日高川入相花王 眞那古庄司館の段 渡し場の段

道成寺鐘中」へ

日高川入相花王
 眞那古庄司館の段
 渡し場の段

[やぶちゃん注:「日高川入相花王ひだかがはいりあひざくら」は竹田小出雲・近松半二・北窓後一・竹本三郎兵衛・二歩堂の合作になり、宝暦九(一七五九)年二月一日に大坂竹本座で初演された。全体は天慶二(九三九)年に勃発した藤原純友の天慶の乱を背景とし、悪玉左大臣藤原忠文と貴種桜木親王と皇位継承を巡る争いに、好漢藤原純友を絡め、更に展開の山場に道成寺伝説を加えた全五段の時代物浄瑠璃。以下に示した「眞那古庄司館の段」「渡し場の段」は、その四段目に当たる。以下、作品全体の梗概を記す。
――病弱の朱雀帝は弟桜木親王に譲位しようとするが、親王は王権奪取を企む藤原忠文親王に陥れられて都を追わる(一段)。
――一時は奥州の錦木守六孫王源経基の元に隠れるが、そこも危うくなって、山伏安珍に姿を変えて西下する(二段。以下行方は四段へと繋がる。続く三段は経基と純友を主役に据えたもので、朱雀帝落胤実は将門遺児といった貴種流離を含んだ最初のクライマックスであるが、安珍清姫の展開とはやや離れるので省略する)。
――安珍(実は親王)は親王の再起を秘かに願う紀州の豪族真那古庄司まなごのしょうじの旅宿に入る(以下、「眞那古庄司館の段」)。この宿には、はからずも旧知の恋人で親王を探す小野大臣の娘おだ巻姫が止宿していた。忠文同心の比叡山の剛寂僧都(この僧は一段で忠文の命で朱雀帝を調伏する悪僧として登場している)や一味の鹿瀬ししがせ十太に正体を見破られそうになるところを、庄司が、安珍はかねてよりの娘清姫の許婚と偽って切り抜けるが、既に過去、都見物で親王を親王と知らずに見染めていた清姫は父の噓を本気にする(これより前、清姫とおだ巻姫が同じ男と知らずに思いの丈を語るシーンが哀しい)。ところが親王は、この宿でおだ巻姫と出逢い、結局、一緒に行かんとする清姫を騙し、おだ巻姫と連れ立って日高の道成寺を指して落ち延びて行く。悲嘆に暮れる清姫の元に剛寂僧都が現われ、安珍は許婚のお前を嫌い、騙し透かして逃げた、おだ巻姫は安珍の女房じゃ、と清姫の妬心を煽り、遂に清姫は二人を追うこととなる。以下、「渡し場の段」では、伝承同様、金を受け取った渡し守によって日高川を渡れぬ清姫が、遂に蛇体と化して川を渡る(本テクストはそこまで)。
……以下の四段後半と五段は……ネタバレとなるので、本テクストの最後に置くことと致そう……。
 なお私は、実は「日高川入相花王」を所持せず、全篇は未読である。従ってこれらのあらすじは、平成二十一(二〇〇一)年五月の国立劇場第一五七回文楽公演プログラム解説(国立劇場営業部宣伝課編)や藤田洋編「文楽ハンドブック」(三省堂)、更に個人ブログ「以良香の文楽・浄瑠璃メモ」の『「日高川入相花王」あらすじなど』などを参照させて頂いた。特に細部は以良香氏の記事に負うところが大きい。ここに記して謝意を表するものである。底本は平成二十一(二〇〇一)年五月の国立劇場第一五七回文楽公演プログラム解説(国立劇場営業部宣伝課編)に付帯した文楽床本集所収のものを用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に新字を正字に変えてある。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。ルビは底本にあるすべての箇所を採つたが、これも私のポリシーで歴史的仮名遣に直してある。底本では「ゐる」「をる」とあるべきところにかなり「いる」「おる」等が用いられているが、これは床本自体のものと思われるので、そのままとした。句読点や改行・行空けも忠実に底本に従った。但し台詞は全体が一字下げであるが、会話記号で容易に区別出来るので無視した。]

 
