イワン・ツルゲーネフ「猟人日記」より 「生神様」 中山省三郎訳 縦書版

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生神樣
   
――イワン・ツルゲーネフ原作 中山省三郎譯

[やぶちゃん注:これはイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(一八一八~一八八三)の「猟人日記」(一八四七年から一八五一年に雑誌『同時代人』に発表後、一篇を加えて二十二篇が一八五二年に刊行されたが、後の七十年代に更に三篇が追加され、一八八〇年に決定版として全二十五篇となった)の中の一篇の全訳である(一八七四年選集『共同出資』初出)。底本は昭和三十一(一九五六)年角川書店刊の角川文庫のツルゲーネフ中山省三郎譯「獵人日記」の下巻の、平成二(一九九一)年再版本を用いた。文中の割注や底本の巻末にある訳者注を作品末に示した(但し、文中にある注記号「*」はうるさいので省略した)。なお、本底本は再版された際、旧活版の欠損部分の一部が写真植字により補塡されているのであるが、その補塡が非常に杜撰である。漢字が新字体表記となっていたり、歴史的仮名遣いを誤っていたりして、凡そ何者が為したのかと義憤を感ずる程である。本篇でも例えば底本一七〇頁の最終行の改行された行頭の一文、ルケリヤがピョトールの治療の申し出を断って独居の不思議な心境を語り終えたシーン(歌を歌う直前)で、「ルケリアは苦しそうに溜息を洩らした。」とある。名前の表記も歴史的仮名遣いも誤っている。こうしたものをそのまま残すのも、また、注記するのも、中山氏に恥ずかしいことであるので、断りなく補正していることを言い添えておく(補正後に同テクストと思われる昭和十五(一九四〇)年岩波書店刊の文庫版で確認した)。訳者中山省三郎氏は昭和二十二(一九四七)年五月三十日、宿痾の喘息のために四十四歳で逝去されている。そのことによって、不遜にも私が本作を公開出来る点に於いて、中山先生への追悼の念を心からここに述べおく。【二〇〇八年六月十八日】本縦書版のために、ルビ化し、こちらでは冒頭標題及び注の一部(ロシア語原語表記)を省略した。なお、文中に現われる「露里」(ロシア語で「ヴイルスタ」。中山氏は「露里」二字で「り」と読ませている)は約一〇六七メートルである。――本縦書ページを、筋萎縮性側索硬化症の母、聖子テレジアに捧げる――直史ルカ――【二〇一一年三月十三日】――母ルケリヤ聖子テレジアはこの六日後の二〇一一年三月十九日午前五時二十一分、天に召されました――直史ルカ――]

生神樣いきがみさま

       永き忍苦のわが郷國くによ、――
       あゝ、露西亞の民の國!
        ――フョードル・チュツチェフ



 佛蘭西の諺に『乾いた漁師と濡れた獵人は見るも哀れだ』といふのがある。私は未だ曾て漁に特別の興味をもつたことがないので、晴れた好い天氣の日に、漁師の束縛がどんなものか、また天氣の惡い日に、漁がたくさんあつたといふ樂しみが、どの程度まで濡れてゐる不愉快さに打ち克つものか、とんと見當がつかない。然しながら獵人にとつて雨といふやつは、まことに災難である。丁度この災難にエルモライと私とは、ピェーレフ郡へ松鷄えぞやまどりを撃ちに行つた時に出つくはした。――夜の明け際から雨はちつとも止まない。雨除けの方法は仕つくしてしまつた! 護謨びきの合羽を頭からすつぽり被つて、雨の滴をできるだけ避けようと、樹蔭に佇んでゐた……。雨合羽が射撃の邪魔になることは先づよいとしても、甚だ無躾にも水を透し、それは樹の下へは、たしかに初めのうちは、雨の滴も落ちて來ないと思はれたが、やがて其のうへにたまつた雨水が急にあふれ出して、それが雨樋から落ちるやうに、枝から降りかかつて來た。冷たい水がネクタイの下へ入りこんで、脊椎せぼねを傳つて流れる……。これはエルモライがいつた通り、『もうよくよくのこと』であつた! 「いや、ピョートル・ペトローヰッチ」と彼はたうとう叫び出した、「こんなぢや駄目だ……、今日は獵は出來ましねえ。犬の鼻は濡れて利かなくなるし、鐡砲へは火がつかず……、えい! 縁起が惡い!」
 「一體、どうしたらいいだらう?」
 「まあその何ですね、アレクセーエフカへ參りやんせう。旦那あ、御存じねえかも知んねけんど、あそこにや農園がありましてな、旦那のおふくろ樣が持つてらつしやるんで、ここから八露里ほどあります。今夜はあすこへ泊まつて、そして明日あした……」
 「ここへまた引つ歸すのか?」
