鷗鳴く頃 富田木歩

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鷗鳴く頃   富田木歩

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年四月、富田木歩十七歳の時、左前の生家から口減らしのために、友禅染の型紙彫刻師の元に徒弟奉公に出されたが、歩行不能で這いずって仕事をする彼への兄弟子達の執拗な虐待と長時間の労働に耐え切れず、十月には暇を貰った。この間、兄弟子の中で土手米造という少年(兄弟子ではあるが二歳年下で十五歳あった)だけは終始木歩に優しかった(米造はしかし、直きにやはり暇を貰って広島に帰ってしまい、話し相手のない寂しさも木歩が職を辞める理由の一つであった)。大正四(一九一五)年、住まいの本所仲之郷の棟割長屋で木歩は前年から始めた句作で作句活動に入り、数人の俳句仲間と同年五月に俳句同人『小梅吟社』を創始した(この頃の木歩の号は吟波。大正五年からはここで駄菓子屋を営んだ)。その時、広島から再び上京していた土手米造も結社に参加、土手波王と号し、今度は俳諧の弟弟子となって句作に励んだ(『小梅吟社』は原石鼎の指導を受けたり、また波王らと謄写版俳誌『曳舟』を創刊するなどした)。木歩は大正六(一九一七)年五月には前年から臼田亞浪門下として、俳人として本格的な俳人として活動し始めていた(五月に木歩と号を変える)。その矢先のことである。同年七月二十一日の昼、心友土手波王は暑気祓いに木歩の弟で聾啞者であった利助らを誘って隅田川に遊泳に出かけ、大川の魔所と呼ばれた小松島辺で溺死した。炎天下有一里を走り続けた利助の、身振りの報を受けた木歩は茫然自失、波王の恋人であった木歩の愛妹まき子(数え十七歳)は半狂乱となって泣き崩れた。波王享年十九歳。――その二月後の九月、女工として家計を支えて来たまき子は、妾となっていた姉富子の檀那の経営になる向島の「新松葉」へ、遂に身を売って半玉となった。――しかし、一年後の大正七(一九一八)年三月、そのまき子も結核のため主家から暇を貰い、病臥の末、七月二十八日、亡くなった。享年十八歳。――その、まき子との哀傷篇は私の『富田木歩愛妹まき子哀傷小品二篇「おけら焚きつゝ」「臨終まで」 附 同哀傷句群』を是非お読み頂きたい。――本作は、そうしたすべてが終わった大正八(一九一九)年七月、『山鳩』に掲載された波王三回忌の追悼文である。底本は昭和三十九(一九六四)年世界文庫刊の新井声風編著「決定版富田木歩全集 全壱巻」を用いた。当該底本は基本的に新字現代仮名遣であるが、一部に正字が混在している。全てママとした。見出し数字や作品中の俳句及び前書・俳号等には有意な字間や微妙な文字サイズ変更(特に俳句と前書)が施されているが、全て詰め、同ポイントで表示した。見出し数字の前後及び一部の俳句部分の前に空行を施した。本頁は先日(二〇一一年四月二十五日)発売の文學の森刊『俳句界』五月号に私(藪野唯至名義)の富田木歩論「イコンとしての杖」が掲載(文學の森社からの依頼に基づく)されたのを記念して作成した。なお、執筆時期は前掲の「おけら焚きつゝ」「臨終まで」よりも一年後であるが、目次では波王とまき子の逝去の時系列で恣意的に前に配してある。【二〇一一年五月三日】] ]


     
鷗鳴く頃


        一

 夜々月がおぼろに霞む梅雨期が来た。又キヽキヽと夜鳥の鳴き渡る声をしばしば聴く。
 鳴呼其の声――。
 私の心は其の鳥の声を聴くと直ぐ、駄菓子を売り人形のへち削りの内職をして(それはもとより小遣い取りに過ぎなかったが、貧しい生活を立てゝた舊廬なつかしむ追憶で一杯になる。そして其の追憶はキット水死した友波王のことに及ぶのである。

        二

 夜鳥がキヽキヽと屋上の空を頻りに鳴き渡る宵であった。毎夜近所の友達を寄せて俳三味に俳論に囲碁に将棋に更かす駄菓子店の私の家では、この宵も常連とも云わるゝ其の四五人が寄って笊碁を囲み出した。すると故意か偶然か、この夜に限って常連以外の俳友や妹の友の近所の娘達まで、知ると云う知る友は殆ど全部六畳に三畳の二間しかない私の家に身動きもならない程集った。そして七月の夜蒸れにもめげず皆々と語り笑いさぎめいた。
 流石賑か好きな私の母も兄の家から戻って来て、この人数には驚いたのである。
 この賑かな中に一人、蒼白な顔色をして二言も口をきかず、頭髪をねじりねじり、縁側に構えた囲碁の群れの中に突っ立っている男があった。彼は昼間私の妹のまき子といさかっていたく怒って了った波王なのである。
 何時も人一倍騒ぐ波王としてこの夜のこの態度は、楽しく語らっている凡ての友の心に一種のもの淋しい感じを与えた。
 私も其の賑いの中へ誘い込むすべもない彼の茫然とした姿を淋しく眺めた。
 妹といさかったとは云え常にない波王の様子と、この不可思議な集まり――神ならぬ身の誰知る由もなかったが、其の夜は生きながらにして魂の失せた彼を葬う通夜の夜であったのである。

