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片山廣子歌集「翡翠」抄――やぶちゃん琴線抄五十九首――

[やぶちゃん注:以下は、片山廣子の第一歌集『翡翠かわせみ』(大正五(一九一六)年三月竹柏会出版部発行)から私の琴線に特に触れたものを順列に従って選した。冒頭と掉尾の歌及び歌集の題名となった「よろこびかのぞみか我にふと來る」の「翡翠」の歌の三首は採るという私なりの書誌学的制約以外は、選に際して自身に全く強いなかったつもりである。さればこそ、五十九という半端な選数のままとしてある。逆に、その詩想に共感しながらも、少しでも微妙な不足を感じたものについては選から外したし、言わずもがな、既出の如何なる識者の歌評や選抄にも影響されていないと言える(それほどに私は短歌的世界に冷淡であるとも言えるし、短歌が分からない人間でもあると言えるのかも知れぬ。そのような不逞の輩の選抄として鑑賞されかし)。底本は筑摩書房一九八一年刊の『現代短歌全集 第三巻 大正三年~六年』所収の『翡翠』を用いたが、私のポリシーに従い、恣意的に殆んどの変換可能な新字体を正字に直した。原本をお持ちの方で、万一、私の恣意的な漢字変換の誤り(若しくはしなかった誤り)を発見された方は、御教授願えるならば、恩幸これに過ぎたるはない。一部の歌の後に私の注を附した。

片山廣子歌集「翡翠」 全 やぶちゃん注
片山廣子集 《昭和六(一九三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全
片山廣子歌集「野に住みて」 全 附やぶちゃん注

片山廣子歌集「野に住みて」抄――やぶちゃん琴線抄七十九首――
片山廣子短歌抄 《やぶちゃん蒐集補注版》

本縦書版公開は二〇一一年三月十日。]





片山廣子歌集「翡翠」抄
 ――やぶちゃん琴線抄五十九首――






何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり





我が生命かへりみせらるもづもづと這ふ蟲見ればかへりみせらる





一言に黑きひとみもをどりつる春かへり來よ我が老いぬ間に





わが指に小さく光る靑き石見つつも遠きわたつみを戀ふ





靑き空ひかりに暗しくだる日に向ひて廣き斜面をのぼる





わくらはのあくがれ心野を越えてわすれし路にふといでにけり





かさかさと野ねずみ渡る枯葉みち古りし欅ににほふ秋の日





さらさらと枯葉の落つる初冬の日の暖かさ黑髮をほす





ゆめもなく寢ざめ寂しきあかつきを魔よしのび來て我に物いへ



[やぶちゃん注:下の句の「魔よしのび來て」の「し」が草書体の(「志」―「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。]





月の夜や何とはなしに眺むればわがたましひの羽の音する





うすぐもるみそらの下に我立ちて風をきくかな枯木の風を





たばこの香すこし殘れる部屋にゐて歸りし人を思ふあめの日





わびしうも甘納豆をつまみつつ猫に物いふ夜の長きかな





ほそぼそと朝の雨ふる銀のはり清くつめたくわがはだをさす





飴うりを子等は追ひ行く秋の日の流るる道にのこる笛の音





小さなる稻荷の宮のうす月夜桐の花ふみてあそぶ野ねずみ





こすもすや觀音堂のぬれ縁に足くづれたる僧眠りゐぬ





よひの海に燈が一つあり埋立地くろく平らによこたはるかな





椿落つほこらの前の靑ぐろき水のおもては物音もせず





道づれに狐もいでよそばの花ほのかにしろき三日月のよひ



[やぶちゃん注:下の句の「ほのかにしろき」の「し」が草書体の(「志」―「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。]





しろき花あかき花咲き蜥蜴など走りし庭の主人あるじを憶ふ



[やぶちゃん注:初句の「しろき花」の「し」が草書体の(「志」-「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。]





