ひよつとこ 初出稿及び決定稿 芥川龍之介

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ひよつとこ (■初出稿+□決定稿附やぶちゃん注)  芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年四月発行の『帝國文學』に以下のように「柳川隆之介」の署名で掲載された。後、作品集『煙草と惡魔』に所収されたが、その際に大きな改稿が行われている。底本は岩波版旧全集を用いたが、本テクストはまず、その初出形を底本注記の指示に従って『■初出稿』として復元し、その後ろに『煙草と惡魔』版の通常知られている稿を『□決定稿』として配した。「/\」の濁点は正字に直した。『〔。〕』」は私が補填した部分である。また決定稿の文末の『(三年一二月)』というクレジットは『(三○年一二月)』とあるものを編者が訂したものであるという注記がある。

 本作は『芥川龍之介世界』の時系列の中で極めて重要な作品である。大川・伝馬船・芸妓・芸人・下町という芥川好みの江戸趣味アイテムがふんだんに盛り込まれ、退屈な現実へ対抗するために虚像の作話に徹してきた主人公平吉の人生と死はストーリー・テラーとしてのその後の芥川龍之介を不吉に予言してもいよう。双頭神ヤヌスを提示し、死に行く平吉の歪んだ顔を飄然と眺めているひょっとこの面という皮肉にして印象的シーンは頗る映像的、漱石世界からの法燈であるエゴイズムや人間探求をも射程に据えた、物語作家としての自律的船出を象徴する一齣である。

 同時にこれは芥川龍之介個人の内実の変成期に係る作品でもある。即ち、「青年と死と」の冒頭注で示した初恋の相手との決定的破局の只中に執筆された作品なのである。彼の初恋の相手は同年の幼馴染み(実家新原家の近所)であった吉田弥生(明治二十五(一八九二)年~昭和四十八(一八七三)年)である(父吉田長吉郎は東京病院会計課長で新原家とは家族ぐるみで付き合っていた)。当時、東京帝国大学英吉利文学科一年であった芥川龍之介は、大正三(一九一四)年、丁度この頃縁談が持ち上がっていた吉田弥生に対して正式に結婚を申し込んだ。しかし、この話は養家芥川家の猛反対にあい、翌大正四(一九一五)年二月頃に破局を迎えることとなる。吉田家の戸籍移動が複雑であったために弥生の戸籍が非嫡出子扱いであったこと、吉田家が士族でないこと(芥川家は江戸城御数寄屋坊主に勤仕した由緒ある家系)、弥生が同年齢であったこと等が主な理由であった(特に芥川に強い影響力を持つ伯母フキの激しい反対があった)。京都帝国大学学生となっていた親友井川恭宛同年二月二十八日附書簡(旧全集一五一書簡)で芥川はその失恋の経緯を語り、「唯かぎりなくさびしい」で擱筆、激しい絶望と寂寥感、人間不信(弥生をも含めた)を告白している。少し長くなるが更にその直後同年三月九日の同人宛書簡(旧全集一五二書簡)を引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。

『イゴイズムをはなれた愛があるかどうか イゴイズムのある愛には人と人との間の障壁をわたる事は出來ない 人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない イゴイズムのない愛があるとすれば人の一生程苦しいものはない

周圍は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい しかもそのまゝに生きる事を強ひられる 一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべきも嘲弄だ

僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ(僕自身にも)僕は時々やりきれないと思ふことがある 何故 こんなにして迄も生存をつゞける必要があるのだらうと思ふ事がある そして最後に神に對する復讐は自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある

僕はどうすればいゝのだかわからない(中略)しかし僕にはこのまゝ囘避せずにすゝむべく強ひるものがある そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる 僕は勿論亡びる事を恐れる しかも僕は亡びると云ふ豫感をもちながらも此ものの聲に耳をかたむけずにはゐられない。

(中略)何だか皆とあへなくなりさうな氣もする 大へんさびしい』

これはあたかも前年の夏に発表された漱石の「こゝろ」を髣髴とさせる手紙である。因みに、このエゴイズムへの激しい思いこそが、その年(大正四(一九一五)年十一月一日『帝国文学』発表の、かの「羅生門」に結実することになるのである。話を戻す。岩波新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、その後の大正四(一九一五)年四月二十日頃、陸軍将校と縁談が纏まっていた弥生が新原家に挨拶に来た。丁度、実家に訪れていた芥川は気づかれぬように隣室で弥生の声だけを聞いた。四月の末、弥生の結婚式の前日、二人が知人宅で最後の会見をしたともある(弥生は翌月中旬結婚)。鷺只雄氏は河出書房新社一九九二年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」(上記記載の一部は本書を参考にした)で、『この事件で芥川は人間の醜さ、愛にすらエゴイズムのあることを認め、その人間観に重大な影響を与えられ』たと記す。正にその時はまだ純真であった青年芥川龍之介の、完膚なきまでの精神崩壊感覚の進行する只中に書かれたのが本作である、ということを意識する必要があるのではあるまいか。【二〇一〇年五月三十日】

誤植や表記の一部を訂正・変更、ルビ化を行い、決定稿の後に私のオリジナルな注釈を附して、縦書版も作製した。【二〇一一年十二月十七日:追記】]

 

■初出稿

 

ひよつとこ   柳川隆之介

 

 吾妻橋の欄干によつて、人が大ぜい立つてゐる。時々巡査が來て小言を云ふが、すぐ又元のやうに人山が出來てしまふ。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立つてゐるのである。