眞那古庄司館の段

むかしむかしこの所に眞那古の庄司といふ者あり、頃しも春の始めつかた、熊野三所權現に歩みを運ぶ諸人もろびとの、往來の宿の施しは誠に出家侍の屋敷は餘所よそにかはりけり
召使の腰元、はした、何か白木に書付ける札の數々取納め
「ナントお雪、どう思やる、いつぞやより熊野參りをお泊めなさるゝは、何ぞ御願でも有つての事か」
「サレバイノ、そして立ちしなにはこの樣に、所書を渡し毎日々々施しの宿、變はつた事ではないかいの」
と噂も洩れて
一間より、祕藏娘の淸姫が年もいざよふ月の顏、しとやかに立出で
「そなた衆の合點のゆかぬはことはりくはしい事はしらねども父上の云ひ付け、人に善根功德をするとその行先がよいとある、それゆゑ泊つたお衆たちへ心いつぱい御馳走申すも、どうぞ都で見染めた殿御、今一度逢ひたいわしが願ひ、コレわがみたちもさう思ふて、ずいぶん大事にしてたも」
はなし半ばへ、どいやどいや奧より出る熊野道者、姫の傍に手を仕へ
「宿錢いらず夜前より、結構なお料理を下され、ありがたい仕合せ」
と一禮云へば、
腰元が札をめいめい手に渡し
「これはこゝの所書、參り下向の人々に進ぜて教へて下さんせ」
と聞いて皆々押し戴き
「サテありがたや忝や」
と悦びいさみ出て行く
時の間も濡れてかはかぬ袖袂、夫の行方を尋ねわび、一夜をこゝにおだ卷姫、襖を開き立ち出で給ひ
「夕もじより段々のお心遣ひ、ことに御念もじのお詞、千年も馴染んだやうにお心安う存じまし、足の痛みを幸ひに甘へての逗留、伴ひ來りし者は岩代とやらへ詣でたれば、歸るまで今暫しお泊めなされて」
「オヽこれはまあ、旅といふ物は物憂いもの、必ずお心置かずとも、いつまでも逗留遊ばせ、そしてまあ、あなた樣のお國は何國いづく、熊野へは御願でもあつてお參り遊ばすか」
「さればとよ、自らは都方の者なるが、夫の行衞を尋ねかね、いつはかとなき憂き旅路、あはれと思し給はれ」
と聞いてこなたも打ちしほれ
「殿御の行衞尋ねるとは、身につまされておいとしや、お恥づしい事ながら自らも、去年の夏都詣でに見染めた殿御、朝夕戀しう思へども何國の誰とも名も知らず、心一つにはかない戀路」
「そんならお前も殿御をば」
「アイ戀慕ふ身でござります」
と互ひに明かす女子氣の、馴染みやすき物なりけり
「ホンニ私とした事がご存じもない京物語、いとゞお氣の結ぼふれ、見ますればきついおぐしの損ねやう、撫でつけて上げませう」
「それはまあまあ忝けれど、あまりと申せばお慮外な」
「ハテご遠慮には及ばぬこと、コレ女子ども櫛笥くしげ持ちや」
と云ひつゝ立つて黑髮の、梅花の露の玉よりも、數珠爪繰つて剛寂僧都がうじやくそうづ、あとに引添ふ鹿瀨ししがせ十太、相伴うて入來れば
世を忍ぶ身のおだ卷は座を立ち奧へ行跡の
障子引つ立て出迎ひ
「コレハコレハ僧都さま、十太さま、最前より父上のお待ちかね」
