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芥川龍之介「枯野抄」やぶちゃんの授業ノート

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[やぶちゃん注:ここでの本文の引用は、高校生の便宜を考え、新字体・現代仮名遣いにした。]

 
第一段 プロローグ~大書割からセットへ

○芭蕉の忌日 旧暦十月十二日 現在の十一月上旬

第一節 いかにも町人の町らしい情景描写

○ロング・ショットからクレーン・ダウン

☆「朝焼けた空は、又昨日のように時雨れるかと、大阪商人の寝起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘った」が示している多量の情報を丁寧に読み解く。

・朝焼け→雨の予兆

・昨日はしっかりと雨が降ったという事実=今日の空気の清澄感

・大阪商人の早起き

・その眼を向けた大阪商人の考えていることは?

☆朝から午後へ=一文中での時間的描出

☆かすかな湿りと冷ややかではあるが、透明感のある空気描き方、葱や擬宝珠のアップによる鮮やかな色彩効果、遠い人形浄瑠璃の三味の音のSE(音響効果)の巧みさを見逃さない!

○クロースアップやバストショットの、カット・バックを重ねた昼景描写の妙

 

第二節 登場人物のモンタージュ

・奥座敷の門人の風姿

→その簡略な容態が既にそれぞれの内実の伏線とされていることに注意!

・配置(一部推定)=映像化への重要な作業~番号は芥川の描写の順(⑤番目は二人を描写)

 
            (庭)
――――――――――――――――――――――――――(障子)


   ②治   ①木   蕉  ⑦惟 
   ⑧丈   ③其   芭  ⑥支 
   ⑤乙   ④去 


   ⑤正 
――――――――――――――――――――――――――(襖)

 

☆死に瀕した病みつかれた痛ましい芭蕉

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

○芥川による簡明にして秀抜な句解釈

『事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のように漂ってでもいたのかも知れない。』=昏睡の夢中に在って芭蕉一人きり⇒伏線

 

第二段 くっきりとした一人一人のエピソード構成

第一節 [治郎兵衛]

・従順な老下男=(愚昧な)大衆を代表する男=(一つ覚えの)念仏の信者。

 →×実際は若者であった。

*称名念仏と御題目の違いとそれぞれの宗教的意味を解説。

*ここで、序でに芥川が素材とした文曉の芭蕉臨終記「花屋日記」が偽書であることを明かす。

★素朴~山家育ち= 無知 

★ここでの治郎兵衛は、一般的な不特定多数の民衆の一人を暗示させる。そこでは芭蕉個人の死を悼んでいるのではなく、死ぬ者には誰であろうと一つ覚えの念仏を唱えるべき=唱えることしか能がないという無知蒙昧の徒という醒めた芥川の視線が感じられはしないか?

 

第二節 [木節]

・医師

★医師として、すべてのなすべき=なしうる最善の施療をしたかどうか自問しつつ(しかし、それは「いつもの疑念」=「(医師としての)いつもの」癖でしかない、即ち芭蕉を「ただの一患者」としてしか見ていない)、また気を取り直す。

『手段は尽くした。手落ちはない。彼の死は所詮天命だ。』

・職業人としてのクールな姿。あとは患者の死を(医師として)待つのみ

『来るべきもの』が早く来て片付いてもらいたかった。それがやっとやって来たという

 安堵 

↓そうしてこれは

 この場に居合わせているすべての人々の内心  ⇒伏線

(*芭蕉の存在があまりに巨大過ぎ、門弟個々人の存在を圧迫していたという作品末の伏線。尊敬し崇拝する偉大な師であるだけに、それからの解放感も大きいというラストの丈草の内実に、どこまでここの部分で思い至るかという点がポイント。)

 

☆どのような点が「微妙」なのか?

芭蕉の死を迎えて安心を感じる

↓まさか

芭蕉の死を無意識にもせよ望んでいた?

↓いや

門弟として絶対にあるはずがない

↓しかし

事実として安心した

↓とすれば[フィード・バック]

★芭蕉の死を無意識にもせよ望んでいたのかも知れぬ⇒伏線

 

第三段 [其角]

・木節の目に、自分と同じ安堵の気持ちを認めて、ぎょっとする。

・予測に反して、冷淡に澄みわたった心境。

生の享楽家にして現実主義者

↓故に

★醜き一切に対する反感=醜い芭蕉の姿=《醜と死の象徴》=「死」という人間の持つ宿命を突きつけられ脅された *「羅生門」の下人の心理を想起させる。

↓結果

★嫌悪の情~ 不快・吐き気 

・かすめる自責の念の提示→嫌悪の情が如何に大きいかを逆に引き出すための技巧

 

第四段 [去来]