 船は川下から、一二艘づゝ、引き潮の川を上つて來る。大抵は傳馬に帆木綿の天井を張つて、其まはりに紅白のだんだらの幕をさげてゐる。そして、みよしには、旗を立てたり古風な幟を立てたりしてゐる。中にゐる人間は、皆醉つてゐるらしい。幕の間から、お揃ひの手拭を、吉原かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳をうつてゐるのが見える。首をふりながら、苦しさうに何か唄つてゐるのが見える。それが橋の上にゐる人間から見ると、滑稽としか思はれない。お囃子をのせたり樂隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあつ」と云ふ哂ひ聲が起る。中には「莫迦」と云ふ聲も聞える。船の中の連中はそんな事には頓着しない。まるで、いゝ心持ちに酔つて騒ぎさへすれば、櫻が咲いてゐやうが、お米庫が並んでゐやうがそんな事にはかまはないと云つた容子である。

 橋の上から見ると、川は亞鉛板のやうに、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸汽がその上に眩しい横波の鍍金をかけてゐる。そうして、その滑な水面を、陽氣な太鼓の、笛の、三味線の音が虱のやうにむづ痒く刺してゐる。札幌ビールの煉瓦壁のつきる所から、土手の上をずつと向う迄、煤けた、うす白いものが、重さうにつゞいてゐるのは、丁度、今が盛りの櫻である。言問の棧橋には、和船やボートが澤山ついてゐるらしい。それが此處から見ると、丁度大學の艇庫に日を遮られて、唯ごみ/\した黑い一色になつて動いてゐる。

 すると、そこへ橋をくゞつて、又船が一艘出て來た。矢張さつきから何艘も通つたやうな、お花見の傳馬である。紅白の幕に同じ紅白の吹流しを立てゝ、赤く櫻を染めぬいたお揃ひの手拭で、鉢卷きをした船頭が二三人櫓と棹とで、代る/\漕いでゐる。それでも船足は餘り早くない。幕のかげから見える頭數は五十人もゐるかと思はれる。橋をくゞる前までは、二梃三味線で、「梅にも春」か何かを彈いてゐたが、それがすむと、急に、ちやんぎりを入れた馬鹿囃子が始まつた。橋の上の見物がまた「わあつ」と哂ひ聲を上げる。中には人ごみに押された子供の泣き聲も聞える。「あらごらんよ、踊つてゐるからさ」と云ふ甲走つた女の聲も聞える――船の上では、ひよつとこの面をかぶつた脊の低い男が、吹流しの下で、馬鹿踊を踊つてゐるのである。

 ひよつとこは、秩父銘仙の兩肌をぬいで、友禪の胴へむき身絞りの袖をつけた、派手な襦袢を出してゐる。黑八の襟がだらしなくはだけて、紺獻上の帶がほどけたなり、だらりと後へぶら下がつてゐるのを見ても、餘程、醉つてゐるらしい。踊は勿論、出たらめである。唯、いゝ加減に、お神樂堂の上の莫迦のやうな身ぶりだとか、手つきだとかを、繰返してゐるのにすぎない。それも酒で體が利かないと見えて、時々は唯、中心を失つてふなばたから落ちるのを防ぐ爲に、手足を動かしてゐるとしか、思はれない事がある。

 それが又、一層可笑しいので、橋の上では、わい/\云つて、騷いでゐる。さうして、皆、哂ひながら、さまざまな批評を交換してゐる。「どうだい、あの腰つきは」「いい氣なもんだぜ、何處の馬の骨だらう」「をかしいねえ、あらよろけたよ」「一そ素面で踊りやいゝのにさ」――ざつとこんな調子である。

 その内に、醉が利いて來たのか、ひよつとこの足取がだん/\怪しくなつて來た。丁度、不規則な Metronome のやうに、お花見の手拭で頰かぶりをした頭が、何度も船の外へのめりそうになるのである。船頭も心配だと見えて、二度ばかり後から何か聲をかけたが、それさへまるで耳にははいらなかつたらしい。

 すると、今し方通つた川蒸汽の横波が、斜に川面をすべつて來て、大きく傳馬の底をゆすり上げた。その拍子にひよつとこの小柄な體は、どんとそのあほりを食つたやうに、ひよろ/\前の方へ三足ばかりよろけて行つたが、それがやつと踏止つたと思ふと、今度はいきなり廻轉を止められた獨樂のやうに、ぐるりと一つ大きな圓をかきながら、あつと云ふ間に、メリヤスの股引をはいた足を空へあげて、仰向けに傳馬の中へ轉げ落ちた。

 橋の上の見物は、またどつと聲をあげて哂つた。

 船の中ではそのはずみに、三味線の棹でも折られたらしい。幕の間から見ると、面白さうに醉つて騷いでいた連中が、慌てゝ立つたり坐つたりしてゐる。今まではやしてゐた馬鹿囃子も、息のつまつたやうに、ぴつたり止んでしまつた。さうして、唯、がや/\云ふ人の聲ばかりする。何しろ思ひもよらない混雜が起つたのにちがひない。それから少時すると、赤い顏をした男が、幕の中から首を出して、さも狼狽したやうに手を動かしながら、早口で何か船頭に云ひつけた。すると、傳馬はどうしたのか、急に取舵をとつて、舳を櫻とは反對の山の宿の河岸に向けはじめた。

 橋の上の見物が、ひよつとこの頓死した噂を聞いたのはそれから十分の後である。

 もう少し詳しい事は、翌日の新聞の十把一束と云ふ欄にのせてある。それによると、ひよつとこの名は山村平吉、病名は腦溢血と云ふ事であつた。

 

   *    *    *    *   

 

 山村平吉はおやぢの代から、日本橋の若松町にゐる繪具屋である。死んだのは四十五で、後にはうけ口の肥つたお上みさんと、兵隊に行つてゐる息子とが殘つてゐる。暮しは裕だと云ふほどではないが、雇人の二三人も使つて、どうにか人並にはやつてゐるらしい。人の噂では、日淸戰爭頃に、秋田あたりの岩緑靑を買占めにかゝつたのが、當つたので、それまでは老舗しにせと云ふ丈で、お得意の數も指を折る程しか無かつたのださうである。

