岩波内部の資料に依る以外に確認の仕様はない。いや、最早、分からなくなっている可能性もある。取り敢えず書き記しておく。
最後に私の拘りのマニアックな注を附してある。
本頁は私のブログの三一〇〇〇〇アクセス突破記念として事前に作成しておいたものである。【二〇一一年九月二十二日】]
凶
芥川龍之介
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乘り、本郷通りを一高の横から藍染橋へ下らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも眞暗な往來である。そこにやはり自動車が一臺、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は卷煙草を啣へながら、勿論その車に氣もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。
大正十三年の夏、僕は室生犀星と輕井澤の小みちを歩いてゐた。山砂もしつとりと濕氣を含んだ、如何にももの靜かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空にKぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又の間あひだに人ひとの脚あしが二本にほんぶら下さがつてゐた。僕ぼくは「あつ」と言いつて走はしり出だした。室生むろふも亦また僕ぼくのあとから「どうした? どうした?」と言いつて追おひかけて來きた。僕ぼくはちよつと羞はづかしかつたから、何なんとか言いつて護摩化ごまかしてしまつた。
大正十四年たいしやうじふよねんの夏なつ、僕ぼくは菊池寛きくちひろし、久米くめ正雄まさを、植村宋一うゑむらそういち、中山太陽堂社長なかやまたいやうだうしやちやうなどと築地つきぢの待合まちあひに食事しよくじをしてゐた。僕ぼくは床柱とこばしらの前まへに坐すわり、僕ぼくの右みぎには久米くめ正雄まさを、僕ぼくの左ひだりには菊池寛きくちひろし、――と云いふ順序じゆんじよに坐すわつてゐたのである。そのうちに僕ぼくは何なにかの拍子ひやうしに餉臺チヤブダイの上うへの麥酒罎ビイルびんを眺ながめた。するとその麥酒罎ビイルびんには人ひとの顏かほが一ひとつ映うつつてゐた。それは僕ぼくの顏かほにそつくりだつた。しかし何なにも麥酒罎ビイルびんは僕ぼくの顏かほを映うつしてゐた訣わけではない。その證據しようこには實在じつざいの僕ぼくは目めを開あいてゐたのにも關かかはらず、幻まぼろしの僕ぼくは目めをつぶつた上うへ、稍やや仰向あふむいてゐたのである。僕ぼくは傍かたはらにゐた藝者げいしやを顧かへりみ、「妙めうな顏かほが映うつつてゐる」と言いつた。藝者げいしやは始はじめは常談じやうだんにしてゐた。けれども僕ぼくの座ざに坐すわるが早はやいか、「あら、ほんたうに見みえるわ」と言いつた。菊池きくちや久米くめも替かはる替がはる僕ぼくの座ざに來きて坐すわつて見みては、「うん、見みえるね」などと言いひ合あつてゐた。それは久米くめの發見はつけんによれば、麥酒罎ビイルびんの向むかうに置おいてある杯洗はいせんや何なにかの反射はんしやだつた。しかし僕ぼくは何なんとなしに凶きようを感かんぜずにはゐられなかつた。
大正十五年たいしやうじふごねんの正月十日しやうがつとをか、僕ぼくはやはりタクシイに乘のり、本郷通ほんがうどほりを一高いちかうのよこから藍染橋あゐそめばしへ下くだらうとしてゐた。するとあの唐艸からくさをつけた、葬式さうしきに使つかふ自動車じどうしやが一臺いちだい、もう一度いちど僕ぼくのタクシイの前まへにぼんやりと後うしろを現あらはし出だした。僕ぼくはまだその時ときまでは前まへに擧あげた幾いくつかの現象げんしやうを聯絡れんらくのあるものとは思おもはなかつた。しかしこの自動車じどうしやを見みた時とき、――殊ことにその中なかの棺くわんを見みた時とき、何なにものか僕ぼくに冥々めいめいの裡うちに或警告あるけいこくを與あたへてゐる、――そんなことをはつきり感かんじたのだつた。
