紀伊國牟婁郡の惡しき女(「大日本國法華經驗記」より)

道成寺鐘中」へ

紀伊國牟婁郡の惡しき女(「大日本國法華經驗記」より)

[やぶちゃん注:本作は平安中期に書かれた比叡山の僧鎮源(伝不詳)の記した、上中下三巻からなる仏教説話集「大日本國法華經驗記げんき」、通称「法華經驗記」の下巻掉尾にある「第百廿九」、現存する道成寺伝説最古の記録とされる「紀伊國牟婁郡惡女」(「紀伊國牟婁郡の惡しき女」)のテクスト化である。底本は岩波書店一九七四年刊の「続・日本仏教の思想1 往生伝 法華験記」の原文及び書き下し文を用いたが、私のポリシーに則り、漢字を正字に改めてある。まず、原文を示し、その後に書き下し文を示し、書き下し文は読み(ルビ)の一部を本文に出して読み易さを図った。書き下し文の格段の最後に簡単な私の注を附し、後を一行空けた。]

□原文

   
第百廿九 紀伊國牟婁郡惡女

有二沙門。一人年若。其形端正。一人年老。共詣熊野至牟婁郡。宿路邊宅。其宅主寡婦。出兩三女從者。宿居二僧。致志勞養。爰家女夜半至若僧邊。覆衣幷語僧言。我家從昔不宿他人。今夜借宿。非無所由。從見始時。有交臥之志。仍所令宿也。爲遂其本意所進來也。僧大驚怪。起居語女言。日來精進。出立遙途。參向權現寶前。如何有此惡事哉。更不承引。女大恨怨。通夜抱僧。擾亂戲咲。可隨君情。作約束了。僅遁此事。參詣熊野。 女人念僧還向日時。致種々儲相待。僧不來過行。女待煩僧。出路邊尋見往還人。有從熊野出僧。女問僧曰。着其色衣。若老二僧來否。僧云。其二僧早還向。既經兩三日。女聞此事。打手大瞋。還家入隔舍。籠居無音。即成五尋大毒蛇身。追此僧行。時人見此蛇。生大怖畏。告二僧言。有希有事。五尋計大蛇。過山野走來。二僧聞了定知。此女成蛇追我。即早馳去。到道成寺。事由啓寺中。欲遁蛇害。諸僧集會。議計此事。取大鐘。件僧籠居鐘内。令閉堂門。時大蛇追來道成寺。圍堂一兩度。則到有僧戸。以尾叩扉數百遍。叩破扉戸。蛇入堂内。圍卷大鐘。以尾叩龍頭三時計。諸僧驚怪。開四面戸。集見之恐歎。毒蛇從兩眼出血涙出堂。擧頸動舌。指本方走去。諸僧見大鐘爲蛇毒所燒。炎火熾燃。敢不可近。即汲水浸大鐘冷炎熱。見僧皆悉燒盡。骸骨不殘。纔有灰塵矣。 經數日之時。一﨟老僧夢。前大蛇直來。白老僧言。我是籠居鐘中僧也。遂爲惡女被領成其夫。感弊惡身。今思拔苦。我力不及。我存生時。雖持妙法。薫修年淺。未及勝利。決定業所牽。遇此惡緣。今蒙人恩。欲離此苦。殊發無緣大慈悲心。淸淨書寫法華經如來壽量品。爲我二蛇拔苦。非妙法力。爭得拔苦哉。就中爲彼惡女拔苦。當修此善。蛇宜此語即以遠去。 聖人夢覺即發道心。觀生死苦。手自書寫如來壽量品。捨衣鉢蓄。設施僧之營。屈請僧侶。修一目無差大會。爲二蛇拔苦。供養既了。其夜聖人夢。一僧一女。面貌含喜。氣色安穩。來道成寺。一心頂禮三寶及老僧白言。依淸淨善。我等二人遠離邪道。趣向善趣。女生忉利天。僧昇兜率天。作是語了。各々相分。向虛空而去。
  聞法華經是人難 書寫讀誦解説難
  敬禮如是難遇衆 見聞讚謗齊成佛