 平吉は、圓顏の、頭の少し禿げた、眼尻に小皺のよつてゐる、どこかへうきんな所のある男で、誰にでも腰が低い。道樂は飮む一方で、酒の上はどちらかと云ふと、まづいい方である。唯、醉ふと、必、莫迦踊をする癖があるが、これは當人に云はせると、昔、濱町の豐田の女將が、巫女舞を習つた時分に稽古をしたので、その頃は、新橋でも芳町でも、お神樂が大流行だつたと云ふ事である。しかし、踊は勿論、當人が味噌を上げる程のものではない。惡く云へば、出たらめで、善く云へば喜撰でも踊られるより、嫌味がないと云ふ丈である。尤も之は、當人も心得てゐると見えて、しらふの時には、お神樂のの字も口へ出した事はない。「山村さん、何かお出しなさいな」などゝ、すゝめられても、冗談に紛らせて逃げてしまふ、それでゐて、少しお神酒がまわると、すぐに手拭をかぶつて、口で笛と太鼓の調子を一つにとりながら、腰を据ゑて、肩をゆすつて、鹽吹面舞ひよつとこまひと言うのをやりたがる。さうして、一度踊り出したら、いつまでも圖にのつて、踊つてゐる。はたで三味線を彈いていやうが、謠をうたつてゐやうが、そんな事にはかまはない。その内にやつと踊がおしまひになつたと思ふと、すぐに肘枕で、人の前でも何でも、長子と横になつてしまふ。さうして眼をふさぐかふさがないのに、死人のやうにぐつすり眠込んでしまふ――しかし、さう云ふ事は、年に何度と數へる程しかない。望ロほ一升を越さなひ内は醉たやうな氣がしないと云ふ男だからである。

 所が、その酒が崇つて、卒中のやうに倒れたなり、氣の遠くなつてしまつた事が、二度ばかりある。一度は町内の洗湯で、上り湯を使ひながら、セメントの流しの上へ倒れた。その時は腰を打つただけで、十分とたゝない内に氣がついたが、二度目に自家の藏の中で仆れた時には、醫者を呼んで、やつと正氣にかへして貰ふまで、彼是三十分ばかりも手間どつた。平吉はその度に、醫者から酒を禁じられるが、殊勝らしく、赤い顏をしずにゐるのはほんのその當座だけで、何時でも「一合位は」からだん/\枡數がふえて、半月とたゝない中に、いつの間にか又元の杢阿彌になつてしまふ。それでも、當人は平氣なもので「矢張飮まずにゐますと、反て體にいけませんやうで」などゝ勝手な事を云つてすましてゐる。

 

   *    *    *    *   

 

 しかし平吉が酒をのむのは、當人の云ふやうに生理的に必要があるばかりではない。心理的にも、飮まずにはゐられないのである。何故かと云ふと、酒さへのめば氣が大きくなつて、何となく誰の前でも遠慮が入らないやうな心持ちになる。踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰もそれを咎める者はない。ゐればそれは酒を飲まない人間である。かう云ふのび/\した氣になる事は、酒を飲んだ時の外にない。平吉には、何よりも之が難有いのである。何故之が難有いか。それは自分にもわからない。

 平吉は唯醉ふと、自分が全、別人になると云ふ事を知つてゐる。勿論、馬鹿踊を踊つたあとで、しらふになつてから、「昨夜は御盛でしたな」と云はれると、すつかりてれてしまつて、「どうも醉ぱらふとだらしはありませんでね。何をどうしたんだか、今朝になつてみると、まるで夢のやうな始末で」と月並な嘘を云つてゐるが、實は踊つたのも、眠てしまつたのも、未にちやんと覺えてゐる。さうして、その記憶に殘つてゐる自分と今日の自分と比較すると、どうしても同じ人間だとは思はれない。それなら、どつちの平吉がほんとうの平吉かと云ふと、之も彼には、判然とわからない。醉つてゐるのは一時で、しらふでゐるのは始終である。さうすると、しらふでゐる時の平吉の方が、ほんとうの平吉のやうに思はれるが、彼自身では妙にどつちとも云ひ兼ねる。どつちとも云ひ兼ねる。Janus と云ふ神樣には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もいない。平吉もその通りである。

 ふだんの平吉と醉つてゐる時の平吉とはちがふと云つた。そのふだんの平吉程、嘘をつく人間は少いかもしれない。之は平吉が自分で時々、さう思ふのである。しかし、かう云つたからと云つて、何も平吉が損得の勘定づくで嘘をついてゐると云ふ譯では毛頭ない。第一彼は、殆、嘘をついてゐると云ふ事を意識せずに、嘘をついてゐる。尤もついてしまふとすぐ、自分でもさうと氣がつくが、現についてゐる時には、全然結果の豫想などをする餘裕は、無いのである。それが唯、その場限りの嘘で止てしまふ場合はいゝ、その嘘をついた羽目でどうしても何かしなければならないとなると、大分厄介になる。平吉の一生の事件は、程度の差こそあるが、大抵はこの厄介を幾分か背負こんでゐる〔。〕

 平吉は自分ながら、何故さう嘘が出るのだかわからない。が人と話してゐると自然に云はうとも思はない嘘が出てしまふ、しかし、格別それが苦になる譯でもない。惡い事をしたと云ふ氣がする譯でもない。そこで平吉は、毎日平氣で嘘をついてゐる。

 

   *    *    *    *   

 

 平吉の口から出た話によると、彼は十一の年に南傳馬町の紙屋へ奉公に行つた。するとそこの旦那は大の法華氣違ひで、三度の飯も御題目を唱へない内は、箸をとらないと云つた調子である。所が、平吉がお目見得をしてから二月ばかりするとそこのお上みさんがふとした出來心から店の若い者と一しよになつて着のみ着のまゝでかけ落ちをしてしまつた。そこで、一家安穩の爲にした信心が一向役にたゝないと思つたせゐか、法華氣違ひだつた旦那が急に、門徒へ宗旨替をして、帝釋樣のお掛地を川へ流すやら、七面樣の御影を釜の下へ入れて燒くやら、大騷ぎをした事があるさうである。

