やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ
鬼火へ
芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定する試み
芥川龍之介関連昭和二(一九二七)年八月七日付片山廣子書簡(山川柳子宛)
[やぶちゃん注:底本は一九九六年二月十五日発行「軽井沢高原文庫通信」第三十号に収載された「片山廣子書簡(1)」の六〜七頁所収の便宜上「書簡四」と名付けられたものを用いた。これは一九九四年の夏に山川柳子氏(故人)の息女山川春子氏から寄贈された山川柳子宛片山廣子書簡の一通である。
山川柳子(やまかわりゅうこ 明治十六(一八八三)年〜昭和五十一(一九七六)年 旧姓・長谷川)は片山廣子より五歳年下の同人歌人。女子高等師範付属高女在学中に「心の花」に入会、佐佐木信綱に師事。法学者山川幸夫と結婚、夫と死別後、子育てをしながら作歌した。昭和十五(一九四〇)年斎藤劉らと「短歌人」を創刊。歌集に『木苺と影』『母と子』等。
封筒表面書誌データによれば、
消印 昭和二年八月八日
住所宛名 東京市外中野桃園三三五 山川柳子様
で、封筒裏面に
市外大森新井宿一三五二
片山廣子
八月七日
とあるとする。注を施すなら幾らも出来るのだが――いや、この手紙に私の無粋な注は、やはり不要である。芥川龍之介を失った彼女の悲しみが、美しくも哀しく胸を撃つ、この手紙には――
なお電子テクスト化に際し、元書簡に近いものをという私のポリシーから、恣意的に漢字を正字に直してある。本電子テクストは私のブログ二二〇〇〇〇アクセス記念としてアップしたものである。【二〇一〇年四月二十二日】本縦書版を作成、一部の表記を改変した。【二〇一一年三月六日】]
山川柳子宛片山廣子書簡
封書裏面日付 昭和二(一九二七)年八月七日
消印 昭和二(一九二七)年八月八日
本文末自署名 ひろ子
先だつてはお手がみをありがたう存じました すぐにお返事をとおもひましても何か泣き出しさうな氣持で今日まで失禮いたしました
お子樣がたはもうみなさまお出かけになりましたか おうちはお靜かでございませう 實は一寸夜分でもお伺ひしていろいろ靜かな御物語もうかゞひたくとおもひましたがただ今おめにかゝるのはただ自分のぐちを申上げにまゐるやうなもので、もうすこし御ぶさたいたします
一昨年の八月末にわたくしは元氣のいい芥川さんに輕井澤でおわかれして歸りました そのあとでかぜをおひきになつたといふ事でした 九月東京でまたみんなでにぎやかに會ひませうとお約束したのがそれ切りのびてしまひました 十一月ごろ追分のうたのしたがきをお見まひのつもりでお送りしましたらあなたはアララギがきらひのくせにアララギそつくりですとひやかされました その後おなほりになつて「湖南の扇」を書いていらつしやるといふので御ぶさたしてゐますと昨年のお正月からまたあの御病氣でした その御病氣から物の見方までちがつておしまひになつたと見えます お見まひの手紙を上げることさへ御遠慮してもう一度もとの元氣の芥川さんにおめにかかれるやうにと一年のあひだ祈つてをりました この春からまたすつかり囘復なすつてたくさん書かれるので悦んでをりました この秋にはきつとおめにかかれると思つて、それでも何か前とはちがつた影のあるものを拜見すると、もしおめにかかつてもあるひは前の芥川さんはもう死んでしまはれたのではないかともうたがつてをりました
六月末にふいとわたくしの家を訪ねて下さいました堀辰雄さんを案内にして何かたいへんにするどいものを感じましたが、それが死を見つめていらつしやるするどさとは知りませんでした わたくしはいろいろと伺ひたい事もあつたのでしたが何も伺はずただ「たいへんにおKくおなりになりましたね、鵠沼のせゐでせうか」などとつまらない事を云つておわかれしました それから一月經つてあの新聞を見た時の心持をおさつし下さいまし
あなたは死をおもはないものはない、死の方法を考へないものはないが、どうして死ねないだらうとおつしやいましたがわたくしたちには死なうとするはげしさが足りないのではないでせうか はげしく死をおもへばだれにでも死ねるかとおもひます いろいろ考へごとをするのはつまり死の欲求がわたくしたちをやきつくすほどに強くないからだともおもひます
しかし何もかも分りません たびたび死を考へたわたくしはまだいまだに死の靜かさよりも生の狂はしさにすこし餘計にひかれてゐるやうにおもひます人生の
ともが家の庭の芝生にこまどりを
見たりしなつのとこ世にもがな
これは間島さんのお庭を拜見にお供したときのこと
あけがたの雨ふる庭を見てゐたり
遠くに人の死ぬともしらず
七月二十四日朝のこと
兩三日中にわたくしも輕井澤に出かけることにいたします 御病人さま御大切に いづれ歸京の上おめにかゝらせていただきます
長い手紙おゆるし下さいまし
ひろ子
山川柳子樣
御もとに