「なるほど、貴僧は庄司殿と碁の勝負、われらが相手はこの淸姫、碁石は戀しいそもじの顏見たいばかりに碁は付けたり、コリヤ今夜は必ず否應いはさぬ、待つているぞ」 とせな叩き、打連れ

 奧に入りにけり
憂き旅を今ぞ始めて三熊野へ、年籠りの山伏、白川の安珍とやつせばやつす櫻木親王、庄司が軒にたゝずみ給ひ、
「行き暮したる修行者、連れにはぐれ難儀に及ぶ、一夜の宿を御報志あれ」
としほしほとしてのたまへば
出會ひがしらに淸姫が
「ヤアお前は」
と走り寄り
「オヽさうぢやさうじやさうじや、都で見染めた戀しいお方、夢ではないか、うつつにも忘れぬお前のお姿は、變はれど變はらぬわが戀人、ようまあ來ては下さんした、マアマアこちヘ」
と手を取つて内へ伴ひ、立つつ居つ喜ぶに
なほふしぎ晴れず
「ついに見馴れぬ上臈の、我に親しき詞つき、いぶかしさよ」
とありければ
はじめて『ハツ』と心付き、いまさら何と返答も顏にたかるゝもみじ葉の、散りも失せたき風情にて
「嬉しい餘りに跡先忘れ、お尋ねにあづかるほど答へることさへ面伏せ、御身はご存じなき事ながら、去りし皐月さつきの京内詣にお姿をかい見しより、目にちらついて朝夕に思ひ忘るゝ事もなう、年月焦がれた心根を不便ふびんと思ふて嬉しいお詞、聞かしてやいの」
と打ちつけに、戀のいろはを打越して一筆思ふ男には、師匠はさらにいらざりし
「オヽ切なる仰せ理りながら、われは都の者ならず、白川の安珍とて熊野山へ詣でる修行者、人たがへばしゝ給ふな」
と仰せに
姫は涙を浮かめ
「人違へとは聞こへぬ仰せ、深山烏も白鷺もわがつま鳥は知るものを、まして焦れしわが戀人、それに引替へ今のお詞、聞へませぬ」
と抱き付き締めからみたる蔦葛、のきばはさらになかりけり
後に立聞く鹿瀨が、ぬつと出たる二人が眞ん中
『ハつ』と驚き逃げ退く安珍
「コリヤどこへ、淸姫、味やるな、首だけ惚れているコノ鹿瀨には、三味線ぢやないがピンピンツンツン、合點が行かぬと思ふたが道理こそこれぢやもの、ヤイそこな不義者、以後淸姫にほでゝもさゝばコノ十太が赦さぬ」
と安珍をじろじろながめ
うぬはどふやらうさんな面付き、ムヽ、ア聞こえた、櫻木親王山伏となり熊野路へ入込みしとは先立つて注進、引つ括つて拷問する、サアうせおれ」
と引立つる
「ナウそんなお人ぢやないわいの」
と取付く淸姫
踏み飛ばし
「ヤア嫌らしい邪魔ひろぐな」
と爭ふ後に
眞那古の庄司、十太が首筋取つて突き退け
振り返るを
むね打ちに、りうりうはつしと打ちのめせば
はふはふに起き上がり
「アイタアイタ、アイタヽヽヽ、コリヤどうぢやコリヤ何とする」
「ホヽウ最前より承れば、櫻木ぢやの親王ぢやのイヤ親王のと、その親王どこにおる」
「オヽ、オヽサほかまでもない、その山伏」
「ハヽヽヽ、鹿を捕へて馬といはゞ貴殿は馬と受取るか、その山伏は安珍とて、故あつて幼い時より娘淸姫に許婚せしわが婿、いらざる詮議御無用」
といふに娘が
「スリヤ、あの安珍さまは私に許婚ある殿御かへ」
「オヽサそちには未だ云聞かさねども、あの客僧こそ汝がつまよ、をつとよ」
と、この場をくろむる當座の間に合ひ
娘心に誠と心得
「そんなら申し安珍さま、お許しの出たほんの女夫めをと、アヽ忝や嬉しや」
と悦び勇む淸姫が其名を殘す始めとは、後にぞ思ひ知られたり
鹿瀨は頬ふくらし
「親王でなくばないにもせよ、何科あつてわりや打つた」