□書き下し文

   
第百廿九 紀伊國牟婁郡の惡しき女

 ふたりの沙門あり。一人は年若くして、その形端正たんじやうなり。一人は年老いたり。共に熊野に詣り、牟婁むろの郡に至りて、路のほとりのいへ宿やどりしぬ。その宅のあるじ寡婦やもめなり。兩三の女のともものを出して、二の僧を宿り居らしめ、志を致していたはり養へり。ここに家の女、夜半よなかに若き僧の邊に至りて、衣を覆ひて僧に幷び語りて言はく、我が家は昔より他の人を宿さず。今夜こよひ宿を借したるは、由るところなきにあらず。見始めし時より、交り臥さむの志あり。りて宿せしむるなり。その本意を遂げむがために、進み來るところなりといふ。僧大きに驚き怪びて、起き居て女に語りて言はく、日來ひころ精進して、遙なる途を出で立ちて、權現の寶前に參り向ふ。如何いかにしてかこの惡事あらむやといふ。更に承引せず。女大きに恨怨みて、通夜よもすがら僧を抱きて、擾亂ねうらんし戲咲せり。僧種々くさくさことばをもて語りこしらへたり。熊野に參詣して、ただ兩三日、燈明・御幣みてぐらたてまつりて、還向ぐゑんかうついでに、君がこころに隨ふべしといへり。約束をし了へて、僅にこのことを遁れて、熊野に參詣せり。
[やぶちゃん注:「牟婁郡」は「むろのこほり」と読む。古えは紀伊半島南部を占める紀伊国の面積の過半を構成する広大な郡であった。現在は東西南北に四分割され、北牟婁郡と南牟婁郡は三重県に、西牟婁郡と東牟婁郡は和歌山県に編入されている。
「寡婦」は必ずしも未亡人に限らず、未婚者を含め、広く独り身の女性を指す。
「勞り養へり」食事の供応や慰労の接待をする。
「衣を覆ひて僧に幷び」来ていた衣を脱いで、僧に掛け、更にその僧に沿い臥して、の意。
「權現の寶前」熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三所権現の社頭。
「擾亂」は通常は「ぜうらん(じょうらん)」と読み、乱れ騒ぐこと。
「戲咲」は「ぎせう(ぎしょう)」と読み、「戯笑」とも書く。ふざけて笑う、たわむれ笑う、おどけること。
「誘へたり」「こしらふ」は激している相手を言葉巧みに鎮め、同時に自分にとって都合のよい状態へ秘かに向かわせることを言う動詞で、うまくとり繕ってなだめすかすの意。更に騙す、偽るの意もあるので、伏線としてそれも含意すると考えてよい。
「燈明」は「みあかし」と読む。
「御幣」は、文字通りの御幣だけではなく、神に捧げる総ての供物を言う。
還向ぐゑんかう」下向。参詣の帰途。
「僅に」は、辛くも、の意。]

 女人によにん僧の還向の日時を念ひて、種々のまうけを致して相待つに、僧來らずして過ぎ行きぬ。女、僧を待ち煩ひて、路のほとりに出でて往還わうぐゑんの人を尋ね見るに、熊野より出づる僧あり。女、僧に問ひて曰く、その色の衣を着たる、若き老いたる二の僧は來りしや否やといふ。僧の云はく、その二の僧は早く還向して、既に兩三日を經たりといへり。女このことを聞きて、手を打ちて大きにいかり、家に還りて隔る舍に入り、寵居して音なかりき。即ち五尋いつひろの大きなる毒蛇の身と成りて、この僧を追ひ行けり。時に人、この蛇を見て、大きなる怖畏を生じ、二の僧に告げて言はく、希有のことあり。五尋計の大きなる蛇、山野を過ぎて走り來るといへり。二の僧聞きへて定めて知りぬ、この女、蛇と成りて我を追ふなりと。即ち早く馳せ去りて、道成寺だいじやうじに到り、ことの由を寺の中に啓まうして、蛇の害を通れむとおもへり。諸僧集會しふゑして、このことを議計はかり、大きなる鐘を取りて、件の僧を鐘の内に籠めゑて、堂の門を閉ざしめつ。
[やぶちゃん注:「儲け」馳走や接待の用意。
「五尋」「尋」は大人が両手を一杯に広げた長さで、明治期に一尋=六尺と定められので一尋は約一・八メートルとなり、五尋は約九メートルになる。但し身体尺であることから五尺とする説もあり、それだと七メートル半となる。]