(大正十五年四月十三日たいしやうじふごねんしぐわつじふさんにち鵠沼くげぬまにて淨書じやうしよ)
■やぶちゃんマニアック注
・「大正十二年の冬」芥川は『(?)』と附しているから、必ずしもこの年又は冬であったかどうかも心もとないのであるが、一応、このクレジットを正しいと仮定して、大正十二(一九二三)年冬の芥川龍之介の年譜を繰ると、同年十二月三十日(日)夜、京阪の旅行から帰京、田畑の自宅の戻る、という記載がある。殆んど年末であり、『冬(?)』という記載とは若干の齟齬感を覚えないわけではないが、一つの比定候補ではあろう。他に十一月十七日(土)の久米正雄の帝国ホテルでの結婚式出席があるが、このときは式後に二次会で神楽坂に遊んでおり、ルートが合わない。因みに九曜を調べると、十二月三十日は先負、十一月十七日は赤口である。どちらも仏事の完全禁忌ではない。
・「藍染橋」東京都文京区千駄木二丁目にあった橋。漱石の「三四郎」にも登場する。現在の文京区と台東区の区境に当たる道路は美事に蛇行しているが、これが今は暗渠となっている藍染川で、そこに架橋していた一本が合染橋(藍染・琵琶・枇杷とも表記)である。但し、実際の橋が架かっていたのは明治三十五年頃迄で、藍染川が水はけが悪く、しばしば氾濫したことから大正十年に暗渠工事が開始されており、昭和初期にはこの付近はほぼ完全に暗渠化されたとあるから、本作作中時間である大正十二〜十五年当時は既に橋はなかった可能性が高い。因みにここでの芥川のルートを、旧制第一高等学校(現・東大農学部の位置)の「」を通って、この藍染橋へ芥川の住んでいた田端へということであると仮定すると(このようなくどい言い方をするのは、このルート自体に私は隠された特殊な意図――これがある種の不倫相手との密会の帰りであるような――があるようには思っていないということを言いたいからである。何故わざわこうした補足するかといえば、もし、ここにそのような背景を隠しているとすれば、逆に本話の作話性が高まってしまうということを言いたいのである。本作はあくまで芥川龍之介自身の実際の恐怖体験の記載なのである)、ここでのルートは現在の農学部の「」を通る言問通りを抜けて、現在の不忍通りの現在の根津一丁目交差点を左に折れて、千駄木二丁目から団子坂下への道を抜けようとしていることを意味していると考えられる。
・「靈柩車」我々には馴染のあるあの宮型霊柩車であるが、実はあのタイプが誕生したのは一九二〇年代、即ち大正九年以降(記載によっては大正半ばとする)であるという。しかし、大正十(一九二二)年の大隈重信の葬儀では通常のトラックの荷台に輿を載せたという記録があるから、現在知られるような形の霊柩車の普及利用はもう少し後の可能性も高いと思われる。そうすると実は、芥川を含めた大正十二年当時の人間にとっては、あの社寺風の破風を持った霊柩車は極めて目新しく、また異様なものとして意識されていた、その背後に三年後とはいえ、偶々二度も車で後ろに付けるということ自体が、今以上に極めて稀有な確率となるという負荷をかけて、我々はここの部分を読まなければければならないのである。現在でも例えば、あなたは生涯のどこかの三年の内に、二度霊柩車の後ろに車を付けた(それも同じ場所で)経験があるどうか考えて見られれば(私はない、但し、火葬場の近辺にお住まいならばないとは言えまい。但し、実は知らずに付けている可能性は実は高い。それについては本注の最後に述べる)、芥川のこの不吉な感懐が必ずしも神経症的だとは言えないのが分かるであろう。因みに、この注を作成するために調べるうち、意外なことに現在は宮型霊柩車自体が激減している事実があるという。これは宮型霊柩車の不吉な印象から死体運搬車に見えない洋型霊柩車の使用者が増えたこと、同様の理由から住宅地を経由するような位置にある一部の火葬場が住民を配慮して宮型の乗り入れを拒否していること、特殊車両として破風のメンテナンス等にかかる維持費用が極めて高額に及ぶことなどが挙げられるそうである。