「オヽ科の次第は不義間男、許婚あれば主ある娘、サなぜ不義をいひ掛けた、それゆゑ打つたが云ひ分あるか、返答次第手は見せぬ」
と刀の柄に手をかくれば
「アヽコレコレ、さりとては氣の短い、お氣の短い、これ氣の短い。云ひ分あると云ふにこそ、イヤコレコレ淸姫どの、ずいぶんと婿殿を御馳走なされ、尻叩かれたそのお禮、樽肴たるざかなでお祝ひ申す、ドリヤ、アタイアアイタ、アイタヽヽヽお暇」
と立ち上り、心は跡に親王を尻目にかけて立歸る
引違ふて村の役人、庄司が前に手をつかへ
「只今お供仕れと、郡代所より急御用でござります」
「ハテ心得ぬ、イヤコレ客僧、この熊野路へお下りある由、とくより聞いて施行になぞらへ、多くの人に宿するも心は君を、アヽイヤこなたを待つたる庄司が寸志、さりながら、今聞かるゝ通り郡代所よりの召しといひ、鹿瀨が詞を聞くに、櫻木の親王の詮議一途に事極る、この所は鵜の目鷹の目、道成寺こそは究竟の隱れ家、ナ合點か。アヽサヽ早く早く、我も急ぎの御用筋、娘留守せよ、アヽ使ひ大儀ぢや供しやれ」
と心殘して出て行く
跡に淸姫いそいそと
「何をまあ案じ顏、父上の許しの出た天下晴れたわが夫、何かの咄は奧の間で」
と開くる
襖の内よりおだ卷
「ヤアお前はわが君」
「アヽコレコレ、われは安珍、白川のナ白川の關、人目の關」
と紛らせば
悟るおだ卷
悟らぬ淸姫
「イヤ申し、お前あなたを知つてかへ」
「イヤイヤつひに見た事もないお人」
「オヽそれで落着いた、イヤ申し女中さん、お前も悦んで下さんせ。あなたが都で見染めた殿御、恥かしながら今宵から」
「エヽそんならお前はあの淸姫樣と女夫になる心かへ」
「イヽヤさうではなけれども」
「そんならこのおだ卷をお嫌ひなさるゝか」
「いや嫌ふとは疑ひ深い」
「いや申し安珍樣、そんならこの淸姫と女夫になるのがお嫌いかへ」
「いやこれ淸姫樣、さらさら御身を嫌ひはせねど、わが身はなせる科あつて跡より追手のかゝる者、このにいては身のためならず、御緣もあらば重ねて」
と座を立ち給へば
淸姫は
「コハ曲もなき御詞、たとへ科ある御身にもせよ、これほどにまで焦れるこの身、野の末、山の奧までも連れてござつて下さんせ」
と縋り歎けば
「オヽ左程に思ひ詰められし上は、なるほど伴ひ參らせん、サ旅の用意を」
「アイアイアイ、夜寒よさむを凌ぐ上着の小袖、お身にわざわひないやうに父上の大事に遊ばす守り刀、取つて來る間も心がかり、必ずこゝに待ち給ヘ」
と悦び勇み奧の間へ
行くを待ちかねおだ卷姫、ものをも云はず縋りつき、わつとばかりに泣き沈む。
「コレコレ泣いてゐる所でなし、何をいふ間も心せく、淸姫が來ぬ内にまづまづこの家を立退かん、いざさせ給へ」
とかひがひしく姫の手を取り引立て引立て、日高の方へと落ち給ふ
かくとも知らず淸姫は、旅の調度を取揃へ心いそいそ立出でて
「ヤア安珍さまは何所いづくへぞ、安珍さま安珍さま」
と尋ね廻れどおもかげも涙片手にうろうろと
「ヤア最前の女中も見へず、面妖、合點のいかぬあの素振り、コリヤわしを欺して二人ながら、アヽ、イヤイヤイヤよもやさうではあるまい」
とまたも外面そともへ走り出で
「安珍さま」
かけ戻りては
「わがつまなう」
と呼べど叫べどそのかいも、空吹く風の音ばかり
「コハ何とせん悲しや」
とそのまゝそこにどうと伏し、正體涙にくれけるが、やうやうに氣を押ししづめ