 時に大きなる蛇道成寺に追ひ來りて、堂を圍むこと一兩度して、僧をかくせる戸に到り、尾をもて扉を叩くこと數百遍なり。扉の戸を叩き破りて、蛇堂の内に入りぬ。大きなる鐘を圍み卷きて、尾をもて龍頭りうづを叩くこと兩三とき計なり。諸僧驚き怪びて、四面の戸を開き、集りてこれを見て恐れ歎く。毒蛇兩のまなこより血の涙を出し、堂を出で、頸を擧げ舌をはたらかし、本の方を指して走り去りぬ。諸僧見るに、大きなる鐘、蛇の毒のために燒かれ、炎の火さかりに燃えて、敢へて近づくべからず。即ち水を汲みて大きなる鐘をひたして、炎の熱を冷せり。僧を見るに皆悉くに燒け盡きて、骸骨も殘らず、纔に灰と塵のみあり。
[やぶちゃん注:「僧をかくせる戸」屋台形になった鐘突き堂の入り口の扉の意であろう。
「兩三時」「愚管抄」などを見ると、『辰巳午両三時バカリニ』という風に各一時の開始時と半ばと終了時の刻限で「兩三」を用いており、六時間ではなく、ここでも四時間と採った方が自然で、想像の場面も逆に飽きないように思われる。]