・「大正十三年の夏」芥川龍之介にとって片山廣子との宿命の出逢いとなった夏の軽井沢である。芥川の軽井沢着は同年七月二十二日であるが、室生犀星の到着は八月三日であるから、室生が夜行列車で金沢に帰った同月十四日迄の十一日間の中に限定される。
・「僕はちよつと羞しかつたから」という謂いには、芥川自身が例えばアカシアの枝か何かをミミクリーで縊死死体の両足のように見間違えたという可能性を以って、ある意味、至極正常な自己判断のもとに語っているということに注意すべきである。いや、必ずしもそれは本当の縊死死体でなかったとも言い切れないのである以上、これを芥川の強迫的な異常な反応と片付けることは出来ないということである。芥川龍之介は「或旧友へ送る手記」の中で自己の自殺方法の一つとして縊死を存外に無痛性を持った有効な自殺法として挙げながら、『が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅澤にも美的嫌惡を感じた』とあることからも、彼が『「あつ」と言つて走り出し』てしまった事実も十分に納得出来るのである。
・「大正十四年の夏」この年は、片山廣子への恋情を振り切るために、夏の終わり、八月二十日に軽井沢に行き、翌月九月七日に帰京している。季節的な謂いから考えれば、明らかにその八月十九日以前に限定されるが、当該内容に一致するような年譜上の記載は、残念ながら見当たらない。
・「植村宋一」これは恐らく「植村宗一」の誤りである。最初の全集の編者による誤読が疑わられるのであるが、実は新全集も「宋一」である。原稿を見てみたいものである。筆記した「宗」は「宋」に見誤り易い。植村宗一は直木三十五の本名。
・「中山太陽堂社長」実業家であり政治家であった中山太一(明治十四(一八八一)年〜昭和三十一(一九五四)年)のことで、爆発的人気を誇った国産化粧洗顔料「クラブ洗粉(あらいこ)」や後の「クラブ化粧品」で知られるようになる純国産化粧品会社中山太陽堂の創業者(創業は明治三十九(一九〇六)年。現・クラブコスメチックス)。後に貴族院議員ともなった。大正十一(一九二二)年には大々的な宣伝効果を目指すために作家小山内薫を顧問として招聘、また化粧品の宣伝のためのPR誌を編集発行するために広告出版社プラトン社をも創立、泉鏡花・大佛次郎・谷崎潤一郎・武者小路実篤・与謝野晶子といった女性人気の高い豪華執筆陣による女性文芸誌『女性』を、翌大正十二(一九二三)年には総合文芸誌『苦楽』を創刊するなど、大正モダニズムに大きな影響力を持った人物であった。芥川もこの「女性」などに作品を発表している。
・「実在の僕」の「実在」という謂いは特異である。本件は所謂ドッペルゲンガー(二重身)現象であるが、叙述の通り、その場にいた全員が現認した視覚的事実であり、久米正雄によるある種の光学的反射現象、一種の錯視(閉眼と開眼の相違部分)であるとの附言を持つ。芥川の幻覚ではない。即ち、本作「凶」は、少なくとも個々の怪奇な事件自体については、芥川自身の、強迫神経症的幻覚や幻視作用は全く認められないという事実を押さえねばならない。更に言えば、二年半の間にこの総ての体験をした芥川がそれらを結び付けて「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた」と述べたとしても、強ち、異常とも神経症的関係妄想だとも言えないと私は思う。そもそも彼はその直前に『僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた』とさえ述べているのである。