 「いんえ、ここへぢやありましねえ……アレクセーエフカの向ふに知つてる所があるんです……、松鷄えぞやまどりにや、ここよりあ、ずゐぶん好いんでして!」
 私はこの忠實なる伴侶つれに、それならば何故まつすぐそこへ連れて行かなかつたのかと突き込んで訊ねはしなかつた。そしてその日、二人は母の農園に辿り着いた。正直にいふと、そんな農園のあつたことは今まで夢にも知らなかつたのである。行つて見ると、この農園には小さな離れが附いてゐて、かなり古くはあつたが、今まで人が住んでゐなかつたので綺麗であつた。ここに私は極めて靜かな一夜を過ごした。  翌る日は大變早く眼をさました。陽は今しがた出たばかりで、空には一きれの雲もなく、あたりは一きは強い光りに輝いてゐた、昨日の夕立の名殘に、新鮮な朝の光りが照り添うて。――小馬車タラタイカの支度をして貰つてゐる間、嘗ては果樹園であつたが今は荒れ果ててゐる小さな庭園へ私はぶらぶらと出かけて行つた。離れはその庭園の香りの高い、みづみづしい繁みに四方八方から取り圍まれてゐる。あゝ、外氣の中にゐると、どんなに爽やかであつたらう。晴れた空には雲雀が囀つて、鈴のやうな囀り聲は銀の色の硝子珠のやうに降つて來る! 翼の上には、きつと露の滴を載せて持つて行つたに違ひない。その歌聲は露に濡らされたやうに思はれる。私は帽子さへも脱いで、快よく、胸いつぱいに呼吸いきなした……。深くない谿の斜面の籬のすぐ傍に蜜蜂の巣が見える。芝草や蕁草いらくさの壁のやうに密生して續いてゐる間を、蛇のやうにうねつて狹い徑がそこに通ひ、その草の上には、どこから種子が來たものか、暗緑色の大麻の尖つた莖が突き出てゐる。
 この徑に沿うてゆくほどに、私は蜜蜂の巣のところへ來た。巣とならんで、細い枝を編んでつくつた納屋、いはゆる『圍ひ』が立つてゐる。冬は蜂の巣をこの中へ入れて置くのである。半ば開いてゐる戸口を覗きこむと、中は眞暗で、しんとして、乾き切つてゐて、薄荷と蜂蜜草メリツサの匂ひがする。隅の方には腰掛が取りつけられてあつて、その上に毛布にくるまつて、何か小さなものがゐる。私はそこを立ち去らうとした……
 「旦那樣、あの、旦那樣! ピョートル・ペトローヰッチ樣」といふ微かな、弱々しい、ゆつたりとして、沼地のすげのそよぎのやうに嗄れた聲が聞こえて來た。
 私は立ちどまつた。
 「ピョートル・ペトローヰッチ樣! どうぞ、お入り下さいまし!」と、その聲がまたいふ。聲はさきに私の眼にとまつた腰掛のあたりから聞こえて來たのだ。
 私は近づいて見て、――あまりのことに暫しは言葉も出なかつた。私の前には生きた人間が横になつてゐたのだ。しかし、それは何ものであつたか?
 頭はすつかり痩せ衰へて、ただ一樣に靑銅色をしてゐた。まるでそのむかしに描かれた聖像イコーナのやうであつた。細い鼻はナイフの刃のやうに尖り、唇は殆んど見わけがつかず、ただ齒とまなこだけが白く見える。頭巾の下からは黄色い髪の毛が、あらあらと縺れて、額のうへにみ出てゐる。毛布が褶をなしてかかつてゐる顎のところには、小枝のやうな指をゆつくりと繰りながら、同じやうに靑銅色をした小さな手が動いてゐる。私はなほじつと彼女に見入るのであつた。顏はただ醜くないばかりではなく、美しくさへもあつた、――が、何とはなしに怖ろしく、この世ならぬもののやうに思はれた。その顏が私に怖ろしく思はれたのは、その顏に、金屬のやうな頰のうへに、――つとめても……つとめても弛まない微笑が見えてゐたからであつた。
 「おわかりになりませんか、旦那樣?」またしても幽かな聲がささやいた。その聲は殆んど動くか動かないかに思はれる唇から洩れいづるもののやうであつた。「無理もございません! わたし、ルケリヤでございます、……あの、覺えていらつしやいますか。スパッスコエのお母樣のところで輸踊りハラウオドの音頭取をいたして居りましたの……覺えていらつしやいますか、わたしはまた合唱の音頭取でもございましたの?」
 「ルケリヤ!」と私は叫んだ、「あれがお前だつたのか? ほんたうに?」
 「わたし、さうでございましたの、旦那樣。わたし、わたし、ルケリヤでございます」
 私は何といつていいかわからなかつた。私は明かるい、死んだやうな眼をして、じつと私を見つめるこの暗い微動だにもせぬ顏に、まるで氣が遠くなつたかの樣に見入るのであつた。あり得べきことであらうか? この木乃伊ミイラが――あの背の高い、よく肥えた、色の白い、頰の紅い――しょつちゆう笑つたり、踊つたり、歌つたりしてゐた――召使のなかで一番の美人であつたルケリヤだとは! ルケリヤ、あの利口なルケリヤ、村中の若い者が、みなその後を追ひ廻したルケリヤ、私自身――十六の少年であつた私自身が、ひそかに溜息を洩らしたあのルケリヤだとは!