 數日を經たるの時、上﨟じやうらふの老僧夢みらく、前の大きなる蛇ただに來りて、老僧にまうして言はく、我はこれ鐘の中に籠居したる僧なり。遂に惡しき女のためにりやうせられて、その夫と成り、つたなくく惡しき身を感じたり。今苦びを拔かむことを思ふに、我が力及ばず。我存生ぞんしやうの時、妙法を持せしといへども、薫修くんじゆ年淺くして、いまだ勝利に及ばざりき。決定業けつぢやうごふくところ、この惡緣に遇へり。今聖人の恩をかうぶりて、この苦びを離れむと欲す。殊に無緣の大慈悲の心を發して、淸淨しやうじやうに法華經の如來壽量品を書寫し、我等二の蛇のために苦びを拔きたまへ。妙法の力にあらずは、いかでか苦びを拔くことを得むや。就中にかの惡しき女の拔苦のために、當にこの善を修すべしといへり。蛇このことを宣べて、即ちもて還り去りぬ。
 聖人夢覺めて、即ち道心を發し、生死しやうじの苦びを觀じたり。手づから如來壽量品を書寫し、衣鉢えはつたくはへを捨てて、施僧せそういとなみを設け、僧侶を屈請くつしやうして、一日無差の大會を修して、二の蛇の拔苦のために、供養既に了へぬ。その夜聖人夢みらく、ひとりの僧一の女、面貌めんめうに喜びを含み、氣色けしき安穩にして、道成寺に來りて、一心に三寶及び老僧を頂禮して白して言はく、清淨の善に依りて、我等二人、遠く邪道を離れて、善趣に趣き向ひ、女は忉利天に生れ、僧は兜率天に昇りぬといへり。この語をし了へて、各々相分れ、虛空に向ひて去るとみたり。
  聞法華經是人難  書寫讀諦解説難
  敬禮如是難遇衆  見聞讚誘齊成佛
[やぶちゃん注:「上﨟の老僧」受戒後、多くの安居(一定期間の一所修行)を積んだ高僧。
「領せられて」底本頭注では「領す」を「支配する」と注すが、ここは「(魔物など)憑りつく」の意で、悪しき女の執念に憑りつかれて、と採るべきであろう。
「弊く惡しき身を感じたり」自分も女と同様におぞましき因果によって、愚かな、かくも忌まわしき蛇体に身を落としたことに深い慙愧の念を抱いている、という意。
「今苦びを拔かむことを思ふに」の蛇体となった男(またかの女も同じ)の「苦」とは、竜蛇の類が受ける、熱風熱砂に身を焼かれる苦、暴風に皮肉を吹き千切られる苦、金翅鳥こんじちょう(迦楼羅。翼が金色で、口から火を吐き、竜を好んで食う。天竜八部衆の一つ。密教では仏法を守護し衆生を救うために梵天が化したとする。古代インドの神聖なる鳥ガルーダが原型)に喰われる苦の三種の苦を言う。
「薫修」香の薫りが衣服に染みつくように習慣として修行を繰り返すことから、仏道修行のことを言う。
「勝利」優れた仏法の利益。
「決定業」因果によって必ず受けると定まっているごう。悪因に引かされて彼も蛇体と化したことを言う。
「無緣の大慈悲」慈悲心には三種「衆生縁」「法縁」「無縁」の三種の三縁慈悲がある。「衆生縁」とは人が同じ苦界の衆生を見、それを救いたいと感ずる、同じ衆生を機縁として起こした慈悲心、則ち、衆生によって発動された慈悲心をいい、「法縁」とは煩悩を滅した聖人が、諸人が法は空なりという真理を知らずに、ただ漫然と楽を得ようと苦しむのを救わんとする、則ち、阿羅漢や菩薩が衆生によって発動された慈悲心を言う。そして「無縁」とは、そうした慈悲心の対象による発動を超越した、自然じねんの慈悲心、則ち、仏そのものの慈悲心との完全な合一による真の慈悲心を言う。
「如來壽量品」「法華経」第十六「如来寿量品」は、「法華経」の中でも最も核心の部分で、最初の一句が「自我得仏来」ではじまっているために「自我偈」とも呼ばれる。そこでは仏は久遠実成くおんじつじょう。時空間を越えて永遠の昔からとっくに悟達しており、その命もまた永遠であるとする。
「施僧の營み」自分の所有物を諸僧に施すこと。
「無差の大會」無遮むしゃの大会。僧俗貴賤一切を妨げることなく、平等に財法二施(財施と法施の二種の布施。財施は在家信者が僧に対して飲食その他を施すこと、法施は僧が在家信者に教法を施し教化すること。これを同時に行うことを指す)を行ずる法会を無遮会といい、その規模の大きいものを無遮の大会と言う。
「善趣」普通は六道輪廻の内で、衆生が善業の結果として赴く世界を言い、一般的には六道三善道の中の天上道と人間道を指すが、ここでは複雑な階層や次元上の平行世界を持つ仏教の「天」定義を無視して、浄土や天上界と同義として用い、二人を「忉利天」と「兜率天」に再生させる分かり易い大団円の叙述としたものと思われる。
最後の偈、
 聞法華經是人難
 書寫讀諦解説難
 敬禮如是難遇衆
 見聞讚誘齊成佛
私の勝手自在な訓読を示す。
 法華經を聞くに 是れ 人は難くして
 書寫して讀むも 諦む 解き説くは難し
 禮敬らいけう 是くのごとくんば 衆に遇ふも難けれど
 見聞 讚誘 成佛にひと
意味は定かには分からぬが、まさに人智を遙かに超えた「無緣の大慈悲」による、悉皆衆生の既にして成仏していることを讃える謂いと、私には感ぜられる。仏家の識者の御教授を乞うものである。]