 それからまた、そこに廿はたちまでゐる間に店の勘定をごまかして、遊びに行つた事が度々あるが、その頃、馴染みになつた女に、心中をしてくれと云はれて弱つた覺もある。とう/\一寸逃れを云つて、其場は納まつたが、後で聞くと矢張其女は、それから三日ばかりして、錺屋の職人と心中をしてゐた。深間になつてゐた男が外の女に見かへたので、面當てに誰とでも死にたがつてゐたのである。

 それから廿の年におやぢがなくなつたので、紙屋を暇をとつて自家へ歸つて來た。半月ばかりすると或日、おやぢの代から使つてゐた番頭が、若旦那に手紙を一本書いて頂きたいと云ふ。五十を越した實直な男で、其時右の手の指を痛めて、筆を持つ事が出來なかつたのである。「萬事都合よく運んだからその中にゆく。」と書いてくれと云ふので、その通り書いてやつた。宛名が女なので、「隅へは置けないぜ」とか何とか云つて冷評ひやかしたら、「これは手前の姉でございます」と答えた。すると三日ばかりたつ内に、その番頭がお得意先を廻りにゆくと云つて家を出たなり、何時迄たつても歸らない。帳面を檢べてみると、大穴があいてゐる。手紙は矢張、馴染の女の所へやつたのである。書かせられた平吉程莫迦をみたものはない。……

 それから……まだこんな事を書けばいくらでもある。しかしいくら書いても始まらない。何故かと云ふと、之は皆、平吉が拵へた嘘だからである。かう云ふ嘘はどれでも、その場合場合で、話の序に出るともなく出てしまふ。誰も一々書いて置く者がないから、その當座だけで大抵は忘れられてしまふが、一しよにして見れば可成大きな嘘である。

 兎に角、平吉はしらふではよく嘘をつく。所が醉ふと、妙に嘘が出なくなる。踊るのは踊りたいから踊るのである。眠るのは眠たいから眠るのである。さうしてその間だけは遠慮も氣兼ねも忘れてゐる。氣兼ねがないので嘘をつく氣にならないのだか、嘘をつかないので氣兼ねをしないのだか、それも平吉にはわからない。しかし醉つてゐる時に彼が別な人間になつてゐる事は確である。さうして、それが彼自身にとつても、何となく嬉しい事は確である。

 しかし、醉つてゐる時が上等かと云ふとさうでもない。平吉が後で考へて、莫迦々々しいと思ふ事は、大抵、酔つた時にした事ばかりである。馬鹿踊はまだいゝ、花を引く、女を買ふ。どうかすると、書きも出來ないやうな事さへする。さう云ふ事をする自分が正氣の自分だとは思はれない。結局 Janus の神の首頭はどつちがほんとうともわからないのである。

 

   *    *    *    *   

 

 平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子の連中にひよつとこの面を借りて、ふなばたへ上つた時は、矢張かう云ふ心もちであつた。

 それから踊つてゐる内に、船の中へころげ落ちて、死んだ事は、前に書いてある。船の中の連中は、皆、驚いた。一番、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清元のお師匠さんである。平吉の體はお師匠さんのあたまの上から、海苔卷や、うで玉子の出てゐる胴の間の赤毛布の上へ轉げ落ちた。

 「冗談じやあねえや。怪我でもしたらどうするんだ。」之はまだ、平吉が巫山戲てゐると思つた町内の頭が、中つ腹で云つたのである。けれども、平吉は動くけしきがない。

 すると頭の隣にいた髮結床の親方が、流石にをかしいと思つたか、平吉の肩へ手をかけて、「旦那、旦那…もし…旦那…旦那」と呼んで見た返事がない。手のさきを握つてゐると冷くなつてゐる。親方は頭と二人で平吉を抱き起した。一同の顏は不安らしく、平吉の上にさしのべられた。「旦那…旦那…こいつはいけねえや……」髮結床の親方の聲が上ずつて來た。

 すると其時、呼吸とも聲ともわからない程、かすかな聲が、面の下から親方の耳へ傳つて來た。

 「面を……面をとつてくれ……面を。」頭と親方とはふるへる手で、手拭と面を外した。

 しかし面の下にあつた平吉の顏はもう、ふだんの平吉の顏ではなくなつてゐた。小鼻が落ちて、脣の色が變つて、白くなつた額には、油汗が流れてゐる。一眼見たのでは、誰でも之が、あの愛嬌のある、へうきんな、話のうまい、平吉だと思ふものはない。たゞ、ひよつとこの面だけが、さつきの通り口をとがらして、とぼけた顏を胴の間の赤毛布の上に仰向けて、静に平吉の顏を見上げてゐる。……

 

 

 

□決定稿

 

ひよつとこ   芥川龍之介

 

 吾妻橋の欄干によつて、人が大ぜい立つてゐる。時々巡査が來て小言を云ふが、すぐ又元のやうに人山が出來てしまふ。皆、この橋の下を通る花見の船を見に、立つてゐるのである。

 船は川下から、一二艘づゝ、引き潮の川を上つて來る。大抵は傳馬に帆木綿の天井を張つて、其まはりに紅白のだんだらの幕をさげてゐる。そして、みよしには、旗を立てたり古風な幟を立てたりしてゐる。中にゐる人間は、皆醉つてゐるらしい。幕の間から、お揃ひの手拭を、吉原かぶりにしたり、米屋かぶりにしたりした人たちが「一本、二本」と拳をうつてゐるのが見える。首をふりながら、苦しさうに何か唄つてゐるのが見える。それが橋の上にゐる人間から見ると、滑稽としか思はれない。お囃子をのせたり樂隊をのせたりした船が、橋の下を通ると、橋の上では「わあつ」と云ふ哂ひ聲が起る。中には「莫迦」と云ふ聲も聞える。