曼珠沙華肩にかつぎて白狐たち黄なる夕日にささめきをどる





あたらしき人をあらたに戀し得む若さにあらばうれしからまし





湯のたぎる火鉢に倚りて只一人風吹く空の靑きに見入る





幽靈もほそき裾して歩みくや夜のうすもやに月あかりする





七本の棕梠の木の間に月させば君を送ると倚りし門の





ああねずみよるをいのちの汝が群の盜みて食めと思ふわがおもひ





五日月沈まむとする春の夜を森のふくろがひとりごといふ





蛇のごとほのほぞ動く久方のみそらに近き山燒くゆふべ









[やぶちゃん注:以下の五首は、「輕井澤にてよみける歌十四首」という廣子の附注がつく歌群からのもので、便宜上、以下のように「輕井澤にてよみける歌」という詞書を附し、前後に「*」と空行を設けた。]





輕井澤にてよみける歌





霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり





さびしらに淺間葡萄も吸ひて見む人醉はしむる毒ありといふ





月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな





雲の影遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと





遠山と我と立つ時やみに伏す大野のむねにおつるいなづま











子狐ら谷の穴よりそとを見るもみぢの山に雨がふる雨がふる





わがめづるあぢさゐの花うす靑うかげの國より得し色にさく





靑あらしに栗の花落つる我が家をあかつきの夢に人の訪ふらむ





菊の影大きく映る日の縁に猫がゆめみる人になりしゆめ





べに多き伊萬里の皿にのりまきを七つ並べてみほとけに上ぐ





花の香の心にしむよ久しうもけものゝ國に住みて來つれど



[やぶちゃん注:第二句の「心にしむよ」の「し」が草書体の(「志」―「心」+(同位置に「灬」から最右翼の点を消去したような三つの点)という特殊な字体となっているが、ひらがな「し」に改めた。]





其人のぬけたるのちの歴史こそ白紙の如く何もなきかな





をさなごの眠りのうちのほほゑみとふと來りふと消えしよろこび





柿の實の靑きが落ちぬ夕雨にわが思ひさへ二つ三つ散る





うなゐらの遊べる中を狐つきうり食みて來ぬ夏の夕ぐれ





靑磁色の器のかけもふとまじる磯邊の砂のかわきゆく朝



[やぶちゃん注:個人的な推測であるが、この歌は鎌倉の由比ヶ浜での吟と推定する。それは、由比ヶ浜では鎌倉時代、南宋との貿易の中で、船で運ばれてきた靑磁器。陶磁器の内、破損したものが海中に投棄された。それが現在でも(二〇〇九年の現在でも、ということである。私も過去、幾つもの靑磁・陶器片をビーチ・コーミングしてきた)流れ着く事実があるからであり、また、この歌の次の次の一首に鎌倉の地名である「名越」が詠み込まれているからである。廣子は鎌倉扇ヶ谷辺に居住していたと思われる事実もある。]





八重洲河岸河岸の夕日に石きざむシヤツ黄ばみたる人々のむれ





わがのぞみ稻妻はしる遠空に見つと覺えて又やみになる





一すぢの我が落髮を手に取れば小蛇の如く尾をまきにけり





ためらふなもだすなすべて汝が心この一時に投げて碎けよ





銀のはさみに砂糖はさみて入れつれば泡うづまきてはや沈みたり





龜の子はのそりのそりとはうて行く氣味わるけれど我も行くかな





ふと戀し森の中なる墓こひし野際あかるく鳥とぶ夕べ





我が世にもつくづくあきぬ海賊の船など來たれ胸さわがしに





ゼズイトの僧渡り來し日の如くあやしき聲ぞ我が胸に入る



[やぶちゃん注:「ゼズイト」はラテン語 Societas Iesu の前部の音訳で、イエズス会のこと。キリスト教カトリック教会の男子修道会。フランシスコ・ザビエルは創設者の一人。]





何を待つ今何を待つ山際のほのあかるみに笛遠く鳴る





靑白き月のひかりに身を投げて舞はばやよるの落葉のをどり





よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき





ほかの世の我が聲きこゆ奇し鳥の我にあたへしゆめのさめぎは





いのらばや弱りはてぬる心もて今日のおもひに堪へん力を