これは彼の中に少なくとも、この二度目の霊柩車との遭遇以前には病的な関係妄想体系がなかったことを意味している。例えば、あなた自身が、この時の芥川龍之介になってみたと仮定してみるがよい。さすれば、あなたは『しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時』に容易に芥川龍之介と全く同じ感懐に至るであろうことを保証する(少なくとも私は絶対にそうである)。即ち、私は本作を普段の怜悧な芥川龍之介と何ら変わらない、極めて正常な意識の中で書かれた作品であると認識するのである。私はここに記された事実から演繹された感懐が、後の傑作「歯車」に結実するのだと確信するものである。
・「杯洗」酒席に於いて返杯のときに盃を洗う水の入った椀。但し、ここで久米が光学的反射現象であることを指摘している点から見て、和製の椀ではなく、所謂、洋風の金属製のフィンガー・ボール様のものを想定した方がしっくりくる。
・「大正十五年正月十日」年譜上はこの前後、胃腸に変調をきたしていて、外出は考え難いが、外出出来ないほどの衰弱ぶりであったわけではないようだから、明白な日時錯誤と言うことは出来ない。但し、この三日前の一月七日小石川偕楽園で行われた新潮社の合評会に出席しており、また三日後にも斉藤茂吉と会合して、更に知人を東京駅に見送り、アララギ本社へ所用で立ち寄っている。このどちらかの帰りの記憶違いという推定も可能かも知れない。
・「(大正十五年四月十三日鵠沼にて淨書)」最後に、このクレジットについて考えてみたい。宮坂覺氏は岩波版新全集の年譜の大正十五(一九二六)年の四月十三日の項で『「凶」(遺稿)を脱稿。』と記している。しかし、これには若干の不審が残る。何故なら、大正十五年四月十三日に芥川龍之介は鵠沼にはおらず、田端の実家にいたからである。彼が体調不良の療養を兼ねて鵠沼に向かうのは、この九日後の四月二十二日である(以後、この年の十二月十三日の帰還まで、途中、何度か田端へ戻ることはあったが、生活の拠点はすっと鵠沼に置いていた)。そうすると、このクレジットはどう解釈すべきなのであろう。一つは芥川龍之介の勘違いで『四月』ではなく『五月』である可能性である(五月十三日には既に鵠沼にいる)。しかし、私はこれを可能性としては排除したい。何故なら、精密巧緻な文筆家である芥川が月を錯誤することは殆んど考えられないということ、そもそも末尾には『淨書』とあることの二点からである。考えても見給え、何かを『淨書』する際に、うっかり日付、それも月を誤るということは極めて考え難いことではないか。即ち、私はこのクレジットが誤りではないと考える。即ち、私は本作は実は田端の自室で大正十五(一九二六)年四月十三日に執筆されたものであると考えるのである。しかしそれは、例によって芥川の推敲の跡を累々と記した原稿であった。後日、本稿を携えて鵠沼に移った彼は、掌品乍ら遺愛する本作を、遺愛するが故に『淨書』したのではなかったか? そもそも、私の管見では「○○にて淨書」と最後に芥川が記したものを殆んど見たことがないのである。これはとりもなおさず、本作への芥川自身の強い思い入れと自信の表れではなかろうか? 彼が鵠沼で浄書した際、実はそのプロトタイプの原稿は『(大正十五年四月十三日)』で終わっていのではなかったか? それを綺麗に書き直しえた芥川はその出来に確信犯的な満足感を覚えて、最後に『鵠沼にて淨書』という芥川龍之介にして極めて珍しい浄書記載が附されたのではなかったろうか? 即ち、ここは芥川龍之介の意図としては
『(大正十五年四月十三日) 鵠沼にて淨書』
ではなかったか。即ち、脱稿は大正十五年四月十三日であったが、後(同年四月日から五月日迄の間)にそれを鵠沼で改めて浄書した、という意味のクレジットなのではないかと私は考えるのである。
■やぶちゃんマニアック注 終