 橋の上から見ると、川は亞鉛板のやうに、白く日を反射して、時々、通りすぎる川蒸汽がその上に眩しい横波の鍍金をかけてゐる。そうして、その滑な水面を、陽氣な太鼓の、笛の、三味線の音が虱のやうにむづ痒く刺してゐる。札幌ビールの煉瓦壁のつきる所から、土手の上をずつと向う迄、煤けた、うす白いものが、重さうにつゞいてゐるのは、丁度、今が盛りの櫻である。言問の棧橋には、和船やボートが澤山ついてゐるらしい。それが此處から見ると、丁度大學の艇庫に日を遮られて、唯ごみ/\した黑い一色になつて動いてゐる。

 すると、そこへ橋をくゞつて、又船が一艘出て來た。矢張さつきから何艘も通つたやうな、お花見の傳馬である。紅白の幕に同じ紅白の吹流しを立てゝ、赤く櫻を染めぬいたお揃ひの手拭で、鉢卷きをした船頭が二三人櫓と棹とで、代る/\漕いでゐる。それでも船足は餘り早くない。幕のかげから見える頭數は五十人もゐるかと思はれる。橋をくゞる前までは、二梃三味線で、「梅にも春」か何かを彈いてゐたが、それがすむと、急に、ちやんぎりを入れた馬鹿囃子が始まつた。橋の上の見物がまた「わあつ」と哂ひ聲を上げる。中には人ごみに押された子供の泣き聲も聞える。「あらごらんよ、踊つてゐるからさ」と云ふ甲走つた女の聲も聞える――船の上では、ひよつとこの面をかぶつた脊の低い男が、吹流しの下で、馬鹿踊を踊つてゐるのである。

 ひよつとこは、秩父銘仙の兩肌をぬいで、友禪の胴へむき身絞りの袖をつけた、派手な襦袢を出してゐる。黑八の襟がだらしなくはだけて、紺獻上の帶がほどけたなり、だらりと後へぶら下がつてゐるのを見ても、餘程、醉つてゐるらしい。踊は勿論、出たらめである。唯、いゝ加減に、お神樂堂の上の莫迦のやうな身ぶりだとか、手つきだとかを、繰返してゐるのにすぎない。それも酒で體が利かないと見えて、時々は唯、中心を失つてふなばたから落ちるのを防ぐ爲に、手足を動かしてゐるとしか、思はれない事がある。

 それが又、一層可笑しいので、橋の上では、わい/\云つて、騷いでゐる。さうして、皆、哂ひながら、さまざまな批評を交換してゐる。「どうだい、あの腰つきは」「いい氣なもんだぜ、何處の馬の骨だらう」「をかしいねえ、あらよろけたよ」「一そ素面で踊りやいゝのにさ」――ざつとこんな調子である。

 その内に、醉が利いて來たのか、ひよつとこの足取がだん/\怪しくなつて來た。丁度、不規則な Metronome のやうに、お花見の手拭で頰かぶりをした頭が、何度も船の外へのめりそうになるのである。船頭も心配だと見えて、二度ばかり後から何か聲をかけたが、それさへまるで耳にははいらなかつたらしい。

 すると、今し方通つた川蒸汽の横波が、斜に川面をすべつて來て、大きく傳馬の底をゆすり上げた。その拍子にひよつとこの小柄な體は、どんとそのあほりを食つたやうに、ひよろ/\前の方へ三足ばかりよろけて行つたが、それがやつと踏止つたと思ふと、今度はいきなり廻轉を止められた獨樂のやうに、ぐるりと一つ大きな圓をかきながら、あつと云ふ間に、メリヤスの股引をはいた足を空へあげて、仰向けに傳馬の中へ轉げ落ちた。

 橋の上の見物は、またどつと聲をあげて哂つた。

 船の中ではそのはずみに、三味線の棹でも折られたらしい。幕の間から見ると、面白さうに醉つて騷いでいた連中が、慌てゝ立つたり坐つたりしてゐる。今まではやしてゐた馬鹿囃子も、息のつまつたやうに、ぴつたり止んでしまつた。さうして、唯、がや/\云ふ人の聲ばかりする。何しろ思ひもよらない混雜が起つたのにちがひない。それから少時すると、赤い顏をした男が、幕の中から首を出して、さも狼狽したやうに手を動かしながら、早口で何か船頭に云ひつけた。すると、傳馬はどうしたのか、急に取舵をとつて、舳を櫻とは反對の山の宿の河岸に向けはじめた。

 橋の上の見物が、ひよつとこの頓死した噂を聞いたのはそれから十分の後である。

 もう少し詳しい事は、翌日の新聞の十把一束と云ふ欄にのせてある。それによると、ひよつとこの名は山村平吉、病名は腦溢血と云ふ事であつた。

 

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 山村平吉はおやぢの代から、日本橋の若松町にゐる繪具屋である。死んだのは四十五で、後には瘦せた、雀斑そばかすのあるお上みさんと、兵隊に行つてゐる息子とが殘つてゐる。暮しは裕だと云ふほどではないが、雇人の二三人も使つて、どうにか人並にはやつてゐるらしい。人の噂では、日淸戰爭頃に、秋田あたりの岩緑靑を買占めにかゝつたのが、當つたので、それまでは老舗しにせと云ふ丈で、お得意の數も指を折る程しか無かつたのだと云ふ。