 「何をいふんだ、ルケリヤ」と私はやうやくのことでいつた、「一體、おまへはどうしたといふんだ?」
 「それはそれは辛い目にあひましたの! けど、旦那樣、お厭でも、わたしの身の上話を聞いてやつて下さいまし、そこの小さな桶へお掛け下さいませ、――もつと近くへ、さもないと、お聞きとりになれませんから……わたし、この頃はあまり聲が出ませんの!……でもまあ、お目にかかれて嬉しうございますわ! どうしてこのアレクセーエフカなんぞへいらしつたんでございます?」
 ルケリヤは極めて靜かに、弱々しい聲ではあるが、息もつかずに話をした。
 「獵師のエルモライがこつちへ連れて來たんだ。でも、それよりか話が聞きたい……」
 「わたしの難儀したことをお話するんでございますか?――それはお話いたしませうとも、旦那樣。もうだいぶ前になりますけど、六年か七年前のことでございました。その頃、やつと私は、ワシーリィ・ポリャーコフと結婚の約束をしたばかりでございました。あの、覺えていらつしやいますか、容姿なりのよい、捲毛のかたでして、未だ旦那樣のお母樣の處で食事方をして居りました? けどあの頃、貴方はもう田舍にはいらつしやいませんでしたね、モスクワヘ學問をしにいらして。私とワシーリィは本當に愛し合つて居りました。私は一ときもあの人のことを忘れませんでした。それで事の起こりましたのは、春のことでございました。して、ある晩のこと……もう夜明けに間もないのに……どうしても眠れないのです。庭には夜鶯が、ほんたうに惚々するやうな聲で鳴いて居りましてね!……堪らなくなつて私は起きあがつて、踏段の所まで聞きに出てしまひました。夜鶯は、ただもう鳴き續けるのでございます……、すると、ふつと誰かがワーシャの聲で私を呼んだやうな氣がいたしまた、優い聲で『ルーシャ!』と呼ぶのでございます……。私はふり返つて見ました、けど、きつと眼が覺めてゐなかつたせゐでございませう、私は急に一番上の段から足をふみはづして、眞直ぐに下へ落ちてしまひました、――そしてひどく地面にからだを打つたのでございます! ですけれど、大した怪我はないと思つて居りました、すぐに起きあがつて自分の部屋へ歸れたくらゐでしたものね……ただ何か内の方で……おなかの中で、ちぎれたものがあるやうに思ひました、……息をつかせて下さいまし……ほんの一寸……旦那樣」
 ルケリヤは口を噤んだ。私は驚いて彼女を見た。私が殊に驚かされたのは、殆んど樂しさうに、「あゝ」と溜息ひとつ洩らさずに、一向に不平もこぼさず、同情を求めるといふ風もなしに話をしたことであつた。
 「そのことがあつてからといふもの」ルケリヤは話をつづけた、「すつかり痺せ衰へはじめましてね。身體は黑くなつて來ますし、歩くのが大儀になつて來るし、それから、全く兩足が利かないやうになりましたの。立つことも坐ることもできませんので、始終、横になつてゐなければならなくなりました。食べたくもないし、飲みたくもなし、だんだん惡くなるばかりでした。奥樣は御親切に、お醫者にも見せて下さいまして、病院へもやつて下さいました。ですけれど、やはり良くはなれませんでした。それにお醫者樣は一人として、私の病氣がどんな病氣か言ひきることさへできなかつたのでした。それはもうできるだけのことは仕盡して下さいました。焼鏝やきごてで背中を燒いたり、氷で冷やしたり――それでも何の效き目もございません。私はたうとう身體からだが骨のやうに固くなつてしまひました……。さういへば、お醫者樣方ももう療治の仕樣がないと、匙を投げておしまひになりますし、お邸に片輪者をお置きになつても仕方がございませんので、……まあ、それでここへ送られて參りましたの――ここには身寄の者も居りますので。まあ、さういふ譯で御覧の通りの暮らしをして居りますのです」
 ルケリヤはまた默りこんだ。そして、また無理に笑つて見せようとした。
 「しかし、これはあんまりひどいな、お前ん所は!」と私は叫んだ、……さうして、そのさき何と附け加へたらよいのか分からなかつたので、「それぢや、ワシーリィ・ポリャーコフはどうなのか?」と訊いて見た。これは甚だ愚劣な質問であつた。
 ちよつとルケリヤは眼をそらした。
 「ポリャーコフがどうですつて?――あの人は悲しんでくれました、少しは悲しんでくれました、――けど、ほかの人と、グリンノエから來た娘と結婚してしまひましたの。グリンノエを御存じでございませう? ここからは、そんなに遠くはございません。娘はアグラフェーナと申しました。あの人は、それは私を可愛がつてくれました、――けれど、若い身空みそらのことですし、――いつまで獨りで居るわけにも參りませんものね。といつて、私がどんな配偶つれあひになれませう? でも、あの人はきれいな、氣だての好い嫁御を探しあてて、今では子供もございますの、あの人は、こちらのお隣りで執事をて居りますが、貴方のお母樣が身許の保證をつけて暇をおやりになつたものですから、おかげで仲々よくやつてゐるんでございますよ」
 「ぢや、かうして、しよつちゆう寢てばかりゐるのか?」と私はまた訊いて見た。
 「はい、旦那樣、もう七年もかうして寢て居りますの。夏はこの小舍の申に寢て居りますが、寒くなりますと、湯殿の控間ひかへまへ移してくれますので、あちらに寢て居ります」
 「誰が看病してくれる? 世話してくれる人があるのかい?」