        三

 其の翌日波王は彼の下弟子である私の啞の弟と今一人の二人を連れて、隅田川に於いて魔所と称えらる、小松島で遊泳中敢なく溺死を遂げて了った。
 私はこの日の事を詳しく書き現わすに堪えない。
 啞の弟が小松島から私の家まで炎天の下の小一里の道をそれも病後の身であったので息も絶え絶えに走せ戻り、波王の溺死を訴えた時の云う可からざる悲痛の顔――ましてや手真似に依らなければ意を伝える事の出来ない哀れな啞の顔を私ははっきり思い出す事が出来る。
 今思っても私の胸はたまらない悽惨さに躍動を覚える。
 そして彼の死体はいたましくも如何なる魔に見入られたものか、三昼夜浮かび上らなかった。併し友の為には身命も惜しまない様な気概を捲っていた彼は、多くの友及び同職の知人達の手に依って捜索された。そしてやはり其れ等の人に依って懇ろに葬われた。
 私の家でも四十九日までの供養を厚くいとなんでやった。
 私は彼に対する愛惜の念を斯く詠った。

        波王水死の翌日
     瓢簟の次ぎ花も見ぬ別れかな
        波王去りて第一日の休日
     誰も来ぬ窓の蜻蛉やお朔日
        波王を思いつゝ、新涼の夜半を
        端居に更かす
     稻妻や誰やら来そに思はるゝ

 亞浪先生石鼎先生よりは左の如き悼句を頂いた。

     藻の花や魔のぞかるゝ靄がゝり    亞浪
     螢火や土手波王とて名も淋しかりし  石鼎

 彼は十九歳の短命にして悲惨な死を遂げたと云え、一介の徒弟の身として斯くまで多くの人の同情を受けたのはせめても冥す可きではあるまいか。

        四

 彼は本名を土手米造と云って廣嶋、忠海の生れであった。
 私と彼との交際は、大正二年私が十七歳の時懇意な友染形彫刻師の家に徒弟奉公に入って、二ツ年下の十五才の彼を兄弟子と仰いでからである。
 其の後彼は一ケ年程故郷に引き籠り、私も又不具の身の徒弟奉公に堪えられず、修業中暇を貰って了い一時交際は絶えたが、相識ってから彼が世を去るまで僅か四五年の間に置いて、余人にはとても思いも及ばない程深い交情を続けたのである。
 が、俳人としての交際は其の生前の一ケ年間に過ぎなかった。大正四年五月私が仁王丸一仏等の俳友と小梅吟社を起してから、彼も俳句に指を染めるに至ったのである。そして私の俳号の吟波(私は共の頃吟波と云った)の「波」と仁王丸の「王」とを取って彼は波王と号を附けた。

        五

 一度俳生活に入るや、何の技術に対しても人後に落るのを潔しとしない彼の精神力は、たちまち俳句の真諦に触れて

     百合一枝投げ込む桶のいまし麥
     落ちんとす樋の割ざまや秋の風
     抜け土間の掛け蓑はたく秋の風
     稻妻にやとひ男の端居かな

等の逸作を示した。
 が、尚小止みなき彼の向上心は、多くの友の概念低徊にさまよっている間に民族詩としての純正な俳句の一路に目覚めて、私と共に亞浪先生の指導を受けて自己の為めの芸術を生む可くひたぶるこに精進した。
 そして其の短い俳生活に於いて

        やもめなる父と住んで (二句)
     梟に朝餉仕度もして寝たり
     子と住んで戸じめ怠る鳴く梟
        博労の叔父に養はれて (三句)
     萱厚く牛屋圍ひぬ冬の風
     寒梅や食替え牛の糞検す
        徒弟となりて (二句)
     膝に鳴きつく蚊に仕事机あてぼ叩きけり
     追儺豆一番弟子の撒きにけり

等の境涯の作及び、

     飼雉を見守りつ榾切にけり
     石トロの連らなつて下る冬木かな
     冬風や兎糞まじりの松葉焚く
     錆出刄に釜煤落とす藪蚊かな
        絶作
     胡麻花のうなだるゝ眞晝泳ぎけり

これ等悠久の生命ある句を生んだ。
 が、此処に尚奇と云う可きは、私等が俳三昧の課題として作った水泳の句が、彼の為には絶作となり私等の為には悼句となった事である。

        六

 噫、又キヽと夜鳥は鳴き渡る。つい先き頃であるが、斯の鳥は隅田の鷗であるのを知った。
 私は、来る七月廿一日三回忌に相当する不幸なる俳人土手波王をしのぶ可く、此の雑駁な一文を草した次第である。 (大正八、六、一〇)

          ―大正八年七月「山鳩」掲載―