「姫御前のたしなみは悋氣嫉妬と、常々ととさまの御異見、アヽこのはしたないなりわいの」
と所體つくらふそのうちも胸はもだつくばかりなり
始終立聞く剛寂僧都、後ろに立つて
「コリヤ淸姫、こなたが慕ふ安珍はナ、許婚のそちを嫌ひ、騙し透かしてこの家を立退き、今その女と諸共に日高の方へ逃げおつたわいのう」
「エヽすりやアノ旅の女といふは」
「オヽ、アリヤ安珍が女房」
「エヽ腹立ちや恨しや」
と表の方をにらみつけ、拳を握る怒りの涙
『しすましたり』となほも立ち寄り
「コリヤ許婚ある身を以て、人におめおめ男を寢取られ口惜しいと思ふ氣はないか、アヽサヽヽヽそふ思はゞ跡よりぼつ付き、二人の奴らを取り殺せ」
とたきつけられて、せきくる涙
「イエイエそのやうにはしたなふしたら、ひよつとまた愛想が尽き、添はれぬやうになつたら悲しい、モウいふて下さんすな、聞くほど胸が苦しい」
と取直す氣を
「ヤア愚か愚か、上邊うはべは貞女作つてもねたそねみの心から蛇身となつたが氣がつかぬか」
「イヤイヤ夫を慕ひ石となつたる例はあれど、生きながら蛇道へ落ちしためしを聞かず」
「ムヽ噓か誠か、その證據、サこれ見よ」
と鏡おつ取り差し付くれば
怖々ながら差し寄つて、寫せば寫る我が姿、それかあらぬか蛇體の形
「コハそもいかに淺ましや、何とこのまゝこの形が安珍さまに見せられう、わしや恥づかしい」
とばかりにて前後涙に伏沈む
「ヤアその身になつて何を繰り言、はや追つかけよ」
と鋭き詞
聞くよりすつくと立上り
「エヽ口惜しや情けなや、取り直しても直されぬ心の嫉妬、生きながら蛇になつたか、エエ腹立ちや。これも誰ゆゑ、あの女ゆゑ、イデ追つ付いてこの恨み晴らさいで置くべきか、わが夫返せ」
と狂ひ出れば
腰元、婢取付き縋るを
振切り振切る袖袂、なほも縋るを
剛寂が支へ止むる心は一物、一筋道、踏迷ふたる戀慕の闇、空も雪氣に曇れども、まだ暮れやらぬ日高の里、跡を慕ふて

 
渡し場の段

 こゝは紀の國日高川、淸き流れも淸姫が松吹く風に誘はれて、只さへいとゞ物凄し
女心の一筋にはぎもあらはにやうやうと、日高の川をこゝかしこ
「安珍さま安珍さまいなう、わが夫なう」
と駈廻り、呼べど叫べど松風の他に答ゆるものもなき
はや山の端にさし昇る隈なき夜半よはの月影は、晝を欺く如くなり
かすかに見ゆる川岸の、もやひし舟に
「ハアヽ嬉しや、こゝは日高の渡し場、これを越ゆれば道成寺へあひだもなし、渡り賴まん急がん」
と川のみぎはに立ち寄りて
「なうその舟早う渡してたべ、渡し守どの渡し守どのいなう、コレなうなう」
と呼ぶ聲も枯野の秋の舟ならで、渡りかぬるぞ甲斐もなき
寢耳にふつと舟長ふなをさとま押しのけて佛頂面
「エヽ何ぢや、やかましいわい。夜々中よるのよなかがやがやと、『早う早う』のその聲で、あつたら夢を取逃がしたわい。夜が明けたらば渡してやらう、エヽコレよう寢ている者を、アタ鈍くさい」
とつかうどに顏をしかめてつぶやけば
「なう自らは道成寺へ急ぐ者、早うこゝを渡してたべ、サ早う早う」
「エヽ何ぢや、鰌汁が食ひたい、アハヽヽヽ、テモ嫌らしい奴ぢやわい、ハヽア聞こえた、コリヤ何ぢやな、宵に渡した山伏殿の後追ふてきた女子をなごぢやな、エヽそれなればなほ渡されぬ、ならぬならぬ」
とにべもなき
詞に姫は涙聲
「エヽそりや胴欲ぢや胴欲ぢや胴欲ぢやわいなう、親の許したわが夫を他所の女子に寢取られて、何とこのまゝ歸られう、不便と思うて渡してたべ、慈悲ぢや情けぢや、聞分けて」