 「ええ、やつぱりこちらにも親切なお方がございましてね。私はここでも放つては置かれませんの。それに、それほど皆さまのお世話にならないでも済むのでございます。食べ物といつては碌なものを食べはいたしませんが、水はそこの水差にありますし、これには、いつも用意して、きれいな泉水ふきみづを入れて置いて貰ひます。水差へは自分で手が屆きますし、まだ片方の手は利きますものですから。え、ここに小さい娘がゐましてね、孤し兒なんですけれど、時々見に來てくれます、有難いことに。たつた今しがたまでここに居りましたが……。お遭ひではございませんでしたかしら? ほんとに綺麗な、色の白い子で。その手が花を持つて來てくれますの。私はそれは好きなんですものね、花が。こちらには庭の花はありません、――前にはあつたのですけれど、今はもう根が絶えてしまひました。でも野の花も良いものでございますね。庭の花よりか、ずつと香りがよいものです。あの鈴蘭なんか何よりもいい匂かがいたしますわ!」
 「それで、可哀さうに、ルケリヤ、お前は退屈だとも、氣味わるいとも思はないのか?」
 「だつて仕樣がないぢやございませんか? わたし、嘘を申すのが厭でございますから申しますが――最初はずゐぶん大儀でした。ですけど、後にはだんだんと慣れて來て、ずつと辛抱強くなりました――もう何とも思ひません。他所樣よそさまには、もつと惡い方もございますからね」
 「それは又どういふことなんだ?」
 「でも雨風を凌ぐところもない人もありますわ! さうかと思ふと、目の見えない人や耳の聞こえない人もあるし、私はお蔭樣で眼もはつきりして居りますし、何でも、何でも聞こえますものね。土龍もぐらが地面の下へ穴を掘つて入れば、――それさへ聞こえます。それに、どんな匂ひでも、たとへどんなに幽かな匂ひでもわかります! 畑の薔薇や、お庭の菩提樹に花が咲けば――聞かなくても分かるくらゐで、私が一番さきに知るのでございますよ。とにかくそちらの方から風が少しでも吹いて參りますればね。いいえ、なんで神樣を恨むことがございませう? 私よりもずつと惡い人がたくさん居りますのにね。ここなんでございますよ。達者な方はよく罪に陷ちやすいのでございますが、私はもう罪には縁がなくなりました。ついこの間、お坊さまのアレクセイ神父樣が聖餐を授けようとなすつて、その節おつしやいますのには『お前さんは慨悔をするがものはない、かうしてゐては罪も犯せまいの?』つて。ですけど、わたしはお答へしました、心の中の罪はどうしたものでございませう?』つて。すると『まあ、それは大した罪ではないよ』とおつしやつて、お笑ひなさいましてね」
 「ではございますが、私はそんなに心の申の罪も犯しては居りませんでせうよ」と、ルケリヤは續けた、「何故と申して、物事を考へたり、わけても昔のことを思ひ出したりしないやうにと、自分で慣らして參りましたものね。ですから月日は一そう早く經つてしまひましてね」
 白状すると私は全く驚いてしまつた。「ルケリヤ、おまへは始終獨りでゐるのに、どうして考へ事が頭に浮かばないやうにできるんだ? それとも何時も眠つでゐるのか?」
 「お、いいえ、且那樣! いつも眠れるとばかりは參りません。大した痛みはないとはいふものの、身體からだしんや骨が痛みましてね、それで、思ふやうに眠れないのでございます、ほんとに……。けれど、まあ、かうして此處に獨りで横になつて居ります。かうして居りまして何も考へません。ただ生きてゐて、息をついてゐることを感じますばかりで、そのことが精々なんでございますよ。見たり聞いたりは致します。蜜蜂が巣の中でぶんぶん唸つてゐたり、鳩が屋根の上にとまつてくうくういつてゐたり、雌鷄が雛をつれて麺麭屑などをつつきに出て來たり、雀が飛び込んで來たり、蝶が舞ひ込んだ――こんなことがとても私には氣持がいいのです。一昨年をととしはその向ふの隅へ燕までが巣をかけまして、子供を孵しました。それはそれは面白うございましたよ! 一羽が巣に飛び歸つて、すり寄つて雛に餌をやると、また飛んで行つてしまひます。それからまた見ると、ほかのがもう入れ代つてゐます。どうかしますといてる戸口の傍を通つたばかりで、 飛び込まないで行つてしまふことがございます。すると子どもが直ぐにちいちい鳴いて、嘴をあけてゐます……。私は翌る年も來るのを待つてゐましたのに、聞けばこちらの獵師が鐡砲で撃つてしまつたさうでございます。あんなものを撃つたつて何になりませう? 燕なんか大きさは甲蟲かぶとむしと同じ位なのですものね……。何て貴方がたは意地惡なんでございませう、獵をなさる方は!」
 「僕は燕なんか撃たないよ」と私は急いで言つた。
 「でも一度」とルケリヤはまた始めた、「それは可笑いことがございましたよ! 兎が飛び込んで來ましてね、ほんとに! きつと、犬にでも追はれてたのでございませう。とにかく戸口から轉げ込むやうに入つて來ましたの!……すぐ傍へうずくまつて、――ずいぶん永いこと坐つて居りました。始終、鼻を動かして、髭をびくびくさせましてね――それこそ軍人さんか何ぞのやうに! そして私の方を見るのです。多分、私がこはいものでないといふことが分かつたのでせう。たうとう立ちあがつて、戸のところまで跳ねて行つて、敷居の上から、あたりを見越しましました、――その樣子といつたらどうでせう? それは可笑しかつたのですよ」
 面白くはないか……とでもいふやうにルケリヤは私の方に眼を向けた。私は相手の氣に入るやうに、ちよつと笑つた。ルケリヤは渇いた唇を咬んだ。