 平吉は、圓顏の、頭の少し禿げた、眼尻に小皺のよつてゐる、どこかへうきんな所のある男で、誰にでも腰が低い。道樂は飮む一方で、酒の上はどちらかと云ふと、まづいい方である。唯、醉ふと、必、莫迦踊をする癖があるが、これは當人に云はせると、昔、濱町の豐田の女將が、巫女舞を習つた時分に稽古をしたので、その頃は、新橋でも芳町でも、お神樂が大流行だつたと云ふ事である。しかし、踊は勿論、當人が味噌を上げる程のものではない。惡く云へば、出たらめで、善く云へば喜撰でも踊られるより、嫌味がないと云ふ丈である。尤も之は、當人も心得てゐると見えて、しらふの時には、お神樂の字も口へ出した事はない。「山村さん、何かお出しなさいな」などゝ、すゝめられても、冗談に紛らせて逃げてしまふ、それでゐて、少しお神酒がまわると、すぐに手拭をかぶつて、口で笛と太鼓の調子を一つにとりながら、腰を据ゑて、肩をゆすつて、鹽吹面舞ひよつとこまひと言うのをやりたがる。さうして、一度踊り出したら、いつまでも圖にのつて、踊つてゐる。はたで三味線を彈いていやうが、謠をうたつてゐやうが、そんな事にはかまはない。

 所が、その酒が崇つて、卒中のやうに倒れたなり、氣の遠くなつてしまつた事が、二度ばかりある。一度は町内の洗湯で、上り湯を使ひながら、セメントの流しの上へ倒れた。その時は腰を打つただけで、十分とたゝない内に氣がついたが、二度目に自家の藏の中で仆れた時には、醫者を呼んで、やつと正氣にかへして貰ふまで、彼是三十分ばかりも手間どつた。平吉はその度に、醫者から酒を禁じられるが、殊勝らしく、赤い顏をしずにゐるのはほんのその當座だけで、何時でも「一合位は」からだん/\枡數がふえて、半月とたゝない中に、いつの間にか又元の杢阿彌になつてしまふ。それでも、當人は平氣なもので「矢張飮まずにゐますと、反て體にいけませんやうで」などゝ勝手な事を云つてすましてゐる。

 

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 しかし平吉が酒をのむのは、當人の云ふやうに生理的に必要があるばかりではない。心理的にも、飮まずにはゐられないのである。何故かと云ふと、酒さへのめば氣が大きくなつて、何となく誰の前でも遠慮が入らないやうな心持ちになる。踊りたければ踊る。眠たければ眠る。誰もそれを咎める者はない。平吉には、何よりも之が難有いのである。何故之が難有いか。それは自分にもわからない。

 平吉は唯醉ふと、自分が全、別人になると云ふ事を知つてゐる。勿論、馬鹿踊を踊つたあとで、しらふになつてから、「昨夜は御盛でしたな」と云はれると、すつかりてれてしまつて、「どうも醉ぱらふとだらしはありませんでね。何をどうしたんだか、今朝になつてみると、まるで夢のやうな始末で」と月並な嘘を云つてゐるが、實は踊つたのも、眠てしまつたのも、未にちやんと覺えてゐる。さうして、その記憶に殘つてゐる自分と今日の自分と比較すると、どうしても同じ人間だとは思はれない。それなら、どつちの平吉がほんとうの平吉かと云ふと、之も彼には、判然とわからない。醉つてゐるのは一時で、しらふでゐるのは始終である。さうすると、しらふでゐる時の平吉の方が、ほんとうの平吉のやうに思はれるが、彼自身では妙にどつちとも云ひ兼ねる。何故かと云ふと、平吉が後で考へて、莫迦々々しいと思ふ事は、大抵醉つた時にした事ばかりである。馬鹿踊はまだ好い。花を引く。女を買ふ。どうかすると、こゝに書けもされないやうな事をする。さう云ふ事をする自分が、正氣の自分だとは思はれない。

 Janus と云ふ神樣には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もいない。平吉もその通りである。

 ふだんの平吉と醉つてゐる時の平吉とはちがふと云つた。そのふだんの平吉程、嘘をつく人間は少いかもしれない。之は平吉が自分で時々、さう思ふのである。しかし、かう云つたからと云つて、何も平吉が損得の勘定づくで嘘をついてゐると云ふ譯では毛頭ない。第一彼は、殆、嘘をついてゐると云ふ事を意識せずに、嘘をついてゐる。尤もついてしまふとすぐ、自分でもさうと氣がつくが、現についてゐる時には、全然結果の豫想などをする餘裕は、無いのである。

 平吉は自分ながら、何故さう嘘が出るのだかわからない。が人と話してゐると自然に云はうとも思はない嘘が出てしまふ、しかし、格別それが苦になる譯でもない。惡い事をしたと云ふ氣がする譯でもない。そこで平吉は、毎日平氣で嘘をついてゐる。

 

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 平吉の口から出た話によると、彼は十一の年に南傳馬町の紙屋へ奉公に行つた。するとそこの旦那は大の法華氣違ひで、三度の飯も御題目を唱へない内は、箸をとらないと云つた調子である。所が、平吉がお目見得をしてから二月ばかりするとそこのお上みさんがふとした出來心から店の若い者と一しよになつて着のみ着のまゝでかけ落ちをしてしまつた。そこで、一家安穩の爲にした信心が一向役にたゝないと思つたせゐか、法華氣違ひだつた旦那が急に、門徒へ宗旨替をして、帝釋樣のお掛地を川へ流すやら、七面樣の御影を釜の下へ入れて燒くやら、大騷ぎをした事があるさうである。

 それからまた、そこに廿はたちまでゐる間に店の勘定をごまかして、遊びに行つた事が度々あるが、その頃、馴染みになつた女に、心中をしてくれと云はれて弱つた覺もある。とう/\一寸逃れを云つて、其場は納まつたが、後で聞くと矢張其女は、それから三日ばかりして、錺屋の職人と心中をしてゐた。深間になつてゐた男が外の女に見かへたので、面當てに誰とでも死にたがつてゐたのである。

 それから廿の年におやぢがなくなつたので、紙屋を暇をとつて自家へ歸つて來た。半月ばかりすると或日、おやぢの代から使つてゐた番頭が、若旦那に手紙を一本書いて頂きたいと云ふ。五十を越した實直な男で、其時右の手の指を痛めて、筆を持つ事が出來なかつたのである。「萬事都合よく運んだからその中にゆく。」と書いてくれと云ふので、その通り書いてやつた。宛名が女なので、「隅へは置けないぜ」とか何とか云つて冷評ひやかしたら、「これは手前の姉でございます」と答えた。すると三日ばかりたつ内に、その番頭がお得意先を廻りにゆくと云つて家を出たなり、何時迄たつても歸らない。帳面を檢べてみると、大穴があいてゐる。手紙は矢張、馴染の女の所へやつたのである。書かせられた平吉程莫迦をみたものはない。……

