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漢文漢詩の面白味   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年十一月に発行された『文章倶樂部』に「漢文脈と歐文脈」の大見出しに表記の題名で掲載された。後に『點心』に所収された。底本は旧全集を用いた。――因みに、ここで芥川が愛好した李賀に言及してくれていれば、我々は彼と李賀の接点を完全な第一次資料として「ここで」知り得たはずであった。本文脈からは李賀の一句が何処で登場してもおかしくはなかった。しかし、芥川は語って呉れなかった。それは彼にとって李賀が秘すべき愛人のような気持ちでもあったからなのかもしれない。――本テクストはその芥川龍之介と李賀の接点を語る芥川の執筆になる一次資料としての芥川自作の漢詩の中に李賀を見出した記念(私の二〇一一年五月七日附ブログ「芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した」を参照)にテクスト化するものである(但し、発見と言っても、二〇一〇年五月花書院刊の中国中山大学教授邱雅芬(キュウ ガフン)氏の「芥川龍之介の中国―神話と現実」の著作の中の解説に発見した、というのが正しい)。【二〇一一年五月八日】]

漢文漢詩の面白味

 漢詩漢文を讀んで利益があるかどうか? 私は利益があると思ふ。我々の使つてゐる日本語は、たと佛蘭西語の拉甸語に於ける關係はなくとも、可成支那語の恩を受けてゐる。これは何も我々が漢字を使つてゐるからと云ふばかりぢやない。漢字が羅馬字になつた所が、遠い過去から積んで來た支那語流のエクスプレツシヨンは、やつぱり日本語の中に殘つてゐる。だから漢詩漢文を讀むと云ふ事は、過去の日本文學を鑑賞する上にも利益があるだらうし、現在の日本文學を創造する上にも利益があるだらうと思ふ。
 ぢや漢詩漢文を讀んでどんな利益があるかと云ふと、これははつきりと答へにくい。何しろ漢詩漢文と云へば、支那文學と云ふのも同樣だから、つまり英吉利文學或は佛蘭西文學を讀んでどんな利益があるかと云ふのと、同じやうに茫漠とした、つかまへ處のない問題になつてしまふ。勿論何とか答へられない事もないだらうが、それには相當な準備をした上でないと、結局出たらめに終り易い。文章倶樂部記者に質問されて、始めて考へて見るやうな事ぢや駄目である。
 唯ふだん思つてゐる事を一二云へば、漢文漢詩は一樣にみんな極大雜把な枯淡の文字のやうに思はれてゐる。しかし實際は大雜把どころか、頗る細な神經の働いてゐる作品も少くない。たとへば高靑邱(明)の、
   樹涼うして山意秋なり。
   雲淡うして川光夕なり。
   林下、人に逢はず。
   幽芳、誰と共にか摘まん。
などと云ふ五言絶句は、薄暮の秋の林間が、空氣までもしつとりと描き出されてゐる觀がある。それから抒情詩的リリカルな感情は、漢詩に縁が薄いやうに思はれてゐるが、これ亦必しもさうではない。名高い韓偓(唐)の『香奩集』と云ふ詩集は、殆どこの種の詩に充滿してゐるが、その中から一つ引くと、「想得たり」と云ふ七言絶句に、
   兩重門裏、玉堂の前
   寒食の花枝、月午の天
   想得たり、邦人手を垂れて立ち、
   嬌羞、肯じて鞦韆に上らざりしを。
と云ふのがある。羞ぢてブランコに上る事を承知しなかつた少女を想ふ所なぞは、殆生田春月君の詩の中にでも出て來さうである。(序ながら云ふが『香奩集』の中には、「手を詠ず」と云ふ、女の手の美しさばかり歌つた詩がある。如何にも凝つたものだから、暇な方は讀んで御覺になると好い。)又さう云ふ戀愛以外の感情を歌つた詩でも、我々の心境に合するものが、思ひの外澤山ある。ずつと新しい所から例を擧げると、孫子瀟(淸)の「雑憶、内に寄す」と云ふ、旅先から家へ送つた詩に、こんな七言絶句がある。
   郷書遙に憶ふ、路漫々。
   幽悶聊憑む、鵲語の寛なるを。
   今夜合歡花底の月。
   小庭の兒女長安を話す。
 この詩人のノスタルジアなぞは、至極素直に我々にも受け入れる事が出來さうである。もう一つ淸朝の詩人から例を擧げると、趙甌北の「編詩」と云ふのに、
   舊稿叢殘、手自ら編す。
   千金の敞帚、護持する事堅し。
   憐む可し、賣つて街頭に到つて去る。
   盡日、人の一錢を出す無し。
と云ふのがある。これなぞも我々賣文生活をしてゐるものにはまづ同感と云ふ外はない。くどいやうだが、もう一つ例を擧げると、名高い杜牧(唐)の、
   江湖に落魄して酒を載せて行く。
   楚腰纖細、掌中に輕し。
   十年一たび覺む、楊州の夢。
   贏ち得たり、靑樓薄倖の名。
なぞも吉井勇君を想はせる所がないでもない。こんな具合に漢詩の中には、現在の我々の心もちと可成密接な物が含まれてゐる。決して一概に輕蔑して然るべきものぢやない。單に自然を描いた詩句を拔き出して見ても、
   棗熟して人の打つに從ひ、
   葵荒れて自ら鋤かんと欲す。(杜甫)

   高杉殘子落ち、
   深井凍痕生ず。(僧無己)

   疎篁晩笋を抽き、
   幽藥寒芽を吐く。(雍陶)
とか云ふやうに、秋冬だけでさへ鋭い詩眼を感じさせるものが澤山ある。だから漢詩を讀めば、少くともこれだけの範圍内では、我々の常に學ぶ可き事が、思ひの外多くはないかと思ふ。
 その外まだいろいろ益する所もあるだらうが、何分前に云つた通り準備も何もないのだから、今度はこれだけで御免を蒙りたい。それから漢詩の事ばかり云つて、漢文の事を云はなかつたのは、例を引くのが不便でもあり、且その方へ話が延長すると、除り長くなる事を惧れたのである。その點も大眼に御覧を願ひたい。