 「それで冬になりますと、どうしても餘計に惡くなるのでございますよ、暗いものですからね、蠟燭を點すのも惨めですし、それに、つけたつて何になりませう! 讀み書きだけは知つてますし、讀むのも何時も好きですけれど、何を讀みませう! ここには本など一册もございません。よしあつたとしましても、どうしてそれを持つてゐることができませう、本など? 氣晴らしにといつてアレクセイ神父さんがこよみが持つて來て下すつたのですが、何の役にも立たないとお考へになつて、また持つて行つておしまひになりました。尤も、暗いことは暗いのですけれど、始終、何か聞こえるものがあつて、蟋蟀が鳴いたり、鼠がどこかで菅を立ててゐたり。こんな工合ですから、何も考へない方が――いいのでございますよ!」
 「それから私もお祈りはいたして居りますの」
 ルケリヤは少し息をついて、話を續けた、「ただ私、餘り澤山お祈りの言葉を存じませんのですけれど、さうかといつて、神樣をうんざりさせるには當りませんものね? それに何を私にお願ひする事がございませう? 私のお願ひすることは神樣の方が私よりずつとよく御存じです。神樣は私に十字架を授けて下さいました――これは私を愛して下さるからでございます。ですから、もう私達はその事をよく悟らなけれはなりません。で、私は『われらが父よ』、『聖なる母よ』、『悩める者への讚歌』等を誦んで、――それからまた何も考へないで、靜かに横になつて居ります。それで何事もないのでございますよ!」
 二分間ほど經つた。私は沈默を破らずに、腰掛にしてゐた狹い桶のうへに身動きもしなかつた。私の前に横たはつてゐる、この生きてゐる不幸な生物の酷しい石のやうな靜けさが私にも傳はつて來て、何だか私も痺れたやうになつた。
 「あのね、ルケリヤ」と私はたうとう口を切つた、「お前に申し出たいことがあるんだがな實は病院へ、町のいい病院へ連れてゆくやうに言ひつけようと思ふんだが、どうだらうな? なあに、分かるものか、恐らくまだ癒せるだらうよ。とにかく、お前を獨りで置くわけには行かない……」
 ルケリヤは微かに微かに眉を動かした。「おお、いけませんわ、旦那樣」迷惑さうに低い聲でいふ、「病院へなぞ遣らないで下さいまし。そつとしといて下さいまし。そんなところへ行けば却つて苦痛な増すばかりですから。もうかうなつてはどうして癒せるものですか!……さういへば、日外いつぞやはお醫者がこちらへ參りまして、私を診察したいと仰つしやいました。私はどうぞ後生ですから、このままにして置いて下さいとお願ひしました。けれどもお取り上げにならなかつて! 私をあちこちへ向き直らせて手や足を捏ねまはしたり、伸ばしたりしましてね、そして仰つしやいますには、『自分は學問のために、かういふことをするんだ。自分は學問に身を捧げてゐる者だ、醫者だ! それでお前は儂に逆らふわけには行かない。何故といふに、自分は色んな功勞があつたので、勳章も貰つてゐるのだ。そしてお前たち、愚民のために盡力してゐるんだ』つて。そして無闇にそこいらを痛くして、病氣の名を言ひました、――随分ややこしい名前でした――そして、そのまま、行つてしまつたのです。ところが、それから丸一週間といふもの、骨といふ骨が痛みましてね。貴方は『獨りでゐる、いつも獨りでゐる』と申しますけれど、いつもではございませんの。人が來てくれますのでね。私はおとなしくしてゐて、――別に厄介はかけません。お百姓の娘たちが遊びに來ては、冗談を言ひ合ひますし、女の巡禮が迷ひ込んで來てはイェルサレムの話をしたり、キーエフの話や聖い町々の話をしてくれますし。それ一に私は獨りでゐてもちつとも怖くはございません。却つてその方がいい位です、ほんとに!……ですから、旦那樣、どうか私にお構ひなく、病院へなんぞ連れて行つて下さいますな、……御親切はありがたうございますけれど、ただ、どうか私にお構ひ下さいませんやうに」
 「そんなら、お前の好きなやうに、好きなやうに、ルケリヤ。僕はお前のためを思つていつて見ただけなんだから……」
 「よく存じて居ります、旦那樣、私のためを思つて下さることは。さうですわ、旦那樣、けれど誰が、他人を助けるなんてことが、できるものでございませうか? 誰が他人の心の底まで立ち入れるものでございませうか? 人は自分で自分の始末をして行かなきやなりません! まさかとお思ひになるでせうが、―― 私も時折は、たつた獨りでやすんでゐて、……何だか世の中に私獨りだけが生きてゐるやうな氣がします。たつた獨り――私だけが生きてゐるやうに! そして、何だか勿體ないやうな氣がして來ます。……私はすつかり考へ込んでしまひます、不思議なほど!」
 「一體、どんなことを考へ込むんだね、ルケリヤ?」
 「それは、旦那樣、どうしてもお話しできませんの、説明ができませんの。それに、後になると忘れてしまふのでございましてね。何か雲のやうなものが下りて來て、それがぱつと擴がるかと思ふと、氣が淸々して、いい心持になるのでございますね。ところが、それは何であつたかと申されると、さつぱり分かりませんの! ただ若し私のそばに人が居りますと、そんなものは何もなくて、自分の不仕合はせといふことよりほかに、何ひとつ思はないだらうと、さういふ氣がするのでございます」
 ルケリヤは苦しさうに溜息を洩らした。胸も、その手足と同樣に自分の思ふやうにはならなかつたのである。
 「旦那樣は大へん私のことを氣の毒がつて下さるやうにお見受け申しますが、そんなにお氣の毒がられるにはあたりませんの。どうか、あんまり氣の毒がつて下さいますな、ほんとに! 御安心をいただくために、一寸お話致しますけど、どうかしますと今でも……。覺えていらつしやるでせうね、若い時分に、どんなに私が陽氣だつたか? わたし、向ふ見ずの娘でしたわ!……それで、どうでしたらう? わたし、今でも歌をうたひますのよ」
 「歌を?……おまへが?」