 これが皆、嘘である。平吉の一生(人の知つてゐる)から、これらの嘘を除いたら、あとには何も殘らないのに相違ない。

 

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 平吉が町内のお花見の船の中で、お囃子の連中にひよつとこの面を借りて、ふなばたへ上つたのも、矢張何時もの一杯機嫌でやつたのである。

 それから踊つてゐる内に、船の中へころげ落ちて、死んだ事は、前に書いてある。船の中の連中は、皆、驚いた。一番、驚いたのは、あたまの上へ落ちられた清元のお師匠さんである。平吉の體はお師匠さんのあたまの上から、海苔卷や、うで玉子の出てゐる胴の間の赤毛布の上へ轉げ落ちた。

 「冗談じやあねえや。怪我でもしたらどうするんだ。」之はまだ、平吉が巫山戲てゐると思つた町内の頭が、中つ腹で云つたのである。けれども、平吉は動くけしきがない。

 すると頭の隣にいた髮結床の親方が、流石にをかしいと思つたか、平吉の肩へ手をかけて、「旦那、旦那…もし…旦那…旦那」と呼んで見たが、やはり何とも返事がない。手のさきを握つてゐると冷くなつてゐる。親方は頭と二人で平吉を抱き起した。一同の顏は不安らしく、平吉の上にさしのべられた。「旦那…旦那…もし……旦那……旦那……」髮結床の親方の聲が上ずつて來た。

 すると其時、呼吸とも聲ともわからない程、かすかな聲が、面の下から親方の耳へ傳つて來た。

 「面を……面をとつてくれ……面を。」頭と親方とはふるへる手で、手拭と面を外した。

 しかし面の下にあつた平吉の顏はもう、ふだんの平吉の顏ではなくなつてゐた。小鼻が落ちて、脣の色が變つて、白くなつた額には、油汗が流れてゐる。一眼見たのでは、誰でも之が、あの愛嬌のある、へうきんな、話のうまい、平吉だと思ふものはない。たゞ變らないのは、つんと口をとがらしながら、とぼけた顏を胴の間の赤毛布の上に仰向けて、靜に平吉の顏を見上げてゐる、さつきのひよつとこの面ばかりである。 (三年一二月)

 


