Alain Leroy ou le nihiliste couronné d'épine
アラン・ルロワ または 茨冠せるニヒリスト
~ロシェル/マルによる「鬼火」論考
やぶちゃん(copyright 2005― Yabtyan 未完)
Ⅰ 精子の嘔吐
物としての鋼鉄、モーゼル・ルガーP08ヴェアマハト、その9×19mmパラベラム弾一発とぶつかることによって、奇体な医院の一室で、孤独な死の淵へと自らを投ずるアラン、しかし、彼は、その始まりから、物質としての精子が廃棄されるしかない、いや、精子それ自体が、余りの猥雑と軽薄に嘔吐せざるを得ない、慄っとする現実の中にこそ、投げ込まれている。
映像は如何なるものも真には猥雑たり得ない。それは、恐ろしく退屈な芝居を、凡庸なカメラマンの、いつも同じ所をアップにするしか能のない固定カメラの映像で見るのと同じだ。監督の限定された視線(=拭い去ることの出来ない芸術的思念に拘束された去勢された性欲)に犯されたそれは、ものの美事に道徳的美に還元されてしまう。マルの場合、それを確信犯として犯している。しかし、それはこの映像作品の冒頭としては、一見、相応しく見えない。
原作にある、リディアの膨らんだ首と腹、唸り声は、紳士然とした乾いたそのナレーションからは想像だに及ばない。それは、あろうことか、アランを酒や麻薬による性的不能者とさえ誤解させる。それどころか、アランをインポテンツと思い込んだ某字幕訳者が、後のデュブールとの会話に、「セックスがだめなんだ!」という、驚天動地、それこそ精子自身が余りの汚らしさに嘔吐する訳をさせる結果さえ生んでいる。それを私は語訳としての誤訳と言うのではない。しかしそこは「女とはうまく寝ることができないだ」と訳すべきところであって、即物的な性行為を指すのでは毛頭ないことを、恐らく即物的な性器しか所持していないその日本語字幕の訳者は、感覚することができなかった。
ただのアル中男の物語というバイアスをかけた観客の殆どは、リディアとのまともな性交を認めない。しかし原作では、退屈な時代掛かった朧化による性描写の後、リディアがペッサリーを洗浄する場面で馬鹿でも分かるほどに明白だ。
しかし、マルは、既にここから、それゆえにこそ、アランを、ただの過去の栄光を背負う敗北者としてではなく、男ならぬ男、純粋に人を愛し人に愛されたいと望む人、極北の聖性の存在への変換を目論んでいるのだ。
2 閉ざされた自我
――「この部屋には出口がない。そこに空っぽのトランクと同じ僕の自我が置いてある」――
映画のアランの病室には、出口がない。入り口の扉は壁の一部となっている。(続 未定稿)