 「ええ、歌を、古い歌を。輪踊りハラウオドのや、皿占さらうらなひのや十二日節のなど、何でも歌ひますの。わたし、今でもたくさん知つてゐて、忘れないんでございます。ただ普通の踊りの歌は歌ひません。今の身分では仕方がございませんから」
 「一體、どんな風に歌ふの、……自分ひとりのために歌ふのか?」
 「ええ、さうですの、聲を立てて。大きな聲は出ませんけれど、それでも人に分かるくらゐに。あの、さつきお話しましたでせう――娘が來るつて。あれは孤し兒で、よく分かる子でございますよ。それで、私はあの子に歌を教へましてね、もう四つほど覺えました。ひよつとしたら本當になさらないでせうね? では一寸お待ち下さいまし、直ぐにお聞かせ申しますから……」
 ルケリヤは息を繼いだ……この半ば死にかかつてゐる生物いきものが歌を唄はうとしてゐるのだといふ考へは、思はず私のうちに恐怖を喚び起こした。しかし、私が一言ひとこともいひ出さないうちに、私の耳には、長々とのばした、殆んど聞きとれるかとれないくらゐの、しかも淸く澄んだ、しつかりした聲が響いて來た……、續いて二聲、三聲と。ルケリヤは『草場のなかで』を歌つた。彼女は化石したやうな顏のけしき一つ變へずに、眼さへ一ところに据ゑたまま歌ふのであつた。とはいへ、このあはれな、力をこめた、細い煙のやうにふるへ勝ちな聲たとへやうもなく哀切なひびきをもつてゐた。彼女はその魂の全部を注ぎ出さうとしたのである……。私はもう恐怖の念は感じなかつた。いひ知れぬ憐憫の情が私の胸に惻々と迫るのであつた。
 「あゝ、やつぱりいけない」と不意に言ふ、「力が続きません……、お眼にかかつた嬉しさに胸が詰まつてしまひました」
 彼女は眼を瞑ぢた。
 私は彼女の小さい、冷たい指のうへに自分の手を置いた……。彼女は暫くじつと私を見てゐた――が、間もなく古代の彫像に見るやうな、金色の睫毛におほはれた暗い瞼は再び瞑ぢられてしまつた。それも暫くすると、その眼は薄暗い中で輝いた……眼は涙に濡らされた。
 私は相欒らず身じろぎさへもしなかつた。
 「わたし、何ていふお馬鹿でございませうね!」とルケリヤは思ひもよらぬ力のある聲で不意に言つて、眼を大きく見開き、瞬きをして涙を散らさうとした、「お恥かしうございます! まあどうしたことでございませう? こんなことつて、永らく無かつたことでございます……。去年の春、ワーシャ・ポリャーコフがここへ來ました時からでございます。あの人が一緒に腰をかけて、話をしてゐました時は――何ともございませんでしたが、行つてしまはれると、私は獨りぽつちになつて、どんなに泣きましたらう! どうして涙などこぼしたのでせう!……けれど、私ども女なんてものは、何でもないことに涙を流すものでございますのね」といつたが、「旦那樣」とルケリヤは附け加へた、「きつと貴方はハンカチをお持ちでございませう。お厭でもございませんが、ちよつと私の眼を拭いて下さいまし」
 私は急いで、望み通りにしてやつた、――さうしてハンカチをそのままルケリヤにやつた。初めのうちは辞退した。……「こんなものを戴きまして、どういたしませう?」と言つた。ハソカチはかなりお粗末なものではあつたが、きれいで白くはあつた。やがて彼女は弱々しい指でつかんで、もう二度と放さうとはしなかつた。二人のゐる暗がりに馴れて來たので、私は女の容貌を、はつきりと見わけることができた。その顏のブロンズの下に、ほんのり見える淡い紅らみさへも認めることができた。少くとも私にはさういふ氣がしたのであるが、その顏のうちに、美はしい昔の名殘さへもさぐり得たのである。
 「旦那樣、あなたは眠れるか? と、お訊きになりましたね」とルケリヤはまた話し出した、「眠るのは本當にたまさかでございますが、眠ると、きつと夢を見るのでございますよ、――よい夢を! 夢の中ではいつも私、病氣ではないんでございますよ。いつも丈夫で、それは若いんでございましてね……。たつた一つ悲しいことには、眼がさめたときに、――樂々と伸びがしたいと思ふのに、――それどころか、まるで鎖でつながれてゐるやうなのでございます。いつかは、何て不思議な夢を見たのでせう! 若し、およろしかつたら、お話いたしませうか? ぢや、お聞き下さいまし。氣がつくと、私は野原の眞ん中に立つてゐました。あたりにはライ麥、それは背の高い金色に熟れたライ麥がございましてね!……私は赭い犬を連れて居りました。それが意地の惡い、それは意地の惡い犬でして、しよつちゆう私に嚙みつかう、嚙みつかうとするのでございます。私はそれから手に鎌を持つて居りました。それもただの鎌ではなくて、あのお月樣が鎌のやうになることがございますね、あれにそつくりなのでございます。私はこのお月樣で、このライ麥をそつくり刈り取らなければならないのでした。けれど私はすつかり疲れ切つて居りました。月は眼をくらくらさせますし、それに何だか妙にだるくなりましてね。ところが私の周りには矢車菊が、それは大きい矢車菊が生えて居りましてね! それがみんな私の方へ頭を向けて居りました。私はこの矢車菊を摘んでやらうと考へました。ワーシャが來る約束をしてゐたものですから、まづ花環を拵へようと思つたのです。麥を刈るのはそれからでも遅くはあるまい……。