■やぶちゃん注

・「ひよつとこ」:ひょっとこの起源については、金属製錬のために火を吹く面相のカリカチャライズされたもの、「火男」の転訛とする説が腑に落ちる。そこには山の民として特殊技術を保持した渡来系民族や、彼らの信仰した神も関わって、恐らくひょっとこには一種の零落神としての属性も加わっていると考えてよい。
・「吾妻橋」:現在の西岸台東区雷門二丁目及び花川戸一丁目と東岸の墨田区吾妻橋一丁目を結んで隅田川に架かる。安永三(一七七四)年に渡船場「竹町の渡し」に架橋さ れたもので、江戸時代に隅田川に架橋された五つの橋のうち最も新しい。最初は「大川橋」と呼ばれたが、江戸の東にあるために俗に「東橋」と呼ばれ、明治九(一八七六) 年に木造橋としては最後の架け替えが行われた際に正式に「吾妻橋」となった。この木橋は明治十八(一八八五)年の洪水で流失、二年後の明治二十(一八八七)年十二月に隅田川最初の鉄橋として再架橋、人道橋・車道橋・東京市電鉄道橋の三本が平行して渡っていた。後掲する「サツポロ・ビール」工場は、創業が明治二十年であるから、本作の時代背景は、この新しい吾妻橋が渡され、東京大学艇庫が建設された明治二十(一八八七)年から数年以上は経った頃で、尚且つ、後で見るように札幌ビールが他社と合併する明治三十九(一九〇六)年よりも前の、明治三十年代中葉(一八九七年前後)の旧鉄橋が舞台である。
・「傳馬」:伝馬船。時代劇で普通にみる木造の小型和船。本船と河岸の間を往復して荷の積み降ろしを行ったはしけのこと。
・「帆木綿」:和船の帆に用いるような厚手の木綿布。
・「吉原かぶり」:手拭いを二つ折りにして手ぬぐいを頭に被せ、その両端を髷の後ろで結んだもので、遊廓の芸人や新内流し・物売りなどの被り方。
・「米屋かぶり」:手拭いを目の上の左若しくは右の端から頭にぐるりと巻き、髷の上で前に寄せるように被せ、巻き終りの端を額の部分に挟んだ被り方。米屋やき屋といった埃の多い職人がこの被り方をしたことによる。
・「拳」:拳遊び。
・「札幌ビール」:正式社名は札幌麦酒株式会社。明治二十(一八八七)年に大倉喜八郎・渋沢栄一らが設立したビール製造販売会社。明治三十九(一九〇六)年には当時の 麦酒上位三社、日本麦酒醸造会社(「ヱビスビール」)・札幌麦酒会社(「サッポロビール」)・大阪麦酒(「アサヒビール」)が合併して大日本麦酒となった。その合併以前はここにサッポロビールの工場があった。戦後になって過度経済力集中排除法によって朝日麦酒(現・アサヒビール)と日本麦酒(昭和三十九(一九六四)年に「サッポロビール株式会社」となって呼称が復活)に再分割され、当地は現在のうんこみたようなモニュメントを靡かせるアサヒビール株式会社本社地に変わった。
・「札幌ビールの煉瓦壁のつきる所から、土手の上をずつと向う迄、煤けた、うす白いものが、重さうにつゞいてゐるのは、丁度、今が盛りの櫻である。」:吾妻橋から上流の桜橋までの約一・三キロ(現在の隅田公園)は、隅田川を挟んで八代将軍吉宗の頃から「隅堤すみていの桜」と呼ばれた桜の名所である。
・「言問の棧橋」これは桜橋の少し上流にある言問団子桟橋。現在でも桜の時季や花火大会の折の屋形船の船着場として利用されている。「伊勢物語」の「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」に因む(但し、在原業平の詠んだとされる本歌の吟詠地は、現在のここより更に上流の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」の同定されているので真説ではない)。
・「大學の艇庫」:明治二十(一八八七)年、現在の言問橋の上流東川岸の向島須崎町(現在の向島五丁目)に東京大学艇庫(大学の艇庫は初)が建てられている。
・「梅にも春」:端唄の一つ。新春の景に恋人を待つ女心を詠んだもの。歌詞を以下に示す。
   梅にも春の 色を添へて
   若水汲みか 車井戸
   音もせわしき 鳥追ひや
   朝日にしげき 人影を
   若しやと思ふ 戀の欲
   遠音神樂や 數とりの
   待つ辻占や 鼠鳴き
   逢ふて嬉しき 酒機嫌
   濃茶が出來たら あがりやんせ
   ささ 持つといで
・「ちやんぎり」:摺鉦及びその音。
・「馬鹿囃子」「馬鹿踊」:江戸とその周辺に於ける祭礼にあって、主に山車だしや屋台の上で奏される祭囃子とその舞踏。大太鼓・締太鼓・笛・鉦を用いた賑やかなもので、多くの場合、おかめ・ひょっとこなどの面をつけた踊り方による、囃子に合わせた急テンポで滑稽な踊り「馬鹿踊」が付随する。芥川は本作で「莫迦」と「馬鹿」を混用しているが、特に意味上の差異を持たせているようには思われない。
・「秩父銘仙」:秩父地方名産の絹織物。玉糸を用いた丈夫な平織りで裏表がないのが特徴。庶民のお洒落着として明治中期から昭和初期に流行した。
・「むき身絞りの袖」:不詳。「東海道中膝栗毛」の冒頭に「二人おそろいの、蛤のむき身しぼりの浴衣の袖を吹き送る神風のお伊勢參りから、花の都から梅の咲く浪花へと心ざして神田の家から出かけたところ、早くも江戸もはずれの高輪の町に來かかる」とあり、これはハマグリのむき身の黄褐色に絞り染めにした袖の色を指しているか。識者の御教授を乞う。
・「黑八」:黒八丈。八丈島に伝わる草木染めの絹織物で、一般に「黄八丈」と呼ばれるものの黒染めのもの。縞模様や格子模様が特徴で、男子の袖口や襦袢の襟に用いた。
・「紺獻上の帶」:紺染めの献上がらの博多帯のこと。「獻上」の由来は黒田藩が毎年幕府に献上した事に基づく。独鈷どっこ柄と言って、不動明王が手に持つ仏具をモチーフとしている。
・「岩緑靑」:孔雀石(マラカイト)から精製する顔料で岩絵具の一種。青丹あおに。マラカイトグリーン。暗緑色で、成分は炭酸水酸化銅で緑 青と同じである。秋田県中央部の荒川銅山(協和町)は著名な産地として知られた。
・「巫女舞」:本来は神社に於ける神降ろしの巫女による舞踏を言うが、後には八乙女系と呼ばれる優雅な神楽歌に合わせた優美な舞一般を指すようになった。関東の一部地域では巫女が面を被るケースもある。
・「お神樂」:先の「巫女舞」同様、本来は神社の奉納舞全般を言う語であるが、後には遊廓の伎芸としても流行した。
・「喜撰」:元は天保二(一八三一)年初演の歌舞伎「六歌仙容彩ろっかせんすがたのいろどり」の中の一舞踊。六歌仙の小野小町を廻る他 の五人の口説きという趣向の舞踏劇で、「喜撰」では江戸時代の祇園の茶屋の茶汲み女お梶として小町が登場、喜撰法師が戯れかかるという設定で、「チョボクレ」と称する 浮かれた拍子の歌に合わせた踊りが見せ場である。幕末の江戸の通人エッセンスが詰まった作品である(以上は株式会社インフォルムの「名作解体新書 六歌仙容彩」を参照させて頂いた)。ここでは、その清元及び長唄の所作事の「喜撰」を指している。
・「鹽吹面舞」:「鹽吹」はひょっとこの別名。海で溺れた者が潮を吹き出すさまに似るからとも、また、勢いよく長い水管から潮を吹く貝のシオフ キに似ているからとも言う。「鹽吹面舞」はひょっとこの面をつけて舞われるものを総称する。田楽など、各地方に古くから伝わる。
・「Janus」:ヤーヌス又はヤヌスと読む。ローマ神話の門戸神。前後二つの顔を持つ。境界神であることから一年の堺に存在する一月を司る神として、英語の January の語源ともなった。
・「帝釋樣の掛地」帝釈天の掛け軸。帝釈天は次の「七面樣」と同様、特に日蓮宗で法華経を守護する神とされる。
・「七面樣」七面大明神のこと。七面天女とも呼ばれる。やはり特に日蓮宗で法華経を守護する女神とされる。
・「錺屋」は「かざりや」と読み、簪・帯留・指輪などの金具細工の店。
・「深間」は「ふかま」と読み、男女がのっぴきならない関係になることを言う。
・「胴の間」:和船の船体中央部の空間を一般に言う語。
・「赤毛布」これは「あかゲツト」と読む。「ゲット」は英語の「毛布」 blanket に由来。
・「中つ腹」は一般には、怒りを発散出来ずに、むかむかしている状態。むかっ腹、腹を立てるの謂いで用いられることが多いが、ここはもう一つの、気が短くて威勢がよい様子の謂いで、町内の頭の江戸っ子らしさを示したものと私は読む。