と賴みつかこちつ手を合せ、歎き沈むぞ哀れなり。こなたはなほも空吹く風
「ムヽそれほど賴むなら渡してやらう、と云ふたらよからうが、マアいやぢや。おりやあの山伏に緣もなし、また由緣ゆかりもなけれど、渡されぬといふ譯を耳をさらへてよう聞けよ。われが尋ねる山伏の賴みには『樣子あつて某は道成寺へ逃げ行く者、十六七の女が來たら必ず渡してくれるな』と、小金こまがねくれて賴まれたれば、金の冥利でこの川を渡すことはならぬわい。寒氣をしのぐ山伏の八重が一重が板一枚、下は地獄のこの商賣みすぎ、賴まれたらば男づく、いつかな渡さぬ、マアならぬ、われもまたどれほど焦がれても及ばぬ戀ぢや、役にも立たぬあごきかずと、足元の明るい内とつとゝ去ね去ね、エヽうぢうぢとうぢついて棹の馳走を食らふか」
と慈悲も情もなかなかに渡す氣色もなかりける
姫はあるにもあらばこそ
「エヽ聞こえませぬ聞こえませぬ安珍さま、恨みはこつちにあるものを、かへつてこの身に恥かゝされ、何と永らへゐられうぞいなう、今日とても父上の御意見、ご尤もとは思へども、女子は一度我が夫と思ひこんだら魔王でも、たとへ鬼でも變化へんげでも可愛いといふ輪廻は離れず、まして五月さつきの宮詣でにふつと見染めしその日より、いとし床しい戀しいと夢現にも忘れかね、焦がれ焦がるゝ戀人に逢ふて嬉しい言の葉を、語らふ間さへ情なや、戀の呵責かしやくに碎かれて身は煩惱に繋がるゝ、紅蓮ぐれんの氷、大焦熱阿鼻修羅地獄へ落るとも、思切られぬ安珍さま、聞えぬわいな」
と身をもだへ『わつ』とばかりに聲を上げ、嘆く涙の雨車軸、その名も高き紀の國や、日高の川に水増して堤も穿うがつごとくなり
泣く目を拂ひすつくと立ち
「エヽ妬ましや腹立ちや、思ふ夫を寢取られし恨みは誰に報ふべき、たとへこの身は川水の底の藻屑もくづとなるとても、憎しと思ふ一念のやはか晴さで置くべきか」
と心を定め身繕ひ、川邊に立ち寄り水のおもも寫す姿は大蛇の有樣
「さては悋気嫉妬の執着し、邪心執念いや勝り、我は蛇體となりしよな。もはや添はれぬこの身の上、無間奈落へ沈まば沈め、恨みを云ふて云ひ破り、取り殺さいでおかうか」
と怒りのまなじり、齒を嚙み鳴らし、邊りを睨んで火焰を吹き岸の蛇籠もどうどうと靑みきつたる水の面、ざんぶとこそは飛入つたり
舟長見るよりわなゝき聲
「鬼になつた、蛇になつた、角が生えた、毛が生えた、食殺されては叶はじ」
と跡をも見ずして一散に、飛ぶが如くに逃げて行く
不思議や立浪逆卷いて、憤怒の大頭だいづ角振り立て、髮も逆立ち波頭拔き手を切つて渡りしは
怪しかりける

[やぶちゃん注:(以下、梗概の続き)
――泳ぎ渡った蛇体の清姫は道成寺境内に安珍を探し回るが、ここに父庄司が現われ、蛇体の清姫を刺し殺す。その吹き出す血汐が炎となって燃えるうち、鐘の中から、かの悪僧剛寂(ここでは彼は道成寺の僧となっている)が三種の神器を持って登場する。剛寂は実は親王の御味方で、かねてからの清姫と親王との一件は、清姫の妬心を利用して、親王を清姫がとり殺したという噂を立て、忠文の油断を狙うという遠大なる計画であつたことが明らかにされる(以上、四段)。
忠文一党の酒宴に源経基・藤原秀郷・剛寂僧都らが押し寄せて誅罰して大団円となる(掉尾第五)。
――これが「日高川入相花王」の総てである。]