 私は矢車菊を摘み始めました。けれど、いくらしても、みんな指の間から何處かへ消えてしまふのです。どんなにしても花環が編めない。そのうちに誰かが傍へやつて來る。すぐ傍までやつてくる音がしまして、『ルーシャ! ルーシャ!』と呼ぶのでございます、……あゝ、残念だ、たうとう間に合はなかつた! と、私は考へました。でも、どつちにしたつて同じことだと思つて、私は矢車菊の代りに、お月樣を頭の上に載せました。頭飾りココシニクのやうにお月樣を載せたのでございますよ。すると急に身體ぢゆうが光り出して、あたり一面が明かるくなりました。ふと見ると、――穗の上を傳つて足早にやつて來る、――それはワーシャではなくて、紛れもない基督樣なのでございます! どうしてそれが基督樣とわかつたのか、それは言へませんの、……絵に書いてあるやうな基督樣とは違ひますけれど、やつぱりあの方なのです。髯のない、背の高い、若い御方で、眞白づくめにしていらつしやいました――帶だけは金色でございましたけど。そして私の方へ手をさしのべて仰つしやいますには、『怖れなくともよい、着飾つた可愛い嫁御、儂の後について來るがよい。お前は天國の輪踊りハラウオドの音頭取になつて天國の歌を歌ふがよい』 私は思はずその御手におすがり申しました! 犬はすぐ私の足について來ます……、ところが私たちは上の方に舞ひあがり始めました! あの御方がお先に立つて……。基督樣のおはねは鷗のやうに長いおはねで、空いつぱいにひろがりました、わたしはその後について參りました! 犬はどうしても後に殘らなければならなくなつてしまひました。そこで、私はこの犬が私の病氣であつたこと、天國には、もうこの犬の居どころがないのだといふことが、やうやく分かつたのでございます」
 ルケリヤは一寸の間、默りこんだ。
 「それからもつと夢を見ましたの」とまた話し出した、「それは、ひよつとすると幻だつたかもわかりませんが――それはもう、しかと分かりません。私はこの小舍の中に寢てゐるやうに思ひました。すると亡くなつた兩親が參りましたの、お父さんとお母さんと、私にむかつて丁寧にお辭儀を致しましたが、お二人とも何とも仰つしやらないんでございます。ですから『お父さん、お母さん、私にお辭儀をなさるんですか?』と訊きましたの。すると『實はお前がこの世で大へんな苦しみをしてゐる、そのためにお前は自分の魂を和らげたばかりでなく、私たちの大きな重荷をも卸してくれた。だから私たちはあの世でも大へん氣樂なのだよ。お前はもう自分の罪とは縁が切れてしまつて、今では私たちの罪ほろぼしをしてゐて呉れるのだ』と申しました。そしてこれだけのことを言つてしまふと、兩親はまたお辭儀をして、――ふつつりと見えなくなつて、見えるのは壁ばかりになりました。それから私は、このことがどんなことだつたのか、不思議になりました。懺悔のときにお坊樣にもお話いたしました。尤も、お坊樣は、それは幻ではあるまい、幻といふものは坊さんにだけ見えるものだからと仰つしやいました」
 「もう一つこんな夢を見たのでございますよ」とルケリヤは話し續けた、「何でも私は往還の柳の下に腰をおろしてゐましたの。ぐるりを削つた小さな杖を持つて、頭陀袋を肩にかけて、手帕きれで頭をつつんで――まるで巡禮の女のやうなんでございます。そして私はどこか遠い遠い所へ巡禮して行かなければならないのでした。巡禮はしよつちゆう私の側を通つてゐます。誰もが疲れ切つた顏をして、みんな、お互ひによく似てゐる顏なのです。すると、その人たちの間をぐるぐる廻つてゐる一人の女の人がゐるのです。他の人より頭だけくらゐ背が高くて、着てゐる着物は私たちの露西亞風のではないらしく、妙に變つてゐました。顏も妙な顏で、痩せ衰へたきつい顏でした。そして誰もがみんな傍へよけて行くのです。その人は急に振り返つて、傍目もふらずに私の方へやつて來ました。じつと立ちどまつて私を見てゐます。この眼は鷹のやうで、黄色くて、大きくて、とても澄んでゐるのでございます。『どなたですか?』と訊きますと、その人は『わたしはお前の死神だよ』 と申しました。私はちつとも驚くどころではなく、かへつて嬉しくて嬉しくてたまらないので、十字を切りました! すると、私の死神だといふ女の人の申しますには『ルケリヤ、私はお前が可哀さうだけど――連れて行けない、――さよなら!』つて。あゝ! 私はどんなに悲しうございましたらう!……『連れてつて下さいまし、あなた、どうか連れてつて!』と申しますと、私の死神は私の方を振り向いて、話をはじめました……。わたしの死期しにどきを知らせて下さるのだとは分かりましたが、はつきりしない、譯のわからない言葉でした……。『ペトローフキが濟んでから』……つて。私はこの言葉を聞いて眼が覺めたのでございます……。私はかういふ不思議な夢を見るんでございますよ!」
 ルケリヤは眼を上の方へ向けて……深い感慨に沈んだ……。
 「ただ悲しいことには、一週間の間、ちつとも眠れないで暮らすととがございます。去年ある奥方がお見えになりまして、私を御覧になつて、睡眠藥ねむりぐすりを一壜下さいました。そして一度に十滴づつ飲むやうにと教へて下さいました。それが大へんよく效きまして、よく眠れたものでしたが、もうその硝子の壜は疾うに空になつてしまひました……。御存じでいらつしやいませうか、あれはどんなお藥で、どうしたら求められるものでございませう?」
 訪ねて來た婦人はルケリヤに阿片をやつたものに相違ない。私はさういふ藥を一壜やることを約束したが、今更ながら彼女の辛抱づよいのに驚嘆の聲をあげない譯には行かなかつた。