★「ある満足と悔恨」

1.満足……芭蕉の看病に献身的に没頭していた状態

2.悔恨……師が師の床にあるにもかかわらず、「その献身的骨折りを、満足の目で眺めている」ことに対する自己批評。

★この満足感を支考に苦々しく思われたことから生まれた悔恨

無意識の満足感=調和した心理

↓支考に見抜かれて以降

満足感を強く意識しなければならなくなることから生じる倫理的罪障感=心理的不調和の発生

↓故に

去来は落ち着きを失って興奮している=心内の1と2の二律背反のディレンマに捕われている

↓しかし、都合のよいことに

他人の目には、その状態が悲しみの結果と映る~強烈な皮肉

 

物腰りりしい[+]

恭謙[+]

繊弱な神経[-]

 卑小な小心者 [-]

 

第五段 [乙州]

(正秀の慟哭に対して)……正秀は道化役→トリック・スター

 ある誇張を不快に感じる。
2 意志力の欠乏。

1=『所詮、このような臨終の床で、人は芝居じみた感情表現をするものだ。』       《という冷めた思想》+『それにしてもオーバーアクトじゃないか?』

2=知的批判→冷徹な理性

↓ところが、

★乙州自身、知的抑制力に欠く

↓クールなはずの自己の単純な感情をコントロールできない

★自己矛盾

「正秀の哀慟」に動かされて嗚咽をもらしてしまう~貰い泣きに過ぎない・単なる悲哀の伝染 無内容な涙 

*『悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか?』という脳生理学的な概説。

 

第六段 [支考]

・剛愎そうな

・人の悪い

・皮肉屋

・色の浅黒い、人を馬鹿にしたような顔

・横風

《結構な場所で美しい布団にくるまれ、弟子達に囲まれて安らかに往生できる》

画面上の華やかな死

↓しかしここは

《人生の枯野》

弟子達の誰一人として(自己を含め)彼の死を純粋に悼む者はない

《たった一人枯野の中で行き倒れになったことと精神的な孤独という点において同じ》

 支考の中の「枯野」 

1.三、四日前までは師匠に辞世の句がないことを気にかけていた。

2.師匠の発句集を、その死後一本にまとめる計画を立てていた。

3.師の臨終の姿を、その経過に興味でもあるような、観察的な目で眺めていた。

「他門への名聞」=1

「門弟たちの利害」=2

「自分一身の興味打算」=3

・師の死とは全く無関係なことばかり

★他の門弟たちも同様

それが《真実》だ

 

★主題提示部

限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失った自分たち自身を嘆いている。が、それを道徳的に非難して見た所で、本来薄情に出来上った自分たち人間をどうしよう。 *漱石の「こゝろ」上のエンディングの「私」の思いを想起させる。

↓しかし

★このような厭世観に「沈み得る事を得意にしていた支考」

という風に理智的に皮肉に見抜くこと自体に快感を得ている支考

 鼻につく衒学(げんがく)者 のイメージ=芥川龍之介の影?

 

第七段 [惟然坊]

・「明暗二とおりの心持ち」

○明…自分以外の人が死んだ場合の安心

●暗…万一自分の死だったらと考える時の不安

★「暗」の恐怖に捕われて行く惟然坊~師匠の次には自分の死があるという険悪な恐怖の影

 死恐怖=不安神経症(強迫観念)=ネクロフォビア 

*「こゝろ」の先生を想起させる。広場恐怖・先端恐怖・Arachnophobia等、さまざまな恐怖症(-phobia)について、その発症の精神分析学的意味等を含めて概説。ついでに、necrophlia・pedophilia等の(-philia)の異常性愛の概説。

↓そのため

師の末期の顔が正視できない~無愛想な顔つき

 

第八段 [丈草]

「人情の冷たさ」「限りない人生の枯野」~末尾の皮肉としての「悲嘆かぎりなき」

限りない悲しみ

安らかな心持ち

次第に広がってゆく朗らかな気持ち

悲しみさえ清らかなものに変化

 

●師の極楽往生を喜んでいる?

×「肯定できない理由であった」

=僧が死者の極楽往生を確信し、それを讃える等というのは、余りにも出来すぎて、美化され過ぎていて、真実ではない。

 

長く芭蕉の人格的圧力の下にむなしく屈していた彼の自由な精神の解放の喜び

 かすかな笑み 

 

◎一見、この場の弟子たちを支配している感情が《主題》のように見える。

門弟たちのエゴイズムを抉り出す= 実は夏目漱石の臨終 

↓しかし

◎ドラマ・画面の中心に居て、終始無言の昏睡状態の芭蕉であるということをも意識しなくてはならない(恐らく、芭蕉の魂は弟子達との関係とは全く無縁な枯野=地平に立っている)。

↓愚昧な群小詩人に囲まれた

大芸術家の孤高の最後が浮上

「俳句に生き、俳句に死ぬ」~「鬼」としての芸術家

孤独な芸術至上主義者としての理想像

 芥川我鬼自身の影