 「まあ、旦那樣!」と彼女は言ひ返した。「あなたはどうしてそんなことを? これが辛抱などとどうしていはれませう? あのそれ、聖シメオンね、あのかたの辛抱づよいのは大へんなものでございました。三十年もの間、柱のうへにお立ちになり通したのでございますものね! そのほか或る聖人の方は自分から胸のところまで土の中へ埋まつてゐると、蟻が顏を食べたのでございますね、……それから、これは或る先生が私に聞かせて下すつたお話でございますが、或る國があつて、その國を土耳古人が侵略いたしました。それで國中の人を一人殘らず苦しめたり、殺したりして住民の方ではできるだけのことをいたしましたが、どんなにしても敵から免れることはできませんでした。すると、その國の人の中に聖女が現はれて、大きな劔を取つて、二プードもある甲冑をつけ、敵の土耳古人に對つて出陣いたしました。そして敵を悉く海の向ふへ逐ひやつたと申します。ですが敵を追ひ拂つてしまふと、處女むすめは『今は私を火刑ひあぶりにして下さい、國民のために火刑になつて死ぬといふのが私の誓ひであつたのだから』と敵に對つて申しました。そこで、土耳古人は魔女を捕へて火刑にしました。この時からその國民は永久に自由になつたさうです! これこそ本當に大手柄でございますね! それなのに私はどうでございませう!」
 私はどこをどうしてジャンヌ・ダルクの物語が、この女の耳に入つたのかと、我ながら驚いた。そして暫く默つてゐた後で、ルケリヤにその處女むすめ年齡としはいくつであつたかと訊いて見た。
 「二十八か……九……三十にはなりますまい。でも、なんで年齡など勘定なさいますの! 私はまだお話することがございます……」
 ルケリヤは不意にむせたやうな咳をして、溜息をついた。
 「おまへ、あんまり話をするから」と私は言つた、「それがいけないんだらう」
 「さうでございます」と、やつと聞きとれるくらゐの聲でささやいた、「もうお話をやめた方がよいのです。でも、そんなこと構ひませんわ! 今にあなたが行つておしまひになれば、思ふ存分に默つて居られますものね。とにかく胸がすつきりいたしました……」
 私は別れを告げようとしてゐた。藥を送る約束を繰り返して、もう一度考へて見た上で何か欲しいものがあつたら言つてくれと促した。
 「何も欲しくはございません。このままで澤山でございます、お蔭樣で」と極めて大儀さうに、しかも感動したらしく言ふ、「どうか皆樣お達者で! ですが、且那樣、お母樣に一言こと申し上げて下さいまし、この邊の百姓は貧乏でございますから、――若し、幾分でもお年貢を減らしていただけたら? 百姓たちは土地も足りませんし、利もございませんから……さうして戴けたら、あなた樣をどんなにか有難がることでございませう……。ですけれど、何も私は欲しいものはありません、私はこのままで何もかも澤山でございます」
 私はルケリヤの願ひを叶へてやらうと誓つて、既に戸口まで歩み寄つてゐた、……すると彼女はまた私を呼び戻した。
 「覺えていらつしやいませう、旦那樣」と彼女はいつた。その眼のうち、唇の上には何か奇蹟的なものが閃いた、「私がどんなお下髪さげをしてゐましたか? 覺えていらつしやいませうね、膝まで屆くやうな! 私は永いこと思ひ切れませんでした……、あんな髪を!……けれど、どうして梳いたりなんぞできませう? こんな境遇で!……ですから私は切つてしまつたのでございます、……さう……それでは、さよなら、旦那樣! もうお話ができません……」
 その日、獵に出かける前に、私は農園の監督とルケリヤの話をした。私は監督からルケリヤが村では『生神樣いきがみさま』といはれてゐること、あんな風でゐながら少しも村の人に厄介をかけないこと、また愚痴や不平を聞いたことがないことなどを話された。「自分では何をしてくれとは申しません。それでゐて、何をしてやつても有難がるのです。まあ、素直な人、本當に素直な人といはなければなりますまい。神樣から」かういつて監督は言葉を結んだ。「罪があつた爲に打ちのめされたのだと思ふ人もありませうが、私どもはさうは思ひません。まあ、かりに、罪があるかないかを決めるとしたら――いや、私どもはそんな詮議は致しません。そつとして置くことです!」
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 數週間の後に、私はルケリヤが亡くなつたといふことを聞いた。つまり死神が後から、……しかも『ペトローフキが濟んでから』やつて來たのである。人の話によると、臨終の日、ルケリヤは絶えず鐘の音を聽いてゐたといふ、――アレクセーエフカから教會までは五露里の餘もある上に、その日は日曜日でも祭日でもなかつたのに。それにしても、ルケリヤはその音が教會からではなく、『上から』聞こえて來ると言つたさうだ、――おそらく、彼女は敢へて『天から』とは言はなかつたのであらう。


■訳者中山省三郎氏による「註」(注記ページ表記を外し、私のテクスト注記に準じた表示法をとった)
・生神樣:直譯的にいへば、「生ける不朽體」である、すなわち、純潔なる生涯を送つて神の御意にしたがへる者の肉體は死して後も永劫に朽ちないとされてゐるが、この一篇の主人公もまた現にかやうな生涯を送つてゐるところからかういう綽名をつけられてゐるのである。ここに「生神樣」と譯したのは、綽名の生硬さを避けたためである。
・キーエフ:キーエフは昔の都で、ここには大きな寺がたくさんある。ここは「聖い町の母」と呼ばれてゐた。
・皿占ひ:皿の下に物を置いて、占ひをするとき、皿をとりまいて女たちが歌をうたふ。
・十二日節:クリスマスから耶蘇洗禮祭(一月六日)まで。
・ペトローフキ:聖ペトロ祭(六月二十九日)前の精進期。
・先生:村人に読み書きを教へる人。
・二プード:およそ九貫目。[やぶちゃん注:約三十三・七五キログラム。]
・ジャンヌ・ダルク:敵は英國人(アングリチャーニ)であつた。ルケリヤが話すのは、トルコ人(アガリチャーニ)である。音の類似によつて、誤り傳へられたのであらう。